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物語同士のつながりが好き

性と彼女らと制服と~荒ぶる季節の乙女どもよ~

荒ぶる季節の乙女どもよ。(2) (週刊少年マガジンコミックス)

あなたの“はじめて”を、わたしにください──。
和紗たちは文芸部に所属する女子5人。部が「死ぬ前にしたいこと」という話題で沸いたある日、部員の一人が投じた「セックス」の一言……。その瞬間から、彼女たちは“性”に振り回され始める。

amazon 紹介文より)

キャラクター的人物を描きながらも、実存感を宿らせる脚本家といえば実写では森下佳子さんですが、アニメだと岡田磨里さんが思い浮かびます。
その岡田さんが原作の作品がここで紹介する「荒ぶる季節の乙女どもよ」です。

ここにでてくる5人の女子高生たち、文芸部の所属ってのもあって内面の圧が高い。なんていえばいいんだろ?
世界や人間というものを「言葉」でとらえようとするタイプなんですよね。自分もそこまで深くはないけど「文学少女」だからなんとなく見覚えある。
知識が経験より多くて「理」に走りやすいというか。
だけど「性」は肉体性がしめている割合が多い。だからそれに自分の「理」がぶんぶんふりまわされていってしまって。
今思えば、自分なりの背伸びがそこにあったのかなぁ?とは思いますが。
その様子を漫画で見るとなつかしいやら、おかしいやら、かわいいやら痛々しいやらで、だけど少し愛おしい。

 

<愛すべき娘ら>
主人公の和沙達はみんなタイプがちがってて、すごくいい。キャラクター的なのにキャラクター的じゃないのが魅力的。
少し大人びた美少女の新菜みたいな子もいれば性に潔癖な曽根崎さんみたいな子もいる。

 

新菜は少し不思議な発言する子なんだけど、世間ずれしてるとかじゃなくて、彼女なりに真摯に考えた末の言葉な感じがするんですよね。
彼女は自分の妖精っぽさのある儚い容姿が、男性から性の対象にされるのをすごく自覚していて行動している。見た目の良さから嫌な目にあってきたんだと思います。
だけどその「儚さ」がずっと続くわけじゃないともわかってるし、対処法もある。
なんというかその様子はすごく戦う女の子なんですよね。その大人っぽさがある新菜だけど、多分大人の人に片想いをしていて、そこらへんは普通の子。
それにしても新菜の絵から伝わる美少女っぷりはすごいです。


曽根崎さんはそうはいいつつ気になる男の子にあるモデルに似てるといわれると真似をしちゃう。
けどそれをクラスメイトにそれを指摘され「あいつの事好きなんだろ?」とからかわれると自意識が爆発して傷つけるような事をいってしまうんですよね。
要は素直になれないツンデレなんですけど、その「ツン」さの気持ちもわかるというか。
だけど彼女を「ツンデレ」って言葉ひとつにまとめてしまうにはちょっと言葉が足りないし、雑に感じてしまいます。
多分、そういう一言じゃいいきれない登場人物の奥行きが原作の岡田さんの力なんだと思います。

他にも恋をしてない自分は友人にアドバイスできないのでは?と悩む百々子ちゃんや、小説家を目指してある意味、身を削る本郷さんとかもいてかなり楽しい。


スクールカーストという身分差>
そして最近よく高校生活もので書かれているスクールカースト
主人公の和沙ちゃんはいわゆるスクールカーストの中か、下のほうに属していているんだけど幼馴染の泉はトップカースト
この辺ってロミオとジュリエットみたいに、物語的に恋の障壁になるんですよね。もしくはお金持ちと貧乏人みたいなやつも。
その差が大きければ大きいほど超えた時のカタルシスがあるし、越えられなければそれゆえの切なさがある。
けどはっきりした身分差じゃなくて、学生生活のそれはすごくあいまいで透明な壁のようなもの。
制服のちょっとした着方、髪型、メイク、話術。成績。運動能力。空気を読む技術、そして運。そういうものの総合でなんとなく決まってたような。
かっちかちってより、意外に緩やかな面があるんですよね。そこにいる本人たちからするとそれが越えられない壁だと感じてるとしても。
だからスクールカーストがあるといっても、ちょっとしたきっかけがあれば仲良くなれてしまったり。
その萌芽がなんとなくあちらこちらに作品にちりばめられたりしてる気がします。
でもなぁ、超えていくきつさもわかるんですよね。地味な和沙を泉が気軽に話しかけるだけでも、女子からのやっかみがあって話しかけづらくなる感じとか。
同性同士だと超えやすいんですけど、異性となるとなかなか大変というか。
そのあたりも楽しみながら新刊を待ちたいと思います。

そして虎は、荒野を駆ける~おんな城主直虎34話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

政次の死でショックを受けたので、次回からはしばらく明るい話でよろしくな!
と、思ってたところで今回のお話。しかも武田はまだ来てないという。
ちょっとこっちは精神的にぼろぼろで頭が正常に働いてない中、感想をまとめていきたいと思います。

