シェヘラザードの本棚

物語同士のつながりが好き

医療ドラマから見えてくるもの~シカゴ・メッドとコード・ブラック~

シカゴ・メッド DVD-BOX

医療ドラマの傑作といえばER緊急救命室が有名で、個人的にも大好きな作品でした。
それと同じレベルで「好き」いえる作品にはもう出会えないかな?と思ってましたが
ここで紹介する「シカゴ・メッド」と「コード・ブラック」が面白い。
この二作品を見る事で、気づいたことがあるので感想というより自分用のメモとして残していきたいと思います。


<「死」を通して>
病院が舞台である以上、そこにいる医療関係者はみな「死」というものに対峙します。
それはつまり、「死」を前にして、その人がどういう風に生きたいのか?生きるとは何か?という「生」を同時に問われやすい。
彼らの使命は「命」を救う事。だけど、時として患者は自分の「命」より大切なものがあり、それを優先しようとする。

 

例えば長い闘病生活に疲れ果て、蘇生措置を拒む患者。
新薬による治験の可能性がそこにあったとしても、僅かの希望から絶望に叩き落されるより「死」を選ぶ。
なんとかあきらめないで欲しい医者のウィルと自分の意思で命に見切りをつけたい患者のジェニファー。
ウィルは病気で母親を亡くしており、可能性が少しでもあるなら「命」を投げ出すことをどうしても認める事ができない。
しかしそれは他人の自由な生き方を否定している事になる。例え、それが「死」という選択だとしても。
家族でもない人間がそれを強要するのはある種の傲慢さがあるかもしれない。

 

だけど私はウィルのこと、全否定しづらいです。ジェニファーから見れば自分の意思を邪魔する悪であり、無駄に苦しみを与える存在でした。
ウィルも最後の方は自分の選択が間違っていたと思い始めます。
だけど彼が最後まで命を助けようとした事実は、彼女の死後、葬儀で彼女の夫から

「ジェニファーをあきらめないでくれてありがとう」

のセリフで少しだけ肯定されているような気がします。
看病生活に疲れきってしまっいる夫。どこかで生きていて欲しいという思いがありながら、けど妻はそれを求めていないし、求める事は彼女を苦しめるかもしれない。
そんな自分達でさえあきらめようした命を、救おうとしたウィルは悪魔であり、また同時に天使のような存在でした。

Code Black: Season One [DVD] [Import]

<カオスの中の決断とヒーロー性>
「シカゴ・メッド」と「コード・ブラック」、どちらも救急医療の名の通り緊急性があり、スピードが求められています。
そのスピードによる緊張感を見せてくれるのが「コード・ブラック」です。
そもそも患者の救急処置室の許容量を超える緊急事態(コード・ブラック)が年間300回も発生するという設定なので
現場はいつもてんやわんやで張り詰めた空気が漂っている場面が多い。
一見すると何が起こっているのかわからなくて見ている方も混乱してきます。
研修医たちはその中でおろおろしながらも、その中で指導医が彼らに教えながら命を救っていく。

 

ただ、そこには明確な命の優先順位がある。余裕がないので全ての人にいつもベストな医療が施せるとは限らない。
だからこそ、ベストでなくともセカンドベストを、そうじゃなくともベターを。
その重い決断がほぼノータイムで求めらる。時間も人材も足りない中で。
しかも、その時の決断がいつも正しいわけじゃない。「命」を取り扱っている以上、間違う事が許されないというのに。

 

それでも彼らも人間なんで間違う時だってあるんです。
だから後悔を抱える時がある。だけど今日の患者を救えなかったとしても、明日の患者を救うべく立ち上がっていく。
その姿は私にとってはヒーローのように見える。
救うからヒーローでいられるわけじゃなくて、失敗しようが救い続けるその在り方自体にヒーロー性が宿ってるような気がする。
自分が救われる立場だとして、それに失敗したとしても、

救おうとしてくれる人がいてくれた事、そのヒーローが少し落ち込んでも、明日の自分と同じような苦境に陥ってる誰かを救うような人がいる事、
その事実そのものに救われていくような気がします。

 

この二作品は間違いなく面白いといえるのでお勧めです。

 

未来という名の希望のため 今、生きている君を殺そう。~おんな城主直虎31話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

