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物語同士のつながりが好き

二つの顔を行き来して~おんな城主直虎37話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

家康が氏真と和睦を結ぶことで、一時の平和を手にいれた井伊谷。井伊家の再興をあきらめる事で、新たな生活が各々始まりました。
直虎は還俗し農婦となり、直之・高瀬は近藤に仕え、方久は薬の行商を始めて、祐椿尼は寺に身を寄せてます。
それぞれが近藤の元でのどかな生活を送っているようです。
今回は囲碁ではなく、オセロの表と裏のように色んな人達の二面性にスポットライトがあたったように感じました。
表と裏といってもはっきりと分離してるものではなく、黒と白をいったりきたりするようなとこもあれば、黒と白が溶け合いグレーゾーンがあるような感じを受けました。
それは人だけでなく、穏やかな日常生活の中に戦がいつも張り付いているこの時代のようでもあります。
不穏と日常のジェットコースターだったこの回の感想を書いていきたいと思います。

<穏やかな「日常」と刺激ある「冒険」>
農婦になった直虎は農作業も苦にせず百姓達ともうまくやれているようです。一方、龍雲丸は炭を作る仕事に就いています。
木材盗難事件を起こした彼がいまや、木を炭にする事を生業にするとは何の因果か。
その炭が今の彼を表しているがごとく、幸せで暖かいがどこかくすぶった想いがどこかにあるように見えました。

 

龍雲丸は本来自由な気質な人なので、変化のない土地よりも人の出入りが激しく変化ある土地の方がむいているのかもしれません。
むいているというか、魂が自然と引き寄せられる。それは中村屋から堺で商売の誘いを受けてからうきうきした様子からも見て取れます。
海のむこうに想いを馳せる彼の方が自然な感じがします。
そんな彼に直虎は、堺に行く事を勧めました。そこで龍雲丸は一緒に来ないかと誘いますが直虎は拒否します。

 

ここのシーンはほろ苦い。彼らは生き残ってしまった者としての罪悪感があります。
それが彼らを結びつけたきっかけになったとしても。
ここで炭を売って、百姓暮らしをしてたって愛してる誰かが生きるわけではない。
龍雲丸は上記のような事をいってましたが、ここで私はあぁ、彼はもしかして自分への罰を下してるのかな?と思いました。
本来の自分の性分とは、ずれたことを行う事によって。
風のように自由な龍雲丸は自分を土地に縛りました。

 

 

直虎も政次を殺し、井伊を取り潰した事から井伊を離れる事を自分に許せません。
自由な龍雲丸を見て自由に憧れた直虎が今、目の前に自由があるというのに、つかめずにいます。
だけど、直虎の場合それだけではなく、その自由が「誰かのために。」というのがあるのがややこしい所です。
自分のためではなく誰かのために動くことが直虎の自由なので。
事実、堺行きの件も祐椿尼が「孫をみせるため」という後押しがないと決断できないようでした。

 

この二人の素敵な所は相手のその性分を十分に理解している所です。
直虎が、自由に生きる龍雲丸が流動性のある堺のような場所で生きるべきだと思うように、龍雲丸もまた、武田の襲来に備え、民のために行動したい直虎の意思を尊重していました。

<「私」と「殿」の顔>
その直虎ですが今回は農婦になることで「私」としての普通の女性としての一面と「殿」としての民のために奔走する両方をみることできました。
「私」のときは龍雲丸に女性の影が?と疑い嫉妬する様子が描かれ、「殿」としては龍潭寺・直之達と民を生かすため策をねり、近藤氏の説得にあたっていました。
そのギャップにこちらがやられてしましそうでした。可愛らしさとりりしさが両方直虎の中で存在しているんですよね。
しかし、たとえ「殿」という地位についていなくとも「誰かのために」行動する彼女の姿はやはり「殿」で、どこにいても、その地位にいなくとも、彼女はやはり「殿」足りえているようで感動しました。
「徳政令の行方」の回で百姓達と一緒に田植えで汚れても、なお美しかった直虎のように。
それにしても、近藤に領主が変わっても上に政策されば下に対策ありな百姓の面々。(綿の据え置きの引き換えに水堀りを要求するあたり)
それは直虎にも言えて、上で戦が起ころうとも生き延びるために策を練る。かつて逃散をうけた直虎が逆に、領主側に要求する姿はなんとも面白いです。

<「残酷さ」と「優しさ」は両立する>
近藤は、政次へは戦国武将としての冷酷さや残酷さがでてましたが、今回は仕える者達への優しさが出ていました。
その二面性はけして矛盾せず、前に祐椿尼が「戦をするのは功をたてる者に土地を与えるため。」といってたようにそれはつまり、家臣達のためでもあります。
優しく部下想いゆえの行動をとれる近藤だからこそ、政次を罠に仕掛けた時に直之が近藤の兵を捕えようとしても、その兵は自害を選びました。
直虎達に部下達が近藤の手当てをして欲しいと頼み、近藤が歩けるように回復した時もほんとうに彼らは喜びました。近藤は本当に慕われているのでしょう。

 

その近藤と直虎は材木の件から負の因果が続いてましたが、今回は直虎が近藤の命救った事で聞く耳をもってくれたように思います。
負の因果が巡るなら正の因果もまた然り。別に近藤が情にほだされたというだけでなく、直虎が政次との遺恨を持ちながらもそれでもそれに囚われず、民のために動ける人間だと知ったのが大きいかと思います。

 

