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物語同士のつながりが好き

今いる僕らは、名もなき民の轍の上に~おんな城主直虎43話~

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武具の手入れを丹念に行った事が認められ、小姓にあがることができた万千代。
今回、他の小姓達に冷たくされながらも奮闘する万千代を見る事ができました。
一方、井伊谷では長篠に木材を届けた事がもたらしたある問題について書かれています。
万千代の話も井伊谷での話も戦後処理といいますか、華々しい戦のあとに比べれば地味だが大切な作業が書かれています。
「植林」も「論功行賞」。どちらも怠れば次の戦の火種となりうるものです。
そう考えると戦が終われば、次の戦へをさけるための戦いが始まったといえる回だったのではないでしょうか。


<恋と忠義>
まずは、万千代サイドから。
いっそのこと、色小姓になってしまえば?と提案された万千代ですが、自分の力で功をあげたいからと断ります。
今回、小姓の仕事がなんたるかが説明されていました。洗顔や、歯の手入れ、髪を整えたりと。
こうみるとだいぶ信頼関係がないとできないんですよね。というかここで信頼関係を深める。
幼年というには年を重ね、だけど大人というにはまだ幼い。そんな年ごろの家臣の子ども達が、主君と信頼を重ねると同時に政治を学ぶ場だったのでしょう。
いまでいう、政治家をめざす若者が議員秘書をしている場所のようなものでしょうか。
主君のほうもできるだけ多くの信頼できる部下をここで育成することができます。

 

その中でも、「色小姓」というのは肌を直にふれさせるほどの「信」をその者に置いているという側面があったのではと思います。精神的にも肉体的にも絆を結ぶことで。
だからこそ他の小姓は万千代の寵愛発言にたじろいでしまいました。
戦が絶えない世の中で暗殺もあるとなると、その価値はだいぶ高いように思われます。
このお話のなかでは万千代と家康の間に色恋や性愛はないように書かれていますが、古来男性同士のカップルの強い軍隊があったように
恋と忠義が一緒になると、とてつもない働きを戦場で見せるのでしょう。
それをプラトニックに高めるとこまで高めたのが政次であったように思います。

<禅の教え>
新人だというのに他の小姓たちから仕事の指示をもらえない万千代・万福コンビ。なにかやれることはないかと自発的に動きます。
草履番をやってたおかげで、雨でぬかるんだ地面を平らにしたり、論功行賞のため普段よりも人が多く登城することに気づき、いちはやく動く事ができました。
そして家康が家臣への手柄について悩む様子をみて万千代は表にして整理すると提案します。
出来上がったものは見事に縦軸と横軸を使い、わかりやすいものでした。

 

ここのシーンを見ていると、どこで万千代はこんな技術を学んだのか?草履番で整理する事を学んだのか?と思いましたが、
それだけではなく禅寺で過ごした事が生かされているのでは?と思います。

「一 掃除、二 信心」というくらい禅では掃除に重きをおいているので。
その禅寺で教育を受けたおとわ自身も、万千代が草履番の時に名札を貼ればよい、とアドバイスしていました。
万千代は家康に信を置かれているおとわに、嫉妬めいたものをかんじていましたがやはり似たとこがある二人といえます。

<先人たちの彼方には>
一方、直虎サイド。長篠の戦で木を伐りすぎたせいで、山の保水力を奪ってしまったのでした。
これでは、災害が起こるだけではなく河川の氾濫をまねき食力自給率も自然と下がってしまいます。
百姓達は、武士の勝手でそうなったのに、なぜ植林という事業をこちらがしなければならないのか不満げです。
これに対する甚兵衛が「山の前ではみなただの人。山は武家だろうと百姓だろうと区別しない。」
というようなことを村人達に言います。ここ、かっこいいですね。

 

そして、なんで甚兵衛がそいうことをいってくれるのかといえば、直虎と積み上げてきた信頼関係が元になっています。
「徳政令」の回の時、直虎が目先の利益だけでなく未来への希望を語り、それが実を結んできたからに他なりません。
だからこそ遠い井伊谷の未来のために行動を甚兵衛がとることができる。
確かに、農作業がしながらの「植林」は百姓達にとって「今」負担になる。
だけど、直虎が見せた夢と共に駆け抜けた甚兵衛には、その「今」にやるべきことをやることで「未来」に投資する意味を知っている。

 

甚兵衛は名もなき民の一人にすぎません。だけど、彼のような人たちが、遠い未来の子孫達のために残さんとするために努力を積み重ねてきた。
私たちが見まわす日本の山々も昔からただそこにあっただけではなく、彼らの不断の努力の延長上があってこそ存在しているといえるのではないでしょうか?

<組織の成長痛>
ここで、また万千代サイドに戻ります。
彼が作った表によって、家康は武功のめどはつきましたが一つ問題が浮上します。
浜松と岡崎でどうしても差がひらいてしまうのです。
岡崎組が織田との橋渡しをうまくしてくれたおかげで浜松組は助かりました。
だけど実際に武功をあげたのは浜松組。
この辺はほんとに難しい。可視化したのはいいものの、可視化できない仕事もありその重要性もわかる。
だけどそれにねぎらう事はできない。万千代は「恩賞がなくとも、殿が知っているというだけで心強い。」と進言します。
前に、家康にそうされたことがよほど嬉しかったのでしょうね。
それを伝えるメッセンジャーに万千代は命じられます。信康はそれを聞き、苦しい立場にも関わらず快く了承してくれました。
なんていい跡取りなんだ!と今からでも泣けてきます。

 

ここのシーンはほろりとさせられるだけではなく直虎ー甚兵衛と家康ー岡崎組との距離の差が書かれているように思いました。
直虎は泥にまみれ、甚兵衛達に直に訴えかける距離にいました。甚兵衛は、上の人間が見ていてくれること、一緒に悩んでくれる喜びを得る事ができたのです。
だけど家康の場合、徳川はもう組織として大きくなりつつある。
直接、家康がいけばほんとは感激されるかもしれない。けど今はもうそんな事はできない。
どちらも

