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物語同士のつながりが好き

親と目線が対等になる時の衝撃~強父論~

強父論

エッセイスト兼タレントで活躍なさっている阿川佐和子さんの父親との思い出をつづった本です。
この阿川さんの父親は「山本五十六」などを書かれた小説家の阿川弘之さんですが、絵にかいたような昭和の暴君きわまった頑固おやじといいますか、
現代だと速攻アウトな人間です。

 

 

彼がどんな人間かというと佐和子さんはこう書かれています。

情に脆いところもあり、子供の頃から友達に揶揄されるほどの泣き虫だったそうだが、同時に非情なほどの合理主義者である。

と言いつつ、理屈より感情の先立つことが多い。男尊女卑でわがままで、妻や子供には絶対服従を求める。
他人に対しても、気に入らないことを言う人や、自分に興味のない話を勝手気ままに長々と喋りまくる人は嫌いである。
常に自分が中心でありたい。自らの性格が温和とほど遠い分、周囲はできるだけ穏やかであることが望ましい。
でも世間を相手にそこまで思い通りにいかないという分別がないわけではない。だから外ではなるべく我慢する。
極力おおらかな人間になって、「阿川さんはいい人ですね。立派な方ですね」と褒められたい気持が人一倍強い。
そのため少しばかり努力する。いきり立つ感情を抑える。
爆発するまい、癇癪を起こすまいと、自らを制し続け、我慢を重ねた末、家に帰り着いたとたん、ちょっとした火種、すなわち家族が無神経な言葉を発したり、気に入らない態度を示したりしたとたん、たちまち大噴火を起こす。
だから怒鳴られる側にとっては「唐突」の印象が強くなる。

 

 

 

ここを読んだだけでも、弘之さんは父親としては問題児ですが、当の佐和子さんはユーモアをもって書かれており読みやすかったです。(かなり受け入れがたい所があるにもかかわらず)
なんというか父親とそのきつい環境におかれた自分達家族をどこか客観視しているように見えます。その風景を映画館で楽しんでいるような佐和子さんがいて、そしてその映画館の椅子に座っている自分を横で見ている自分がまた別にいるような。

彼女の二重、三重の客観性を感じます。
多分、そこが彼女の司会者やエッセイストであるときの鋭さにつながってるんだなぁと腑におちました。
よほど強い客観性が彼女の中になければふつうなら人生を食われてしまうんですよね。テレビで拝見しているだけだとものすごくバランスがとれた方だと印象を受けます。

 

<変わらない人と変わる関係性>

それにしても弘之さんは典型的な家父長制における父親で、昔はよくいたんでしょうね。

この家族スタイルだと良くも悪くも絶対的に父親が上で妻子が下の立場という関係性にどうしてもなってしまうのですが、どうも佐和子さんが「物書き」をはじめてからちょっとおもしろい現象が起きます。
ある日、父親に関するエッセイを頼まれて、「うちの父親ってこんなに横暴なんです。」というような内容を赤裸々に書いて弘之さん本人に添削もらうシーンがあります。

 

 

「はい、赤鉛筆と眼鏡」
手渡すと、眼鏡をかけて原稿を読み始めた父の横の床に私は膝立ちの恰好で控える。
たちまち、父の持つ赤鉛筆が動いた。
「まず、名前の位置が悪い。タイトルのあと、一行開けて、名前。そこからまぁ二行ぐらい開けて、本文を書きだしなさい」
「はぁ」
「そこからここ。だった、だった、だった。だったが三回も続いている。安機関銃じゃあるまいし」
「ほぉ……」
「あと、に、に、に、に、『に』を四回も続けて、ニイニイゼミじゃない。こういうところに神経の行き届かない文章はダメだ」
「はい……」

 

 