これは材木事件の時のリフレイン回であり、すべてを分かり合い、許しあってはいませんが相手がどんな人間か知ったうえでの信頼関係が出来ているような二人でした。
というか材木事件の時は近藤にとって直虎の未熟さゆえに対等ではなかったし、近藤自身も彼女をあなどっていましたが、政次処刑を機に城主である直虎を見始めたように感じました。
城主でなくなってから城主である直虎に「領主」の形を見、対等になるというのは、いやはやなんともいえない趣が。(語彙力行方不明)

<「虚」が「真」になった?>
さて間者疑惑があった高瀬。やはり疑惑ではなく本当に間者であったようです。といっても武田の間者が脅して言うことを聞かせているあたり、武田に忠誠心があるわけではないっぽいですね。
お前はどこの家の者だと聞かれたら井伊の者だと答えると言っていた高瀬の言葉に嘘はないように思います。始めは間者として武田よりだったかもしれないけど、そこがもう高瀬の生きる場所ではないでしょうか。
もちろんそれは私の願望がはいってますが。というか、「虚」で始まった生活が「真」になってしまい、どちらの自分が本当かわからなくなり悩むのは、諜報員の物語としてよく見られるように思います。
だからこそ父親がいなかった高瀬が、未遂に終わったとはいえ父親的優しさを持つ近藤を毒殺しなければならなかったのはつらい。
任務失敗したことで、炎に導かれるように歩いて行った彼女はどんな気持ちだったのでしょうか?

 

<余談>
人々の生活にフォーカスをあてた場面が多かったですがやはり戦国。武田の遠江侵攻は破竹の勢いです。信濃駿河の二方面から徳川領へ。織田へも同時に侵攻し、上杉は一向一揆
武田包囲網もなんのそのでやってくる信玄公。ここまでくると上杉の一向一揆も工作したのでは?との疑念が生まれてきます。高瀬を送り込むだけの余力がある国ならばそれぐらい不思議ではありません。
しかし「明日は今川館が焼け落ちてるかもしれない。」の名の通り何がおこるかわらないのがこの時代でもあります。そんな戦国を直虎が井伊谷の人々とどう生き抜いていくか楽しみです。

 

 

井伊谷のいちばん長い日~おんな城主直虎36話~

 

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

twitterで足を負傷して、もう歩けなかったもしれなかった近藤さんが歩み始めた時、「クララみたいだね!」という感想を見かけましたが、
この回はまさしくアルプスの少女のごとく第一回の「井伊谷の少女」の直虎の原点が、問われるようなお話でした。
そして今回は人によって見方が全然変わる二つの問題があったと思います。
まずは、和尚のいうように、直虎は城主であることを仕向けられたのか、己で望んだのか?
二点目は井伊家再興をあきらめたのか?それとも為政者の最後の政策としてしての選択なのか?
これらを絡めながら書いていきたいと思います。

 

<なぜ人を助けたいの?>
前回から直虎は、ネガティブモード。ちょっとまとめるだけでも以下の通り。

 

「役立たずの我が生き残ってしまった。」(35回、気賀で龍雲丸に。)
「戦というものは思うよりはるかに様々な思惑が絡み合う物、我が未熟であったというだけじゃ。」(常慶に対して)
「まこと役立たずで、ご期待に添えず、申し訳ございませんでした。」(井戸の前で南渓に。)
「われは縁起の悪い女子。」(井戸の前で龍雲丸に。)

セリフだけでもこれだけあります。それ以外にも直虎が井戸の前で、碁石を手のひらで打ちながら今までの自身の歩みを回想しているシーンの中にもそれがあって、
直盛が「いっそ、わしの後を継ぐか?」とおとわに聞いた場面のあとに直虎が「我が井伊直虎である!」と宣言するシーンに移ります。ここまではいいのですが、
次に差し込まれる絵には政次の磔と直親の死が描かれてます。
ここで、え!?ちょっとまって!いろいろ省略されすぎでしょ?みんなでどうにか綿花栽培が成功にこぎつけた日や寿桂尼様からどうにか後見を認められた時とかいい事もいっぱいあったよ!!
とつっこみました。一瞬、直虎の記憶が戻ってないのでは?と思ってしまいました。
それほどに政次の死と気賀での大虐殺が彼女の中で非常に大きい。

 

twitterでも書きましたが、直虎はもともと「誰かのために。人のために。」と竜宮小僧の役割を背負ってきました。
だけど、その目的が結果として「誰かを傷つけ、人のためになってない。」という逆の結果が生まれました。
善意から生まれた動機が最悪な結果を導き出したその落差に自分自身がパンクしてしまったんだと思います。

 

そして、直虎自身が近藤や鈴木を一方的な悪役とは見なさなかったことが大きい。
つまり悪役不在の世界でただみな生きるのに必死だけと思うのは同時に、自分自身の正義を疑うことでもあります。
思考回路としては、悪がいない。→正義もない。→自分にも、正義はない、ゆえに行動に移せなくなる。
もちろん龍雲丸のいうように、いうほど負けてないし最悪ではないのですが、直虎自身がそう現実を認識している。
結果が最悪だと本人がそう思うからこそ、そもそもの「誰かのために」という動機で殿をやっていた直虎のゆらぎとなってしまいます。

 