「清風払名月名月払清風(せいふうめいげつをはらいめいげつせいふうをはらう)」

の心があるというのに。
成長していく「家」の主である家康と、その「家」を捨てたからこそ自由に民のために動ける直虎。
家康は様々な者達の「家」の欲をコントロールせねばならず、自分の欲のまま動けない。両者の違いは見ていて面白いです。
といっても、信康はできた人間なので岡崎の不満を父に代わり治めていくと思います。

組織が大きくなればなるほど、トップとダウンの距離が開けば開くほど、上の意思を汲みつつも、下への配慮を忘れずやっていける彼のような人材が必要になってくるでしょう。
(というか、彼にすまないがこらえてくれと頭を下げれたりしたら、ぐうの音もでない。)

<おまけ>
木材のことがよく出てくる大河ですが、ここまでみると「もののけ姫」を思い出します。
奥深い山林に住む者達と人間の生存競争と共生への道。
今見返すと、また違った想いを抱いてみることが出来そうです。
それと林業についての物語なら「WOOD JOB!(ウッジョブ) 神去なあなあ日常」もいいです。

 

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弱点を鎧に、欠点を剣に、くじけぬ心を胸にせよ。~おんな城主直虎42話~

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材木を届ける事で手柄を立て、初陣を飾ろうとした万千代。
だけど直虎の策により留守居となってしまいまいた。
この万千代が可愛くて可愛くてですね。
ふてくされつつも頑張り、横取りされてしまい落ち込むも、それを家康が確かに見てくれていた事の喜びが思わずこぼれだすシーンにもう10000点!
って感じでした。

あれだけ気の強い万千代が声を詰まらせ感極まって涙ぐむとか、ギャップ萌えでどうにかなりそうです。
しかも覚悟していてもいざとなるとたじろいでしまうとことかも、理屈に感情が追い付いてなくて最高でした。
今回はこういうキャラクターへの偏愛を感じながらも、鉄砲を導入する新たな戦争のスタイルの変化や材木を通して戦国という世界がどういうものか?
という事を提示していたと思います。
万千代が可愛くて今日も飯がうまい!だけでもいいのですが、個人的にそういった気になる所、疑問点を書いていきたいと思います。

長篠の戦いから漂う堺(経済)の気配>
織田が援軍とはいえ戦場の設楽原にて主導権を握ってます。
そのことに徳川家臣団も不満げです。
ここで織田との仲介役となる信康・数正の気苦労を想像すると大変そうですが、信康自身は今のところはなんとかやっていっているようです。

 

信長の策を聞いてみると、なんと鉄砲を主力に使うという事。作戦の具体的な中身が語られる事はありませんでしたが、忠勝も、よく練られた策と納得がいった様子。
さらっとしか触れられてませんが織田信長の凄みがここにあるように思います。それは二つあって

①戦場で使えるほどの大量の鉄砲をそろえられている技術力と経済力がある事。
②それを実践レベルまで高められるほど戦術としね練り上げられている事。

にあると思います。あくまでこの大河ドラマ内から推測できうる事として書いていきたいと思います。

 

についてですが、言うまでもなく戦争において経済がきってもきれない関係性にありそこを信長が上手く利用しました。
直虎の若いころ種子島の導入についての話が出ていましたが、今川にもってかれうやむやになっていました。
あの頃の井伊は、今川家傘下で軍事力を下手に増強できないという属国ならではの難しさがありました。
状況が違うとはいえ信長は「鉄砲」という新技術を大量生産するほどの実行力があります。

 

この辺はこの大河では書かれていませんが、推測するとこうです。
山に囲まれた土地の武田は自給自足型の侵略国家となり、それを広げるために個人レベルの武力(騎馬武者)が特化し、
逆に信長は海洋型国家の織田は貿易で栄えることで、戦略レベルの武力(鉄砲導入)が伸びた。
それが彼らの勝敗の分かれ目だったのではと。

陸地型国家と海洋型国家については前に塩野さんの本について以下のように触れたのでそちらを参照。

 

国家は、陸地型の国家と海洋型の国家に大別されると、誰もが言う。私には、この二つのタイプのちがいは、自給自足の概念のあるなしによって決めてもかまわないと思われる。 自給自足の概念のあるところには、交換の必要に迫られないところから生れてこないし、定着もしない。このタイプの国家が侵略型になるのは、当然の帰結である。 他国を侵略するということは、ただ単に、自給自足圏の幅を広げるにすぎないからである。 海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年より

竜虎相見える。ミクロなやり取りから戦国というマクロへの問いかけ~おんな城主直虎21話~ - シェヘラザードの本棚

 

 

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 について、ですがこの頃の鉄砲自体は連射する事が出来ず、風雨などの天候によって左右されてしまうのでなかなか使いづらいものがあったのではないでしょうか。
それをあの忠勝が認めるほどの策を信長が提示しています。
ここで詳しく描いてないのでなんともいえませんが馬防柵と鉄砲の合わせ技を使い、ぬかるんだ設楽原へと武田をうまく誘い込んでいます。
(そのための奇襲をおこなったのが、あの酒井だというがなんとも「らしい」という感じですね!)

鉄砲には上記のような欠点がありましたが、前に直之が「種子島」についてこれなら覚えたら誰にでも使えることができる!というような事をいってました。
「誰にでも使える」鉄砲を利用し、普通の人でも「使える」兵隊にまでしてしまった信長が、鍛えられた英傑をそろえる必要があった勝頼に勝ったというのは、
時代の流れを感じずにはいられません。
それが「経済」という人々の営みから生れてきたこともなんともいえないところがあります。

そして軍事と経済を担っていたであろう堺では「茶の湯」が発達していました。
その「茶の湯」で使われる「茶碗」を褒美として授ける信長から、そこでの「商売人」たちとの繋がりが見えてきますね。

その堺にあの龍雲丸もいるかと思うと、彼らのような武家ではない一般人の生命力が確実に戦を動かしているともいえて感慨深いです。
(彼は戦は武家同士でやってろ!と言ってましたが、生きている以上それに無関係ではいられないというこの鬼脚本!)