これ、驚いたことに佐和子さんの内容に一切口出してないんですよね。本当は、彼の立場から言いたいことがたくさんあったのでは?と思います。彼の個人的性格を考えれば。

彼女も原稿を引きちぎるのではないかと思ったみたいですが、そんなこともなくただひたすら文法や語法について赤入れしてるだけなんです。
確かに彼は他人の人生についてあれやこれやと書いてきた作家なので、たとえ娘が自分の事を書こうと口出す権利はないとは思います。
だけど家庭内であれだけふんぞりかえっていた人が娘をちゃんと一人の作家として扱っているんです。
上から目線でしか見なかった父親が「ものを書く」同じ土俵にたって、はじめて目線が娘と同じになります。
別に彼らの関係性がそこから劇的に変わるわけではなく、あいもかわらず弘之さんは横暴ですが、親の「親であること」以外の人間性に触れてしまい
一瞬でも上下の力関係にいた者達が対等になっていているのはすごく面白い。

 

 

この相手の「違う面」に触れてしまうというのは結構あって、というか人はいろんな面がミルフィーユのように重なってその人ができてるんですよね。
親であることや子であること、社会人であったり、友人であったり、恋人であったり。
いろんな面のどれがほんとうの自分かということではなく、どれもほんとうの自分として。
だから、心が通じていると思っていた友人が思想性でぶつかったり、差別的でいやな人間と思っていた人が違う面では好きだと思えたりします。
まぁ、親が一番インパクトあるかもしれません。基本的には「親」である一面とほぼ子供はつきあっていくので。
だけどそれ以外の面を知っていくことは、私は悪いことではなくむしろ相手に過剰な幻想をいだかないようになるという点において、大人になるためのある種の「儀式」でもあるのかなと思います。

 このへんの話になるとよしながふみさんの「愛すべき娘たち」の中の

 

「分かってるのと許せるのと愛せるのとはみんな違うよ」

 

のセリフを思い出します。

 

佐和子さんの場合は、それはどの程度だったのか?自分はどうなんだろうか?と思いながらこの本を読みました。

 

 

 

 

 

 

なかない鶴と鳴く犬は。人のステージが変わった瞬間をみてしまった。~おんな城主直虎18話~

おんな城主 直虎 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

 

今回の「あるいは裏切りという名の鶴」は神回じゃなかったですか?
もう第何次小野政次インパクトなの?ってくらいこちらを揺さぶってきてました。
好きすぎて言語化も分析もしたくねぇー!!って感じで、心が脳を拒絶している状態だから
いつも以上に乱文になるとは思いますがお付き合いください。
というか、かなりの妄想と推測が入り混じるのですが、今時点での私の理解メモとして書いていますのでご注意を。


しょっぱなから「政次」「政次」といってますが最初に「瀬戸方久」について触れたいと思います。
私は政次と方久にある同じテーマを感じ取っていてそれが

 

「村社会という共同体のスケープゴート(生贄)に選ばれてしまった者」

 

 

というものです。

これっていわゆる現代にもつながる「いじめ」の構造にも似ているものがあります。
人身売買があるような血と血で争う内戦が続く乱世という戦国サバイバルを生き抜こうとすると集団が一致団結しなければなりません。
その時に、内部に仮想敵がいるとめちゃくちゃ仲間意識が高まる効果があって、ほんとこういとこだめだし許しがたいのですが
これが外部の敵に向かう時は意外に内部は穏やかでうまくいったりするのでなんとも難しい所です・・・・。

政次の場合は、もともと小野家が嫌われることで、方久の場合は「解死人」としてその役割を担っていました。

 

 

 

<利をもとめ鳴く犬・方久>

今回はそんな方久が活躍した回でした。彼は「解死人」から商人に成りあがった切れ者です。

政次達より先回りして種子島を今川に売りつけて謀反の疑惑をもみ消しました。
しかも直虎の指示なんですと説明をそえて。

いやはや、この清く正しく明るい死の商人(武器商人)っぷりは惚れそうになります。
今川・井伊・方久、三者にとっての「利」を彼は提供しました。
今川は軍備増強を。井伊は、謀反疑惑からくる直虎の後見おろし回避を。方久は開発費を。
しかも井伊に恩を売りつけ自分の立場をさらに強化することができました。

 

 

彼のこの軽やかさは、特定の土地や人や絆に縛られてないがゆえの自由な商売人の発想からきているものではないのでしょうか。。
集団に属してはいても最下層にいたからこそ、冷静に何が「利」になるかを見極めれるようになったのではないかと推測します。
ぶっちゃけていえば、「解死人」だったからこそ見える世界があって、それをばねに彼はここまできました。
バックグラウンドを考えれば闇しかみえてこないにも関わらず、人生を切り開いている胆力にはただただ唸るしかありません。