こで、南渓和尚が「自分がそうなるように仕向けたのか?否か?」みたいなこといってますがこれは直虎の本質を問う上で重要だと思います。
直虎のヒーロー性の根拠を和尚がちゃんとわかっているなら、そもそもそんな疑問は出てきません。
この和尚の疑問は、なんで直虎が誰かのために、人のために働くのか?という動機の根源に触れるものです。
別に、大河の物語の主人公にそんなこといちいち問わなくてもそういうものだといってしまっても構わないものです。
ヒーローになぜ人を救いたいの?という疑問がなくても物語が成立するように。
人を助けるのに根拠なんてなくて体が勝手に動いてしまう、というのもあるとは思いますが、それをなすにはあまりに彼女は事情が複雑な政治的立場に置かれている。

 

 

そしてそんな彼女の動機が、がんがん揺らいでるのがわかるセリフが
「まことにみなのためなのか?我のように頼りない領主のもとに。」とあります。
自分自身の「誰かのため」という思いに能力が追い付いていない以上、それが身勝手なエゴであるのでは?との想いがそこにあると思います。
事実、近藤にいっぱい食わされて政次は死に追いやられました。その一点だけ見れば戦国武将としては彼の方が上。
それなら格下の自分よりも格上の近藤が井伊谷の人々を守っていけるのでは?と判断してもおかしくはないかなと思います。
もちろんそこにはくやしさがある。今まで井伊のために死んでいった者達の意味を考えると。
だけど、民にとっては首が誰であっても有能なほうがいいに決まってる。
国や家のアイデンティティと民の現実の生活、どちらを取ればいいのかというのはかなり難しい問題ですよね。

だから私個人としては、井伊の再興をあきらめたというより、夢でなく今ある現実をとった政治家としての判断の根拠は上記のようにある。
だけどそのために、直虎のみんなのためにという「為政者」の動機の根拠は、彼女自身もわからなくなった。というのがあると思います。
そこが複雑に絡み合ってるから見る人によってそこんとこ評価が分かれてきそうなんですよね。

政次を刺し殺したように、井伊家も自身の手でとどめを刺した直虎。彼女は冠を返す事で、ただの「おとわ」となりました。
農婦となり一人の民草となった彼女はもう、政治に関わることはできません。
もし戻りたくなった時には、なぜそこに戻りたいのか?彼女の本当の動機の根源が問われてくるかもしれませんが果たしてどうなるのでしょか?
まぁ、次回、武田さんがうっきうきで「なんでそんなこと悩んでんの?」とばかりに踊りながら攻めてきそうなんですけどね。

 

決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)

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昭和史 〈戦後篇〉 1945-1989

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 井伊谷フィクサー
直虎にゆらぎが生まれた事で、井伊家の復興をあきらめる事を助言した南渓和尚
以前、彼について

誰かの味方ではなく、「井伊」全体の味方であらねばならない。それ以外はすべてを切り捨てていく。

井伊谷カルテットwith N (六左衛門・直之・方久・プラス南渓和尚編)直虎を囲む魅力的な脇役達について - シェヘラザードの本棚

 

 と書いてます。
頑張ってきた直虎に対しての優しさでもありますが、井伊のリーダーに、今のおまえはふさわしくないと、遠回しにいってるようでもあります。
多分、どちらもほんとうで矛盾なくそれが彼の中で存在してるのでしょう。
そして、虎松に対しても何かを言い含めて松下家への養子行きを了承させてました。
「今川館はいずれ焼け落ちるかも。」のセリフのように、何が起こりうるかわからないから、今のうちに種をまく南渓。
そんな彼は誰よりも井伊谷のために残酷になれるのかもしれません。

<虎松、小悪魔のほほ笑み>
お家復興の断念を虎松に伝える直虎ですが、あれほどあきらめるな!と言われて育った虎松からすると、「父親の失墜」でもあります。
あれだけ、民からの支持率も高く家臣からも慕われていた直虎は目指すべき指針だったかもしれません。
だけど親への失望はある意味、成長の契機でもあります。
底なしの愛情をしのから受け、なにがなんでも生き抜く事を直親から教わり、あきらめぬ姿を直虎の姿に見出し、そして目的のためなら本心を隠して行動する政次の
姿がそこにあるようです。ほんと、松下家の養父に対してのあざとさは、ほんと直親の愛嬌に政次の手段が合わさっていて最強で最高だと思いました。
この井伊谷の四人の生き様を受け継ぎ、徳川四天王へとなっていく虎松の一歩が踏み出された瞬間だったと思います。

<そのキスは苦く>
親をなくした子らが寄り添うように、喪失を抱えた直虎とくっついた?龍雲丸。
龍雲党という疑似家族を失った彼ですが、以前の気賀での暴動のようにテロリズムにはしる事は出来ない。
武家だからというだけで復讐を果たすことができないのは彼らも自分達と同じように必死に生きているだけだと知ってしまったから。
直虎や、政次のなかに。直之や六左衛門との交流の過程で。
悪がいないからこそ、己の義を信じて進めなくなった直虎と同じである意味、時が止まった龍雲丸。
行き場のない感情を抱えてるけど、生きているなら前に進まなくてはならない。
そのため手を取り合った二人に、時がそれを癒してくれるかもしれないけど、戦国という大きなマクロの変化がそれを許さないかもしれない。
恋は世界をきらきらさせてくれるものなのに、戦争によって導かれたこの二人は、それが引き起こした現実をただ受け止めるだけしかできない。しかしそれは確かに暖かく苦い。
愛する人々を失った世界で、果たしてどういう生き方を今後彼らがとっていくのかを見守って行きたいです。