<かっこいい男達>
家康は信長と違って、武の才能はないというような事をいってましたが「人」を使う才能はずば抜けています。
なぜそのような人になったかというのは、結構今まで伏線がちりばめられていました。(といってもここでも私の妄想ですが)
彼は今川家で「三河のぼんやり」と言われたころから、スズメを手懐けていました。
その頃から「待つ」という根気強さや育成力がうかがい知れます。
ぼんやりしてみえるのは、彼が深く思考の海にもぐってしまうからではないでしょうか。
人質時代、弱気で人の顔色窺いつつ過ごさなければならなかった彼は、人を観察する能力が育っていったことでしょう。
だからこそ万千代の仕事ぶりに気づくことができました。

 

弱かったゆえに伸びた能力というのは、ノブが万千代に語った「潰れた家の子だからこその働きを!」という精神に通じるものがあります。

だけど一見するとマイナスに見えるものでも、うまく利用すれば長所にもなりうる、というのは
言われたらそうだけど実行するのはなかなか難しさがそこにはあります。
だからノブは万千代に「おまえはどうなんだ!」と言われた時に
少し間をおいて「そのつもりだ!今はまだそのつもりだけどな!」
といって返すシーンが好きで好きで。
子どもに説教したけど、逆に自分の覚悟を問われてしまったあの感覚。
ノブは万千代を励ましたが、逆に叱咤激励をうけてしまう形となって、そこがいいんですよね。
立場が違ってもすごくあの時の二人のやりとりは対等にみえて、ここから二人は徳川での同志となっていくんだなぁと思うと嬉しさがこみ上げます。

 

<戦と日常と地続きである事>
この「おんな城主直虎」では戦そのものだけではなく領国経営にスポットライトをあててきました。
それが今回「材木」という戦争の道具にもなる題材を通して、その二つが繋がりをみせたように思います。
武田を例にとっても食料がないから、家臣の恩賞のためにも侵略する、という事が戦争理由として提示されてきました。
ですがそのために大量の木材を消費すると山自身の保水力を低下させ、山崩れや川の氾濫を引き起こします。
そうなると自然と村の人々の生活力や食料自給率がた落ちします。食っていけないからそこからまた争いが生まれ、やはり他の土地を巡って戦いを!となる負の連鎖。

この「治水」も領主の仕事ですよね。前に井伊谷の百姓達も「水堀」について近藤にかけあおうとしていました。
この辺は次回でやるのでどうなるのか楽しみに待ちたいと思います。

 

それにしても国の基盤は「安全保障と食」でありますが、ここにきてその戦のための木材提供「安全保障」が山崩れにより「食」を脅かすかもしれない、
というのはおもしろく直虎達がどう立ち向かっていくか楽しみでもあります。
そして、どちらの「安全保障」と「食」もドラマの中で扱いが公平であるのが好きな所です。

 

 

 

世界の片隅は、されど中心でもありて~おんな城主直虎41話~

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先週、今週とバタバタした中で風邪をひいてしまい記事の更新が遅れました。
ちょっとでも体調を崩すとこうやって遅れがでるというのに、長丁場である大河に携わる製作陣の皆様には頭が下がる思いです。
なんにでもいえることですが、体力が一番大事なのだと身につまされます。
読んでくださる方も季節の変わり目なので寒くなってきますので、ご自愛ください。

 

 

さてお布団をかぶりながらの録虎でしたが、上昇志向の強い万千代にひやひや、どきどきさせられっぱなしでした。
彼は自身が小姓に上がるために「後任指導」という課題をクリアしなければなりません。
といっても、どちらが指導していたかというと・・・というもので。
後の井伊直政といえど、今はまだ若き万千代。いろんな人たちが後ろで見守りながら彼を支えている様子がまだまだかいまみえました。
そしてそんな「人」の中で組織の歯車の一つとして働くならば、「根回し」も必要となってくる。
そこでは、その「人」達の間を行き交う「情報」を掴む事も重要です。
果たして今回、万千代は「人」を使い「情報」を掴み「チャンス」を手に入れる事ができたのでしょうか?

<戦は、始まる前こそ勝負なり>
草履番の新人としてやってきたのは、「ノブ」という男。万千代の言葉を借りれば「のろいし、覇気がない」年長者。
初めのうちはノブに対していら立つ万千代でしたが、彼は勤めをおえて玄関に出てくる人間を予測し、先に草履を並べます。
しかもそれが当たっている。彼は最初からさっさと物事こなすタイプではなく、無秩序に見える中に、ある種の秩序というかルール性を探し当てるタイプ。
洞察力にすぐれ、俯瞰的に物事を見るタイプなのでしょう。
だからこそ、そのルールにあてはめ、誰が誰と玄関にでてくるのか当てる事ができ

る。

そして、それはルール外の事態がおこったことも、すぐに察知出来る事を意味しています。

 

ノブは大久保という武士は二人でいつもは出てくるので、草履は二足分用意しました。
だけど出てきたのは、武士一人。
そこから何か上の方で動きがあったと見たノブは、上手く話しを聞き出します。
そして戦が近く徳川側が木材が必要であるという情報を聞き出すことに成功しました。

 

ここのシーンを見てて思ったのですが

「草履番」という仕事は「情報」を手に入れるためにかなり重要な場所だといえるのではないでしょうか。
万千代は「掃き溜め」といってましたが、そうじゃない。
今でいう、会社の受付のようなもので、「玄関」は誰もが通る。そしてそこに人が流れるゆえに、情報も流れる。片隅かもしれないけど、そこに流れる情報は重要。
世間話のような軽いと見える情報の中にも大切な何かが隠されています。
それに気づけるかどうか、そしてそこからチャンスを作り出すことができるのかの重要性が描かれているような気がします。

 

それにしても、この万千代達をこの「草履番」という職につけさせたといってもいい「ノブ」という男。
万千代達に悟られずして、彼らをアシストして導いています。
三河一向一揆をした彼もまた、徳川ではマイナスのスタートだと言えます。

