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物語同士のつながりが好き

天才(もしくは凡人)がもたらす栄光と影~ソーシャル・ネットワーク~

ソーシャル・ネットワーク [Blu-ray]

あのフェイスブックを作った奇才、マークの話。
が、このマークがかなりくせのあるキャラ。思考回路は超論理的だが感情面が幼児的。彼女とのデートシーンにこの二面性が顕著に顕れている。会話は完全にディベート
もちろんマークはふられ、おもしろいことに彼女への腹いせでやったある事がのちのフェイスブック誕生の第一歩となる。

 

コミュニケーションが重要な人間関係において致命的。にもかかわらず、そんな彼が人々をコネクトするインフラの創始者というのが面白い。

その後、友人エドゥアルドと成功の道を走っていき、もう一人の天才ショーンと出会いさらにSNSの頂上へと駆け上がって行く。 

 

だがここで単なる成長物語では終わらない。栄光と引き換えに、人々の社会的な結びつきという名のインフラを作った彼が、彼自身の個人的な絆を失って行く。 

その過程がほんと秀逸。人生のワンステージが上がった側のマークとおいていかれた友人。そして彼を引き上げたシェーンの関係性は、あぁどこにでもあるなぁ、と感じられた。
マークにとってショーンは見たこともない景色を一緒に見れる人なので、その手を掴まずにはいられない。
そしてそこに「未来」をみてしまったら、「現在」の関係性を自覚的にしろ無自覚にしろ置いていく事になる。

 

 

別世界にいる奇才かつ、超成功者の話に感情移入しながら鑑賞できたのがすごいよかった。 
あんなほぼ論理だけで世界を認識している(普通の人はもっと感情面があるような?)マークの孤独を浮かび上がらせ、シンパシーを感じさせるのもよかったです。

それにも才能を短期間で時価250憶までに生み出すアメリカのビジネスの土壌に圧倒されました。
といってもアメリカだけじゃないですね。ネットの海はあらゆる可能性があって。開拓という意味では人類にとって残るフロンティアは宇宙とネットワークかもしれない。

そしてこの映画の雰囲気がなんか好きです。画面やストーリー自体はたんたんとしてるけど、飽きさせないなぁ。
見終わった後、じわじわきます。

 

<同じ目的を持つ者達の関係性>

実は、この感想はだいぶ前に自分のメモとして書きためていたものです。
なんで掘り返したかのかというと最近、クリントイースト・ウッド監督の「ジャージー・ボーイズ」を見たからなんです。
両作品とも成功していく過程で得る物と失う物が描かれている。
組織はアイディアマン、才能の発信者、その才能についていこうとする者、資金をかき集める者、さまざまな人がそこにはいて科学反応を起こしながら、何かを世の中に送り出していく。
その中でも「生み出す人」と「場や資金を提供する人」の関係性のバランスをとるのが難しいんですよね。この二つは本来なら補完関係になりうる。だけど性格の相性が才能の相性とぴったり合うわけじゃない。そして、どちらか一方の力関係が大きくなりすぎたりすると、一気に崩れてしまう諸刃の刃。

才能だけがその人のすべてじゃないように、プライベートな部分だけがその人の本当の姿というわけじゃない。

だけどその二つが綺麗に重なった時はきっと何物にも変えられない幸福がある。

 

 なんだか、ソーシャル・ネットワークの感想から離れていきました。ジャージー・ボーイズとも少しずれますが。

最近、志が同じで才能の違う者同士の幸福な関係性はなんだろう?と考えてるからなんですよ。主に直虎(と政次)を見てるからなんでしょうけど。ちょっとこの辺は色んな物語のストックをためていきたいと思います。

 

そうせざるをえない者達~おんな城主直虎30話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]


とうとう武田との全面戦争が回避されなくなってきました。今川家はそのための準備にとりかかることに。
直虎は徳川との密約を水面下で結びつつ、氏真に命じられるまま戦備えをします。
その氏真に呼び出された方久は、気賀に蔵を建てる事と認める代わりに井伊家の取り潰しに手を貸すように言われます。
政令を出すことによって。
今回からつらい展開が続くようです。誰もが必死がゆえになりふりかまわなくなってくる。
直虎は卑しさを出さずとも生きていける世を経済によって成そうとこれまでしてきましたが、マクロの情勢がそれを許さない。
その夢みたいな理想郷に至るためにはこれから多くの犠牲が伴う。未来のそれのために、今、目の前にいる誰かが傷ついていかなければならない。
そのための序章が始まりました。

 

 

<裏切っても十字架を背負わない>
さて、方久は今川が井伊家を取り潰すための片棒を担がされました。
なぜかといえば今川は、武田と戦うにあたって後方にある井伊を安全地帯にしておきたいからです。
三河と隣接しているので今川防衛ラインの要の地。ここをとられたらうかうか戦もしてられません。
だからこそ井伊を自分の直轄地にしておきたい。
そして井伊の方も沈みゆく今川という船から脱出しようとしています。
今川も井伊を切らざるを得ない、