<おまけ>
長くなったんですけど、戦国乱世のマクロの環境がばりばり動いてますね。見どころのあるシーンがいっぱいありました。
北条・上杉・徳川の武田包囲網ができてますが、そこで終わらない信玄公。
信長にお伺いをたてないといけないいまだ弱気立場の家康と、堀江城でも虐殺を命じた酒井も、内部ではほんとうに普通の一家臣。。
北条氏が死ぬことで、頼る寄る辺がなくさまよう氏真夫妻だけど、彼らには、直虎・龍雲丸カップルのような苦みはなくどこかコミカル。
於大の方と瀬名姫との今後を示してるような緊張したシーン。
高瀬の間者疑惑など盛りだくさん。
次回の感想では、こういったマクロの動きも触れられたらと思います。(あくまで願望)

神様、その嘘は愛ですか?~PK ピーケイ~

 

PK ピーケイ [Blu-ray]

留学先で悲しい失恋を経験し、今は母国インドでテレビレポーターをするジャグーは、ある日地下鉄で黄色いヘルメットを被り、大きなラジカセを持ち、あらゆる宗教の飾りをつけてチラシを配る奇妙な男を見かける。
チラシには「神さまが行方不明」の文字。ネタになると踏んだジャグーは、「PK」と呼ばれるその男を取材することに。
「この男はいったい何者?なぜ神様を捜しているの?」しかし、彼女がPKから聞いた話は、にわかには信じられないものだった。
驚くほど世間の常識が一切通用しないPKの純粋な問いかけは、やがて大きな論争を巻き起こし始める―。 amazon 商品紹介より


前作、「きっと、うまくいく」のラージクマール・ヒラニ監督と俳優のアーミル・カーンが再びタッグを組んだ作品。
これもまたものすごく面白かった!「きっと、うまくいく」は熾烈な競争社会の中で友情や恋愛、夢を追いかける事のエンタメをストレートに描いたものでで
もう、絶対にみんなみてくれよ~!ウルトラハッピーになる作品だから!!とおすすめしたい。
そして今回のテーマは宗教で、人によっては分かりにくく、扱いが難しいにもかかわらず、やっぱり超一流のエンターテイメントになっていて、あったかい気持ちにさせられました。

 

きっと、うまくいく [DVD]

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<告発者PK>
さて、W主人公の一人のPK。しょっぱなからネタバレすると宇宙人。彼は地球の常識がまったくわからないんですが、これが「宗教」というメスを入れにくいところに、スッと入ることができる役どころなんですよね。
なんでかというと、そこにバイアスがかからないから。彼の宗教に投げ抱える疑問すべてが、子供が大人に問いかけるような純粋な問いかけとして見てる側が受け止められる。
例えばインド以外の外国人でもいいのでは?となるけど、それならその国の事や宗教を勉強しなよ?と告発される要素が大きくなるのではと。
けど宇宙人というあまりにも自分達と違うファンタジーな存在だと、まぁわかんないならしょうがないよね?となるんですよね。
これって、タイムスリップものとか異世界トリップとある意味同じ構造をもっていると思います。
その「世界」にとって「異物」であるがゆえに、その「世界」のルールを疑問視することに違和感がない。
わかりやすくいえば戦国時代に普通の女子高生がいって「こんな殺し合いや人買いがある世の中間違ってる!」と言っても別に変ではないですよね?

 

それと同じように、PKがなぜ地球の人は服を着てるの?と疑問を持ってもおかしくない。なぜなら彼がいたところは服を着なくてもいいところだったから。
そしてPKの故郷では言葉を使わず心でコミュニケーションがとれるらしく、だからすれ違いや勘違いなんか起きない。
なんていうかPKのいる星の人々はおそらく「隔たり」がないんですよね。だけど地球人は違う。たくさんの「隔たり」があって、それが一つの文化や個性や宗教でもあったりします。
まず、人と人を「隔てる物」として人は「衣服」を着る。そして世界には「言語」が多種多様あり「宗教」の違いから様々な神様がいたりする。
そしてその「隔たり」は時として争いを生んだり、その「隔たり」を利用して利益を得ようとする人が出てくる。
それを告発する者としてPKは鋭く、そして優しい眼差しを地球人たちにむけていきます。
けど、その眼差しの切り込み方が鮮やかすぎてひやひやするものでありました。宗教の金儲けや矛盾についてのあれやこれやをみると。
これ、ほんちにインドで上映して大丈夫だったの!?と思いました。
けど、インドでヒットを飛ばしたのを見ると、私が思っている以上にインドは宗教を穏やかに受け止めているんだろうなぁと思います。

<嘘や虚構という名の愛>
裸の王様にあの人服着てないよ?といってしまった子どものように、宗教の抱える矛盾やそれが引き起こす悲劇を告発したPKですが、宗教自体にはすごく愛があふれている。
けど私はPKが宗教を使って金をむしり取る教祖をやり込めていくのを快感を覚えた一方で、その教祖が言った言葉で救われた人は確かにいるのでは?とも思ったんですよね。

 

この世界にはどうしようも出来ない残酷な事があって、それを直視しつづけるのがつらい事もある。すがる言葉も時として必要。それが一時のまやかしだとしても。
PKはおそらくですけどそんな宗教の必要性は認めていてだけど、そのために神様を利用して人を傷つける「言い訳」する事は、ほんとに許せない人。
これは、PKが映画の中で身をもって経験するある悲劇的な出来事からの考えだとは思いますが。

 