<政次が死なないIFの世界に迷い込む直虎>
政次の磔は見てるこちらもつらかったですが当の直虎は精神は想像以上に壊れており短期の記憶喪失になっていました。
その壊れ方が痛ましくて、南渓達もどう接していいか手探り状態。
政次を死んだ事と直虎自身で殺した事の重みに耐えきれず、心が防衛反応をとっている状態です。
それでも直虎は政次の存在自体を記憶から消したわけではない。
存在そのものをなかった事には出来ず、近藤達が乗り込む前の時間軸に戻ってしまいました。
直虎のこの心の在り方は、どうすれば政次が死ななかったのか?という後悔の裏返しであると思います。
政次死亡の回避ルートの条件が近藤の企みを事前に知る事であったとのだと、直虎は考えている。
だからそこで時間が止まる。
そして「但馬の苦労が無に帰する」というセリフからも裏を返せば、無に帰してしまった自分自身への許せなさがここにあるのではなでしょうか?
ここで何が一番心のくるかというと、その壊れ方のなかにも「どこで間違えたのかを確かめる。」という政次のやり方が息づいている事なんですよね。
もはやそれは無意識レベルで、彼の生きた証を直虎の中思わず見つけてしまったようで涙が出てくる。
そんな彼女を現実へ連れ戻すのは政次の辞世の歌。そして場所は直親と政次と直虎の思い出がある井伊家の井戸。
この井戸はやはり「死」と「再生」の舞台なんだなぁと改めて思いました。

<戦国椅子取りゲーム>
堀江城を攻め落とした酒井。トップである家康に純粋性を保たせたまま、汚れ仕事は自分がやるというのは、まさに徳川版の直虎と政次。
しかしながらとりわけ汚いやり方だとこの物語は示しません。
引間城を拠点として掛川にはやく攻め込まなけれなならない。そして同時に堀江城も攻撃を仕掛けています。しかし堀江城にもたついている。
ここでなにより必要なのはスピードだと、酒井は考えたことでしょう。そのためには堀川城を徹底的に潰していく必要があります。そうすればほかの地域は恐れをなして降伏していく。
その結果、堀川にいっていた人員を掛川のほうにもっていく事ができます。酒井は悪意はないけど、ただひたすらに戦場のリアリストなのでしょう。
まぁ、けど家康との信頼関係が前提にないとこじれるので、このさきの酒井と家康の関係性はどうなるのか見ものです。

 

 

そしてこれは堀川城が徳川の生贄として選ばれたいう事です。ここである因果が巡っています。
井伊は小野家や政次をスケープゴートとしてまとまり、戦ってきました。
だけど、より大きな外部のマクロの波に巻き込まれると、その井伊(直虎)が徳川に戦争の手段として利用されてしまうし、切り捨てられてしまう。
政次や井伊谷の民ではないとはいえ、ゆかりのある気賀の人々が犠牲となって。みな直虎にとって大切な者達です。
ただそほんとそれは「生贄」の順番が回ってきただけだといえて。その椅子取りゲームに負けたくなければ、必死に食らいつくしかない。
政次が奸臣であれば、気賀にいる人々(龍雲党、商人達、方久)との絆がなければ背負う事がなかった直虎のこの「業」。
ここまでの脚本の積み重ねは、ちょっと恐ろしいものがあります。

<善意がまたも災厄を呼ぶ>
30話の「潰されざる者」の回で、百姓達は善意から徳政令撤回を申し出ました。それが直虎達の計画を狂わすとも知らず。
そして今回も、方久含め中村屋達が気賀のためにと動いた結果、それが虐殺へと繋がりました。
政令の時は政次と直虎が動く事で、その場をおさめることができましたが、今回は直虎は放心状態。
その悲しみに暮れている最中にも、世の中は動き龍雲丸の命を危うくしてます。
本来なら方久が動ければいいのですが、彼は根っからの商売人であって政治家でも軍人でもないんですよね。
平和の時ならいざ知らず、有事の際にはこれが弱目にでました。

 

 

そして龍雲丸達の、気賀の民を助けようとしそれが台無しになっていく様がほんとうに悲しい。
アウトローだった彼らにとって、気賀はどうにか手探りながらも築いてきた居場所だったことでしょう。
自分達(龍雲党)だけが世界のすべてだったのに、その気賀までが「我がこと」のようになっていた。
彼らが民を救おうという思いは、別に国のため、城のため、主君のためとかいう大義のためじゃないんですよね。
別にそれが仕事でもないし、ヒーローであろうとしてやってるわけじゃない。
ご近所さんや、地元の人たちのためにやらなきゃ!そんな等身大の気持ちゆえの行動だからこそ身にしみるとこがあります。
そんな地元愛のようなものが潰されていくのを見るのはつらい。
もし今、自分の身の回りでそれがおこったらと思うとぞっとします。

なんだろ?地元の気のいいヤンキー気味の兄ちゃんたちが、戦争に巻き込まれて死んだらこんな感じなのかな?とリアルに想像してしまってる感じなんですよね。

<一言>
戦によって愛する個が奪われていく事を丁寧に書きながらも、そのつらさに溺れていく事を許さない厳しさがこの話を覆っているようでした。

 

 

生徒会ものとお仕事ものの中間点に~ある日うっかりPTA~

ある日うっかりPTA

基本的にPTAというのは学校ごとに――これを専門用語で単位PTAというのだけど――独立した組織だ(PTAの常識 その2)。戦国時代の日本は、各地に大名がいて、それぞれに違った組織や、家訓と呼ばれる法律を作って勝手に領地を運営していた。あれに近いものと思って下さい。 (ある日うっかりPTA)