 

ヨルムンガンド(1) (サンデーGXコミックス)

ヨルムンガンド(1) (サンデーGXコミックス)

 

 

 余談ですが、彼の「銭の犬」芸というか、カンカン芸は「宮廷道化師」の感じがするんですよね。「笑い」がもつ差別構造を逆手にとって「王」に意見するとこが。
ムロツヨシさんの演技がそれに拍車をかけている気がします。

 

ミムス―宮廷道化師 (Y.A.Books)

ミムス―宮廷道化師 (Y.A.Books)

 

 <守るために沈黙する鶴・政次>

さて、政次の場合方久と違って土地や人や絆に縛られて生きてきた人です。
井伊の内部で差別にさらされてきた彼は、くせのある頭の良さというか理詰めな人になりました。
井伊のお前なんか嫌いだよ!!っていう負の感情の嵐から自分を守るには、論理的に対処する必要があったのです。
だけどまぁ、いわゆる「正論」をロジカルにを言おうが「空気よめねぇな。あいつ。」で結局悪循環にはまってしまうのですが。

政次が孤高のままほんとうにひとりぼっちなら話が変わりますが、彼には直虎や直親との幼少期からの絆があって今ではなつや亥之助という家族もいる。
その土地に住む人を愛しているから方久のようにそこから逃げ出す事はできません。
それらを守ろうとしたとき、誰かに頼ることができなかった環境で育った彼の方法は「悪役」になるという自己犠牲でした。
それが政次のこれまで築いた関係性を壊してしまうものだとしても。

 

 

「自己犠牲」と書きましたが、かれがそう思っているかはちょっと今は保留しときたいと思います。
一人称の小説じゃないのでここらへんは視聴者の想像力にゆだねてるとこがありますね。
うーん。少なくとも直親を失って以降は彼は自らの決断によって選択してると思うのですが。
なんにせよ、この方法って絶対に誰にもばれてはいけないという前提条件がないと成り立ちません。

で、今回それがもっともばれてはいけない人に知られてしまいました。
直虎です。(長かった。やっと本題に触れられる。)
彼女が政次にいいました。

 

「政次。われは己で選んだのじゃ。この身を直親のうつし身とすることを、誰に望まれるでもなく強いられるでもなく、己で選んだ。己で井伊を守ると、われは己で決めたのじゃ。」

 

 

この乙女らしい袖クイからの上記の剛速球なセリフに腰がくだけそうになったことはおいといて

政次はどうも直虎がこれまで「我慢」して、今いる立場にたたされていると思っているふしがありました。
マクロの事情に流されて直親とも結ばれることもなく悲恋に見えたことでしょう。しかも遠因は自分の父から始まり、彼を間接的に死に追いやったのは自分だと責めています。だから残された彼女だけでも守ってやらないと。直親のためにも。との思いがあるのかもしれません。

 

だけど、実際には彼女は自分の決断でそれを選んできました。
そんな彼女だからこそ自分自身の意思で「城主」になるという選択をしたんだ!!って宣言を政次にしています。
この自分の意思を尊重しろって相手に要求するときには同時にその相手の自由意志を認めなくてはなりません。
自分はよくても相手はだめなんて道理は通りません。
だからこそ、政次の不憫に見える自己犠牲的な策も彼女はまっこうから否定する事はできないのです。彼のシナリオに乗る、乗らない以前に。

「仮に、もし、われが女子であるから守ってやらねばならぬとか、つらい思いをせずとも済むようになどと思っておるのなら、お門違い。無用の情けじゃ!」

 

 

そしてその自分の決断を否定する理由に「かわいそうだから。女だから守ってやらないと。」というのは受け付けませんよといっています。
だって可哀そうではない彼女が選んだことだから。
それでも政次が否定したいのなら例えば「城主」としての器がたらないからという理由じゃなきゃ口出す権利がありません。


この後に、直虎は

「われをうまく使え。われもそなたをうまく使う。」

といっています。
これは政次の「悪役」という方法を否定せずに、かといって自分の「城主」である権利を通したうえで
お互いそれを利用しあいませんか?という交渉を「城主」として持ちかけています。
いや、このへんほんと彼女はすごいなと思います。
このあと政次は彼女への返答として「臣下」として「城主」に提言しています。