「徳政令」を受け入れる事で、国を潰して国を生かす決心していた直虎。
そのプロットを実行しようとした時、思いもよらぬ役者たちがその舞台に躍り出ました。
直虎が窮地に立たされていると知って、徳政令撤回の申し出でる瀬戸・祝田村の百姓達
この時点では、政次と直虎はお互いの意思を確認しあってありません。おそらく相手はこう思っているだろう?という不確かな状況の中で動いていかなくてはなりません。
それしか道はないとはいえ、これからの道は選択によっては死に直結するもの。政治家としては決断を下すのが難しい所です。彼女の肩には井伊の民と未来が、かかっている。
その荷を背負いつつも、どこまで政次を信じていいのかという揺らぎがあったのではないでしょうか?
しかし政次の「信じろ。」という言葉によって、確信はできないが自分と同じ決心があると思った彼女は徳政令を受け入れました。
今回は、直虎・政次の二人の絆が試される時でもありましたし、直虎の覚悟が改めて問われている回でもありました。


<直虎の複雑な感情>
政令を直虎に受け入れさせた事で、関口氏からの信頼を得た政次。
ですが氏真がそれだけで満足するわけがないと読んでいました。もちろん直虎もそこは想定内。そのために虎松を密かに逃がします。
が、政次はさらに上の策を練りだしてきました。
彼は直虎が虎松を逃がしているという事を想定して身代わりの首を用意します。
これにより、虎松・直虎がが死ぬという最悪の事態を防ぐばかりか、偽りの「誠意」を氏真に見せることで今川からの「信」を得る事ができました。
しかしこれは、大きなかけでもありました。
何も知らない直虎が偽の首をみても関口氏を騙せるような演技ができるのかというのは、ふたを開けてみない事にはわからない。
直虎も政次に対して不安があったかと思いますが、彼もまた不安があったのではないでしょうか?
偽の首をみた直虎はそれを抱きしめ、慟哭しながらも読経をあげます。

 

 

ここでの彼女の心の内を測るのは難しい。いろんな感情があったのではないかと視聴者に委ねているところがあります。
国語のテストのように「ここでの登場人物の気持ちを100文字以内に述べよ。」というような問題に、一つの答えなど本来はない。
私としてもこれが一つだとは言い切れない複雑さが直虎の中にあったのでは?と思うのでいくつか挙げていきます。

 

まず、直虎の感情に一番最初に支配したのは、「安堵」。その首が虎松ではなかった事にほっとしました。
ですが次に襲ったきたのは、ほっとした自分に対する「うしろめたさ」。
そして虎松ではなかったとはいえ、井伊谷の民である幼子が犠牲になった事への「憐憫」。
民一人すら殺させぬと誓った自分自身が実行できなかった事に対する「ふがいなさ」。
この状況を読めなかった自分に対する「恥ずかしさ」。
その汚れ仕事を政次にやらせた自分に対する「絶望」。
とそうまでして井伊を生かさんとする彼の忠義を少しでも疑いを向けた自分へのどうしようないほどの「恥ずかしさ。」

上記にあげただけでもけっこうありますが、もっと複雑な感情が彼女の中で渦巻き、それが涙となってあふれたでしょう。
直虎は寿桂尼と対峙した時、「狂うてもおらねば、手を汚す事が愉快な者などいない。汚さざるを得なかった者の闇は、どれほどのものか」と言ってました。
政次はもちろん狂ってなどいない。その彼がそうせざるを得なかったこと、彼の抱えなえればならなかった闇の大きさ、その事の本当の意味を直虎はここで初めて知る事になります。
もしかしたら、直親をきってでも井伊を救おうとした時の彼の痛みや悲しみを、ここで初めて直虎は体験したのではないでしょうか?

 

そしてなんであれ、その姿に関口氏は騙された。
政次も直虎が一人の「民」のために抱きしめる姿に、演技でない為政者としての「慈愛」を感じ取ったと思うのは、私のうがちすぎかもしれませんが。


<「守る」というエゴ>
偽の首を井伊谷に埋めて葬ってやろうとする直虎。そんな彼女に龍雲丸は声をかけます。
「命短い子どもが親に売られ、その子はきっと喜んでいる。」
それが真実かどうかはわかりませんが、戦災孤児であった彼の話は、もしかしたらと思わせる説得力はある。実際、そんな事はあったでしょう。
だけど、それは直虎には届かない。
そして
「子どもを切った政次は後悔していない」
というような事をいっています。
直虎は
「頭に何がわかる!」
と言い返してました。
このセリフには武家である直虎・政次とフリーランスの職能集団である龍雲丸の断絶があります。
井伊という「家」を守ろうとするために、手を汚さざるをえなかった政次の気持が、それを捨てて生きている龍雲丸に何がわかるというのか?
と直虎は思ったかもしれません。
ですが、龍雲丸は
「守りたいから、守ったんだ」
と答えます。
この「守る」というのは、城を守って死んだ彼の父を思えば切実さがるように思います。そしていまや、彼は守るべき仲間達がいる。
それは彼がやりたいからやっている事。
龍雲丸は武家に生きる人々の事はわからないかもしれない。だけど、「守りたいから守る」というそのエゴを彼は知っています。
そのエゴが自分を傷つける事で、自分を愛してくれる人達を傷つけうる。