井伊も今川を裏切らざるをえない。

そこに悪意はなく、ただただ生き残りたいという切実な思いから来ています。

 

そして、この「せざるをえない」男が方久だといえます。
コミカルな動きに見えますが、そのなかには彼の井伊への裏切りのうしろめたさや葛藤があります。
方久がここではねつけたとしても、武力で今川にかなうはずのない現状を知っています。
徳政によって潰されるか?それとも武によって潰されるか?この二つを天秤にかけたとき、現実主義の彼は前者をとる。
直親を切らざるをえなかった政次と同じ道をたどったといえる方久。裏切者にみえますがそんな彼はいまだにおとわの櫛をもっている。
その櫛は彼にとって、どん底の人生から再起の象徴といえます。
そこから這い上がってきた彼は、これまで井伊を再生させようとしてきた直虎の生命力を信じているのかもしれません。

 

我ながらひいき目でみてるなぁ、とも思いますが私は裏切ってもあとから借りを返せばいいでしょ?と思ってそうな方久が好きなんですよね。
彼は、以前にも直虎に「瀬戸村から利益を出せるようになれば、あいつら手のひら返しをしますよ。」というような事をいっています。
だから命さえあれば逆転できるし、それ以外は些細な事だと思っているのかもしれません。
彼にとって今回の「裏切り」は取り返しがつかないことではないゆえに、罪悪感を抱いたとしても押しつぶされずに十字架を背負わずにいられる。
彼の生命力がこの戦時をくぐりぬけてくれることを切に願います。

 

 

<「嫌われ者」というカードをきる事で>
方久が損得勘定があり相手と自分のWIN-WIN関係を築くタイプなら、対照的に「滅私奉公」で動くのが政次。
これまで井伊家の裏切り者かつ、親・今川派のふりをして動いてきました。
ですが寿佳尼の裏切者をあぶり出す面接から直虎がすんなり帰っきたこと、目付の自分が知らされてない情報が増えてきた事でとうとう今川に自分の正体がを見破られていたことに気づきます。
それを知ったうえで、二重スパイのような立ち位置の彼は今回、動きを見せました。
龍雲丸を使って方久をおびきだし、揺さぶりをかけ今川の目的を早々に見抜きます。
そして関口氏が徳政令の発布を命じにきたあとで、直虎達に嫌味っぽく言うことで、これが寿佳尼が仕掛けた罠である事を知らせます。
ただでさえ今川からの信用がなく関口氏の目がある以上、直虎との密会はできない。
だけどこれまで思考回路を共に合わせてきた彼らは、相手の考えを読み取ろりすりあわせようとします。
とりあえず徳世令を受け入れ、徳川に戦っていくと見せかけて関口氏の首を差し出す。
けど、ここで緊急事態が発生。百姓達が徳政令撤回を関口氏に申し出ます。
その場にいた直虎に政次は刃を向けますが、おそらくこの状況を逆手に政次は取る事でしょう。
直之でなく、六左衛門でもなく、方久でもなく、彼だからできる事。「嫌われ者」というカードをきることで、井伊家の再生の道筋をみつけようとする忠義者。
いまはただ、そんな彼の行く末を見守っていくしかありません。

 

 

<善意から生れる最悪な結果>
百姓達の徳政令撤回の申し出には、これまでの直虎と彼らのの歩みがフラッシュバックして泣かされましたが、この動きを読めなかった直虎と政次は戦術を変えざるをえなくなります。
圧倒的に彼らが善意からそれをやってることがわかるから切なくて。それだけの人望が直虎にある事が、彼女が上に立つことができるなによりの長所だから余計にやるせない。
善意からそれが始まっても、結果は最悪なことも起こりうる。たとえ百姓達の自主的な動きだったとしてもおこった「結果」によって引き起こされる責任は為政者にある。
よかれと思ってやったことが最悪な結果を導いてしまった場合、どこでそれが間違ったのか?を考えていかないといけない。
まさに、マキャベリがいうように

「天国に行く最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知することである。」

直虎がこれからそれを身をもって知ることになると思うとつらい。そこから再起するだけの生命力を彼女がもっていると信じてるとしても。
ほんと最近の回は、つらくて思考停止状態で自分でも何を書いてるかわからなくなっているというかポエミーになってますが、がんばって視聴していこうと思います。

 

 

 

 

届かなかった夢を持った者達に祝福を~少年ハリウッド~

小説 少年ハリウッド 完全版 (小学館文庫)

