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物語同士のつながりが好き

子に武器を増やし、戦う姿を見せていく母~おんな城主直虎29話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

不穏なマクロの影がだんだんと井伊谷に忍び寄ってくる中、信玄公の「巨悪」っぷりに対抗するため、

直虎は家康に上杉との同盟を提案して、なんとか今川攻めを食い止めようと画策します。
そのころ、寿桂尼が机上に伏しながら世を去りました。
今川家はもちろんのこと、恩だけでなく「負」の感情をもつ直虎や、瀬名、家康までもが手を合わせる姿が心に残りました。
たとえ味方でなくとも、賛辞と敬意を送らずにはいられない寿佳尼という人間の生き方がそこにあらわれているようでした。


<「個」を守るゆえに「役割」を果たす>
さて、今回はなんといっても「しのさん」でしょう。
彼女は井伊と徳川の同盟の証のため、松下家へ嫁がなくてはなりませんでした。
直虎に嫌味をいいつつもそのことを了承しますが、虎松に自分がわざと「いきたくない。」と言いました。
虎松に「人質」をだすことの意味を考えさせるためです。彼が試行錯誤した後で、「やはり行きたい。」と告げます。
ここのシーンは書きながら涙が出てきてしまいます。
本当に愛するものを守ろうとするとき、その人を取り巻く外部環境を守っていかないといけないことを彼女はちゃんとわかっています。
ここでいいなと思うのは「家」のためならば自分も虎松も我慢しろと、しのさんが言わない事です。
「個」としての「母親」であろうとしたとき、社会的な「役割」をまっとうしなければならない。
虎松に自分の母親は「家」のための悲劇の犠牲者として嫁いでいくのではなく、夫の志を継ぎ、愛する我が子のために行動できる人間なんだと見せてます。
その姿やこの事に虎松が学ぶことがどれほど多い事か。

 

そして「母上は虎松が一番大事なはずだ!」という言葉は、虎松が生きているというだけで自分は愛されているという健康な自尊心を持っている事を示しています。
しのさんがどれだけ息子を慈しんできたか、この一言だけで伝わってきます。
この事はのちのち彼の人生において精神的主柱となっていくと思います。
人は誰もが、等身大の自分と社会的役割の自分を持っています。
時代的にも将来的に未来の領主である虎松はこの「役割」としての部分が大きくなっていくでしょう。時としてそれは重圧になります。
だからこそ「役割」ではなく、ただのひとりの息子である虎松が大事にされていた事実が彼を支えていく事になると思います。
直虎も両親や井伊谷の人々に深く愛されたという自覚があるからこそ、井伊のために飛び込んでいけるように。
その直虎が子供だからと容赦せず真摯に虎松に向き合い、手段を共に考え、それでも変えれぬ現実があると教えていたのは本当に感慨深い。

<しのさんの成長はどこから?>
とはいえ、彼女の成長は身を見張るものがあります。あれだけ感情的に動いてた彼女がどうした!?と感じる人がいるかもしれませんがもともと彼女には素養があったと思います。
第十回「走れ竜宮小僧」で父親が不慮の事故で亡くなった時も、泣きながら動揺していましたが「悪いのはきっと父親だ。」とちゃんと理解しています。
彼女はおこった現実を曲げずに受け止めることができる人です。
ただ「情」のエネルギーが人一倍強く、行き場がないとどうしても理性的に動けない事がある。だから直虎と感情の共有が出来た後、彼女が見えないところで成長した事は不思議な事ではありません。
それからの日々を「お方様」として過ごす中で、自分の立ち位置や果たすべき役割、トップである直虎が抱えるもの、それを通して虎松が背負っていかなければならないものが、しのさんの中で見えてきたとは想像にかたくないです。

 

 

そして個人的な推測ですが、このしのさんの素養はどうも奥山家の人々は井伊の中でも二歩ぐらい下がって現実を把握し、人々を「つなぐ」能力があるという面からからきてるように思われます。
なつは、小野家と井伊を。言うまでもなく六左衛門は各方面で。だからこそマネジメント能力がとわれる「お方様」の役職をしのがこなしていても違和感なく納得してしまいました。
いや、兄弟ができるからといってみな出来るとは言い切れませんが。ただもとからあった奥山由来の素養が花開いたと考えたら筋が通るかな?と推測してみました。
まぁ、そのそも彼らの父親である奥山朝利は血気盛んな井伊家のなかでは、意外としたたかななとこがありました。直親であれ政次であれ自分の孫が家督をつげればよしとするところなんかは。
逆に言えば、それだけ周りを見て判断できる能力があるという事です。感情さえ安定すればその能力が出やすいということかもしれません。なつは玄番が、六左衛門は直虎との出会いによって。
今回、しのは徳川と井伊を「つなぐ」という大きな役割を果たします。いろんなものを繋いできた奥山家の能力が生かせる最大の大仕事を、彼女なら立派にこなしてくれると信じていきたいです。

