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物語同士のつながりが好き

blank13~弔いは誰がために~

blank13

「俺の家の話」の葬儀を見ていてなんか急にこの作品を見なきゃと思いたちました。
前から見なきゃいかんと思っていたんですけどを結果的に今見れて良かったと思います。
(「おちょやん」の父親について色々と考えていたので)

<story>
借金を残して13年間蒸発していた父親が余命3ヶ月で見つかった.
父の死後、葬儀で他人から聞く父の一面。
家族はそこに何を思うのか?


<火葬の火のように>
家族の中であえて話題にすることはなかったけど、各々の心に居続けてきただろう父親。
その父親の中にも自分という存在が息づいていたと知った時、
コウジは心の父親への嫌い・憎い・許せないだけでは埋められなかった空白が少し埋まったんだと思います。
えーっとですね、けして嫌いなどの負の感情が消えたわけじゃなくて
そんな感情の隣に父親が自身の心に居座る事を許してるんですよね。

彼は子供の時から父親に見て欲しかったけれど、自分の存在が父の中にいないのでは?
と思って人なので、父の中に自分という存在がいたと確信できた時点で、ある意味では救われてしまってるんですよね。
救われたというより昇華できた?
いや、昇華とまではいかなくとも煙のように昇っていってしまった。
静かに。
さながら火葬の火のように。
そんな彼に私は「許さなくていいよ。」や「許すなんて信じれない。」
という感情ではなくく
「あぁ。そっか…。そうなんだ…。」と背中をさすりたい気持ちになりました。

雨ニモマケズな生き方の表裏>
父親である雅人がどういう人だったかと考察すると彼はお人よしであるけれど
家族からは逃げた人であるとは思います。
ただ借金取りの
「ちょっとは人生かっこつけてもええんちゃうか?かっこいい背中を見せてもええんちゃうんか。」という言葉からは逃げることは出来ずに向き合い続けざるをえない人だったのだろうと。

なにが言いたいかと言うと、もともと「お人よし」であるのだけれど
家族から逃げ出したという罪悪感がそこプラスされより「いい人」であろうと
自分を削らざるをえなくなった感じがするんですよね。
逃げ出した分だけ恥ずかしくない生き方を、例えそれが家族に伝わらなくとも
「善である」生き方をしていこうとしてたのではないのかと。
その生き様はナルシシズムで身勝手で見えを張っているといえる。
だけどそんな彼に残されたものがそんな「お人よし」であるという「かっこつけ」
だったのでしょう。

<そして残された家族>
コウジの心が軽くなった一方で重さや苦みが残ったのは長男のヨシユキ。
雅人の妻である洋子は葬儀に参加せず煙草を吸う事で一人で弔いけじめをつけたように
みえなくもないんですけど、ヨシユキはこれからも折にふれて13年の空白を思い出して
歩き続けていく様が想像つく。
コウジが父との思い出に良くも悪くも浸っていた人ならば
ヨシユキは父親への憎しみをばねにここまでやってきた人なんですよね。
そして「父親が他人に良くしてたから何?家族を捨てた人だけど?」
と割り切れる性格でもなかった。
もしかしたら一生、彼の中で父の葬儀は終わることはないとしても
どうか彼の人生に光がさす日が一日でも多くありますように。

 


<余談>
借金取りの「かっこいい背中をみせてもいええんちゃうか?」
と言われた時に、うす暗い部屋の家族四人の食事風景の中で
父親の猫背に光が当たっていて、十字架を背負ったんだなぁと思いました。
このシーンは宗教画のような美しさに満ちたワンシーンでした。