さて、組織とその中で働く人間模様を書くものとして、
「1518! イチゴーイチハチ!」青春ストーリーとあわせて書くなら生徒会もの、
警察でも企業でも、ある一つの部門を軸に動いてくお仕事もの、
それがもっと大きな組織という生き物になって色んなセクションが絡み合い、初見ではわかりにくいつくりになっている「シン・ゴジラ」があります。

この生徒会ものとお仕事ものの中間層にあるのがPTAものな気がします。

仕事で得る給料や、生きる糧を得るためにやっているわけではなくあくまで自主的でありながら、学生が運営する生徒会ほどウエット感がない。
上手く言えませんが、情と仕事の比率の問題で生徒会は情が大きく、PTAは仕事の割合が大きく感じるんですよね。あくまで個人的な感覚ですけど。

 

 

 そのPTAのトップである会長職に3年間勤めていた著者の松江さんの体験談です。
すごく面白かったです。PTAというとなんとなく独特な組織のイメージがありますが全然そんな事はない。
何かしらの組織に属していれば、身に覚えがあるような問題に松江さんは取り組んでいってます。
ある日うっかりPTAとなってますが、読めば着々とフラグを積み重ねていっているのがわかります。
フリーライターという職業柄、ちょくちょく日中に学校に顔を出しやすいのもあって、他の保護者の人達との交流もばっちり。
式辞を述べる時、来席した先生と正反対の事をいってますがその内容がいい。
というか、それを聞いた人は先生と反対の意見を言うことで全体の意見のバランスをとったようにみえるんですよね。プラス権威に媚びてないよう感じるし、その割に言い方は攻撃的でなく穏やか。
(松江さんの主観的目線かつその場の雰囲気とか声色もあるとは思いますが、読んでる限りそう推測されます。)
そりゃあ会長に推薦されるだろうな、という感じがひしひしと伝わってきます。
松江さんはご自身の事を、協調性がないとおっしゃってますが、むしろある。だけど同調圧力や精神論で個人が損なわれるくらいならそこから抜け出していく人なんだなと。
だからこそ、チームプレイを大事にしながらも、裏のスローガンは「がんばらない、をがんばろう」
人を鼓舞するというより、松江さんは組織の仕組みを変えていこうと努力します。
だけどその道は前途多難。そしてあるある話でもあって。

 

例えば
外から見るとわけのわからない村内ルールの存在。
「今」にそぐわなくとも、なんとなく「みんなが」「昔から」ずっと続けている慣習。
縦割り行政で、管轄が違うから連携が取れないという現状と、その現状を事実だと思い込み人が動かなくなる現象。
そして仕事をする上で、出てくる不平等感と人員確保の難しさ。

 

もうほんと日本中どこでも見かける問題が浮上してくるんですよね。
昔なら、それでもやっていけたかもしれませんが、いまや働き方、生き方は多様化してます。仕事ならいざしらず、自主性で動くPTA。
その中で、できるだけ多くの人を巻き込んでいける「場」を作っていく事がこれからの鍵になっていくかもしれません。
ずっとは無理だけど、ちょっとだけなら手伝えるという人はけっこういるのでは?と思います。
軽妙な語り口で書かれているのでさくさく読むことができました。なのにいろいろと考えされた本です。

<余談>
こういった組織とその中の人間模様にフォーカスを当てたのが、去年と今年の大河である「真田丸」と「おんな城主直虎」ではないかと。
なんだろ?英雄ってより組織人として偉人をとらえてるような?だから、遠い時代の話なのにどこか身に覚えがある感じがして。
そういや「PTAグランパ!」もNHKで放送されてましたし。
再来年は、オリンピックが題材なこともあって、よりそこら辺に話がいくんですかねぇ。
いや、その前に「西郷どん」もあってどうなるのでしょう?
けどほんと英雄譚をうまく解体して現代の組織劇に再構成する、というのはうまく成功すればそのままフォーマット化できますね。

 

 

PTAグランパ! (角川文庫)

PTAグランパ! (角川文庫)

 

 

 

 

 

 

なかない鶴は呪詛を吐きながら愛を鳴く~おんな城主直虎33話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

今回、言葉になりませんでした。言葉にできないほどの感情があふれてきて、ちゃんとブログに感想をおとしこめるか、自信がないまま書こうとしています。
なにを書こうと、自分が受け止めた気持ち以上の事をちゃんと言語化できてはいないと思います。
だけどこの瞬間を見るために自分はこのドラマを見てきたんだ、その事への圧倒的感謝をこめて書き記していきたいと思います。

 

<為政者の正しさ>
徳川勢を井伊谷へ迎え入れようとした時、彼らに向かって矢が放たれました。
それは腹に一物抱えた近藤が仕掛けた罠でした。
直虎は井伊や小野の者達の仕業ではないと主張しますが、近藤は政次が仕組んだことではないかと疑問を投げかけます。
この場では「矢が徳川側に放たれた。」という事実だけが明確で、誰がやったのかという証拠は提示されない。
ゆえにこの議題は水掛け論になってしまいます。
この両者の言い合い、何を思い出すかと言えば「罪と罰」の回の出来事です。

 

scheherazade.hatenablog.com

 


この回の感想の中で私は、「小さな正しさと大きな正しさの両立の難しさ」を書きました。
今回でいえばこの小さな正しさは、政次の冤罪を晴らす事になります。龍雲丸の時とは違って本当に濡れ衣です。
そして大きな正しさとは、武田が駿府を落とした今、早く掛川に向かわなけれならない殿としての家康が下さなければならない決断の事です。
私の説明が下手で伝わりにくいとは思いますが、「大きな正しさ」といっても倫理的な正しさではありません。
為政者として、軍務を司る者としての最善手の事を指しています。
その家康が下した決断は一体なんなのか?