<武田という天災>
前回、武田包囲網をつくればどうにか戦を回避できるんじゃ、みたいなシーンが井伊谷・秘密の対談(直虎・政次・南渓)で行われていました。
なんだ、その悪のラスボスみたいな扱いは?と思っていましたが、今回ほんとにそのラスボスの片鱗をみせてくれてました。
徳川には自分達と組むことで大井川より西の今川の領地を約束し、寿桂尼なき今川には、遠江そのものをよこせと恐喝。
この二枚舌外交っぷりに白目をむきながら、きわめつけはその「遠江をよこせ」という無理難題も戦争を始めるための口実なことです。
朝比奈が調略された家臣の首をもってくることさえ、そのための布石に思えてきます。
こんな悪狸に対抗していかないといけない今川・井伊・徳川はかなりのハードモード。
共に戦を避けたいという方向性は同じなのに、今川は「デスノート」を井伊に使っていかないといけないし、酒井に押されている家康をみるにどうやら内部での政治力は強くない。
ゆえに、瀬名や家康が内心どう思おうと井伊の不戦の約束も危うさがある。
直虎の「不戦」という戦い方はなかなか難しいものがありますが、そこに住む人々の顔一人ひとりが浮かぶ分、切実で。

 

ともあれ、武田の行動がのちのちの井伊の運命を翻弄しくうえで、「悪」の役目を話の中で背負っていますが、これまでの森下さんの脚本をみるに、彼の違う一面もありそうなんすよね。
「生きる事」は「食べる事」といわんばかりに焼魚を食べつつ、自らの調略っぷりに、にやりと笑う信玄公を見ているとなんとなくそう思いました。

 

 

正義や権力を求めた男に最後に残ったものとは? ~J・エドガー~

J・エドガー [Blu-ray]

アメリカの物語に触れていれていようが、いなかろうが誰もが聞いたことがあるFBI連邦捜査局)。
その初代長官にて、長い間その地位に50年近く君臨し続けた続けたJ・エドガー
彼の捜査網によって得られた情報は、大統領さえも脅かすもので、彼らさえもエドガーを恐れていたといわれています。
これはアメリカの権力を握りという一面がありつつも、犯罪捜査を前進させた一人の男の光と闇にスポットライトをあてた作品です。


<科学とデータに信頼をよせて>
J・エドガー氏の事はこの映画を見るまで知らなかったのですが、見ている間、にやっとしたことが幾度もありました。
というのも私はアメリカドラマ(警察もの)をけっこう見ているほうだと思うのですが、彼の導入した「科学調査」「資料のデータ化」「指紋のファイリング」
の基礎がここで描かれているんですよね。
大ファンの「CSI:科学捜査班」をみるとひたすら「科学すごい。科学、強い。」と思わされるます。
こんなに早く検査結果がでるわけないだろ!とつっこみたいとこもありますがそのエンタメの嘘を含めても、科学への絶対的信頼が物語をおおってるように思います。
大体、この手の「事件を解決する」物語は私は4つに分類していています。

コンビで事件を追う「バディ型」
組織内政治力の中でつらぬく正義を問う「組織型」
社会の抱える闇を問う「社会派型」
クラシカルな推理に重きをおく「探偵型」

もちろんいろんなこれらの要素が絡み合って作品ができていると思はうんですけど、このドラマはそれらとは別に「科学とデータベース」に重きに置いてる印象があります。
まぁ、あくまで重要度が高いというだけで、上記の4つももちろん絡んではきます。
だけどCSIシリーズを見てると、なにかしら「データベース」にアクセスをするシーンがよくでてくるというか、指紋だけじゃなく車のタイヤ痕や虫・草花のデータとか、
なんでそんなのがあるの?というものまで出てくるんですよね。
物語上の嘘ももちろんあるとは思いますがこの「科学とデータベース」への信頼っぷりがの始まりが、「J・エドガー」の物語と繋がってちょっと感動してしまいました。

 

 

この「データベース」をつくるという発想自体がエドガーの国会図書館のカード検索から始まっています。

その彼の分類能力?というか仕訳能力を組織レベルまで浸透させた結果、捜査能力を飛躍的に発展させてるんですよね。
もちろん「科学調査」だけに力をいれたわけではありません。
彼は当時の捜査体制にもメスをいれています。
その地方の自治警察が対応していた事件を、州をまたいで操作できる権限を捜査員にもたせる事で、犯人を捕まえやすくし、事件解決をスムーズに導くことに成功しています。
アメリカの歴史に明るくないので、なんともいえないのですが合衆国というだけあってこの国は州ごとが一つの国として独立している。徳川幕府みたいな?
その分権的であった捜査を、一か所に情報をまとめたことは画期的だったのではないでしょうか?


エドガーの内面に寄り添う者達>
FBI長官という権力を手に入れたエドガーですが、彼の内面は複雑で繊細、そして矛盾に満ちています。
支配的な母親に育てられ、彼女の理想の息子であろうとして「ほんとうの自分」をさらけ出せない。

その臆病さの裏返しのごとく、人より優位に立つためなのか情報や権力への執着が凄まじく、常に疑心暗鬼です。
社会の顔はこれだけ強権的なのに、彼自身は女装の趣味があるような一面があり、同性愛者の副官がいつもそばにいます。

 