そうだとしても、それを成さんとする事は誰に強いられるわけでもなく、心の内から湧き上がってくる。
その事を社会的カーストを越えて、感覚的に龍雲丸は政次の事を理解しているのかもしれません。

<繰り返す負の連鎖を断ちきる>
虎松を守り通すことで、政次は自分の中にある一つのトラウマを昇華させています。
彼の父である政直は、友である直親の父親の直満を死に追いやりました。政直がそうやって井伊を守ろうしてたかどうかはさておき、
幼かった政次はそんな父親に対しての絶望と背負わなくてもいい自責の念を持ったのではないかと思います。
ですが今回、おなじような悪役を井伊で演じてはいても父親とはまったく違う結果を導きだした。
虎松を守るという事はつまり、あの日の何もできなかった子どもだった自分を救う事も同じ。
もしもタイムマシンがあるなら、政次はその日の自分に
「大丈夫。君は将来、直親の息子を守ることができるし、自分の息子のような甥っ子に同じ気持ちを味あわせない。」
とでも声をかけるのではないでしょうか。
亥之助に「負」の遺産を残さずにすむ事、むしろその因果が逆転し「正」になった事は、彼の一つの大きな仕事であり、確かにそれをやり遂げたました。

 


そして、政次が抱えるトラウマからくる人生の課題がまだ残されています。
平和であればそれを抱えながら生きていく事もできましたが、どうもそうはいかないようです。
それがどういう形に収束するのでしょうか?
その日が来るのが怖く、でも確かに見届ける覚悟をもっていきたいと思います。

天才(もしくは凡人)がもたらす栄光と影~ソーシャル・ネットワーク~

ソーシャル・ネットワーク [Blu-ray]

あのフェイスブックを作った奇才、マークの話。
が、このマークがかなりくせのあるキャラ。思考回路は超論理的だが感情面が幼児的。彼女とのデートシーンにこの二面性が顕著に顕れている。会話は完全にディベート
もちろんマークはふられ、おもしろいことに彼女への腹いせでやったある事がのちのフェイスブック誕生の第一歩となる。

 

コミュニケーションが重要な人間関係において致命的。にもかかわらず、そんな彼が人々をコネクトするインフラの創始者というのが面白い。

その後、友人エドゥアルドと成功の道を走っていき、もう一人の天才ショーンと出会いさらにSNSの頂上へと駆け上がって行く。 

 

だがここで単なる成長物語では終わらない。栄光と引き換えに、人々の社会的な結びつきという名のインフラを作った彼が、彼自身の個人的な絆を失って行く。 

その過程がほんと秀逸。人生のワンステージが上がった側のマークとおいていかれた友人。そして彼を引き上げたシェーンの関係性は、あぁどこにでもあるなぁ、と感じられた。
マークにとってショーンは見たこともない景色を一緒に見れる人なので、その手を掴まずにはいられない。
そしてそこに「未来」をみてしまったら、「現在」の関係性を自覚的にしろ無自覚にしろ置いていく事になる。

 

 

別世界にいる奇才かつ、超成功者の話に感情移入しながら鑑賞できたのがすごいよかった。 
あんなほぼ論理だけで世界を認識している(普通の人はもっと感情面があるような?)マークの孤独を浮かび上がらせ、シンパシーを感じさせるのもよかったです。

それにも才能を短期間で時価250憶までに生み出すアメリカのビジネスの土壌に圧倒されました。
といってもアメリカだけじゃないですね。ネットの海はあらゆる可能性があって。開拓という意味では人類にとって残るフロンティアは宇宙とネットワークかもしれない。

そしてこの映画の雰囲気がなんか好きです。画面やストーリー自体はたんたんとしてるけど、飽きさせないなぁ。
見終わった後、じわじわきます。

 