彼は近藤の意見をいぶかしみます。井伊の方に義があるのではないかと。家康は直虎に直に会ってそれは確信に変わりました。
だけどそれでも、家康は井伊を切り捨てる事を選びます。
なぜなら、戦えない井伊よりも近藤を味方につけた方が、戦場で勝ち抜くうえで得策だからです。
私はその事が仕方ない事だとしても、それによって犠牲になる直虎へ頭を下げた家康は愛すべき豆狸だなと思えます。
別に、直虎本人に確かめなくとも戦略的に近藤に味方をしていた方がいいに決まっている。
だけど自分が犠牲にする者をこの目に焼き付けた。そのうえで大きな正しさを貫こうとする。
その痛みを知ってもなお決断できる彼はある意味、直虎にとって為政者として先を走る先輩だといえます。(同じ今川チルドレンだしね。)
まぁ、事実に確信を得る事で近藤の人間性をしっとこうという古だぬき精神が彼の中に無意識に育っているのかもしれませんが。

<同じ立場であり続ける事が許されない>
近藤氏の寝所襲い牢に入れられた政次。龍雲丸が救出しようと動きます。
しかし政次はそれを拒絶。龍雲丸は「分かんねぇわ、俺には。」といってましたが、これは半分ホントで、半分嘘。
城を守るために死んだ父親といまや守るべき者達が多くいる龍雲丸。
だから命を懸けてでも「守る」事の意味は知っている。「守る」という事において「城」とか「国」とかいう抽象的な事だけでははなく、その行為の中に具体的な顔を思い浮かべる事が出来る事も出来る。
だけど、悪役の汚名を背負ってまで全うする、というのは彼の人生においてはない。この政次の生き様は、確実に龍雲丸に何かしらの影響を与えるでしょう。
そして、政次が処刑される事の一因は「罪と罰」回の龍雲丸達が遠因となっている。
確かに彼は武士が行う戦にによる戦災孤児であったけど、彼が被害者のみであり続ける事を乱世は許さない。
頭のいい彼は、自分がある意味今回の事に関して自分が加害者の一人である事に無自覚ではいられないでしょう。
「守る」という一点において政次とは社会的カーストをこえた理解者で、龍雲丸はそんな彼と親友同士になれたかもしれない未来を失いました。

<忠臣の死と「王器」の誕生>
死ぬ事を選んだ政次から白の碁石を託された直虎。
井戸の前でそれを見つめながら政次の意図を読み取ろうとします。
彼女の胸の内には政次と碁をうちながら語らった日々がよみがえります。「我をうまくつかえ。我もそなたをうまく使う」の言葉と共に。

 

そしてついに処刑の日がやってきます。
取り調べの最中に拷問にあったであろう酷い姿の政次と美しい静謐さを漂わせる白い頭巾の直虎。
刑が二人の兵士によって施行されよとしたその時、近くにいた別の兵の槍を奪い取り政次の胸を突き刺します。
直虎は鋭い眼光を政次にむけながら
「地獄へおちろ!小野但馬!地獄へ。ようもここまで我をあざむいてくれたな!遠江、日の本一の卑怯者と未来永劫語り継いでやるわ!」
と罵倒します。
それに対し政次も
「笑止!未来など、もとより女子だよりの井伊に未来があると思うておるのか!生き抜けると思うておるのか!家老ごときにたやすく謀られる愚かな井伊がやれるものならやってみろ!地獄の底から、見届け…」
と吐血しながらも答え、笑みを浮かべながら絶命しました。
白頭巾に一滴の血を残して。

 

 

この場面は、いわずもがなの圧倒的名シーンでした。
彼らは本音を言わずして相手へのかけなしの愛を語っています。そしてこの芝居をうつことの意味について少し考えていきたいと思います。
直虎は政次をかばった言動をしていました。だからこそ騙されていて怒りのあまり逆上し、自らの手で奸臣を討つ主君を演じなけれならない。この事件の圧倒的被害者として。
このことで近藤氏が井伊に漬け込む隙を潰し、なおかつ徳川勢の井伊への不信感を払拭できる。
たとえ、それが芝居だと近藤が気づいているところで、建前上の正義は近藤にある。可哀そうな尼領主を彼は救っているという構図があるので、それを彼はひっくりかえせない。
この芝居こそが井伊が徳川のもとで生き残る政策の最善手。上記で家康が痛みを知ってもなおそれを抱えながらもした決断と同じ。

 

しかし、しかしですよ。直虎はそんな「大きな正しさ」を貫きながらも「小さな正しさ」をここで両立してるように見えます。
ここでいう「小さな正しさ」とは政次の人生の肯定です。

 