二面性を抱えるエドガーですが、彼に恋をしている副官のトルソンと一度は告白してフラれた秘書のギャンディとは、強い絆で結ばれています。
この二人への信頼と敬愛にあふれていてびっくりしまう。典型的な身内に優しく、他人にきびしいタイプ。
トルソンとの関係は、ぼやかしてかいてるというか視聴者の想像に委ねていますが、二人は恋人同士だったのでは?と思わせる描写があります。
私の中では、トルソンの片想いのままの感じがしますが。けどそうであろうがなかろうが二人はエドガーの人生の共犯者といっていいと思います。
それくらい深く自分と相手の人生をシェアできるならそれを「愛」という他ない。
これまた秘書のギャンディが良くって、エドガーとは付き合えないし結婚にそもそも興味がないといったけど、ずっと彼の傍で仕事をして絶対に裏切らない。
三人ともずっと独身であり続けました。
例え周りが敵だらけでも、これだけの絆があれば彼の人生は幸せに満ちている。権力者の臨終にしては少し寂しさが残るものだとしても。

 

それにしても、エドガー役のディカプリオさんは、すごかったです。青年期から老年期までを役の中で見事に駆け抜けて演じてました。矛盾を抱えた非常に難しい人格を矛盾させずに一つにまとめていて感嘆させられました。

黄昏せまる宗主国。その主として。~おんな城主直虎28話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

前回までは基本的に井伊家の内政にじっくり取り組んできたお話に、フォーカスが置かれていました。
これまでも極めてミクロなテーマの中から戦国というマクロがちらちら見えてましたが、今川家の目線を通すことで魑魅魍魎がうごめくマクロの厳しさを突きつけてくるものであったと思います。
そしてミクロな努力やそこに生きる人々の積み重ねがこれまであったからこそ、マクロの為政者が判断を下す事の重みがあらわれていたのが今回であったと思います。
まぁ、なんといっても寿佳尼と直虎のやりとりに心奪われたのですが、まずは氏真の成長について触れていきたいと思います。

<共にあればこそ>
自信や能力がないまま、当主といっても自分をお飾りのように感じている氏真。彼と寿桂尼の能力差がこれでもかと描写されていました。

 

武田義信の自害が伝えられたとき、氏真は感情のままに怒りを爆発させましたが、寿佳尼はノータイムで解事実的な対応として、氏真の妹の鈴の返還を求めました。
しかも交渉人として自分が赴きます。さすがの武田信玄も相手が寿桂尼だと追い返せるわけもなく受け入れざるをえません。
信玄は理屈を並べて鈴を返さないようにし、寿佳尼もいったんは引くという姿勢を見せます。
が、ここまでが彼女の「下ごしらえ」。北条を交渉のテーブルに引きずり出すことが彼女の目的です。
といってもあの武田がただでそんな事に応じるわけがなく「誓詞」という契約書を要求してきました。
しかしこれで鈴は無事に返還される運びとなりました。

 

そんな武田に怒り爆発の氏真ですが今の、今川家にそれに対抗できる力はありません。
その現実がいまいち直視できない彼は、仲立ちをした北条の使者である幻庵と寿桂尼という二人の老獪の会話に参加することができません。
ここでのポイントは彼がその事実を理解してないという事ではなく、「直視」できてない事です。
むしろ理解はしてる。だけど「直視する」ということは、その事実に対して何もできない自分を見なければならず、認めなければばならないという事を意味しています。
肩書は「当主」であっても心はいまだ彼は幼名である「龍王」。そんな自分を認める事を拒絶するほどに、彼の中に「幼さ」が残っている。
だから寿桂尼が彼を諫めるためにその名を呼ぶと過剰に反応してしまう。

 

が、そんな彼をずっと見てくれてる存在である正室の春が彼にはいました。
苦しい中をできないならできないなりに、彼のやってきたことを彼女は見てきたことでしょう。
ちゃんとみてくれる人がいた彼は「今の自分ができる事」として、病に臥せっている寿桂尼に、今川のかつての調べを届けようとしました。
それで目覚めた寿桂尼に、氏真は「龍王」として教えを乞います
ここのシーンはめちゃくちゃ良くて泣いてしまいます。彼はここで戦国大名として、だめな自分を認める事になります。出来ない自分を受け入れる事はすごく難しい。
前回、彼について「父親殺し(精神的な意味で)」が必要で、そのテーマを解決しないといけないと書きましたが、多分それを「解決」することは重要じゃないと気付きました。
そうではなく、寿桂尼のいうように「共にあること」。共に戦っていく同志の存在に自分が自覚すれば、どんなに能力差がそこにあろうが人は立ち上がっていけるんだと、氏真の存在は教えてくれています。
氏真は今確かに、「龍王」から当主「氏真」になろうとしてます。自分の経験値や器がどれほど足りないか自覚しながら。それでもなお。


<寿佳尼・最後の努力>
寿桂尼は、直虎の事を自分と似た女子であると評しましたが、では彼女は直虎が一体どんな女性だと思っていたのか?を推測していきたいと思います。
綿布を貢ぎ物として持ち込んだ直虎に寿桂尼

「年端もいかぬ小さな女子が、お家のためにひたすら鞠をけっておった姿は、いまだ忘れられぬ。瀬名の命乞いに乗り込んできたとき、徳政を覆しにきたとき、そなたがわが娘であればと、ずっとおもっておりました。」

と言っています。

あくまで私の推論ですが寿佳尼は直虎をこう分析していると思います。


①「蹴鞠」→直虎が「家」という「公」のために自分を捧げれられる心意気が幼いながらにもすでに備わっている。
②「瀬名」→①があるにも関わらず「個」のために、走り出すことができる「情」がある。
③「徳政」→胆力と機転、合理的判断が下せる。
④「綿布」→徳政を覆すときに約束した「井伊を潤す事」の実行力とそれを成すだけの意思の強さを持つ。