このブログで少年ハリウッドについて触れるのも今回で三度目。
アニメの放送が2015年で終わっていますが、最終回の完全版を作るプロジェクトが進行中だったりと、ファンも彼らも出会ったあの日から生き続けてます。
そりゃあ、日々の生活で「少年ハリウッド」のことばかり考えているわけじゃない人が多いとは思う。
だけどふとしたときに、彼らの事を思い出したり、アニメを見直して明日の元気をもらったり、他のアイドルを見る時には、確実に少年ハリウッドの影響を受けずに見てないとはもう言えない自分がいる。
もはや、無意識レベルで彼らの事を考えずして人生や世界を眺めていることがあって、あとになって「あぁ。自分のこの考え方は、確実に少年ハリウッドの影響を受けてるんだな。」と思う事もしばしばあります。
「いつも」思ってなからこそ、「いつでも」彼らが自分の中にいる事がたまらなく嬉しい。
そんな「物語」に出会えた事に感謝しつつ、定期的に彼らからもらった「気持ち」をここに残していこうと思います。
といっても今回はアニメの方ではなく初代が書かれている「小説 少年ハリウッド」についてちょっとだけ思ったことを書いていきます。
なのでこの小説のネタバレをがんがんしていくのでご注意を。

 少年ハリウッド」はアイドルのお話なので「夢を叶える。」という事の煌めきがちりばめられているんですが、それにも関わらず根底に「夢が叶わなかった。」というものがある気がします。
そもそもアニメの「少年ハリウッド」が二代目のお話なんですよね。そこにはもちろん初代少年ハリウッドがいて、彼らのアイドルという夢は確かに叶ってはいるんです。
だけど「永遠にアイドルであり続ける。」という夢には破れたんです。
だからこその二代目。初代ができなかったことに挑戦するという意味で、この物語は「バトンを受け取り、バトンを渡す継承というものについて語られていると思います。
この「継承」という切り口を個別で見ていくときりがなくなるので、またの機会に書いていこうと思います。

 

<夢をもつ者の剛と持たざる者の柔>

さてタイトルにもある「届かなかった夢を持った者」とは誰なのか?というとずばり「正人」です。
彼は桜木広司(アイドル名・柊剛人)の友人かつシェアメイト。昔はカメラマンを目指していたようですが、三十前半の今では、会社員として勤めています。
広司が十代と間違えられてスカウトされアイドルという世界に足を踏み出す一方で、正人は「こちら側」に引き留めようとします。
正人は叶えられなかった夢をもつどこにでもいる普通の人です。仕事終わりのビールに幸せを感じるような。すごく「現実」を正しく生きている。彼の名前の通りに。
そんな自分と同じだと思っていた友人の広司はその「正しさ」をある日投げ出してしまう。
自分達は柔軟に現実に対応していたと思っていたのに、友人だけ夢の世界へとびこんでいけるだけのダイヤモンドのような堅く強い何かを手にいれてしまった。
ここの正人の気持ちを考えるとすごくつらい。彼は広司を見ると、まるで夢をあきらめた自分の人生を否定されているように感じたのではないでしょうか?
正人は嫉妬してた、といってますが、なんというかその一言のなかにはいろいろな感情があるような気がして。
けど、ここで自分の感情に素直に認める事ができる正人はかっこいい。そして夢に届かなかったからこそ、広司にあるプレゼントを送ることができる彼は超がつくほどかっこいい大人なんです。

そしてどちらの生き方も正しい。そこに人生への「剛」と「柔」があるだけで。

どちらもあるから世界は成り立っている。
書かれてなくともダイヤモンド(金剛石)の原石のような剛人は、ファンという名の太陽の光が届いてこそ輝きを放ったでしょう。

そして柊剛人のアイドルであり続けたいという夢は砕けてしまい、普通の広司に戻ったとしても、そのかけらは次世代へと受け継がれていきます。二代目の「少年ハリウッド」として。

子に武器を増やし、戦う姿を見せていく母~おんな城主直虎29話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

不穏なマクロの影がだんだんと井伊谷に忍び寄ってくる中、信玄公の「巨悪」っぷりに対抗するため、

直虎は家康に上杉との同盟を提案して、なんとか今川攻めを食い止めようと画策します。
そのころ、寿桂尼が机上に伏しながら世を去りました。
今川家はもちろんのこと、恩だけでなく「負」の感情をもつ直虎や、瀬名、家康までもが手を合わせる姿が心に残りました。
たとえ味方でなくとも、賛辞と敬意を送らずにはいられない寿佳尼という人間の生き方がそこにあらわれているようでした。


