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不完全な世界の不完全な人々~愛すべき娘たち~

愛すべき娘たち (ジェッツコミックス)

よしながふみさんの織り成す女性たちの5つの短編集。
久々に読み直すと、やっぱり傑作。
きのう何食べた?」みたいな日常ものも、「大奥」のような歴史のifストーリーも、どちらも深い人間への理解と眼差しが感じられます。
上手くいえないけどバランスがすごくいい。ミクロの人間関係にフォーカスしたものを書くと、彼らだけのある種の「閉じた世界」が発生するけど、それをやさしく突き放すような俯瞰した目線が作品にある。
この「やさしく」ってとこがポイントで、この世界とそこに生きる人々の不完全さに、諦観があるにも関わらず、それを抱きしめて歩いていくような感じがして。

 

 

 

大奥 1 (ジェッツコミックス)

大奥 1 (ジェッツコミックス)

 

 

<「傷」があるゆえに、あるからこそ>

さて、この本の第1話に出てくる主人公の雪子は母親の麻里と二人暮らし。30才を迎えるんだけど突然、麻里が再婚する。その相手は雪子の3つ年下での元ホストの健。

ここで出てくる麻里さんは一見すると、自由気ままで娘の事よりも自分を優先する母親として書かれるんだけど第5話で、それがひっくり返るというか、なぜ彼女が娘にそう接していたのか?
というのがわかる構成になっています。
そこで雪子の祖母、つまり麻里の母親の話までさかのぼることになる。この麻里の母親は「あなたのためを思って」の言葉のもと、娘の容姿をけなしてきた。
だから、麻里は自分が親になったときは、反面教師として自分の娘の容姿に無神経な事は言わないし、自分の人生を「あなたのために」という言葉で押し付けない生き方をしてきました。
それが、第1話のそんな麻里に振り回される雪子へと繋がっています。
だけど、じゃぁ、麻里の母親が悪いのか?というと彼女に彼女なりの理由があって、それをやってる。
その事を麻里は頭ではちゃんと理解しています。だけど感情面がどうしてもついていかない。
それについて夫の健はこう言ってます。

「分かってるのと 許せるのと 愛せるのとは みんな違うよ。」

 

こうことを言えて実行している健は人間がすごくできている。
親を許せなくて拳を振り上げた。だけど理解しているからこそ、どこにそれを振り下ろしていいかわからないまま、人生を歩いてきたからこそ出会えた人達がいる。
そのままならなさや、やるせなさ。その拳が開く日が死ぬまでないとしても、その手を包んでくれる人と人生が共にある喜び。
麻里が容姿のコンプレックスから「わたしは美しくないわ。」と言ったから、健は彼女に興味を抱きました。
だからといって受けた「傷」が治るわけじゃない。だけどそれによって健と出会えた。そこに人生の残酷さと美しさがある。
別に誰かと出会わなきゃ、「傷」が意味のないわけではなく、その痛みを知ってからこそ娘の雪子に対して優しくなれるところがあって、それは確かに雪子を救ってるんですよね。

 

 

<「愛」が大きすぎる彼女の選択>
この麻里・雪子と対になるような話が、3・4話に出てくる莢子の話です。彼女の祖父はは社会主義者で彼女に

「決して人をわけ隔てしてはいけないよ 

いかなる理由があっても人を差別してはいけない 

すべての人に等しくよくしてあげなさい。」

 

と教えました。莢子は敬愛するこの祖父のセリフを真正直に受けて、それを実行して生きてきました。だから彼女は「恋」ができない。
なぜなら「恋」は「人をわけ隔てる」という差別の構造をもっているから。
莢子はどうしてもその「恋」のがもつその「欠陥」や「不完全さ」に耐えられない。
そういう自分に悩むんだけど、だからこそ彼女が最終的に選んだ「生き方」というのは、こうぐっとくるものがありました。
あぁ、彼女はそうやって不完全な自分と世界を照らしていこうとするのかと。

 

 

この本に出てくる人達みんなが不完全なんだけど、それを含めてだからこそ、愛すべき人達でした。