なぜ、家康はそんな裏切りを働いた男を再雇用したのか?
それは前回でも書いた徳川家の組織改革の一部でもあるのではないでしょうか。
新たな風を組織に吹き込むために、ノブのような男でも有能であれば登用し、やる気と結果を残せば万千代のようにチャンスを掴めるかもしれない、
そのローモデルとして家康は二人に期待をかけているのかもしれません。
二人とも立場は違えど「徳川」のはずれもの同士。ゆえにこの「ノブ」は万千代に期待をかけているのかと思います。
万千代が出世を駆け上がる手助けは、ひいては自分の利、徳川の利になるともいえるのなので。

<武は力なり。が、力は武のみにあらず>
一方の直虎サイドも色々と動きがありました。
六左衛門が近藤家に仕官することになりましたが、なかなかその近藤とそりが合いません。
近藤はまさに「武」の人でありそこから、はずれて見える六左衛門にいらいらさせられっぱなし。
戦場では、ちょっとした事が生死の分かれ目になるので、のんびりした歩き方や、少しでも他の人の邪魔になるような行動が気になってしょうがない。
彼は戦で怪我をおって歩けなるかもしれないところまで追い込まれたので、けして意地悪で六左衛門にいっているわけではないのでしょう。
(まぁ、八つ当たり気味で、指導の仕方に難がないとはいえませんが)

だけど材木を扱う仕事となると、六左衛門の人の好さや潤滑油になれるその才が一気に開花します。
戦とは、戦場で武勇に優れる者だけではなく、そこに至るまでの「戦」の準備をする人達の上になりたっているのではないでしょうか。

 

一見いい話に見えますがここには、「戦」と「平時の内政」の両方を描いてきたこの大河ならではの味わいがあるような気がします。
この二つの境目はあいまいであり、強く接続されているものでした。
もともと「木材」は井伊家の内政のお話でありました。それが「戦」へと繋がっていく。

戦のために始めたわけではない木材の仕事が、今まさにその戦のために必要とされる。
つまり戦というものは「戦場」で勝手におこるものではなく、それは日常の延長上にあり「生きるがゆえ」におきるものです。
その是非はここではおいとくとして、その「戦」で優位に立ちたいなら、日ごろから様々な者達の能力を引き出し、使いこなす能力と、そのための根回しと情報収集が
どれほど大切なのかという事が問われています。
今でも、外交は平時の戦争だといえる部分があるので。
ゆえに、そこがまだまだ甘く自力だけでのし上がろとする万千代は、直虎達を含め大人たちにしてやられます。
だからこそ、「玄関」はある意味では万千代にとって大人の入り口でもあったのではないでしょうか。
彼は自分をついてないし大人が自分をいじめているような事をいってましたが、小姓からでは見えなかった世界がそこから見えたといっても過言ではないでしょう。

<最後に>
万千代は大人たちが見守っていてくれますが、直虎や政次達の時はそんな人達がいなかったなぁと改めて人材不足が身にしみます。
(南渓さんはおいといて。彼は、うん。)
だからこそ、直虎達がベンチャー企業のごとく若さで推し進められた利点がありましたが、失ったものも多くありました。
失ってにしては痛すぎる授業料でありましたが「木材」の事件がこうやって、後進である万千代達の道へと続いていく。
あの時行わなかった根回しを直虎が今することによって。
間違えた選択もあったけど、直虎が未来に、それでも人生に悔いはないとおもえますように。

それにしても俯瞰的に見れば、可愛くもある万千代ですが同僚だと結構やっかいそうではあるなぁと思います。

 

 

君の君のための、君のためだけではない命~おんな城主直虎40話~

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いよいよ万千代の徳川奮闘記が始まりました。
草履番からのスタートで順風満帆とはいきませんが、多くの人たちが彼に愛情をむけ、見守っている。
それは万千代の実父の直親が井伊谷に帰ってきた時に、おじじ様を含め、多くの人たちが彼こそが希望なのだと眼差しを向けたように。
今は、見てるこちら側が万千代の命にどれだけの意味が込められているかを噛みしめている。
つまり、ようやく私達はあのときのおじじさま達と同じ気持ちにたっているというわけではないでしょうか。
ちょっと感傷的な文章となりましたが、今回のお話は出世物語としてのおもしろさがありつつも、どこか戦後日本の復興やあり方について触れているようなとこもあると感じました。
権力をもたない権威者である直虎や、自分達が参加してない前の世代への戦に対して悪く言われる万千代・万福の事など。
もちろん、それは私のあくまで個人的に感じた事なので戯言として受け流してください。
というか、今回は諸事情により簡易版となります。

<己の凡を知るがゆえに非凡に辿りつ者>
とうとう今川チルドレンたる家康と直虎が邂逅しました!ここはもうテンションだだあがり。
今川家の傘下で平和を謳歌した原風景を持つ二人は、本当は戦を避けたいという共通点をもっています。
家康は直虎に、万千代登用の件は井伊家への罪滅ぼしや瀬名のためと語ってましたが、「利」の目的として、
大きくなりつつある徳川の組織改革について話していました。つまり三河以外の実力者を内部に取り込みたいということですね。
万千代が出世できれば三河の者以外でも出世できる道があるとして、多くの優秀な人材が集まります。

 

そのパイオニアかつ、ローモデルになれるだけの素質が万千代にはあると見込んだ家康。

万千代は、根回しできるだけの賢さがありつつも、皆の前でもぐっとがまんできるだけの度量がありました。あれは今考えると家康の最後の試験でした。
家康自身も組織が三河の者の他にも信用できる誰かを手元に置いて、自身の基盤にしたいのかもしれません。
政治的な意味でも酒井が強そうな場面がちょくちょくあったので。のらりくらりとかわしてはいますが。

 

 