<「個」を守るゆえに「役割」を果たす>
さて、今回はなんといっても「しのさん」でしょう。
彼女は井伊と徳川の同盟の証のため、松下家へ嫁がなくてはなりませんでした。
直虎に嫌味をいいつつもそのことを了承しますが、虎松に自分がわざと「いきたくない。」と言いました。
虎松に「人質」をだすことの意味を考えさせるためです。彼が試行錯誤した後で、「やはり行きたい。」と告げます。
ここのシーンは書きながら涙が出てきてしまいます。
本当に愛するものを守ろうとするとき、その人を取り巻く外部環境を守っていかないといけないことを彼女はちゃんとわかっています。
ここでいいなと思うのは「家」のためならば自分も虎松も我慢しろと、しのさんが言わない事です。
「個」としての「母親」であろうとしたとき、社会的な「役割」をまっとうしなければならない。
虎松に自分の母親は「家」のための悲劇の犠牲者として嫁いでいくのではなく、夫の志を継ぎ、愛する我が子のために行動できる人間なんだと見せてます。
その姿やこの事に虎松が学ぶことがどれほど多い事か。

 

そして「母上は虎松が一番大事なはずだ!」という言葉は、虎松が生きているというだけで自分は愛されているという健康な自尊心を持っている事を示しています。
しのさんがどれだけ息子を慈しんできたか、この一言だけで伝わってきます。
この事はのちのち彼の人生において精神的主柱となっていくと思います。
人は誰もが、等身大の自分と社会的役割の自分を持っています。
時代的にも将来的に未来の領主である虎松はこの「役割」としての部分が大きくなっていくでしょう。時としてそれは重圧になります。
だからこそ「役割」ではなく、ただのひとりの息子である虎松が大事にされていた事実が彼を支えていく事になると思います。
直虎も両親や井伊谷の人々に深く愛されたという自覚があるからこそ、井伊のために飛び込んでいけるように。
その直虎が子供だからと容赦せず真摯に虎松に向き合い、手段を共に考え、それでも変えれぬ現実があると教えていたのは本当に感慨深い。

<しのさんの成長はどこから?>
とはいえ、彼女の成長は身を見張るものがあります。あれだけ感情的に動いてた彼女がどうした!?と感じる人がいるかもしれませんがもともと彼女には素養があったと思います。
第十回「走れ竜宮小僧」で父親が不慮の事故で亡くなった時も、泣きながら動揺していましたが「悪いのはきっと父親だ。」とちゃんと理解しています。
彼女はおこった現実を曲げずに受け止めることができる人です。
ただ「情」のエネルギーが人一倍強く、行き場がないとどうしても理性的に動けない事がある。だから直虎と感情の共有が出来た後、彼女が見えないところで成長した事は不思議な事ではありません。
それからの日々を「お方様」として過ごす中で、自分の立ち位置や果たすべき役割、トップである直虎が抱えるもの、それを通して虎松が背負っていかなければならないものが、しのさんの中で見えてきたとは想像にかたくないです。

 

 

そして個人的な推測ですが、このしのさんの素養はどうも奥山家の人々は井伊の中でも二歩ぐらい下がって現実を把握し、人々を「つなぐ」能力があるという面からからきてるように思われます。
なつは、小野家と井伊を。言うまでもなく六左衛門は各方面で。だからこそマネジメント能力がとわれる「お方様」の役職をしのがこなしていても違和感なく納得してしまいました。
いや、兄弟ができるからといってみな出来るとは言い切れませんが。ただもとからあった奥山由来の素養が花開いたと考えたら筋が通るかな?と推測してみました。
まぁ、そのそも彼らの父親である奥山朝利は血気盛んな井伊家のなかでは、意外としたたかななとこがありました。直親であれ政次であれ自分の孫が家督をつげればよしとするところなんかは。
逆に言えば、それだけ周りを見て判断できる能力があるという事です。感情さえ安定すればその能力が出やすいということかもしれません。なつは玄番が、六左衛門は直虎との出会いによって。
今回、しのは徳川と井伊を「つなぐ」という大きな役割を果たします。いろんなものを繋いできた奥山家の能力が生かせる最大の大仕事を、彼女なら立派にこなしてくれると信じていきたいです。

<武田という天災>
前回、武田包囲網をつくればどうにか戦を回避できるんじゃ、みたいなシーンが井伊谷・秘密の対談(直虎・政次・南渓)で行われていました。
なんだ、その悪のラスボスみたいな扱いは?と思っていましたが、今回ほんとにそのラスボスの片鱗をみせてくれてました。
徳川には自分達と組むことで大井川より西の今川の領地を約束し、寿桂尼なき今川には、遠江そのものをよこせと恐喝。
この二枚舌外交っぷりに白目をむきながら、きわめつけはその「遠江をよこせ」という無理難題も戦争を始めるための口実なことです。
朝比奈が調略された家臣の首をもってくることさえ、そのための布石に思えてきます。
こんな悪狸に対抗していかないといけない今川・井伊・徳川はかなりのハードモード。
共に戦を避けたいという方向性は同じなのに、今川は「デスノート」を井伊に使っていかないといけないし、酒井に押されている家康をみるにどうやら内部での政治力は強くない。
ゆえに、瀬名や家康が内心どう思おうと井伊の不戦の約束も危うさがある。
直虎の「不戦」という戦い方はなかなか難しいものがありますが、そこに住む人々の顔一人ひとりが浮かぶ分、切実で。