 

まとめていってしまえば、「家」のために時として冷酷な合理的判断がくだせるが、個人としての「情」を持つことができる。といったところでしょうか。
なかでも③が寿桂尼が直虎を排除しなければならないと判断したポイントかと思われます。

15話の「徳政令」回で、直虎の「合理的判断能力」を直虎に備わっていると、寿桂尼が見抜いていると推測したとところがあるので振り返ってみます。

 

ここのポイントは「なぜ寿佳尼は直虎を後見として認めたか?」です。 直虎自身で今川にたどりつく胆力を見せ、対等に渡りあったというのももちろんありますが宗主国のトップである寿佳尼の判断は以下の二点。

①民意が直虎側にあること。

②「民を潤す」という目的のために合理的判断ができる能力が直虎にはあると確信したため。

 

まず、①について。 百姓達ってどうしてもいやだと思うと「逃散」してしまう力の持ち主達なんですよね。 だから、ここで無理に今川領にしてしまっても逃げ出してしまって意味がないんです。吸収合併したはいいものの、社員がストをおこしては元も子もありません。

 

②について。 井伊はこれまでは「今川憎し」といいう動機で動いているところがありました。聡明な寿佳尼がそれに気付いてないとは思えません。 この従属国の宗主国に対するルサンチマンは根深いものです。 決して馬鹿にされるべきものではないと私は考えています。

だけど現時点での今川家に逆らうのは上策ではありません。 ただ、民意を背負った直虎は「民を潤す」という目的のための動き、それがひいては井伊や今川の「利」となるといっています。 これは民意に支持基盤がある直虎がいうからこその説得力があり、 支持者の声を一政治家である直虎は無視する事はできません。 これがもし「家」のためという個人的感傷だけなら信頼ができないんですよ。 家族を失うという悲しみや相手への憎しみを知っているからこそ(寿佳尼は息子・義元を戦場で亡くしていますよね) 簡単には直虎のいう事は信用できません。だっていままでどれだけ井伊の人が今川家によって葬られてきましたか?そこに寿佳尼は悪意はなくても自覚的でしょう。

今回の政治ゲームでは直虎は「情」という駒を動かさず合理的な「利」で盤上を制しました。

だからこそ「民のため」という目的が直虎にあるがゆえに、井伊を治めるぶんだけなら問題はない。(つまりそれを最優先に掲げるかぎり今川を裏切らない) と政治的判断を寿佳尼は下した。 と私は考えています。(政治も歴史も明るくないのであくまで個人的推測ですが)

政次さんの対直虎成績0勝1敗 果たして勝利の女神は今回どちらに微笑むのか?外交編~おんな城主直虎15話~ - シェヘラザードの本棚

 

 

上記から、寿佳尼は直虎が合理的判断ができる事に気づいていると思われます。
だからこそ直虎を後見として認めました。だけどそれが寿桂尼にとって「利」となるのは、パックス・イマガーワ(今川家傘下の平和)が盤石な事が条件です。
それが揺らいでしまうと「民のため・井伊のため」という目的のためならば、その合理的判断で今川を裏切ってしまう。
今川に恨みがあるから独立したいという井伊の前世代の感情的な思いからではありません。
今川の屋台骨が危ないから、だからそこからぬけだしていこうとする現実的な判断を直虎が下すと寿佳尼は確信します。
直親の事をここで指摘しても、けしてゆるがない彼女だからこそ。
政令の時に後見としての才ありとして認めた直虎を、マクロの事情が変わるだけで消してしまわなければならなかった。
環境が変わることで、評価が同じでも対応は一遍してしまいます。
これはある意味、氏真も同じ事がいえます。彼の芸事に対する才能も徳川の治世がくるまで輝くことはない。
人は光の当て方でこうも人生が変わってしまう。
寿桂尼はこうして「死の帳面」に直虎をリストに加えましたが、こうしてみると直虎の「本質」を一番に理解して共感してたのは彼女だと思います。
直虎の両親や、政次、直親でもありません。誰よりも直虎のそれに気づき、もう一人の「自分」を見てるかのようだったと思います。
直虎もある意味、政治の先輩でもある寿佳尼に対して共感したり、そのすごさに敬意の念を感じずにはいられなかったでしょう。
たとえ敵として袂を分かつとしても。

<成長した直虎>
さて私は19話で

個人の尊さをしっている普通の人(直虎)が、リーダーとして大きな正しさを選ぶ瞬間が見てみたい。

 と書いてましたが、今回であぁ、彼女はもうそれができるようになってきてるんだなぁとしみじみ感じてしまいました。
そのリーダーとしての「決断」はこれからも直虎に何度もせまってくると思います。

<余談>

なんか、また長くなっちゃいましたね。ほんとは、寿桂尼さま、宗主国として粛清はいいですけど、敵国がせまる今、まとまらないといけないのに属国のモチベーションどうやって上げるんだ?
そんな余裕すら今川には与えられてないって事かな?けど、力が衰えてる時に恐怖政治は、まずくない?寝返りエスカレートしない?
とかあれこれ考えててだらだら書きたいけど、ちょっと力つきました。