<同じ目的を持つ者達の関係性>

実は、この感想はだいぶ前に自分のメモとして書きためていたものです。
なんで掘り返したかのかというと最近、クリントイースト・ウッド監督の「ジャージー・ボーイズ」を見たからなんです。
両作品とも成功していく過程で得る物と失う物が描かれている。
組織はアイディアマン、才能の発信者、その才能についていこうとする者、資金をかき集める者、さまざまな人がそこにはいて科学反応を起こしながら、何かを世の中に送り出していく。
その中でも「生み出す人」と「場や資金を提供する人」の関係性のバランスをとるのが難しいんですよね。この二つは本来なら補完関係になりうる。だけど性格の相性が才能の相性とぴったり合うわけじゃない。そして、どちらか一方の力関係が大きくなりすぎたりすると、一気に崩れてしまう諸刃の刃。

才能だけがその人のすべてじゃないように、プライベートな部分だけがその人の本当の姿というわけじゃない。

だけどその二つが綺麗に重なった時はきっと何物にも変えられない幸福がある。

 

 なんだか、ソーシャル・ネットワークの感想から離れていきました。ジャージー・ボーイズとも少しずれますが。

最近、志が同じで才能の違う者同士の幸福な関係性はなんだろう?と考えてるからなんですよ。主に直虎(と政次)を見てるからなんでしょうけど。ちょっとこの辺は色んな物語のストックをためていきたいと思います。

 

そうせざるをえない者達~おんな城主直虎30話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]


とうとう武田との全面戦争が回避されなくなってきました。今川家はそのための準備にとりかかることに。
直虎は徳川との密約を水面下で結びつつ、氏真に命じられるまま戦備えをします。
その氏真に呼び出された方久は、気賀に蔵を建てる事と認める代わりに井伊家の取り潰しに手を貸すように言われます。
政令を出すことによって。
今回からつらい展開が続くようです。誰もが必死がゆえになりふりかまわなくなってくる。
直虎は卑しさを出さずとも生きていける世を経済によって成そうとこれまでしてきましたが、マクロの情勢がそれを許さない。
その夢みたいな理想郷に至るためにはこれから多くの犠牲が伴う。未来のそれのために、今、目の前にいる誰かが傷ついていかなければならない。
そのための序章が始まりました。

 

 

<裏切っても十字架を背負わない>
さて、方久は今川が井伊家を取り潰すための片棒を担がされました。
なぜかといえば今川は、武田と戦うにあたって後方にある井伊を安全地帯にしておきたいからです。
三河と隣接しているので今川防衛ラインの要の地。ここをとられたらうかうか戦もしてられません。
だからこそ井伊を自分の直轄地にしておきたい。
そして井伊の方も沈みゆく今川という船から脱出しようとしています。
今川も井伊を切らざるを得ない、

井伊も今川を裏切らざるをえない。

そこに悪意はなく、ただただ生き残りたいという切実な思いから来ています。

 

そして、この「せざるをえない」男が方久だといえます。
コミカルな動きに見えますが、そのなかには彼の井伊への裏切りのうしろめたさや葛藤があります。
方久がここではねつけたとしても、武力で今川にかなうはずのない現状を知っています。
徳政によって潰されるか?それとも武によって潰されるか?この二つを天秤にかけたとき、現実主義の彼は前者をとる。
直親を切らざるをえなかった政次と同じ道をたどったといえる方久。裏切者にみえますがそんな彼はいまだにおとわの櫛をもっている。
その櫛は彼にとって、どん底の人生から再起の象徴といえます。
そこから這い上がってきた彼は、これまで井伊を再生させようとしてきた直虎の生命力を信じているのかもしれません。

 

我ながらひいき目でみてるなぁ、とも思いますが私は裏切ってもあとから借りを返せばいいでしょ?と思ってそうな方久が好きなんですよね。
彼は、以前にも直虎に「瀬戸村から利益を出せるようになれば、あいつら手のひら返しをしますよ。」というような事をいっています。
だから命さえあれば逆転できるし、それ以外は些細な事だと思っているのかもしれません。
彼にとって今回の「裏切り」は取り返しがつかないことではないゆえに、罪悪感を抱いたとしても押しつぶされずに十字架を背負わずにいられる。
彼の生命力がこの戦時をくぐりぬけてくれることを切に願います。

 

 