 

ともあれ、武田の行動がのちのちの井伊の運命を翻弄しくうえで、「悪」の役目を話の中で背負っていますが、これまでの森下さんの脚本をみるに、彼の違う一面もありそうなんすよね。
「生きる事」は「食べる事」といわんばかりに焼魚を食べつつ、自らの調略っぷりに、にやりと笑う信玄公を見ているとなんとなくそう思いました。

 

 

正義や権力を求めた男に最後に残ったものとは? ~J・エドガー~

J・エドガー [Blu-ray]

アメリカの物語に触れていれていようが、いなかろうが誰もが聞いたことがあるFBI連邦捜査局)。
その初代長官にて、長い間その地位に50年近く君臨し続けた続けたJ・エドガー
彼の捜査網によって得られた情報は、大統領さえも脅かすもので、彼らさえもエドガーを恐れていたといわれています。
これはアメリカの権力を握りという一面がありつつも、犯罪捜査を前進させた一人の男の光と闇にスポットライトをあてた作品です。


<科学とデータに信頼をよせて>
J・エドガー氏の事はこの映画を見るまで知らなかったのですが、見ている間、にやっとしたことが幾度もありました。
というのも私はアメリカドラマ(警察もの)をけっこう見ているほうだと思うのですが、彼の導入した「科学調査」「資料のデータ化」「指紋のファイリング」
の基礎がここで描かれているんですよね。
大ファンの「CSI:科学捜査班」をみるとひたすら「科学すごい。科学、強い。」と思わされるます。
こんなに早く検査結果がでるわけないだろ!とつっこみたいとこもありますがそのエンタメの嘘を含めても、科学への絶対的信頼が物語をおおってるように思います。
大体、この手の「事件を解決する」物語は私は4つに分類していています。

コンビで事件を追う「バディ型」
組織内政治力の中でつらぬく正義を問う「組織型」
社会の抱える闇を問う「社会派型」
クラシカルな推理に重きをおく「探偵型」

もちろんいろんなこれらの要素が絡み合って作品ができていると思はうんですけど、このドラマはそれらとは別に「科学とデータベース」に重きに置いてる印象があります。
まぁ、あくまで重要度が高いというだけで、上記の4つももちろん絡んではきます。
だけどCSIシリーズを見てると、なにかしら「データベース」にアクセスをするシーンがよくでてくるというか、指紋だけじゃなく車のタイヤ痕や虫・草花のデータとか、
なんでそんなのがあるの?というものまで出てくるんですよね。
物語上の嘘ももちろんあるとは思いますがこの「科学とデータベース」への信頼っぷりがの始まりが、「J・エドガー」の物語と繋がってちょっと感動してしまいました。

 

 

この「データベース」をつくるという発想自体がエドガーの国会図書館のカード検索から始まっています。

その彼の分類能力?というか仕訳能力を組織レベルまで浸透させた結果、捜査能力を飛躍的に発展させてるんですよね。
もちろん「科学調査」だけに力をいれたわけではありません。
彼は当時の捜査体制にもメスをいれています。
その地方の自治警察が対応していた事件を、州をまたいで操作できる権限を捜査員にもたせる事で、犯人を捕まえやすくし、事件解決をスムーズに導くことに成功しています。
アメリカの歴史に明るくないので、なんともいえないのですが合衆国というだけあってこの国は州ごとが一つの国として独立している。徳川幕府みたいな?
その分権的であった捜査を、一か所に情報をまとめたことは画期的だったのではないでしょうか?


エドガーの内面に寄り添う者達>
FBI長官という権力を手に入れたエドガーですが、彼の内面は複雑で繊細、そして矛盾に満ちています。
支配的な母親に育てられ、彼女の理想の息子であろうとして「ほんとうの自分」をさらけ出せない。

その臆病さの裏返しのごとく、人より優位に立つためなのか情報や権力への執着が凄まじく、常に疑心暗鬼です。
社会の顔はこれだけ強権的なのに、彼自身は女装の趣味があるような一面があり、同性愛者の副官がいつもそばにいます。

 

二面性を抱えるエドガーですが、彼に恋をしている副官のトルソンと一度は告白してフラれた秘書のギャンディとは、強い絆で結ばれています。
この二人への信頼と敬愛にあふれていてびっくりしまう。典型的な身内に優しく、他人にきびしいタイプ。
トルソンとの関係は、ぼやかしてかいてるというか視聴者の想像に委ねていますが、二人は恋人同士だったのでは?と思わせる描写があります。
私の中では、トルソンの片想いのままの感じがしますが。けどそうであろうがなかろうが二人はエドガーの人生の共犯者といっていいと思います。
それくらい深く自分と相手の人生をシェアできるならそれを「愛」という他ない。
これまた秘書のギャンディが良くって、エドガーとは付き合えないし結婚にそもそも興味がないといったけど、ずっと彼の傍で仕事をして絶対に裏切らない。
三人ともずっと独身であり続けました。
例え周りが敵だらけでも、これだけの絆があれば彼の人生は幸せに満ちている。権力者の臨終にしては少し寂しさが残るものだとしても。