 

不完全な世界の不完全な人々~愛すべき娘たち~

愛すべき娘たち (ジェッツコミックス)

よしながふみさんの織り成す女性たちの5つの短編集。
久々に読み直すと、やっぱり傑作。
きのう何食べた?」みたいな日常ものも、「大奥」のような歴史のifストーリーも、どちらも深い人間への理解と眼差しが感じられます。
上手くいえないけどバランスがすごくいい。ミクロの人間関係にフォーカスしたものを書くと、彼らだけのある種の「閉じた世界」が発生するけど、それをやさしく突き放すような俯瞰した目線が作品にある。
この「やさしく」ってとこがポイントで、この世界とそこに生きる人々の不完全さに、諦観があるにも関わらず、それを抱きしめて歩いていくような感じがして。

 

 

 

大奥 1 (ジェッツコミックス)

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<「傷」があるゆえに、あるからこそ>

さて、この本の第1話に出てくる主人公の雪子は母親の麻里と二人暮らし。30才を迎えるんだけど突然、麻里が再婚する。その相手は雪子の3つ年下での元ホストの健。

ここで出てくる麻里さんは一見すると、自由気ままで娘の事よりも自分を優先する母親として書かれるんだけど第5話で、それがひっくり返るというか、なぜ彼女が娘にそう接していたのか?
というのがわかる構成になっています。
そこで雪子の祖母、つまり麻里の母親の話までさかのぼることになる。この麻里の母親は「あなたのためを思って」の言葉のもと、娘の容姿をけなしてきた。
だから、麻里は自分が親になったときは、反面教師として自分の娘の容姿に無神経な事は言わないし、自分の人生を「あなたのために」という言葉で押し付けない生き方をしてきました。
それが、第1話のそんな麻里に振り回される雪子へと繋がっています。
だけど、じゃぁ、麻里の母親が悪いのか?というと彼女に彼女なりの理由があって、それをやってる。
その事を麻里は頭ではちゃんと理解しています。だけど感情面がどうしてもついていかない。
それについて夫の健はこう言ってます。

「分かってるのと 許せるのと 愛せるのとは みんな違うよ。」

 

こうことを言えて実行している健は人間がすごくできている。
親を許せなくて拳を振り上げた。だけど理解しているからこそ、どこにそれを振り下ろしていいかわからないまま、人生を歩いてきたからこそ出会えた人達がいる。
そのままならなさや、やるせなさ。その拳が開く日が死ぬまでないとしても、その手を包んでくれる人と人生が共にある喜び。
麻里が容姿のコンプレックスから「わたしは美しくないわ。」と言ったから、健は彼女に興味を抱きました。
だからといって受けた「傷」が治るわけじゃない。だけどそれによって健と出会えた。そこに人生の残酷さと美しさがある。
別に誰かと出会わなきゃ、「傷」が意味のないわけではなく、その痛みを知ってからこそ娘の雪子に対して優しくなれるところがあって、それは確かに雪子を救ってるんですよね。

 

 

<「愛」が大きすぎる彼女の選択>
この麻里・雪子と対になるような話が、3・4話に出てくる莢子の話です。彼女の祖父はは社会主義者で彼女に

「決して人をわけ隔てしてはいけないよ 

いかなる理由があっても人を差別してはいけない 

すべての人に等しくよくしてあげなさい。」

 

と教えました。莢子は敬愛するこの祖父のセリフを真正直に受けて、それを実行して生きてきました。だから彼女は「恋」ができない。
なぜなら「恋」は「人をわけ隔てる」という差別の構造をもっているから。
莢子はどうしてもその「恋」のがもつその「欠陥」や「不完全さ」に耐えられない。
そういう自分に悩むんだけど、だからこそ彼女が最終的に選んだ「生き方」というのは、こうぐっとくるものがありました。
あぁ、彼女はそうやって不完全な自分と世界を照らしていこうとするのかと。

 

 

この本に出てくる人達みんなが不完全なんだけど、それを含めてだからこそ、愛すべき人達でした。

父親たちの亡霊とどう向き合う?~おんな城主直虎27話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

方久から気賀の城主になってはどうかと提案された直虎。
ちょうどいいタイミングで、中村屋が町衆を連れ、大沢ではなく直虎にその気賀を治めてほしいとの申し出がありました。
できるものならやってみたい直虎のようですが、さすがに現実問題、超えていけないハードルが多くて一晩考えました。
というか、政次に相談した直虎さん。徳政令の時のように安請け合いしていた頃を考えると、彼女自身の成長と政次との信頼関係もここまできたんだなと感慨深くなりました。

しかしなんといっても方久さん!
直虎を気賀の城主にすべく、銭の犬こと方久が己の才覚を最大限に利用して奔走していました。
今回はもはや直虎スピンオフ「銭の犬・瀬戸方久」といっても過言ではない!というのは私が方久びいきだからでしょうか。
しかしながら、やはり戦国の世、井伊が内部で気賀の管理者を狙っている間にも、武田などの外交関係が厳しくなってきているようです。
そんなマクロの事情に振り回されつつも、自らの「生き方」にあがく三人の男達にスポットをあてていきたいと思います。

 

 