ものすごく個人的推測なんでここからは話半分ぐらいで読んでください。
政次は直親を見殺しにして井伊を救った事が深く心を傷つけていたと思われます。その事の自罰的な反動で、今川から帰ってきてからはヒールを演じていました。
井戸で直虎と邂逅した時、本心を語らず突き放したのは、親友の血によって汚れてしまった自分が直虎の横に立てないという思いや、直親を残して生き残ってしまったサバイバーズギルトがあるからだと思います。
政次はその日から、自分がこの世に残さた意味を考え続け、そのためには自分自身の心を殺し続け悪役を演じて井伊を助けていかないと生きていいる意味なんてない!ぐらい思っていたかもしれません。
彼の自己犠牲を伴う献身はここからきていると思われます。その終わりなき贖罪の旅の終着点を、井伊の悪役として死ぬ事と彼は見定めました。
あの日、直親でなく俺が生き残った意味はこの日のためにあったのか!と思ったことでしょう。ゆえに、この処刑に身を投じること自体に彼自身の救済がほとんどある。
父親の政直に、直親に、直盛たちに井伊の仇を貫きながらも忠臣であり続けたんだと間違いなく胸を張って言える。
そして、そんな万感の思いを胸に抱きながら一人で死にゆこうとした時、直虎が自らの手で政次を刺しました。
この行為によって直親を見殺しにして井伊を生かそうとした政次と同じ立場に直虎が立ったといえます。前回では、直虎は政次が置かれていた状況を理解しました。
だけど理解しただけではなく、同じ立場、同じ選択の前に立って、政次と同じように手を汚しました。一人で逝こうとした彼を、直虎は一人にしなかった。ここで汚れる事で、汚れたと感じていたあの日からの政次を肯定しました。

そしてここで政次が、自分を刺した直虎を肯定するなら、翻って直親を見殺しにするという選択をしたあの日の自分を認めてやらなきゃならないんです。
川名の隠れ里で、政次がなつに語ったように家臣に汚れ仕事を押し付けた主君はきれいな場所に立っている方がいいのかもしれない。
だけど、そんなものぶち壊して直虎は政次と同じ場所に立ちました。そしてその汚れながらも「おおきな正しさ」を貫いて主君の格をこれでもかと政次に提示する。
その姿は、いつも政次の想像を飛び越えていく「おとわ」の姿でいて同時に忠臣が使えるべき君主の姿。

「選ばれよ。」と寿桂尼にいわれ選択したあの日の政次に、直虎と政次二人がこの日、光と手を差し伸べた瞬間でもありました。

 

この「おおきな正しさ(徳川のもとで生き残るための芝居)」と「小さな正しさ(政次の人生の肯定)」という難しい事をやりきった直虎は「王の器」足りえると言える。
その器は確実に直虎と政次、二人のこれまでの軌跡によって生み出されたもの。
政次が忠臣である事、直虎が君主である事、お互いが望む本分を全うさせること。これを愛と呼ばずして何を愛と呼べばいいのか?
この場面はこれ以上ないラブシーンであったと思います。

<余談>
それでも、最期が幸せだったとしても前回で政次がこれからの井伊での日々に夢を見てた事が忘れられない。
贖罪の日々を抱えても、直虎と碁をうちながらもなつがそばにいて、直之達とは新たな絆が生まれ世界が広がったかもしれない。
嫌われに慣れすぎて人の好意を軽視する彼が変わっていく日々が見れない事にたまらなく心が痛いです。

 

 

 

因果は巡れど、愛する事をやめず人は歩む~おんな城主直虎32話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

駿河へは武田が、遠江へは武田が侵攻することによって今川家が窮地に立たされています。
乱世の火花が散る中で、昨日の敵は今日の友の名の通り、誰が敵でも味方でもおかしくありません。
一体、何が、どの道が正しい答えなのかわからない中で己で考え歩んでいかなくてはならない。
直虎は生き残るため、今川の目付をとらえ城を開ける代わりに臣下に加えてくれる頼みをしたためた書状を徳川に送ります。
裏切り、下剋上なぞ生きるために上等の世界で、「忠義」の化身たる政次の最後の仕事が見え始めた今回の話でした。
というか完全にそれの前半のお話なので、よっぽど次回とまとめてやろうかと思いましたが軽く書きとめときたいと思います。
いろいろとつらいものがありますが…。


<今川チルドレン>
飛ぶ鳥を落とす勢いの信玄に手も足もでない氏真。武田への寝返りも多数、出ており追い詰められていきます。
氏真は能力が圧倒的に足らない中、信玄という調略大好きおじさんを前になんとか頑張っていますがいかんせん、カリスマ性がない。
時代は今、武田だぜ!という気運の高まりもあり、寝返る国衆が多数出てしまいました。
寿桂尼の戦における才覚は氏真に残念ながら受け継がれなかったようですが、ある意味でその流れの系譜にいるなと思うのが家康と直虎。

家康は幼少の頃から今川家のもとで暮らしながら学び、直虎は寿桂尼にある意味では鍛えられました。
つまりこの二人は同じ今川学校の兄弟弟子。
だからこそ家康が、直虎の今川を欺き裏で政次と手を組むいという策に思わず驚き、彼女に会ってみたいと思ったのは感慨深い。
今川の血脈の流れを組むのは氏真でしたが、寿桂尼の才能の本質を受け継いでいくのはこの二人。
「血」だけではなくその人の「生き方」や「記憶」が誰かに渡されていく。その積み重ねが「今」の私たちの時代をつくってきたことでしょう。
そんな今川チルドレンの戦いはまだ始まったばかり。寿桂尼がなくなった際に、祈りをささげた彼ら三人は今後、どう交わっていくのでしょか。

 