それにしても直虎と家康は、似ているところがあるせいか話が弾みます。
上記の彼の「情」と「理」を掲げて相手に対峙するところは、まさに直虎もよくやるやり方です。(徳政令回避のため百姓への説得など。)
一人では何もできないと自己認識しているところもです。信玄のように戦上手ではなくとも、信長のごとく天賦の才がなくとも、
凡である事を己が知ってるから人を頼る事が出来ます。人を使う才というのは何物にも代えがたい。
なので、家康は圧倒的カリスマ性型のリーダーというより、人の才能を導き全体を統括する指揮者型なのかもしれません。


<「生者」か「死者」のためか?いや…>
直虎は万千代が井伊ではなく今からでも松下として徳川家に仕官しろと説得しようとします。
死んだ者達を喜ばせるために今、生きてる者を悲しませたり困らせたりして、どうしてそれが当主といえる?となおとらは万千代に問います。
彼は「ならあの時、どうして当主を降りたんだ!?」と言い返してますが、これ最初、どういうことかぴんとこなかったのですが
当主をおりた直虎という事実そのものが、あの日の虎松を悲しませたとう事でしょうか。共に井伊を守ろうとしたあの日の誓いはどうなったのだと、万千代は悔しかったのかもしれません。

 

万福が後に、直虎に自分達の心情を訴えるシーンに万千代が
「己があの日誓ったからだ。」というセリフがありました。これ、すごくすごく好きなとこです。
「家」を再興するのは死んだ者ためだけでもなく、自分自身がそれを望むがゆえというのが。
誰のためでもなく己の自由意志で何かを欲するというのは、まさに若き日の直虎です。
18話「あるいは裏切りという名の鶴」で直虎が

 

「政次。われは己で選んだのじゃ。この身を直親のうつし身とすることを、誰に望まれるでもなく強いられるでもなく、己で選んだ。己で井伊を守ると、われは己で決めたのじゃ。」

 

のセリフそのもで。
そうこられると、直虎は万千代の意思を否定できないし、万千代は知らずして過去の直虎を肯定してます。
別に誰かに認めてほしくてやってきたわけではなくとも、直虎の中では喜びがあふれたことでしょう。
とはいえ、認めたとは表立っていえないので、草履の棚についてアドバイスをすることで、万千代を暗に認めました。
といっても、万千代が井伊を名乗るうえで近藤家とは軋轢が起こるのは必須なので、直虎はその後処理に向き合わなければならないとこが大変なとこです。
だけど若者が道を歩むために、年長者が影ながら支えるというのは、大人の直虎だからできる仕事だといえます。

<その背中の大きさに>
その万千代を支えているといえば養父の源太郎です。彼の優しい支持なしでは、井伊と松下の間に禍根が残ることもありえました。
万千代は自分に才があるゆえに、若さゆえの自信過剰さがありました。だけど、源太郎が井伊と松下共に支えていこうと言ってくれた。万千代も万感の思いで頭を下げます。
どんなに戦国という場所が弱肉強食なとこであろうとも、能力だけで人は動いているわけではない。
実力・能力に関わらず共に立とうとしてくれる人がいるから、戦っていける。寿桂尼と氏真の関係もこれにあたります。(この場合、能力的には寿桂尼が上で、氏真が下だったので、今回は逆転してます。)
まさに、家康のいうように人は宝。そしてその家康の元、万千代は凡なる仕事である草履番に向き合い精一杯うちこんでいこうとしています。

<余談>
最初に、戦後日本の復興のような回だったと書きました。その事について少しだけ。
万千代・万福は敗戦者の子として、悪く言われたようですがけして上の世代を恨んでいるわけではない所がほんとうにぐっときます。
ルサンチマンに溺れず、負けた上の世代の業を背負いそれでも前に進まんとする姿勢はなによりも眩しい。
上の世代が残した宿題を前向きに取り組んでいく事は、どれだけ時代が変わっても共通する人の在り方なのかもしれません。

 

 

 

 

笑うコダヌキ、泣くコトラ~おんな城主直虎39話~

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直親の13回忌がとりおこなわれるという事で、虎松が6年ぶりに井伊谷に帰ってきました。
この虎松が物語の新たな風となり吹き込んできました。。
風というには荒々しく、嵐のような男の子でしたが。
基本的にはここからは彼の出世の物語が話の中でたちあがってくのでわくわく感がすごいです。
かといって虎松から直虎へ主人公が変わったわけではなく、おそらく直虎にとって次世代への「継承」の物語の始まり。
今までは直虎と政次の共犯関係のW主人公でしたが、(←私の中では)虎松の場合、ある種の師弟関係のようなそれになるような気がします。
大人である直虎が「井伊」を今はまだ子供である彼に渡し、そして受け取っていく。

その序章が始まりました。

 

<レベル0からのスタート> 

虎松ですが、彼の中には直虎が言うように確かに色んな人がいる。

絵のうまさは奥山家の祖父から、あきらめぬ猪精神は直虎。策を立て動くところは政次。
情の激しさはしの。人を惹きつける笑顔は直親から。
そして彼はなにより頭がいい。だからこそ、南渓に頼み、根回しをすることで家康の口から井伊家の再興を口に出させる事に成功しました。
自分から言い出さぬことで松下の父への言い訳もいちよはたちます。
美目麗しい若い彼は、亡国の王子として憐れまれる立場がうまく大人の中で作用する事も計算のうちにもしかした入ってるかもしれません。(直親の息子的に)

 

だけど、そんなに甘くない。徳川は百戦錬磨のツワモノどもぞろい。
豆狸たる家康にしてやられます。
今まで彼を囲む大人と言えば母親のしのをはじめ、隠し事のできない六左衛門、人のよさそうな養父である源太郎など。
彼ら相手だとどうにかできたでしょう。
相手をを軽んじてるというわけでなく、世界に対して自分ならうまく渡っていけるという若さゆえの自信があるので。
しかしその自信と戦国の政治力や自分の立ち位置の知らなさから、痛い目にあいました。
小姓ができると思っていたら草履番ではだいぶ格が落ちてしまいます。

 