<賢いがゆえの愚かさを抱える氏真>
武田義信の自害により今川との同盟が危うくなり、家臣たちも氏真に機嫌を窺うようにしか意見を言わない状況。
今川の急伸力が落ちることで、家臣達は自分に従順だったわけではなく父親の権威に従っていただけだ、と気付いてるんだと思います。
「どうせ、余は能無しじゃ。」と言うセリフから、彼の自信のなさがみてとれます。
25話でそんな氏真には直虎のように信頼できる仲間がいるんだろうか?と書きましたが今回のでますますそれに確信を深めたといいますか。
この二人はほんと対照的なんですよね。優しい配偶者もいて、氏真には偉大な父親と超えるべき祖母がいる。彼には「父殺し(精神的な意味で)」という人生のテーマがあるけどなかなかそれが解決できない。
かたや直虎の父親の直盛は優しい人ではあったけど、超えていくという対象ではないので、それがプレッシャーとなることはありませんでした。
どちらが為政者の育つ環境として恵まれていたかというと、寿桂尼という教育者もいる氏真です。
ですが何もない状況だからこそ、自らの手で切り開かなければならなかった直虎には頼るべき仲間が多くいるというのは、まさに「人間万事塞翁が馬だと言えます。

 

ただ、今川義元は本来なら松平元康を氏真の片腕にと考えていたようなので、そこが機能していればまた違った未来があったとは思います。
正直なとこ、彼は憎み切れないとこがあるというか自信がないだけで、けして頭は悪くないと思います。外交情勢や自分の器に気づけるだけの賢さがあるからこそ、悩み苦しむ。
今、その器がなくとも、悩む時点でそれを越えられるポテンシャルがあるのですが、彼がそれにそれを理解する前に残酷なマクロの波が襲ってきそうです。
経験値が足りてなかろうが、準備ができてなかろうが、人生にそれは突然にやってくる。

 

 

<あの日の自分達を救う。龍雲丸>
そんな悩みの渦中にいる氏真に対して、自分なりの「生き方」を見出した男が一人。龍雲丸は前回、直虎に「できもしないくせにいうな!」と啖呵をきっていました。
が、それはつまり、直虎がそれを実行に移そうという心意気をみせればその言葉は彼自身にかえってくるものです。「あの尼小僧さまは、やろうとしている。じゃあ、俺は?」
と自分自身に問いかけなければならないからです。
彼ら龍雲党がこじんまりじているうちは、気賀から抜け出すという手もありました。
だけどいまや大所帯。守るべきものが増えた彼には、そのための「何か」が必要です。
前回、「城」は彼にとって「死」や「大事なものを奪われた。」という象徴だと書きました。
今回、そのトラウマの象徴である「城」を自らの発想の転換で、「大事なものを生かす」ため、捕らわれぬための「城」へと昇華しました。

 

ここはすごく心にくるシーンで、彼は人を生かす城を目指すことで、あの幼い日々に逃げ落ちた自分と城を守るために死んでいった父を救っていったのではないのかと。
父親の生き方をどこかで認められなかった。あのときの自分は無力で何もできずに逃げるだけだった。そんな心にいる自分達を。
彼の父親は「城」のために死んだのではなく、「城」が人を守るから、結果、命を投げ出すだけ事になった。
それはけして無駄死にじゃない。もちろん、生き延びる上で身についた龍雲丸の盗賊スキルも。
なにかを「守る」という点で龍雲丸と彼の父親は今、同じステージにたっている。
盗賊業に嫌気がさす心は侍で、やり方や手段は自由な盗賊。その二つは矛盾しているようで、実に彼らしい。
そんな彼にしか建てられない「城」を龍雲丸の父親もきっと誇りに思ってくれてるのではと想像してしまいます。

 

 

<銭の忠犬!方久が走る!>
上記、二人とは、もはやまったく違う次元で軽く人生を飛んで行かんとするのは方久さん。
彼は関口氏には袖の下を渡して、井伊が気賀を治める時の分け前を通すと匂わす事を言いました。
そして他にも城の普請を受け持つ大沢氏には、商人という忠義不確かな町を抱えるより手放した方が得策ではないかと遠回しに提言していました。
もうここは、方久オンステージ。商売人の彼は人の「利」や「欲望」をそれこそ犬のように嗅ぎ付けます。相手の欲するものが何かわかって取り入ろうとする。
直虎と出会った日に、彼女に硯を送った彼の本質はちっとも変っていない。己が銭を稼ぐためなら、フットワークは井伊で一番軽いさを見せる。
だけど「解死人」という社会に、はじかれた存在が「商売」という媒体を通していまや人や物を繋いでいく。その繋いだ中でこそ、銭は動くと彼は知っているから。
動かぬ銭なぞ商売人にとって、意味はないでしょうから。
誰かのためでなく、己のために動いてるのに結果、誰かのためになっている。
そんな彼は、自分の卑しさを正しい形で社会に還元しているという点において、直虎の目指す「世」のローモデルの人間といえるのではないかと思います。

 

 


<政次について>
方久の裏で政次も直虎の策に積極的に協力してくれてました。
しかしながら、井伊家でいろんな危機を乗り越えるたびに、その輪の中に政次がいないのは方針とはいえ歯がゆい。直虎と分かち合えてるとしても。
人の中にいるというのに、いつでもそこから抜け出せてしまう危うさをはらんでいて。ほんとなら、そこに、直之や六左衛門、方久達とも絆が出来てたかもしれない。
なんか今回、感傷的になりました。エモーショナルによっちゃうのは、いつもの事なんですが。
来週もかの歩く災害・信玄公が出てくるようで楽しみです。