<直虎の涙を引き出す政次>
徳川との内通について政次と示し合わせたい直虎。
そこにちょうど関口氏の武田への寝返りによって、ガードがゆるくなった井伊谷の館から政次がやってきました。
一通り話し合ったあと直虎は、政次が望むなら主の座を受け渡しても構わないと、提案します。
それに対し政次は、

商人にぜひ領主にと頼まれ、百姓達が体をはって助けようとし、盗賊までもが尼小僧のためならと一肌脱ぐ。
そんな領主はこの日ノ本を探してもどこにもいない。そこから降りる事は許されない、と返答しています。

 

直虎の今までの人生を肯定する言葉に彼女は涙を滲ませてます。
このシーンは胸がしめつけられるようでした。
直親達を亡くしたあの日から涙を見せなかった直虎。前回は、悲しみなどの複雑な感情の負の涙でしたが、今回はうれし涙。
どちらも政次がきっかけで引き出されてる。
涙を流すという事は心が動かされているという事
智謀ある政次にコンプレックスを抱いていた直虎にとってそんな彼が自分を認めてくれてる、これ以上の喜びはありません。

 

政次が直虎を妻にしてたら、後見から引きずりおろしていたら、政次は直虎のこの嬉し泣きの笑顔は見れなかった。
もちろんそういう人生の幸せもあるでしょう。けど、この笑顔を見てしまったらもはや、別の可能性を見出そうと思わないのではと。
直虎の「井伊を守りたい!」という願いをまっとうさせる事に、最後まで寄り添おうとする政次。
彼の献身さは大きな「愛」であり美しく一方通行にも見えますが、そうじゃないと私は思います。
少しへっぽこであっても誰よりも人望がある直虎を日ノ本一の主だと認める事は、彼女に仕え、忠義を見せる小野家もまた日の本一の家臣である事の証明で、これまでの自分の人生の肯定でもあります。
そしてその忠義に答える立派な領主でなり続けようとする直虎と、その彼女を支える事で忠義者でいたい政次の関係は

「われをうまく使え。われもそなたをうまく使う。」
のセリフのように共犯関係かつ補完関係になっています。

相手の人生を認める事が、お互いそのまま自分の人生にフィードバックされてるんです。

あの時の直虎の提案が今まさに実になって結ぼうとしている。

 

なにより、最初は幼馴染で恋慕する「おとわ」を支えるために動いていた彼が、今は彼女が領主として相応しいから仕えているという逆転の構造に美しさを感じる。
これは政次の「失恋」でもあります。フラれたわけでもない彼は確かに今「恋」を失い代わりに直虎との間に最上の信頼を築き上げた。
直親に井伊を捧げられた直虎が、その井伊を託してもよいとまで言われた政次は、その信頼のためになら死んでもいいとさえ感じる幸福を得た事でしょう。

 

<彼と彼女の間にあるやるせなさ>
さて動機が逆転したといえばなつさん。ここでの解釈はほんとうにいろいろあると思うんで、ここからは個人の妄想として受け止めてください。

なつさんは最初、小野と井伊をつなげるという大義から政次のそばにいたと思います。
それは彼女の使命であり、亡き夫である玄番の遺志を継ぐという事もでもありました。
ですが、だんだんとそれは政次への思慕へと変わっていきました。
だけど理性が強く聡明な彼女は、大義を隠れ蓑に恋心を持ち続け、政次のそばにいる事にどこかうしろめたさを感じたのではないでしょうか。
洞察力に優れているぶん彼女は、そんな下心がある自分に気づいてしまい恥じてしまう。逆にそこで悩む時点で彼女がいい人である証だと言えます。
そしてその洞察力は、政次の心の忠心にはいつも直虎がいる事がわかってしまう。たとえ、政次が「それはそれ。これはこれ。」と言おうと、
いつか彼が直虎の方にいってしまうのではないかの恐怖とそれにつきあっていく覚悟を決めなければならない。
だから政次となつのシーンは想いがかなってウルトラハッピーには見えない。そこはかとなくほろ苦い。

 

そして政次ですが、彼が直虎の人生を深く愛すれば愛するほど、大切にしようとすればするほど、そんな自分を支えてくれるなつさんの存在の大きさを無視できなくなってきたのだと思います。
直虎を支えようとした時、いつもそこにはなつさんがいました。
直虎を愛すほどに、なつの事も愛おしさが増す、そこはなんともやるせない人の心の流れがあります。
なつも政次がこれほどに直虎を愛し献身する姿を見なければ、彼を愛することはなかった。
その因果関係すらその人自身なんだと、それを抱きしめて歩いていこうとする彼や彼女にひと時でも幸せな時間がありますように。

 

<余談>
短く済まそうと思ってましたが、やはり長々となってしまいました。
ほんとは近藤さんの「罪と罰」回からの因果の巡りとか、書きたいところなんですが自分も混乱してるんでこの辺で。
ここで書いてある事とまったく逆の事をtwitterで呟いたりして矛盾だらけですが、生暖かく見守っていただけたら幸いです。
特に、政次。君の肩をぶんぶん揺らしながら言いたいことがけっこうあるぞ!