だけど、なんというか彼のこの失敗は愛おしく思えてきます。
松下の虎松ではレベルがカンストしてたけど、井伊の虎松だとレベルがゼロから始めなきゃいけない。
人生のステージが変わった瞬間、己自身をその世界へのルールにあわせて再構成していく。
これは、直虎がただの「次郎」から城主「直虎」へと変わった時にも起こった事です。
あぁ、そう考えるとあの時「徳政令」を安請け合いした直虎には政次が諫言してましたが、
今回はその直虎が政次の立場となり、虎松に何かものを申すのかもしれません。


<竜宮小僧、スキル「政次」をゲット>
その直虎は、近藤殿が井伊谷を治めていますが裏のボスとして君臨しているようです。
といっても内政面のアシスト役といいますか。うまく近藤と役割を分担しているようですよね。
まるで近藤が太陽で、直虎が月のよう。そういう意味でも、政次は直虎の中で生きているといえるのではないでしょうか?
その役割自体は、政次的でありますが直虎が調整役を買って出てるのは実は昔からなんですよね。
奥山朝利刺殺事件の時も、政次のために駆けずり回り、

気賀で築城するときに反対派・賛成派と別れた時は調停役を買って出ていました。
みんなのために直虎はいまだ竜宮小僧のような心根で、立場は政次的というのは面白いです。
というか、きっと竜宮小僧の魂を二つに分けたのが直虎と政次だったのではと今となってはそう思います。


<「家」とは?>
虎松は井伊の「家」の復興を望んでましたが、この「家」とは一体なんなのだろうか?と思います。
確かに人は特定の「家」がなくても生きていける。その方が直虎にとっては現状動きやすい。これがもっと大きな意味になると、「国」になったりするのでしょう。
それは命を懸けてでも守る価値があるものなのか?そしてその意味があるならば、その「家」を守り伝えていく事は人にとってどういう意味があるのか?
もしかしたらこれから書かれていくのかもしれません。

 

これ、ほんと大河では珍しいのでは?と思います。「お家のために」がスタンダードでそこに、疑問が差し込まれないものなので。
そういう時代なんだよで消化するのではなく、虎松や直虎達と共に考えていけるのかと思うと嬉しいです。
しかも、これがその「家」のために死んでいった男達を見送り、一人生き残った直虎の経験からくるものだというのがいいところです。

 

さて、その「家」がいったいなんなのかは今のところ答えは出てませんが、今回のお話ではそれは「貯金」のように感じました。
貯金といってもマイナス・プラスの貯金があります。
例をとれば徳川にとっては、数々の貢献をした松下はプラス査定。井伊は政次の遺恨と、侵攻の時兵を出さなかったのでむしろマイナス査定。
だから松下の虎松には価値がありましたが、井伊の虎松にはない。そして虎松自身も徳川になにもなしていない。

 

そりゃぁ、草履番も納得です。虎松は豊かな井伊谷の土地を見てプラスを引き継げると思ったかもしれませんが、むしろ借金を背負ってるぐらいです。
これは、直虎が井伊家の家督を引き継いだ時に借金に頭を悩ませたことのリフレインですね。
前の世代が残した宿題を解いていくこそが次世代の役目なのかもしれません。

<虎松の動機>
最後に、彼がなぜその「家」の復興をそんなにも望むのかについてです。おそらく次回あたりに語られるとは思いますが。
虎松がほんとうに井伊の「城主」になる事の意味をわかっているのか?いろいろと気になる所です。

<余談 直政/ZERO>

それにしても、もしこの話から見ればそれまでの38回は、虎松にとってはエピソードゼロ。まさに英傑・直政にいたるまでのストーリー。

彼の登場によって作画というかキャラクターデザインが変わったような気さえします。

そこで、じゃぁ今までどんな話だったのだと私が感じてたかというと

下記の通り。

 

「土着の狭い共同体と『家』。濃い血縁関係が生み出す閉塞感。それらのしがらみがあるゆえに、乱世というパラダイムシフトについていけない者たち。そして・・・」 といったところでしょうか。

負の連鎖の断ち切りと継承の難しさ~おんな城主直虎 - シェヘラザードの本棚

 初期の頃にこんなこと書いてましたが、まさにその閉塞感を打ち破ったのが直虎と政次だったのだと改めて思います。村社会の「生贄」的存在だった彼は、その因果を反転して「英雄」となった。それが、虎松や亥之助達の心に生き続けている。

政次は死のうとしてあの結果になったのではなく、生きようとしたらああなったのが、よりヒロイズムを感じて・・・って話がずれた。(これが政次ロスか・・・。)

ともあれ血族・地縁の横溝正史的因果の巡りが、三世代目の虎松世代ですごく薄まって新たな世界へと飛び出すのがすごく良いです。だけどそれは時間の解決だけでなくどうにかせんとする先人たちの絶えまぬ努力があった。暗闇の出口までひっぱってきた一世代目や二代目に改めて思いを馳せます。

龍は天に、虎は地に~おんな城主直虎38回~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

武田軍の侵攻に開戦しようとする近藤に対し、直虎は兵力となる百姓達を隠すことで戦を避けようとしました。
兵糧となる食べ物さえもっていかれた信玄はもちろんおかんむり。そこで彼は井伊谷の里のすべてを焼き払ってしまいました。
以前、直虎の事を

英雄でもない平凡な人達だからこそマクロの動きが読めず翻弄され、愛する人々を奪われていき、その荒野を走り続けていかない主人公

といってましたが、まさしくこの回はその荒野に立つ者(直虎)と、そこを荒野にした者(信玄)の生き様が書かれていたように思います。
そこにフォーカスをあてつつ感想を書いていきたいと思います。