そんな彼が最後にある嘘を大切な女性につくのがほんとに良かった。
この「嘘」ってのはある意味では宗教や神様そのものであり始まりなんですよね。例えば、お守りなんかがただの紙だとしても、神様の加護があると思えばそれが心の支えになったりする。
それって「嘘で虚構」なんだけどそこから勇気や守られているんだと信じているなら「嘘」じゃないんですよね。確かにそこに神様は居る。
うーん。ちょっと説明するが難しくてうまく伝わってないんですけど。
好きな女性のためについたその嘘は、それが嘘だとばれたとしてもきっとずっと彼女を支え続けていく。
その嘘が愛に基づいたものだから。誰かを傷つけるためのものではなく。
ここで、あぁ、宗教の本質はほんとうは「愛」にあるのでは?と宗教に疎い私は思いました。
複雑化した世界だとそれが見失ってしまうけど、それをこの映画に出てくる人たちは見つけていく。
宗教や国境を越えて。
心が最初から通じ合うから嘘をつく必要がなかったPKが、最後についたその「嘘」はまぎれもなく「愛」でした。

 

 

瓦礫の下の消えない灯火~おんな城主直虎35話~

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二回連続でハードな展開だったので、今回は寂しさと穏やかさと笑いと明日への希望がつまってました。
ただし、このあとお怒りモードの武田が来るんですが。いやぁ、ほんとあのお方はいつ来るのでしょうか?
さすがに次回はないとは思いますけど次々回あたり怪しいですね。
そんな現実からは今は、今だけは目をそらしてつらつら書いていこうと思います。

<厭離穢土はまだ遠い>
堀江城を無事に攻め落とした徳川サイド。逃げ出す民まで殺す苛烈なやり方をとった酒井に家康は、諸手を挙げて喜ぶ事ができません。
ですが酒井の言う通り、これにて後方を気にすることなく早々と掛川を攻め入る事が出来ます。
それがわかっている家康だから酒井の事を責める事が出来ないんですよね。
犠牲になる者達に対して心を痛める彼は、どこか「情」に走りやすい可能性をもっていながら実際にはそうならない。
家康は家臣に担ぎ上げられている状況とは言え、戦をそこそここなしていきます。
しかし戦の才をもちながらも戦を忌避する心根があります。
この彼の能力及び性格形成には今川での日々があったのかな?と想像します。
寿桂尼が死にかけてる時に夢で見た見たあの日の美しく穏やかな日常、その中で学び育てば自然とそのような日々を希求してもおかしくはない。
そして彼は一人で碁を打ちながら、論理的思考を鍛えていく。
だからこそ今の彼は夢見がちでありながらも現実的判断が下せる。
32話の感想で寿桂尼の才能を継いだのは家康だといいましたが、氏真と邂逅した時、この二人は本当に今川という一緒の学校で育ったんだなぁと思いました。
氏真は家康のように戦の才や技術が足りないかもしれませんが豊かな文化あふれるあの日々を家康と確かに共有しています。
立場が違っても才能に差が開いても、通じてしまう何かがある。たとえ口に出さなくとも。

家康はこれからその「才」と「心根」がこれからどう一致させ、この戦に溢れた世界と向かい合っていくのか気になっていくところです。
だけど氏真の言うように、戦が蹴鞠で決する世界はありません。蹴鞠が上手い者を巡ってまた争いが生じるから。
生きる事が戦いなら、誰もその「業」から逃げ出す事は出来ない。
だけどそれでも、それでもとその現実を直視しながら見る家康の夢は一体どんな形になっていくのでしょうか。


<白黒つかないこの世界>
乱世というものを書く以上、そこには勝者と敗者、善と悪がありますがそれは非常にあいまいでまさに白黒つかないグレーゾーン。
生きる事は、ことさら戦の中では加害者であり続ける事や被害者であり続ける事を許してはくれないしそれほど甘くない。

例えば、堀江城での戦いで負傷した近藤家の者達。彼らの手当てを最初は嫌がりながらも現場へ駆けつけた直虎。
政次を死に追いやった張本人である近藤本人が重症の怪我を負っていました。
そして政次の事で何もできずただ傍観していたと悔やんでいた鈴木が死に、その残された幼さが残る息子が戦場に駆り出される。

直虎の中ではかれらは悪役で加害者そのものでしたが、血を流しながら自分に怯える姿や戦場で散ってしまうかもしれない若い命は、戦場の被害者でもある。
そして同じ戦のもとで必死で生き抜かんとする仲間でもあると感じたのではないでしょうか。
仲間というのはいいすぎかもしれませんが、共感めいたようなもの。
直虎は生来の善性から相手も同じ人なんだと思ってたら手をさしのべてしまう。
かといって共感したり、相手の事情がわかったからといって政次の事を「仕方ない」とは割り切れない。
この「相手を殺してやる」と「いや、そうじゃない。殺したくない。」が心の中で揺らぎになっていく。
例え勝者になったとしても虚しさは残る。悪役がこの世界にいないなら、己に絶対的な正義はない。その時正しいと思った選択も間違えかもしれない。
それでも大切な者達のためには答えのない未来のため終わりなき戦いに身をおいていく。