 

医療ドラマから見えてくるもの~シカゴ・メッドとコード・ブラック~

シカゴ・メッド DVD-BOX

医療ドラマの傑作といえばER緊急救命室が有名で、個人的にも大好きな作品でした。
それと同じレベルで「好き」いえる作品にはもう出会えないかな?と思ってましたが
ここで紹介する「シカゴ・メッド」と「コード・ブラック」が面白い。
この二作品を見る事で、気づいたことがあるので感想というより自分用のメモとして残していきたいと思います。


<「死」を通して>
病院が舞台である以上、そこにいる医療関係者はみな「死」というものに対峙します。
それはつまり、「死」を前にして、その人がどういう風に生きたいのか?生きるとは何か?という「生」を同時に問われやすい。
彼らの使命は「命」を救う事。だけど、時として患者は自分の「命」より大切なものがあり、それを優先しようとする。

 

例えば長い闘病生活に疲れ果て、蘇生措置を拒む患者。
新薬による治験の可能性がそこにあったとしても、僅かの希望から絶望に叩き落されるより「死」を選ぶ。
なんとかあきらめないで欲しい医者のウィルと自分の意思で命に見切りをつけたい患者のジェニファー。
ウィルは病気で母親を亡くしており、可能性が少しでもあるなら「命」を投げ出すことをどうしても認める事ができない。
しかしそれは他人の自由な生き方を否定している事になる。例え、それが「死」という選択だとしても。
家族でもない人間がそれを強要するのはある種の傲慢さがあるかもしれない。

 

だけど私はウィルのこと、全否定しづらいです。ジェニファーから見れば自分の意思を邪魔する悪であり、無駄に苦しみを与える存在でした。
ウィルも最後の方は自分の選択が間違っていたと思い始めます。
だけど彼が最後まで命を助けようとした事実は、彼女の死後、葬儀で彼女の夫から

「ジェニファーをあきらめないでくれてありがとう」

のセリフで少しだけ肯定されているような気がします。
看病生活に疲れきってしまっいる夫。どこかで生きていて欲しいという思いがありながら、けど妻はそれを求めていないし、求める事は彼女を苦しめるかもしれない。
そんな自分達でさえあきらめようした命を、救おうとしたウィルは悪魔であり、また同時に天使のような存在でした。

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<カオスの中の決断とヒーロー性>
「シカゴ・メッド」と「コード・ブラック」、どちらも救急医療の名の通り緊急性があり、スピードが求められています。
そのスピードによる緊張感を見せてくれるのが「コード・ブラック」です。
そもそも患者の救急処置室の許容量を超える緊急事態(コード・ブラック)が年間300回も発生するという設定なので
現場はいつもてんやわんやで張り詰めた空気が漂っている場面が多い。
一見すると何が起こっているのかわからなくて見ている方も混乱してきます。
研修医たちはその中でおろおろしながらも、その中で指導医が彼らに教えながら命を救っていく。

 

ただ、そこには明確な命の優先順位がある。余裕がないので全ての人にいつもベストな医療が施せるとは限らない。
だからこそ、ベストでなくともセカンドベストを、そうじゃなくともベターを。
その重い決断がほぼノータイムで求めらる。時間も人材も足りない中で。
しかも、その時の決断がいつも正しいわけじゃない。「命」を取り扱っている以上、間違う事が許されないというのに。

 

それでも彼らも人間なんで間違う時だってあるんです。
だから後悔を抱える時がある。だけど今日の患者を救えなかったとしても、明日の患者を救うべく立ち上がっていく。
その姿は私にとってはヒーローのように見える。
救うからヒーローでいられるわけじゃなくて、失敗しようが救い続けるその在り方自体にヒーロー性が宿ってるような気がする。
自分が救われる立場だとして、それに失敗したとしても、

救おうとしてくれる人がいてくれた事、そのヒーローが少し落ち込んでも、明日の自分と同じような苦境に陥ってる誰かを救うような人がいる事、
その事実そのものに救われていくような気がします。

 

この二作品は間違いなく面白いといえるのでお勧めです。

 

未来という名の希望のため 今、生きている君を殺そう。~おんな城主直虎31話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

「徳政令」を受け入れる事で、国を潰して国を生かす決心していた直虎。
そのプロットを実行しようとした時、思いもよらぬ役者たちがその舞台に躍り出ました。
直虎が窮地に立たされていると知って、徳政令撤回の申し出でる瀬戸・祝田村の百姓達
この時点では、政次と直虎はお互いの意思を確認しあってありません。おそらく相手はこう思っているだろう?という不確かな状況の中で動いていかなくてはなりません。
それしか道はないとはいえ、これからの道は選択によっては死に直結するもの。政治家としては決断を下すのが難しい所です。彼女の肩には井伊の民と未来が、かかっている。
その荷を背負いつつも、どこまで政次を信じていいのかという揺らぎがあったのではないでしょうか?
しかし政次の「信じろ。」という言葉によって、確信はできないが自分と同じ決心があると思った彼女は徳政令を受け入れました。
今回は、直虎・政次の二人の絆が試される時でもありましたし、直虎の覚悟が改めて問われている回でもありました。