<甲斐の太陽・井伊谷の月>
南渓と信玄の腹黒コンビの会話が実におもしろい。
南渓は信玄と謁見した時、まるで武田ががきてくれた事が井伊にとって救いの神かのようにいっていました。
近藤とは対立しているので、これを機に井伊家の再興をと南渓は申し出てます。
もちろんこれは策なのですが、内情に詳しくない信玄に対し、今の井伊谷は一枚岩ではないのです。近藤派と井伊はに分かれており、民からの「信」は井伊側にあります。
だからこちらに味方をしてくれないかな?と言うあたり南渓の腹黒さがでています。
なんといっても、井伊が逃散させたという事と近藤が火をつけた事はまぎれもない事実。
その事実に対して嘘の物語を上乗せしてますね。
しかもここで騙す策とは言え、どさくさに井伊の再興のフラグも立ててるのでは?と私は疑ってしまいます。直虎にその気はなくとも。
むしろ直虎はそんな作為がないがゆえに、近藤は信じられたのだと思います。だから負の部分は南渓が背負う。背負ってる事に誰にも気づかせぬほどに。
政次はよく月のように例えられてましたけど、それは直虎にとっての月であり、ある意味では井伊谷」にとっての「月」であるのが南渓ではないのかと思います。


その井伊谷フィクサーの南渓に対峙する信玄もまた面白い存在です。
彼は自国である甲斐の土地の事を酒の席で語っていました。山に囲まれた厳しい土地で切り開かないと道はなく、川はすぐにあふれだしてしまう。
だからこそ、他国を侵攻しなければ、戦に強くなければ生きてはいけぬと。
これは第21話「ぬしの名は」で高瀬が

 

「おらたちの手で食べ物を作っているのに、おらたちの口には入らねぇ。奪われておると思うたことねえもんはおらぬと思います。」

 

に対応しているセリフだと思われます。
食べ物や資源がなくて民は困っているが、それを解決するために奪うための戦をしていかなければならない矛盾。なぜ武田がそのような戦いに赴かなければならないのか?

それについては以前触れててので下記に引用します。

 

21話の感想で、脚本家の森下さんが戦国時代はプチ氷河期で作物が育たず、食糧難だったのでは?という事に触れましたが、もし武田がそのような状況ならだいぶ苦しい状況に置かれています。自給自足もままならないと、他国の物資や食料を奪ったほうが手っ取り早いと考える可能性があって、それが後々響いてくのかな?と。

少女の夢はもう見ない。だから、さよならを君に。~おんな城主直虎24話~ - シェヘラザードの本棚

 

そのような苦しい中で、信玄は甲斐にとってどんな存在だったのでしょうか?私は、彼は「希望」であり「羨望」であったのでは?と思います。
彼は家臣たちに、今より明日はきっといい日のなる!暮らしが前向きになる!という夢を見せたのでは?と。それだけの実力が彼には確かにあった。
暗く明日をもしれぬ中でも、敵が死ねば小躍りしだす信玄に憧れを抱いてもおかしくはない。残酷さや現実の厳しさの中でもチャーミングさを失わないあの姿に魅入られてしまう。過酷な人生を楽しんでる姿はそれだけで人に希望を与える。
義理の息子を自害に追い込もうが、国のための走り続けた彼は「民」や「家臣」達の「父」でありました。

 

 

だけどその中でどうしても犠牲になる人がでる。必ず弱い所から。それが高瀬という存在であったのではないかなと。
その信玄がとりこぼしてしまったものを「母」たる直虎が抱きしめるというのはなんともいえないものがあります。
しかし、そのことは直虎が「聖女」ということを示しているわけではありません。
生まれる場所を人は選べないといいますが、まさにそれで温暖で気候に恵まれた井伊谷では誰かから奪うという発想は生まれてこないのかな?と。
ゆえに直虎は基本的に防戦型になります。誰かの土地を奪うほど困ってなく、むしろ綿花で殖産興業を発展させ、気賀という物々交換ができる土地が近いので。
そのような土地で借金の肩に間者になった高瀬が、借金だらけの井伊家が踏ん張りながらも頑張っていく姿をどのように見つめていたでしょうか?
井伊の再生は、高瀬にとっても自身の再生であったのではないのか?と想像します。

 

<奪われた二人の分かつ道>
嵐のような武田が去った後、里の家々は焼かれてしまいました。
それに対し直虎は百姓達に頭を下げ、そして復興のためにまずは寄合場を作ろうと提案します。
井伊谷の民たちはゼロからスタートとなりましたが、直虎と共に前向きに取り組んでいるようです。
民のために奔走する彼女を見て龍雲丸は色々と思いを馳せているようです。
直虎は中村屋と再会したとき、彼が気賀に戻ってきたのかと勘違い。
もし直虎が龍雲丸の事を好きな「おとわ」なら、中村屋が自分達を堺に連れていくためにいくのだと喜ぶべき場面です。
なのに、そのことがすっかり頭から抜け落ちている。
そんな様子を見て、龍雲丸は堺行きを取りやめ、直虎は井伊谷にいるべきなのでは?直虎に言います。
ここのシーンはすごくぐっときました。
戦によって難民が出てるが井伊谷がその受け皿になりうる。彼らに生きる力を教えて共に栄えていく。今の井伊はだんだんそんな場所へと変化していってる。
それは幼き日に戦により孤児になってしまった龍雲丸が見たかったあの続きの一つ。

たとえ今の自分の有り様に後悔はなくとも。
龍雲丸はそんな井伊谷の土地があったのなら、あの日の自分はどうなっていただろうというと考えたのではないでしょうか?
その夢の続きを直虎は見たくはないのか?と彼女に問いかけますが、彼女は否定します。
自由意志をなにより優先する龍雲丸は、それを一旦は受け入れます。
ですがいざ出立の際には、直虎は上の空。和尚が見送りに遅れ、直之がすぐになにかしら動いたことが気がかりのようです。
ここで、わざと龍雲丸はきつい言葉を直虎に投げかけます。
城や家がなかろうと直虎は、根っからの井伊谷の城主であると言って。

 