今後直虎にこの事がどう影響あたえていくかを見守りたいです。

<命や想いのバトン>
井伊谷の住人たちは政次の物まね大会や、子供らの囲碁の中に政次の存在を感じています。
なんだかこのシーンを見ていると思わず自分もその場にいるような錯覚を覚えました。
「わかる。政次ってそういう表情あるよね。」と隣の誰かに思わず言ってしまうような。
メタ的にみて政次の事を知っていた視聴側の自分が、やっと彼らと心を共有できた気がします。
政次の命は燃え尽きてしまいました。だけど彼らの中に、それはともし火となって永遠にこの世界を照らし続ける。
政次だけではなくきっと誰もが命だけでなく記憶や想いのバトンを受け取り、そして次へと伝えていくランナー。ずっと昔から続いてきたことで、これからも続いてく。
その想いを確かに受け止めた者は、自分が誰かの永遠に残ることを確信できるがゆえに、時として命を投げ出してしまえるのかもしれません。


<寄り添う雛鳥のように>
南渓和尚とのギャグシーンが差し込まれ、飄々としてみえる龍雲丸。だけど彼の立場は非常につらい。
直虎は、なぜ役立たずの自分が生き残ってしまったのか?と彼にいってましたが、龍雲丸もそれは同じ。
そこには自分だけが生き残ったという思いと同時に、みなを守るべき立場のリーダーである自分が生き残ってしまったという思いもあるでしょう。
自分の命を差し出すことで、井伊を守った政次とは対照的に。
城を守って、自分を生かした父のようにもなれてない。
みなが生きてさえいれば負けじゃないと語った彼の横に龍雲党達はいない。
笑う事で偲びあえる井伊谷のような仲間が。
だけど、それでも同じく上に立つ立場の直虎が生きててくれて嬉しいと涙ながらに言ってくれることはどれだけ彼の救いなった事か。
この先、彼はどうなっていくのか、龍雲党達の生死によっても変わってきそうです。彼の本当の復興はそこから始まるのかもしれません。

<おまけ>
あんな大惨事が起こりながらも、銭の犬とし商売の気配を感じる方久は相変わらずで凄く好き。
けど薬は時として毒にもなりうるからなぁ。気を付けてほしい。だけどやっぱりその清濁併せ吞んだとこが彼らしくもあります。

 

 

性と彼女らと制服と~荒ぶる季節の乙女どもよ~

荒ぶる季節の乙女どもよ。(2) (週刊少年マガジンコミックス)

あなたの“はじめて”を、わたしにください──。
和紗たちは文芸部に所属する女子5人。部が「死ぬ前にしたいこと」という話題で沸いたある日、部員の一人が投じた「セックス」の一言……。その瞬間から、彼女たちは“性”に振り回され始める。

amazon 紹介文より)

キャラクター的人物を描きながらも、実存感を宿らせる脚本家といえば実写では森下佳子さんですが、アニメだと岡田磨里さんが思い浮かびます。
その岡田さんが原作の作品がここで紹介する「荒ぶる季節の乙女どもよ」です。

ここにでてくる5人の女子高生たち、文芸部の所属ってのもあって内面の圧が高い。なんていえばいいんだろ?
世界や人間というものを「言葉」でとらえようとするタイプなんですよね。自分もそこまで深くはないけど「文学少女」だからなんとなく見覚えある。
知識が経験より多くて「理」に走りやすいというか。
だけど「性」は肉体性がしめている割合が多い。だからそれに自分の「理」がぶんぶんふりまわされていってしまって。
今思えば、自分なりの背伸びがそこにあったのかなぁ?とは思いますが。
その様子を漫画で見るとなつかしいやら、おかしいやら、かわいいやら痛々しいやらで、だけど少し愛おしい。

 

<愛すべき娘ら>
主人公の和沙達はみんなタイプがちがってて、すごくいい。キャラクター的なのにキャラクター的じゃないのが魅力的。
少し大人びた美少女の新菜みたいな子もいれば性に潔癖な曽根崎さんみたいな子もいる。

 

新菜は少し不思議な発言する子なんだけど、世間ずれしてるとかじゃなくて、彼女なりに真摯に考えた末の言葉な感じがするんですよね。
彼女は自分の妖精っぽさのある儚い容姿が、男性から性の対象にされるのをすごく自覚していて行動している。見た目の良さから嫌な目にあってきたんだと思います。
だけどその「儚さ」がずっと続くわけじゃないともわかってるし、対処法もある。
なんというかその様子はすごく戦う女の子なんですよね。その大人っぽさがある新菜だけど、多分大人の人に片想いをしていて、そこらへんは普通の子。
それにしても新菜の絵から伝わる美少女っぷりはすごいです。


曽根崎さんはそうはいいつつ気になる男の子にあるモデルに似てるといわれると真似をしちゃう。
けどそれをクラスメイトにそれを指摘され「あいつの事好きなんだろ?」とからかわれると自意識が爆発して傷つけるような事をいってしまうんですよね。
要は素直になれないツンデレなんですけど、その「ツン」さの気持ちもわかるというか。
だけど彼女を「ツンデレ」って言葉ひとつにまとめてしまうにはちょっと言葉が足りないし、雑に感じてしまいます。
多分、そういう一言じゃいいきれない登場人物の奥行きが原作の岡田さんの力なんだと思います。