 

それにしても、エドガー役のディカプリオさんは、すごかったです。青年期から老年期までを役の中で見事に駆け抜けて演じてました。矛盾を抱えた非常に難しい人格を矛盾させずに一つにまとめていて感嘆させられました。

黄昏せまる宗主国。その主として。~おんな城主直虎28話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

前回までは基本的に井伊家の内政にじっくり取り組んできたお話に、フォーカスが置かれていました。
これまでも極めてミクロなテーマの中から戦国というマクロがちらちら見えてましたが、今川家の目線を通すことで魑魅魍魎がうごめくマクロの厳しさを突きつけてくるものであったと思います。
そしてミクロな努力やそこに生きる人々の積み重ねがこれまであったからこそ、マクロの為政者が判断を下す事の重みがあらわれていたのが今回であったと思います。
まぁ、なんといっても寿佳尼と直虎のやりとりに心奪われたのですが、まずは氏真の成長について触れていきたいと思います。

<共にあればこそ>
自信や能力がないまま、当主といっても自分をお飾りのように感じている氏真。彼と寿桂尼の能力差がこれでもかと描写されていました。

 

武田義信の自害が伝えられたとき、氏真は感情のままに怒りを爆発させましたが、寿佳尼はノータイムで解事実的な対応として、氏真の妹の鈴の返還を求めました。
しかも交渉人として自分が赴きます。さすがの武田信玄も相手が寿桂尼だと追い返せるわけもなく受け入れざるをえません。
信玄は理屈を並べて鈴を返さないようにし、寿佳尼もいったんは引くという姿勢を見せます。
が、ここまでが彼女の「下ごしらえ」。北条を交渉のテーブルに引きずり出すことが彼女の目的です。
といってもあの武田がただでそんな事に応じるわけがなく「誓詞」という契約書を要求してきました。
しかしこれで鈴は無事に返還される運びとなりました。

 

そんな武田に怒り爆発の氏真ですが今の、今川家にそれに対抗できる力はありません。
その現実がいまいち直視できない彼は、仲立ちをした北条の使者である幻庵と寿桂尼という二人の老獪の会話に参加することができません。
ここでのポイントは彼がその事実を理解してないという事ではなく、「直視」できてない事です。
むしろ理解はしてる。だけど「直視する」ということは、その事実に対して何もできない自分を見なければならず、認めなければばならないという事を意味しています。
肩書は「当主」であっても心はいまだ彼は幼名である「龍王」。そんな自分を認める事を拒絶するほどに、彼の中に「幼さ」が残っている。
だから寿桂尼が彼を諫めるためにその名を呼ぶと過剰に反応してしまう。

 

が、そんな彼をずっと見てくれてる存在である正室の春が彼にはいました。
苦しい中をできないならできないなりに、彼のやってきたことを彼女は見てきたことでしょう。
ちゃんとみてくれる人がいた彼は「今の自分ができる事」として、病に臥せっている寿桂尼に、今川のかつての調べを届けようとしました。
それで目覚めた寿桂尼に、氏真は「龍王」として教えを乞います
ここのシーンはめちゃくちゃ良くて泣いてしまいます。彼はここで戦国大名として、だめな自分を認める事になります。出来ない自分を受け入れる事はすごく難しい。
前回、彼について「父親殺し(精神的な意味で)」が必要で、そのテーマを解決しないといけないと書きましたが、多分それを「解決」することは重要じゃないと気付きました。
そうではなく、寿桂尼のいうように「共にあること」。共に戦っていく同志の存在に自分が自覚すれば、どんなに能力差がそこにあろうが人は立ち上がっていけるんだと、氏真の存在は教えてくれています。
氏真は今確かに、「龍王」から当主「氏真」になろうとしてます。自分の経験値や器がどれほど足りないか自覚しながら。それでもなお。


<寿佳尼・最後の努力>
寿桂尼は、直虎の事を自分と似た女子であると評しましたが、では彼女は直虎が一体どんな女性だと思っていたのか?を推測していきたいと思います。
綿布を貢ぎ物として持ち込んだ直虎に寿桂尼

「年端もいかぬ小さな女子が、お家のためにひたすら鞠をけっておった姿は、いまだ忘れられぬ。瀬名の命乞いに乗り込んできたとき、徳政を覆しにきたとき、そなたがわが娘であればと、ずっとおもっておりました。」