 

 

虚構の存在が現実に伝えてくれること~きみはほんとうにステキだね~

きみはほんとうにステキだね (絵本の時間)

最近というかほぼ週刊・直虎感想!になりつつあるこのブログです。
その脚本家の森下佳子さんについて、最近私は以下のように書きました。

脚本家の森下佳子さんの作品に出てくる人物はキャラクター(虚構)的でありながらどこか生生しさがあって「生」を感じます。
「物語」なんだけど、ものすごく彼らが「生きてる」と思えて。「話」自体は竜宮小僧が出てきたりして神話的なのに、彼らが確かに「いる。」
この人物達の「実存感」は演者の方々の力と合わさって爆発力を増し、ほんとこの先誰が欠けてもつらくしんどいです。
だけど、この先も見守っていこうと思います。


それは確かに彼女の凄さなんですが、キャラクター(虚構)的というのがダメとかでは、ぜんぜんそうじゃないんです。
例えば、絵本や童話なんかは、とりわけ複雑な「人間」の心を受け止めやすくするクッションのような役割を果たしていると思うんですよね。

私の大好きな絵本で宮西達也さんの「ティラノサウルスシリーズ」というのがあります。もう、読み返すたんびに泣いてます。

 

主役のティラノサウルスは、力がつよくてあばれんぼうで自分勝手なもんだから他の恐竜たちに嫌われてます。

ある日、死にかけたところをたすけたエラスモサウルスに助けられた事から、彼らの友情が始まるのですが…。

 

最初、ティラノサウルスは友達といえる人がいないんですよね。強いから一人でも生きていけるので。
だけど自分が弱った時に、手を差し伸べてくれる存在に、ここで出会うわけなんですよ。
自分の心を自分だけが占めていた彼に、初めて他者が存在がするようになるんです。
その分、彼は自分があの悪名高いティラノサウルスって伝えられなくなるんですよね。
もし、ほんとうの事を言えば相手は離れていってしまうかもしれないという恐れや、嫌われたくないという思いがあるから。
そして、友達ができることで、ほかの恐竜達にも優しく接することができるようになるんです。
孤高に生きてきた彼にとって「生きる」ことの基準は強いか、弱いかのどちらかだったんだと思うんですよ。その弱肉強食の世界観はすごくシビアなものです。
だけど誰かといることで、世界を柔らかく受け止められるようになったんだと思います。だから他人に優しくできるようになった。
そんな彼も今まで自分がやってきたことのむくいを、最悪な形でうけることになります。他者を傷つけることは、どういう事なのかを身をもって知る事になる。
なんというか、因果応報といえばそうなんですけど、大切な他者が出来た人生の代償があまりに大きくて。
もし、誰かを大切に思わなければ、今もなお一人で生きていれば、知ることのなかった痛み。他者を愛するということは生きていく事の喜びと、それを失う恐怖を同時に抱えているそれを知ってもなお、彼は出会えて良かったと思うのか、それとも出会わなければこんな思いをしなかった、どちらを彼は最後に思うんだろう?
いや、どちらも思うかもしれない。
読み返すたんびにそれについて考えるけど、多分それは現実の自分に問われている。
誰かと生きるという事はつまりその問いかけに、必要な覚悟をすること。普段はなかなか感じる事はできないけど。

 

 

 <虚構の世界から現実を見る>

自分達の生きている「世界」はわかりにくいんだけど、徹底的にシンプルな形に落とし込むことで、逆に「真実」に触れやすくなってるんだと思うんです。
そこに、いわゆる「リアリティ」はなくとも人の心を揺さぶってくる、それが物語の持つ力なのではないかと。
物語を通して「世界」をのぞき見る事で、虚構的な彼らが、生きる事はどういう事なのかを確かに伝えてくるんですよね。
まぁ、難しい事考えなくたって、この話は面白いから、読める明日が楽しみだ!と思わせるだけで、物語は超強いんだ!と思います

ルール(不自由)のなかで自由でいるには~おんな城主直虎26話~

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材木を駿府に持ち込む事で今川家からの謀反の疑いを晴らす事に成功した直虎。
これに対してご都合主義だと思う方もいるかもしれませんが、私はどちらかというと非常に日本的な会議のまわり方を感じました。
意見に正当性や合理性を求められてるというより、それに従った方がいい空気感や雰囲気づくりが求められているところがです。
「忠義」という抽象的なものを求められたときに、「材木を届けさせる。」井伊家は今川家を裏切るわけないよね。ここまでする井伊を無下には扱わないよね。という空気を作っていたと思います。
そして、ここまでの空気を会議の場で伝染させるには、始まる前の「根回し」が重要な役目を担っていました。
この「根回し」は、今回の気賀での話に繋がっていたと思います。
とはいってもこうもはやく謀反の疑いが晴れたのは、その気賀に城を建てるという内情があったからでした。
井伊家を許す事は今川家の懐の広さアピールでもあり、なおかつ気賀の築城の材料が手に入ったという一石二鳥の考えが裏にあるようです。
落日を迎えつつあるとはいえ今川家のしたたかさがここで見えます。