他にも恋をしてない自分は友人にアドバイスできないのでは?と悩む百々子ちゃんや、小説家を目指してある意味、身を削る本郷さんとかもいてかなり楽しい。


スクールカーストという身分差>
そして最近よく高校生活もので書かれているスクールカースト
主人公の和沙ちゃんはいわゆるスクールカーストの中か、下のほうに属していているんだけど幼馴染の泉はトップカースト
この辺ってロミオとジュリエットみたいに、物語的に恋の障壁になるんですよね。もしくはお金持ちと貧乏人みたいなやつも。
その差が大きければ大きいほど超えた時のカタルシスがあるし、越えられなければそれゆえの切なさがある。
けどはっきりした身分差じゃなくて、学生生活のそれはすごくあいまいで透明な壁のようなもの。
制服のちょっとした着方、髪型、メイク、話術。成績。運動能力。空気を読む技術、そして運。そういうものの総合でなんとなく決まってたような。
かっちかちってより、意外に緩やかな面があるんですよね。そこにいる本人たちからするとそれが越えられない壁だと感じてるとしても。
だからスクールカーストがあるといっても、ちょっとしたきっかけがあれば仲良くなれてしまったり。
その萌芽がなんとなくあちらこちらに作品にちりばめられたりしてる気がします。
でもなぁ、超えていくきつさもわかるんですよね。地味な和沙を泉が気軽に話しかけるだけでも、女子からのやっかみがあって話しかけづらくなる感じとか。
同性同士だと超えやすいんですけど、異性となるとなかなか大変というか。
そのあたりも楽しみながら新刊を待ちたいと思います。

そして虎は、荒野を駆ける~おんな城主直虎34話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

政次の死でショックを受けたので、次回からはしばらく明るい話でよろしくな!
と、思ってたところで今回のお話。しかも武田はまだ来てないという。
ちょっとこっちは精神的にぼろぼろで頭が正常に働いてない中、感想をまとめていきたいと思います。

<政次が死なないIFの世界に迷い込む直虎>
政次の磔は見てるこちらもつらかったですが当の直虎は精神は想像以上に壊れており短期の記憶喪失になっていました。
その壊れ方が痛ましくて、南渓達もどう接していいか手探り状態。
政次を死んだ事と直虎自身で殺した事の重みに耐えきれず、心が防衛反応をとっている状態です。
それでも直虎は政次の存在自体を記憶から消したわけではない。
存在そのものをなかった事には出来ず、近藤達が乗り込む前の時間軸に戻ってしまいました。
直虎のこの心の在り方は、どうすれば政次が死ななかったのか?という後悔の裏返しであると思います。
政次死亡の回避ルートの条件が近藤の企みを事前に知る事であったとのだと、直虎は考えている。
だからそこで時間が止まる。
そして「但馬の苦労が無に帰する」というセリフからも裏を返せば、無に帰してしまった自分自身への許せなさがここにあるのではなでしょうか?
ここで何が一番心のくるかというと、その壊れ方のなかにも「どこで間違えたのかを確かめる。」という政次のやり方が息づいている事なんですよね。
もはやそれは無意識レベルで、彼の生きた証を直虎の中思わず見つけてしまったようで涙が出てくる。
そんな彼女を現実へ連れ戻すのは政次の辞世の歌。そして場所は直親と政次と直虎の思い出がある井伊家の井戸。
この井戸はやはり「死」と「再生」の舞台なんだなぁと改めて思いました。

<戦国椅子取りゲーム>
堀江城を攻め落とした酒井。トップである家康に純粋性を保たせたまま、汚れ仕事は自分がやるというのは、まさに徳川版の直虎と政次。
しかしながらとりわけ汚いやり方だとこの物語は示しません。
引間城を拠点として掛川にはやく攻め込まなけれなならない。そして同時に堀江城も攻撃を仕掛けています。しかし堀江城にもたついている。
ここでなにより必要なのはスピードだと、酒井は考えたことでしょう。そのためには堀川城を徹底的に潰していく必要があります。そうすればほかの地域は恐れをなして降伏していく。
その結果、堀川にいっていた人員を掛川のほうにもっていく事ができます。酒井は悪意はないけど、ただひたすらに戦場のリアリストなのでしょう。
まぁ、けど家康との信頼関係が前提にないとこじれるので、このさきの酒井と家康の関係性はどうなるのか見ものです。

 

 

そしてこれは堀川城が徳川の生贄として選ばれたいう事です。ここである因果が巡っています。
井伊は小野家や政次をスケープゴートとしてまとまり、戦ってきました。
だけど、より大きな外部のマクロの波に巻き込まれると、その井伊(直虎)が徳川に戦争の手段として利用されてしまうし、切り捨てられてしまう。
政次や井伊谷の民ではないとはいえ、ゆかりのある気賀の人々が犠牲となって。みな直虎にとって大切な者達です。
ただそほんとそれは「生贄」の順番が回ってきただけだといえて。その椅子取りゲームに負けたくなければ、必死に食らいつくしかない。
政次が奸臣であれば、気賀にいる人々(龍雲党、商人達、方久)との絆がなければ背負う事がなかった直虎のこの「業」。
ここまでの脚本の積み重ねは、ちょっと恐ろしいものがあります。

<善意がまたも災厄を呼ぶ>
30話の「潰されざる者」の回で、百姓達は善意から徳政令撤回を申し出ました。それが直虎達の計画を狂わすとも知らず。
そして今回も、方久含め中村屋達が気賀のためにと動いた結果、それが虐殺へと繋がりました。
政令の時は政次と直虎が動く事で、その場をおさめることができましたが、今回は直虎は放心状態。
その悲しみに暮れている最中にも、世の中は動き龍雲丸の命を危うくしてます。
本来なら方久が動ければいいのですが、彼は根っからの商売人であって政治家でも軍人でもないんですよね。
平和の時ならいざ知らず、有事の際にはこれが弱目にでました。

 

 