賛否あるとは思いますが、龍雲丸が井伊谷に直虎と共に残るという選択をしなかったのがすごく好きです。
二人の本質的な所で「自由」さを共有している。その共有ゆえに自分がやりたいこと、相手にとって本当の意味で自由でいられる場所がほんとうに大事なんだなぁと。
直虎は龍雲丸にとっての人生の補助輪ではないし、龍雲丸にとっての直虎も違う。彼らの関係は政次とのそれとはまた違う意味ですごく対等。
しかも龍雲丸は、ちゃんと「おとわ」を抱きしめる事で、直虎をあるべき場所に戻した。そこに自分の居場所がないとしても。
お互いが本来自由に生き生きしている姿の相手が好きなら、道が分かれてしまう。これは政次と綺麗なシンメトリーを描いていて、政次は「直虎」を龍雲丸は「おとわ」を手にいれています。
だから龍雲丸の場合「おとわ」受け入れることができたけど、政次のような「共犯関係」にどうしてもならない。
生きる場所が違うから。
でもそれは悲劇なのではなくあくまで自分達の意思で選ぶ所が、自由な彼ららしいところでもあります。


<余談>
虎松が「松下の虎松にございます。」といったあとに、南渓和尚の苦笑い?するようなカットが差し込まれてまれていたのが意味深でしたね。
やはりこの発言は南渓が以前、幼き日々の虎松になにかしら吹き込んだことが影響を与えてそうです。
これから次世代達と直虎がどのようにむきあっていくか楽しみです。

<余談2>
記事更新遅れたのは、歯が痛くて処理能力落ちまくってたからです。お腹はすくのに食べれないし寝れないいうプチ地獄でした。
とはいえ、ちょっとよくなって「ごはんがおいしい。生きてるって素敵!」となったので、「これが食べる事は生きる事か!!森下さん!」ってなったのでまぁ、良かったです。

逃げていい。嫌いでいい。許さなくていい。闘ってるから、闘わなくてもいい。~かがみの孤城~

かがみの孤城

 あなたを、助けたい。

学校での居場所をなくし、閉じこもっていたこころの目の前で、ある日突然部屋の鏡が光り始めた。輝く鏡をくぐり抜けた先にあったのは、城のような不思議な建物。そこにはちょうどこころと似た境遇の7人が集められていた――
なぜこの7人が、なぜこの場所に。すべてが明らかになるとき、驚きとともに大きな感動に包まれる。
生きづらさを感じているすべての人に贈る物語。一気読み必至の著者最高傑作。

amazon内容紹介より

 

 

青春ファンタジーミステリーになるのかな?
お話の前半は九時から十七時まで鏡をすり抜けて訪れる事が出来る城で、あるミッションを仲間達とこなしつつ仲良くなるところにわくわくしました。
ラストのほうは、もう怒涛の展開に号泣。思い出しても涙が出てきます。

 

<学校の人間関係の圧倒的描写力>

辻村深月さんの中・高の舞台がお話は、あの頃の閉ざされた空間の手触りをありありと思い出させてくれます。
普段はそれが心の底で眠ってますが、黒板消しを持って窓の外で叩いておとす時の匂いや、授業が終わる五分前のそわそわ感とかそういうの。
それはほろ苦い温かいノスタルジーだけでなく、ひりひりした痛みも連れてきて。

 

あの頃、家庭か学校が世界のすべてのように思えたんですよね。
だから、今も昔もこれからも学校という政治ゲームの一面がある場で「いじめ」という生贄として選ばれると、この世界のどこにも自分の生きていける場所がないように感じてしまう。
私自身、仲間内からいじめられるという事はなかったけど、グループ外のクラスメイトから見えにくいタイプのいじめ(机を少しだけ離す。少しでも触れたらハンカチでふくなど)を受けた事あるので、学校で生きづらくなってしまう気持ちはよくわかる。
クラス内の政治ゲームは、ほんと繊細で気を使うものでちょっとしたことではぶれてしまう。
あれだけ仲良しに見えてた女の子が次の日から無視される。
そのグループ内の話で済ませばいいけど、自分達の内部抗争を他の男子のグループを巻き込んで集団的に無視させたりするのとかは、ほんとぞっとした。
男の子があれほど笑顔でその子に話しかけてたのに次の日からあいさつもしない。
といっても徹底されてたわけではないので、その子はなんとなくちがう女子のグループに溶け込めていったんですけど。

 

けどそれをやってる側って明確な悪意はほぼないケースばかりじゃないでしょうか。いや、あるのはあるけど、殺意といえるほどの憎しみがそこにあるかといえばそこまではない。
主役の安西こころを追い詰める真田美織のように、集団で家に押しかけても悪気はなくて、自分の方に義があるとさえおもってるとこさえある。
そんな美織とこころはまったくわかりあえない。もう、違う別世界の生き物のように感じてしまう。話が全然通じないんですよね。
美織は軽い気持ちだけど、そうやって悪意をぶつけてくる人を、中一のこころが理解する必要も許す必要もない。大人になっても許さなくていいと思う。
だけど、こころにもそういうところがあって城の仲間を知らずに傷つけているし、上から目線なところもある。
けど、城の仲間とはちゃんとわかりあえたんですよね。
なんというか「わかりあえなさ」もこの本の中にはあるけど、それだけじゃなくて「わかりあえる可能性」もそこにあるようで、矛盾してるけどその二つがしっかり共存してる。
そこがすごく好き。別に大人になっても「わかりあえない」人間はたくさんいて、ただその人たちとは「上手く」付き合ってるに過ぎなかったりするので。
けど、分かりあえることも奇跡的だけどある。可能性が限りなく低いだけでまったくないとはいえない。
まぁ、わかったところで自分に悪意をぶつけた人間を許す必要もないし、嫌いなままでもぜんぜんかまわないと思いますが。

逆もあるかもですね。憎んでないけど理解できないとか。

だからこの作品は子供向きというだけでなく大人向けでもあると思います。

分かり合えなさを抱えながらも「今」生きている大人にむけての。

 

 


<余談>
どこかファンタジーな世界で、自分自身の問題と向き合ってっていくのは水城せとなさんの「放課後保健室」を思い出します。
こちらは、性と自意識が絡んできて「かがみの孤城」とはタイプがちがうけど傑作。

あと、今の自分が過去の自分を救う?といったらいいのかな。そういう意味では、「ウォルト・ディズニーの約束の約束」も良いです。

 

放課後保健室 1

放課後保健室 1