<「嫌われ者」というカードをきる事で>
方久が損得勘定があり相手と自分のWIN-WIN関係を築くタイプなら、対照的に「滅私奉公」で動くのが政次。
これまで井伊家の裏切り者かつ、親・今川派のふりをして動いてきました。
ですが寿佳尼の裏切者をあぶり出す面接から直虎がすんなり帰っきたこと、目付の自分が知らされてない情報が増えてきた事でとうとう今川に自分の正体がを見破られていたことに気づきます。
それを知ったうえで、二重スパイのような立ち位置の彼は今回、動きを見せました。
龍雲丸を使って方久をおびきだし、揺さぶりをかけ今川の目的を早々に見抜きます。
そして関口氏が徳政令の発布を命じにきたあとで、直虎達に嫌味っぽく言うことで、これが寿佳尼が仕掛けた罠である事を知らせます。
ただでさえ今川からの信用がなく関口氏の目がある以上、直虎との密会はできない。
だけどこれまで思考回路を共に合わせてきた彼らは、相手の考えを読み取ろりすりあわせようとします。
とりあえず徳世令を受け入れ、徳川に戦っていくと見せかけて関口氏の首を差し出す。
けど、ここで緊急事態が発生。百姓達が徳政令撤回を関口氏に申し出ます。
その場にいた直虎に政次は刃を向けますが、おそらくこの状況を逆手に政次は取る事でしょう。
直之でなく、六左衛門でもなく、方久でもなく、彼だからできる事。「嫌われ者」というカードをきることで、井伊家の再生の道筋をみつけようとする忠義者。
いまはただ、そんな彼の行く末を見守っていくしかありません。

 

 

<善意から生れる最悪な結果>
百姓達の徳政令撤回の申し出には、これまでの直虎と彼らのの歩みがフラッシュバックして泣かされましたが、この動きを読めなかった直虎と政次は戦術を変えざるをえなくなります。
圧倒的に彼らが善意からそれをやってることがわかるから切なくて。それだけの人望が直虎にある事が、彼女が上に立つことができるなによりの長所だから余計にやるせない。
善意からそれが始まっても、結果は最悪なことも起こりうる。たとえ百姓達の自主的な動きだったとしてもおこった「結果」によって引き起こされる責任は為政者にある。
よかれと思ってやったことが最悪な結果を導いてしまった場合、どこでそれが間違ったのか?を考えていかないといけない。
まさに、マキャベリがいうように

「天国に行く最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知することである。」

直虎がこれからそれを身をもって知ることになると思うとつらい。そこから再起するだけの生命力を彼女がもっていると信じてるとしても。
ほんと最近の回は、つらくて思考停止状態で自分でも何を書いてるかわからなくなっているというかポエミーになってますが、がんばって視聴していこうと思います。

 

 

 

 

届かなかった夢を持った者達に祝福を~少年ハリウッド~

小説 少年ハリウッド 完全版 (小学館文庫)

このブログで少年ハリウッドについて触れるのも今回で三度目。
アニメの放送が2015年で終わっていますが、最終回の完全版を作るプロジェクトが進行中だったりと、ファンも彼らも出会ったあの日から生き続けてます。
そりゃあ、日々の生活で「少年ハリウッド」のことばかり考えているわけじゃない人が多いとは思う。
だけどふとしたときに、彼らの事を思い出したり、アニメを見直して明日の元気をもらったり、他のアイドルを見る時には、確実に少年ハリウッドの影響を受けずに見てないとはもう言えない自分がいる。
もはや、無意識レベルで彼らの事を考えずして人生や世界を眺めていることがあって、あとになって「あぁ。自分のこの考え方は、確実に少年ハリウッドの影響を受けてるんだな。」と思う事もしばしばあります。
「いつも」思ってなからこそ、「いつでも」彼らが自分の中にいる事がたまらなく嬉しい。
そんな「物語」に出会えた事に感謝しつつ、定期的に彼らからもらった「気持ち」をここに残していこうと思います。
といっても今回はアニメの方ではなく初代が書かれている「小説 少年ハリウッド」についてちょっとだけ思ったことを書いていきます。
なのでこの小説のネタバレをがんがんしていくのでご注意を。

 少年ハリウッド」はアイドルのお話なので「夢を叶える。」という事の煌めきがちりばめられているんですが、それにも関わらず根底に「夢が叶わなかった。」というものがある気がします。
そもそもアニメの「少年ハリウッド」が二代目のお話なんですよね。そこにはもちろん初代少年ハリウッドがいて、彼らのアイドルという夢は確かに叶ってはいるんです。
だけど「永遠にアイドルであり続ける。」という夢には破れたんです。
だからこその二代目。初代ができなかったことに挑戦するという意味で、この物語は「バトンを受け取り、バトンを渡す継承というものについて語られていると思います。
この「継承」という切り口を個別で見ていくときりがなくなるので、またの機会に書いていこうと思います。