そして龍雲丸達の、気賀の民を助けようとしそれが台無しになっていく様がほんとうに悲しい。
アウトローだった彼らにとって、気賀はどうにか手探りながらも築いてきた居場所だったことでしょう。
自分達(龍雲党)だけが世界のすべてだったのに、その気賀までが「我がこと」のようになっていた。
彼らが民を救おうという思いは、別に国のため、城のため、主君のためとかいう大義のためじゃないんですよね。
別にそれが仕事でもないし、ヒーローであろうとしてやってるわけじゃない。
ご近所さんや、地元の人たちのためにやらなきゃ!そんな等身大の気持ちゆえの行動だからこそ身にしみるとこがあります。
そんな地元愛のようなものが潰されていくのを見るのはつらい。
もし今、自分の身の回りでそれがおこったらと思うとぞっとします。

なんだろ?地元の気のいいヤンキー気味の兄ちゃんたちが、戦争に巻き込まれて死んだらこんな感じなのかな?とリアルに想像してしまってる感じなんですよね。

<一言>
戦によって愛する個が奪われていく事を丁寧に書きながらも、そのつらさに溺れていく事を許さない厳しさがこの話を覆っているようでした。

 

 

生徒会ものとお仕事ものの中間点に~ある日うっかりPTA~

ある日うっかりPTA

基本的にPTAというのは学校ごとに――これを専門用語で単位PTAというのだけど――独立した組織だ(PTAの常識 その2)。戦国時代の日本は、各地に大名がいて、それぞれに違った組織や、家訓と呼ばれる法律を作って勝手に領地を運営していた。あれに近いものと思って下さい。 (ある日うっかりPTA)

さて、組織とその中で働く人間模様を書くものとして、
「1518! イチゴーイチハチ!」青春ストーリーとあわせて書くなら生徒会もの、
警察でも企業でも、ある一つの部門を軸に動いてくお仕事もの、
それがもっと大きな組織という生き物になって色んなセクションが絡み合い、初見ではわかりにくいつくりになっている「シン・ゴジラ」があります。

この生徒会ものとお仕事ものの中間層にあるのがPTAものな気がします。

仕事で得る給料や、生きる糧を得るためにやっているわけではなくあくまで自主的でありながら、学生が運営する生徒会ほどウエット感がない。
上手く言えませんが、情と仕事の比率の問題で生徒会は情が大きく、PTAは仕事の割合が大きく感じるんですよね。あくまで個人的な感覚ですけど。

 

 

 そのPTAのトップである会長職に3年間勤めていた著者の松江さんの体験談です。
すごく面白かったです。PTAというとなんとなく独特な組織のイメージがありますが全然そんな事はない。
何かしらの組織に属していれば、身に覚えがあるような問題に松江さんは取り組んでいってます。
ある日うっかりPTAとなってますが、読めば着々とフラグを積み重ねていっているのがわかります。
フリーライターという職業柄、ちょくちょく日中に学校に顔を出しやすいのもあって、他の保護者の人達との交流もばっちり。
式辞を述べる時、来席した先生と正反対の事をいってますがその内容がいい。
というか、それを聞いた人は先生と反対の意見を言うことで全体の意見のバランスをとったようにみえるんですよね。プラス権威に媚びてないよう感じるし、その割に言い方は攻撃的でなく穏やか。
(松江さんの主観的目線かつその場の雰囲気とか声色もあるとは思いますが、読んでる限りそう推測されます。)
そりゃあ会長に推薦されるだろうな、という感じがひしひしと伝わってきます。
松江さんはご自身の事を、協調性がないとおっしゃってますが、むしろある。だけど同調圧力や精神論で個人が損なわれるくらいならそこから抜け出していく人なんだなと。
だからこそ、チームプレイを大事にしながらも、裏のスローガンは「がんばらない、をがんばろう」
人を鼓舞するというより、松江さんは組織の仕組みを変えていこうと努力します。
だけどその道は前途多難。そしてあるある話でもあって。

 

例えば
外から見るとわけのわからない村内ルールの存在。
「今」にそぐわなくとも、なんとなく「みんなが」「昔から」ずっと続けている慣習。
縦割り行政で、管轄が違うから連携が取れないという現状と、その現状を事実だと思い込み人が動かなくなる現象。
そして仕事をする上で、出てくる不平等感と人員確保の難しさ。

 

もうほんと日本中どこでも見かける問題が浮上してくるんですよね。
昔なら、それでもやっていけたかもしれませんが、いまや働き方、生き方は多様化してます。仕事ならいざしらず、自主性で動くPTA。
その中で、できるだけ多くの人を巻き込んでいける「場」を作っていく事がこれからの鍵になっていくかもしれません。
ずっとは無理だけど、ちょっとだけなら手伝えるという人はけっこういるのでは?と思います。
軽妙な語り口で書かれているのでさくさく読むことができました。なのにいろいろと考えされた本です。

<余談>
こういった組織とその中の人間模様にフォーカスを当てたのが、去年と今年の大河である「真田丸」と「おんな城主直虎」ではないかと。
なんだろ?英雄ってより組織人として偉人をとらえてるような?だから、遠い時代の話なのにどこか身に覚えがある感じがして。
そういや「PTAグランパ!」もNHKで放送されてましたし。
再来年は、オリンピックが題材なこともあって、よりそこら辺に話がいくんですかねぇ。
いや、その前に「西郷どん」もあってどうなるのでしょう?
けどほんと英雄譚をうまく解体して現代の組織劇に再構成する、というのはうまく成功すればそのままフォーマット化できますね。

 

 

PTAグランパ! (角川文庫)

PTAグランパ! (角川文庫)