と言っています。

あくまで私の推論ですが寿佳尼は直虎をこう分析していると思います。


①「蹴鞠」→直虎が「家」という「公」のために自分を捧げれられる心意気が幼いながらにもすでに備わっている。
②「瀬名」→①があるにも関わらず「個」のために、走り出すことができる「情」がある。
③「徳政」→胆力と機転、合理的判断が下せる。
④「綿布」→徳政を覆すときに約束した「井伊を潤す事」の実行力とそれを成すだけの意思の強さを持つ。

 

まとめていってしまえば、「家」のために時として冷酷な合理的判断がくだせるが、個人としての「情」を持つことができる。といったところでしょうか。
なかでも③が寿桂尼が直虎を排除しなければならないと判断したポイントかと思われます。

15話の「徳政令」回で、直虎の「合理的判断能力」を直虎に備わっていると、寿桂尼が見抜いていると推測したとところがあるので振り返ってみます。

 

ここのポイントは「なぜ寿佳尼は直虎を後見として認めたか?」です。 直虎自身で今川にたどりつく胆力を見せ、対等に渡りあったというのももちろんありますが宗主国のトップである寿佳尼の判断は以下の二点。

①民意が直虎側にあること。

②「民を潤す」という目的のために合理的判断ができる能力が直虎にはあると確信したため。

 

まず、①について。 百姓達ってどうしてもいやだと思うと「逃散」してしまう力の持ち主達なんですよね。 だから、ここで無理に今川領にしてしまっても逃げ出してしまって意味がないんです。吸収合併したはいいものの、社員がストをおこしては元も子もありません。

 

②について。 井伊はこれまでは「今川憎し」といいう動機で動いているところがありました。聡明な寿佳尼がそれに気付いてないとは思えません。 この従属国の宗主国に対するルサンチマンは根深いものです。 決して馬鹿にされるべきものではないと私は考えています。

だけど現時点での今川家に逆らうのは上策ではありません。 ただ、民意を背負った直虎は「民を潤す」という目的のための動き、それがひいては井伊や今川の「利」となるといっています。 これは民意に支持基盤がある直虎がいうからこその説得力があり、 支持者の声を一政治家である直虎は無視する事はできません。 これがもし「家」のためという個人的感傷だけなら信頼ができないんですよ。 家族を失うという悲しみや相手への憎しみを知っているからこそ(寿佳尼は息子・義元を戦場で亡くしていますよね) 簡単には直虎のいう事は信用できません。だっていままでどれだけ井伊の人が今川家によって葬られてきましたか?そこに寿佳尼は悪意はなくても自覚的でしょう。

今回の政治ゲームでは直虎は「情」という駒を動かさず合理的な「利」で盤上を制しました。

だからこそ「民のため」という目的が直虎にあるがゆえに、井伊を治めるぶんだけなら問題はない。(つまりそれを最優先に掲げるかぎり今川を裏切らない) と政治的判断を寿佳尼は下した。 と私は考えています。(政治も歴史も明るくないのであくまで個人的推測ですが)

政次さんの対直虎成績0勝1敗 果たして勝利の女神は今回どちらに微笑むのか?外交編~おんな城主直虎15話~ - シェヘラザードの本棚

 

 

上記から、寿佳尼は直虎が合理的判断ができる事に気づいていると思われます。
だからこそ直虎を後見として認めました。だけどそれが寿桂尼にとって「利」となるのは、パックス・イマガーワ(今川家傘下の平和)が盤石な事が条件です。
それが揺らいでしまうと「民のため・井伊のため」という目的のためならば、その合理的判断で今川を裏切ってしまう。
今川に恨みがあるから独立したいという井伊の前世代の感情的な思いからではありません。
今川の屋台骨が危ないから、だからそこからぬけだしていこうとする現実的な判断を直虎が下すと寿佳尼は確信します。
直親の事をここで指摘しても、けしてゆるがない彼女だからこそ。
政令の時に後見としての才ありとして認めた直虎を、マクロの事情が変わるだけで消してしまわなければならなかった。
環境が変わることで、評価が同じでも対応は一遍してしまいます。
これはある意味、氏真も同じ事がいえます。彼の芸事に対する才能も徳川の治世がくるまで輝くことはない。
人は光の当て方でこうも人生が変わってしまう。
寿桂尼はこうして「死の帳面」に直虎をリストに加えましたが、こうしてみると直虎の「本質」を一番に理解して共感してたのは彼女だと思います。
直虎の両親や、政次、直親でもありません。誰よりも直虎のそれに気づき、もう一人の「自分」を見てるかのようだったと思います。
直虎もある意味、政治の先輩でもある寿佳尼に対して共感したり、そのすごさに敬意の念を感じずにはいられなかったでしょう。
たとえ敵として袂を分かつとしても。