 

<夢をもつ者の剛と持たざる者の柔>

さてタイトルにもある「届かなかった夢を持った者」とは誰なのか?というとずばり「正人」です。
彼は桜木広司(アイドル名・柊剛人)の友人かつシェアメイト。昔はカメラマンを目指していたようですが、三十前半の今では、会社員として勤めています。
広司が十代と間違えられてスカウトされアイドルという世界に足を踏み出す一方で、正人は「こちら側」に引き留めようとします。
正人は叶えられなかった夢をもつどこにでもいる普通の人です。仕事終わりのビールに幸せを感じるような。すごく「現実」を正しく生きている。彼の名前の通りに。
そんな自分と同じだと思っていた友人の広司はその「正しさ」をある日投げ出してしまう。
自分達は柔軟に現実に対応していたと思っていたのに、友人だけ夢の世界へとびこんでいけるだけのダイヤモンドのような堅く強い何かを手にいれてしまった。
ここの正人の気持ちを考えるとすごくつらい。彼は広司を見ると、まるで夢をあきらめた自分の人生を否定されているように感じたのではないでしょうか?
正人は嫉妬してた、といってますが、なんというかその一言のなかにはいろいろな感情があるような気がして。
けど、ここで自分の感情に素直に認める事ができる正人はかっこいい。そして夢に届かなかったからこそ、広司にあるプレゼントを送ることができる彼は超がつくほどかっこいい大人なんです。

そしてどちらの生き方も正しい。そこに人生への「剛」と「柔」があるだけで。

どちらもあるから世界は成り立っている。
書かれてなくともダイヤモンド(金剛石)の原石のような剛人は、ファンという名の太陽の光が届いてこそ輝きを放ったでしょう。

そして柊剛人のアイドルであり続けたいという夢は砕けてしまい、普通の広司に戻ったとしても、そのかけらは次世代へと受け継がれていきます。二代目の「少年ハリウッド」として。

子に武器を増やし、戦う姿を見せていく母~おんな城主直虎29話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

不穏なマクロの影がだんだんと井伊谷に忍び寄ってくる中、信玄公の「巨悪」っぷりに対抗するため、

直虎は家康に上杉との同盟を提案して、なんとか今川攻めを食い止めようと画策します。
そのころ、寿桂尼が机上に伏しながら世を去りました。
今川家はもちろんのこと、恩だけでなく「負」の感情をもつ直虎や、瀬名、家康までもが手を合わせる姿が心に残りました。
たとえ味方でなくとも、賛辞と敬意を送らずにはいられない寿佳尼という人間の生き方がそこにあらわれているようでした。


<「個」を守るゆえに「役割」を果たす>
さて、今回はなんといっても「しのさん」でしょう。
彼女は井伊と徳川の同盟の証のため、松下家へ嫁がなくてはなりませんでした。
直虎に嫌味をいいつつもそのことを了承しますが、虎松に自分がわざと「いきたくない。」と言いました。
虎松に「人質」をだすことの意味を考えさせるためです。彼が試行錯誤した後で、「やはり行きたい。」と告げます。
ここのシーンは書きながら涙が出てきてしまいます。
本当に愛するものを守ろうとするとき、その人を取り巻く外部環境を守っていかないといけないことを彼女はちゃんとわかっています。
ここでいいなと思うのは「家」のためならば自分も虎松も我慢しろと、しのさんが言わない事です。
「個」としての「母親」であろうとしたとき、社会的な「役割」をまっとうしなければならない。
虎松に自分の母親は「家」のための悲劇の犠牲者として嫁いでいくのではなく、夫の志を継ぎ、愛する我が子のために行動できる人間なんだと見せてます。
その姿やこの事に虎松が学ぶことがどれほど多い事か。

 

そして「母上は虎松が一番大事なはずだ!」という言葉は、虎松が生きているというだけで自分は愛されているという健康な自尊心を持っている事を示しています。
しのさんがどれだけ息子を慈しんできたか、この一言だけで伝わってきます。
この事はのちのち彼の人生において精神的主柱となっていくと思います。
人は誰もが、等身大の自分と社会的役割の自分を持っています。
時代的にも将来的に未来の領主である虎松はこの「役割」としての部分が大きくなっていくでしょう。時としてそれは重圧になります。
だからこそ「役割」ではなく、ただのひとりの息子である虎松が大事にされていた事実が彼を支えていく事になると思います。
直虎も両親や井伊谷の人々に深く愛されたという自覚があるからこそ、井伊のために飛び込んでいけるように。
その直虎が子供だからと容赦せず真摯に虎松に向き合い、手段を共に考え、それでも変えれぬ現実があると教えていたのは本当に感慨深い。