<直虎の複雑な感情>
政令を直虎に受け入れさせた事で、関口氏からの信頼を得た政次。
ですが氏真がそれだけで満足するわけがないと読んでいました。もちろん直虎もそこは想定内。そのために虎松を密かに逃がします。
が、政次はさらに上の策を練りだしてきました。
彼は直虎が虎松を逃がしているという事を想定して身代わりの首を用意します。
これにより、虎松・直虎がが死ぬという最悪の事態を防ぐばかりか、偽りの「誠意」を氏真に見せることで今川からの「信」を得る事ができました。
しかしこれは、大きなかけでもありました。
何も知らない直虎が偽の首をみても関口氏を騙せるような演技ができるのかというのは、ふたを開けてみない事にはわからない。
直虎も政次に対して不安があったかと思いますが、彼もまた不安があったのではないでしょうか?
偽の首をみた直虎はそれを抱きしめ、慟哭しながらも読経をあげます。

 

 

ここでの彼女の心の内を測るのは難しい。いろんな感情があったのではないかと視聴者に委ねているところがあります。
国語のテストのように「ここでの登場人物の気持ちを100文字以内に述べよ。」というような問題に、一つの答えなど本来はない。
私としてもこれが一つだとは言い切れない複雑さが直虎の中にあったのでは?と思うのでいくつか挙げていきます。

 

まず、直虎の感情に一番最初に支配したのは、「安堵」。その首が虎松ではなかった事にほっとしました。
ですが次に襲ったきたのは、ほっとした自分に対する「うしろめたさ」。
そして虎松ではなかったとはいえ、井伊谷の民である幼子が犠牲になった事への「憐憫」。
民一人すら殺させぬと誓った自分自身が実行できなかった事に対する「ふがいなさ」。
この状況を読めなかった自分に対する「恥ずかしさ」。
その汚れ仕事を政次にやらせた自分に対する「絶望」。
とそうまでして井伊を生かさんとする彼の忠義を少しでも疑いを向けた自分へのどうしようないほどの「恥ずかしさ。」

上記にあげただけでもけっこうありますが、もっと複雑な感情が彼女の中で渦巻き、それが涙となってあふれたでしょう。
直虎は寿桂尼と対峙した時、「狂うてもおらねば、手を汚す事が愉快な者などいない。汚さざるを得なかった者の闇は、どれほどのものか」と言ってました。
政次はもちろん狂ってなどいない。その彼がそうせざるを得なかったこと、彼の抱えなえればならなかった闇の大きさ、その事の本当の意味を直虎はここで初めて知る事になります。
もしかしたら、直親をきってでも井伊を救おうとした時の彼の痛みや悲しみを、ここで初めて直虎は体験したのではないでしょうか?

 

そしてなんであれ、その姿に関口氏は騙された。
政次も直虎が一人の「民」のために抱きしめる姿に、演技でない為政者としての「慈愛」を感じ取ったと思うのは、私のうがちすぎかもしれませんが。


<「守る」というエゴ>
偽の首を井伊谷に埋めて葬ってやろうとする直虎。そんな彼女に龍雲丸は声をかけます。
「命短い子どもが親に売られ、その子はきっと喜んでいる。」
それが真実かどうかはわかりませんが、戦災孤児であった彼の話は、もしかしたらと思わせる説得力はある。実際、そんな事はあったでしょう。
だけど、それは直虎には届かない。
そして
「子どもを切った政次は後悔していない」
というような事をいっています。
直虎は
「頭に何がわかる!」
と言い返してました。
このセリフには武家である直虎・政次とフリーランスの職能集団である龍雲丸の断絶があります。
井伊という「家」を守ろうとするために、手を汚さざるをえなかった政次の気持が、それを捨てて生きている龍雲丸に何がわかるというのか?
と直虎は思ったかもしれません。
ですが、龍雲丸は
「守りたいから、守ったんだ」
と答えます。
この「守る」というのは、城を守って死んだ彼の父を思えば切実さがるように思います。そしていまや、彼は守るべき仲間達がいる。
それは彼がやりたいからやっている事。
龍雲丸は武家に生きる人々の事はわからないかもしれない。だけど、「守りたいから守る」というそのエゴを彼は知っています。
そのエゴが自分を傷つける事で、自分を愛してくれる人達を傷つけうる。

そうだとしても、それを成さんとする事は誰に強いられるわけでもなく、心の内から湧き上がってくる。
その事を社会的カーストを越えて、感覚的に龍雲丸は政次の事を理解しているのかもしれません。

<繰り返す負の連鎖を断ちきる>
虎松を守り通すことで、政次は自分の中にある一つのトラウマを昇華させています。
彼の父である政直は、友である直親の父親の直満を死に追いやりました。政直がそうやって井伊を守ろうしてたかどうかはさておき、
幼かった政次はそんな父親に対しての絶望と背負わなくてもいい自責の念を持ったのではないかと思います。
ですが今回、おなじような悪役を井伊で演じてはいても父親とはまったく違う結果を導きだした。
虎松を守るという事はつまり、あの日の何もできなかった子どもだった自分を救う事も同じ。
もしもタイムマシンがあるなら、政次はその日の自分に
「大丈夫。君は将来、直親の息子を守ることができるし、自分の息子のような甥っ子に同じ気持ちを味あわせない。」
とでも声をかけるのではないでしょうか。
亥之助に「負」の遺産を残さずにすむ事、むしろその因果が逆転し「正」になった事は、彼の一つの大きな仕事であり、確かにそれをやり遂げたました。

 


そして、政次が抱えるトラウマからくる人生の課題がまだ残されています。
平和であればそれを抱えながら生きていく事もできましたが、どうもそうはいかないようです。
それがどういう形に収束するのでしょうか?
その日が来るのが怖く、でも確かに見届ける覚悟をもっていきたいと思います。