 

選ぶまでもないという選択肢がない不自由さの中で強いられた事と自らの意思でそれしないないと選択する自由の中にいることは同じ行動でもまったく意味合いが違います。
直虎も政次も後者であるとしたら、彼らはもはや可哀そうな井伊の犠牲者ではなく共に戦う自由意志をもった戦士なのです。

 

それにしても直虎は直親には「亀は、かわいそう。」とかいっといて政次には容赦ない感じはちょっと一周廻って笑ってしまいます。
政次は騎士道的愛で直虎を見上げてる感じが一部するのですが、直虎のほうが襟をつかんで対等な目線までひっぱりあげてるような。
ちょっと乱暴にあつかっても政次なら大丈夫☆という信頼というか甘えというか。
そもそも直虎は自分が男なら「直親は死ななかった」と思い、政次は自分が結果的には「直親を死においやった。」
というサバイバーズギルトみたいなものを抱えていて、そんな二人がようやくここまできたのは感慨深いです(史実から目をそらしつつ)

 

 

けど、個人的にはまだまだ恋心みたいなものは捨てきっているかというのはかなり懐疑的で、それを捨てずにあらたな感情がプラスされていった感じがあります。

男女のブロマンス的関係からはじまる恋愛があってもいいじゃないですか!?(本音)

政次の恋愛偏差値はこの際おいといて。

というか、直虎本人も大人だったり、少女だったり、城主だったり、そのへんの女性だったりころころ変わる一面をもっていて、「井伊のため」というマクロの選択をできる彼女が「嫁になんてもらってやんねーよ。」って軽口に「なにをー!」というような小学生レベルのやり取りしちゃうギャップに私ならやられちゃうんですよね。これは確かに政次じゃなくともからかいたい。けど、自分の本心に踏み込ませないために冗談で先回りするやり方には、真顔で彼を問い詰めたい感がある。だって傷ついた顔をするもんだから。

ここに龍の例のあの人が入り込んでくるのはなんとも修羅場的ですが。てか、直虎の水筒を飲み干すとこは、なんかエロかったですよ。

 

 

今回の本心をあかさず本心にふれるやり取りは、彼らの本当の意味での子供時代の終わりのシーンでした。
おがちちかさんのLandreaallという作品なかにもこういうセリフがあります。

「あいつとは多分一生建前のやりとりを続ける仲だが俺たちはそれでも友人でいられる」

「大人になるとな DX 」

「明かさない本心を無視する礼儀正しさを身につけて信用し合えるようになる」

 Landreaall 17巻  (オズモのセリフ)

 

こういう心の機微を戦国大河で見られるとは思っていなかったのでほんと僥倖です。

 

 

最後に少しだけ。
直虎の

「私には、恨みを後生大事にかかえるような贅沢など許されますまい。」

 

のセリフ。いや、これほんとそうで義憤にかられて戦争ふっかけられるほど井伊に国力ないんですよ。現実的な話。
個人的恨みを乗り越えて国の明日のためにベストな選択をとることができるのがリーダーの責務なんですよね。
だけど、簡単なことではないゆえにそれができる人がリーダーなんだという逆説的なものもあります。

 

この言葉からわたしはフィリピンのキリノ大統領を思い出しました。
彼は、日本兵に家族を殺されても将来の日比関係を見据えて私怨を断ち切る決断をしました。
この負の連鎖が続く世界で「赦そう」「乗り越えて見せる」とする意思が確かにあることは人々の道を少しでも明るく照らしてくれます。

 

フィリピンBC級戦犯裁判 (講談社選書メチエ)

フィリピンBC級戦犯裁判 (講談社選書メチエ)

 

 

 

 

 

記憶を失ってもそこに残る何か~アリスのままで  (原題 Still Alice)

アリスのままで(字幕版)

大学で言語学者としてバリバリに働いている50才のアリス。優しい夫は医師。
子供達は三人いてそれぞれ自分達の道を進んでおり、絵にかいたような比較的裕福な幸せな家族。
それがアリスの若年性アルツハイマーによって徐々に崩れていく。