<しのさんの成長はどこから?>
とはいえ、彼女の成長は身を見張るものがあります。あれだけ感情的に動いてた彼女がどうした!?と感じる人がいるかもしれませんがもともと彼女には素養があったと思います。
第十回「走れ竜宮小僧」で父親が不慮の事故で亡くなった時も、泣きながら動揺していましたが「悪いのはきっと父親だ。」とちゃんと理解しています。
彼女はおこった現実を曲げずに受け止めることができる人です。
ただ「情」のエネルギーが人一倍強く、行き場がないとどうしても理性的に動けない事がある。だから直虎と感情の共有が出来た後、彼女が見えないところで成長した事は不思議な事ではありません。
それからの日々を「お方様」として過ごす中で、自分の立ち位置や果たすべき役割、トップである直虎が抱えるもの、それを通して虎松が背負っていかなければならないものが、しのさんの中で見えてきたとは想像にかたくないです。

 

 

そして個人的な推測ですが、このしのさんの素養はどうも奥山家の人々は井伊の中でも二歩ぐらい下がって現実を把握し、人々を「つなぐ」能力があるという面からからきてるように思われます。
なつは、小野家と井伊を。言うまでもなく六左衛門は各方面で。だからこそマネジメント能力がとわれる「お方様」の役職をしのがこなしていても違和感なく納得してしまいました。
いや、兄弟ができるからといってみな出来るとは言い切れませんが。ただもとからあった奥山由来の素養が花開いたと考えたら筋が通るかな?と推測してみました。
まぁ、そのそも彼らの父親である奥山朝利は血気盛んな井伊家のなかでは、意外としたたかななとこがありました。直親であれ政次であれ自分の孫が家督をつげればよしとするところなんかは。
逆に言えば、それだけ周りを見て判断できる能力があるという事です。感情さえ安定すればその能力が出やすいということかもしれません。なつは玄番が、六左衛門は直虎との出会いによって。
今回、しのは徳川と井伊を「つなぐ」という大きな役割を果たします。いろんなものを繋いできた奥山家の能力が生かせる最大の大仕事を、彼女なら立派にこなしてくれると信じていきたいです。

<武田という天災>
前回、武田包囲網をつくればどうにか戦を回避できるんじゃ、みたいなシーンが井伊谷・秘密の対談(直虎・政次・南渓)で行われていました。
なんだ、その悪のラスボスみたいな扱いは?と思っていましたが、今回ほんとにそのラスボスの片鱗をみせてくれてました。
徳川には自分達と組むことで大井川より西の今川の領地を約束し、寿桂尼なき今川には、遠江そのものをよこせと恐喝。
この二枚舌外交っぷりに白目をむきながら、きわめつけはその「遠江をよこせ」という無理難題も戦争を始めるための口実なことです。
朝比奈が調略された家臣の首をもってくることさえ、そのための布石に思えてきます。
こんな悪狸に対抗していかないといけない今川・井伊・徳川はかなりのハードモード。
共に戦を避けたいという方向性は同じなのに、今川は「デスノート」を井伊に使っていかないといけないし、酒井に押されている家康をみるにどうやら内部での政治力は強くない。
ゆえに、瀬名や家康が内心どう思おうと井伊の不戦の約束も危うさがある。
直虎の「不戦」という戦い方はなかなか難しいものがありますが、そこに住む人々の顔一人ひとりが浮かぶ分、切実で。

 

ともあれ、武田の行動がのちのちの井伊の運命を翻弄しくうえで、「悪」の役目を話の中で背負っていますが、これまでの森下さんの脚本をみるに、彼の違う一面もありそうなんすよね。
「生きる事」は「食べる事」といわんばかりに焼魚を食べつつ、自らの調略っぷりに、にやりと笑う信玄公を見ているとなんとなくそう思いました。

 

 

正義や権力を求めた男に最後に残ったものとは? ~J・エドガー~

J・エドガー [Blu-ray]

アメリカの物語に触れていれていようが、いなかろうが誰もが聞いたことがあるFBI連邦捜査局)。
その初代長官にて、長い間その地位に50年近く君臨し続けた続けたJ・エドガー
彼の捜査網によって得られた情報は、大統領さえも脅かすもので、彼らさえもエドガーを恐れていたといわれています。
これはアメリカの権力を握りという一面がありつつも、犯罪捜査を前進させた一人の男の光と闇にスポットライトをあてた作品です。