 

<本当の「自由」を手にしたいなら>
さて、その気賀に武家が入ることになって商人たちは最初は反対が多かったものの、しだいに賛成派・反対派・中道派とわかれていったようです。
まずは反対派の龍雲丸について触れたいと思います。
彼はその反対派のなかでも強硬的で過激グループに属している感じがしますね。
過激というか火をつけるという物理攻撃にでてる点では、やっていることはテロリズムに近い所があります。
利害ではなく自身の思想性または感情によって「築城」に反対しているところでもそのイメージに拍車をかけてます。
彼は幼き日々の経験により「城」という存在自体が「死」や「大事なものを奪われた。」という象徴なっています。
彼の武家に対するアレルギーはそこからきているようです。
そんな武家に縛られたくないという思いをもとに、「自由」な生きかたをしている彼が、一番「武家」のルールに縛られてるように見えました。
武家」にならないという選択をしても「武家」がつくる世界に住んでいる彼は武家の作るルールから逃げ出す事は出来ません。
もし本当にそこで自由でいたいと思うなら、ある種の力(知恵や工夫)が必要です。
彼のやり方ではますますその武家につけいる隙を与えてしまいます。
この場合、やはり気賀に自治能力はない。武家が治めなきゃいけないという大義名分を自ら与えてしまうことになってしまいます。
組織の決定に不満があるならば、それと同等の力をもつか(この場合武力)、その内部にいてそこから影響を与えていくしかありません。
だけど経験による感情や出した答えを、人は簡単には翻せない。本当は彼も理屈ではそこに気づいているとは思います。
だからこそ、直虎の意見にいちよは耳をかたむけ討論に応じています。
迷いの中にいる彼は、はたしてどのような結論に辿りつくのでしょうか。

 


<調停者・直虎>
猪姫にみえる直虎ですが、彼女は意外にも調整型のリーダーな面もあります。
気賀での会議ではそんな一面が存分に発揮されていたと思います。
さて今回はあるルールがあります。それは
武家が気賀を治める」
というものです。これは武田への「塩留」というマクロの事情からきており、覆すのはほぼ不可能。
そのルールに対して、反対派と賛成派をうまく融和させる方向にもっていくのが彼女の仕事です。
まず、彼ら両方を交渉のテーブルにつかせるために「材木の都合」を引き合いに出しておびき寄せました。
賛成派はともかく反対派もちろん怒りますよね。
なので彼らがなぜ不満に思うのか、聞き出しています。
反対派としては、税を納めているのに自治権をとりあげられたら意味がないという面もあります。

が、商売人である彼らにとって重要なのは、自由に荷や人が移動できなくなることによる商売の停滞への危機。

 

 

そこで直虎は「築城」自体を交渉のカードとして、大沢に商売の保証を取り付けろ、と提案します。
大沢も気賀が潤う事に反対する理由もないので、十分に彼らの妥協点を探れる可能性が探れます。
直虎は賛成派の顔を立てる事も忘れません。彼らにもそういう考えがあったのではないか?といっています。

 

私はそういう面もなかったとはいいませんが、彼らは商売上の戦略として大沢につこうとしていたというのが大きいと思います。例え、反対派を見捨てる行為だとしても。
だけどここで重要なのは、そういう話にしてた方が、この場が丸く収まるという点です。
賛成派も反対派も同じ理由からいがみ合い誤解していたという事にしておけば、その後のやりとりがスムーズに進みます。
両者ともに振り上げたこぶしを下す理由が必要でした。
直虎はそんな彼らの落としどころを提供していたと思います。

 

 

<ルールさえ利用する男・方久>
いやぁ、ほんと今回の方久さんには惚れました。「武家(大沢)が治める。」というルールに対して「井伊が治める。」という置換ができるとう発想は商売人の彼ならではです。
もちろん井伊が、水上交通による儲けが見込める気賀を治めるという事になれば、彼の商売も可能性がどんと広がるという目論見もあります。
しかもただの夢物語ではなく、ちゃんと現実の延長上にそれを見据えているとこがまたよくて。勝算があるからいっているでしょうし。
気賀にも井伊にも自分にも悪い話ではないでしょ?と全方位win-winを目指そうとするとことか惚れ惚れします。

 

 

<同じ井伊谷ファーストだとしても>
トランプさんがアメリカ・ファーストといってましたが、これはどこの国も自分のとこが一番大事です。
ただ、そのやり方や定義にずれがあるわけで。
直虎も政次も、井伊谷ファーストですが現実への認識の違いがあるように感じました。
政次は国益のためには基盤が今川との縦ラインの安定にあるという風に考えており、直虎はそれだけじゃなく横のつながり(経済)に広げていく事を強化したいと考えてるのかなと。
いや、直虎は経済まで踏み込んで考えてはないとは思うんですけど。
気賀の問題に井伊が介入するという事は危険性だけではなく、影響力が増すという、うま味もあるよなぁと思ったので。
政次が最初から否定の形からはいってきたので、ちょっとびっくりしました。
ちょっと以前にもまして彼の考えている事が掴めにくいとこが出てきているので、なんともいえません。
まぁ、方久の提案した案を踏まえて気賀に介入するという事を、どう彼が判断するかは来週のお話なんですが。
「今川」というルールの中でどう勝負していくかが今後の見どころになりそうです。