<成長した直虎>
さて私は19話で

個人の尊さをしっている普通の人(直虎)が、リーダーとして大きな正しさを選ぶ瞬間が見てみたい。

 と書いてましたが、今回であぁ、彼女はもうそれができるようになってきてるんだなぁとしみじみ感じてしまいました。
そのリーダーとしての「決断」はこれからも直虎に何度もせまってくると思います。

<余談>

なんか、また長くなっちゃいましたね。ほんとは、寿桂尼さま、宗主国として粛清はいいですけど、敵国がせまる今、まとまらないといけないのに属国のモチベーションどうやって上げるんだ?
そんな余裕すら今川には与えられてないって事かな?けど、力が衰えてる時に恐怖政治は、まずくない?寝返りエスカレートしない?
とかあれこれ考えててだらだら書きたいけど、ちょっと力つきました。

 

不完全な世界の不完全な人々~愛すべき娘たち~

愛すべき娘たち (ジェッツコミックス)

よしながふみさんの織り成す女性たちの5つの短編集。
久々に読み直すと、やっぱり傑作。
きのう何食べた?」みたいな日常ものも、「大奥」のような歴史のifストーリーも、どちらも深い人間への理解と眼差しが感じられます。
上手くいえないけどバランスがすごくいい。ミクロの人間関係にフォーカスしたものを書くと、彼らだけのある種の「閉じた世界」が発生するけど、それをやさしく突き放すような俯瞰した目線が作品にある。
この「やさしく」ってとこがポイントで、この世界とそこに生きる人々の不完全さに、諦観があるにも関わらず、それを抱きしめて歩いていくような感じがして。

 

 

 

大奥 1 (ジェッツコミックス)

大奥 1 (ジェッツコミックス)

 

 

<「傷」があるゆえに、あるからこそ>

さて、この本の第1話に出てくる主人公の雪子は母親の麻里と二人暮らし。30才を迎えるんだけど突然、麻里が再婚する。その相手は雪子の3つ年下での元ホストの健。

ここで出てくる麻里さんは一見すると、自由気ままで娘の事よりも自分を優先する母親として書かれるんだけど第5話で、それがひっくり返るというか、なぜ彼女が娘にそう接していたのか?
というのがわかる構成になっています。
そこで雪子の祖母、つまり麻里の母親の話までさかのぼることになる。この麻里の母親は「あなたのためを思って」の言葉のもと、娘の容姿をけなしてきた。
だから、麻里は自分が親になったときは、反面教師として自分の娘の容姿に無神経な事は言わないし、自分の人生を「あなたのために」という言葉で押し付けない生き方をしてきました。
それが、第1話のそんな麻里に振り回される雪子へと繋がっています。
だけど、じゃぁ、麻里の母親が悪いのか?というと彼女に彼女なりの理由があって、それをやってる。
その事を麻里は頭ではちゃんと理解しています。だけど感情面がどうしてもついていかない。
それについて夫の健はこう言ってます。

「分かってるのと 許せるのと 愛せるのとは みんな違うよ。」

 

こうことを言えて実行している健は人間がすごくできている。
親を許せなくて拳を振り上げた。だけど理解しているからこそ、どこにそれを振り下ろしていいかわからないまま、人生を歩いてきたからこそ出会えた人達がいる。
そのままならなさや、やるせなさ。その拳が開く日が死ぬまでないとしても、その手を包んでくれる人と人生が共にある喜び。
麻里が容姿のコンプレックスから「わたしは美しくないわ。」と言ったから、健は彼女に興味を抱きました。
だからといって受けた「傷」が治るわけじゃない。だけどそれによって健と出会えた。そこに人生の残酷さと美しさがある。
別に誰かと出会わなきゃ、「傷」が意味のないわけではなく、その痛みを知ってからこそ娘の雪子に対して優しくなれるところがあって、それは確かに雪子を救ってるんですよね。

 

 

<「愛」が大きすぎる彼女の選択>
この麻里・雪子と対になるような話が、3・4話に出てくる莢子の話です。彼女の祖父はは社会主義者で彼女に

「決して人をわけ隔てしてはいけないよ 

いかなる理由があっても人を差別してはいけない 

すべての人に等しくよくしてあげなさい。」

 

と教えました。莢子は敬愛するこの祖父のセリフを真正直に受けて、それを実行して生きてきました。だから彼女は「恋」ができない。
なぜなら「恋」は「人をわけ隔てる」という差別の構造をもっているから。
莢子はどうしてもその「恋」のがもつその「欠陥」や「不完全さ」に耐えられない。
そういう自分に悩むんだけど、だからこそ彼女が最終的に選んだ「生き方」というのは、こうぐっとくるものがありました。
あぁ、彼女はそうやって不完全な自分と世界を照らしていこうとするのかと。

 

 

この本に出てくる人達みんなが不完全なんだけど、それを含めてだからこそ、愛すべき人達でした。