<科学とデータに信頼をよせて>
J・エドガー氏の事はこの映画を見るまで知らなかったのですが、見ている間、にやっとしたことが幾度もありました。
というのも私はアメリカドラマ(警察もの)をけっこう見ているほうだと思うのですが、彼の導入した「科学調査」「資料のデータ化」「指紋のファイリング」
の基礎がここで描かれているんですよね。
大ファンの「CSI:科学捜査班」をみるとひたすら「科学すごい。科学、強い。」と思わされるます。
こんなに早く検査結果がでるわけないだろ!とつっこみたいとこもありますがそのエンタメの嘘を含めても、科学への絶対的信頼が物語をおおってるように思います。
大体、この手の「事件を解決する」物語は私は4つに分類していています。

コンビで事件を追う「バディ型」
組織内政治力の中でつらぬく正義を問う「組織型」
社会の抱える闇を問う「社会派型」
クラシカルな推理に重きをおく「探偵型」

もちろんいろんなこれらの要素が絡み合って作品ができていると思はうんですけど、このドラマはそれらとは別に「科学とデータベース」に重きに置いてる印象があります。
まぁ、あくまで重要度が高いというだけで、上記の4つももちろん絡んではきます。
だけどCSIシリーズを見てると、なにかしら「データベース」にアクセスをするシーンがよくでてくるというか、指紋だけじゃなく車のタイヤ痕や虫・草花のデータとか、
なんでそんなのがあるの?というものまで出てくるんですよね。
物語上の嘘ももちろんあるとは思いますがこの「科学とデータベース」への信頼っぷりがの始まりが、「J・エドガー」の物語と繋がってちょっと感動してしまいました。

 

 

この「データベース」をつくるという発想自体がエドガーの国会図書館のカード検索から始まっています。

その彼の分類能力?というか仕訳能力を組織レベルまで浸透させた結果、捜査能力を飛躍的に発展させてるんですよね。
もちろん「科学調査」だけに力をいれたわけではありません。
彼は当時の捜査体制にもメスをいれています。
その地方の自治警察が対応していた事件を、州をまたいで操作できる権限を捜査員にもたせる事で、犯人を捕まえやすくし、事件解決をスムーズに導くことに成功しています。
アメリカの歴史に明るくないので、なんともいえないのですが合衆国というだけあってこの国は州ごとが一つの国として独立している。徳川幕府みたいな?
その分権的であった捜査を、一か所に情報をまとめたことは画期的だったのではないでしょうか?


エドガーの内面に寄り添う者達>
FBI長官という権力を手に入れたエドガーですが、彼の内面は複雑で繊細、そして矛盾に満ちています。
支配的な母親に育てられ、彼女の理想の息子であろうとして「ほんとうの自分」をさらけ出せない。

その臆病さの裏返しのごとく、人より優位に立つためなのか情報や権力への執着が凄まじく、常に疑心暗鬼です。
社会の顔はこれだけ強権的なのに、彼自身は女装の趣味があるような一面があり、同性愛者の副官がいつもそばにいます。

 

二面性を抱えるエドガーですが、彼に恋をしている副官のトルソンと一度は告白してフラれた秘書のギャンディとは、強い絆で結ばれています。
この二人への信頼と敬愛にあふれていてびっくりしまう。典型的な身内に優しく、他人にきびしいタイプ。
トルソンとの関係は、ぼやかしてかいてるというか視聴者の想像に委ねていますが、二人は恋人同士だったのでは?と思わせる描写があります。
私の中では、トルソンの片想いのままの感じがしますが。けどそうであろうがなかろうが二人はエドガーの人生の共犯者といっていいと思います。
それくらい深く自分と相手の人生をシェアできるならそれを「愛」という他ない。
これまた秘書のギャンディが良くって、エドガーとは付き合えないし結婚にそもそも興味がないといったけど、ずっと彼の傍で仕事をして絶対に裏切らない。
三人ともずっと独身であり続けました。
例え周りが敵だらけでも、これだけの絆があれば彼の人生は幸せに満ちている。権力者の臨終にしては少し寂しさが残るものだとしても。

 

それにしても、エドガー役のディカプリオさんは、すごかったです。青年期から老年期までを役の中で見事に駆け抜けて演じてました。矛盾を抱えた非常に難しい人格を矛盾させずに一つにまとめていて感嘆させられました。