 

<若年性アルツハイマー追体験

 

この作品はアリスの目を通してこの病気が奪っていく日常を体験していく事になります。
淡々と話が進むけどじみにつらくて例えば、趣味のジョギング中に自分がどこにいるのかわからなくなる。
講義中に言葉が出てこず生徒からの評価が悪くなる。
娘と喧嘩しても内容を覚えていない。
トイレの場所がわからなくなって、もらしてしまう。

一番きついなと感じたのは、アリスが「自分が本当にだめになったら自殺しよう。」
と思って動画で未来の自分のために自殺マニュアルを作ったんだけど、それすら実行できない病気の怖さ。
自分の知性によって人生を切り開いてきた彼女にとって、自分をコントロールできないのは耐えれない屈辱であり、そんな自分を家族にも迷惑かけたくないゆえの行動。
だけどいざその時になったら「死ぬ」という選択さえ、彼女には出来なくなってる。

 

<家族からみたアリス>

 

そんな彼女を支える家族の夫のジョン。長女のアナ。長男のトム。次女のリディア。
彼らのアリスに対する考え方の違いが対照的でリディア以外の家族はエリート街道をというかいわゆる安定した人生を送っている。
だから彼らがどんなにアリスを愛していても、その安定したレールから外れてしまった彼女に「憐憫」を感じおそるおそる接してしまうんです。
これって彼らがひどいわけではなく、愛しているからこそ自分達とアリスの間に出来てしまった「溝」にどうしても躊躇してしまうんですよ。

 

その逆にリディアは売れない不安定な職である女優。
アリスも明日、自分がどうなっているかわからない。その不安定さを共有することができるがゆえにリディアはアリスに対等に接することができる唯一の相手となります。
安定した職についてほしい母のアリスと夢を追い続けたい娘のリディアとの間にあった「溝」に皮肉にも病気が橋をかける。
重なり合う事のなかった彼女らの人生がここで重なってしまいます。

なんというか、ライフステージをおなじ所にいたゆえに出来てしまった「溝」と違う道を歩んでいるからこそ、わかりあってしまう人生の摩訶不思議さがここにあるような気がします。


<記憶を失えば、人はその人でなくなるのか?>

記憶を失っていくアリスを見て「自分」ってなんだろ?
と思いました。なんか哲学的問いになってるけど、記憶を全部なくしたら自分じゃなくなるのかな?と。
だけど、誰かと人生を共有したのならその人の中にも「自分」という存在は刻み込まれているんじゃないのかなぁ。
「自分」とは「他者」との絆の積み重ねの中にも「自分」が存在していて
「他者」の中に「自分」が存在する事。
「自分」の中に「他者」が存在する事。
それを「愛」と呼ぶのではないでしょうか?
だからこそ利己的な遺伝子を本来もつ生き物である私たちは、時として誰かのために自分の命だって差し出してしまう。

このひとつの形がベターハーフ(better half)で、相手の中にもう一つの自分の半身を見つけてしまうと自分以上の存在になる。

 

映画の最後にでじっとした(still)自分がだれだか分からないアリスが、いまもなお(still)アリスであり続けるのシーンをみてそう思いました。


<受け止めた先に>

アルツハイマー認知症を扱った作品はそこそこありますがここで「ペコロスの母に会いに行く」を紹介したいと思います。

 

ペコロスの母に会いに行く 通常版 [DVD]

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 アリスのままで」はどちらかというとアルツハイマーを受け止めるまでの話でしたが、「ペコロスの母に会いに行く」は認知症になった事でたどり着くことができた風景があって、そのありふれた奇跡が美しかった。
これは私の認知症だった祖母もみた景色だったんで泣いてしまったんですよね。
作品自体は、ユーモアをもちつつ介護の厳しさがその中に確かにあることを感じました。
直接的なつらいシーンはそんなにないのですが、介護から離れて主人公が仲間たちとわいわい楽しそうにするシーンが逆に
「あぁ。ここは逃げ場なんだな。人生のつらさに立ち向かうための一時的シェルターなんだ。」
と、思わせてどこか介護はそんな甘くはないよ?という視聴者の目線に対してしっかり現実感を根付かせていたように思います。


Glen Campbell - I'm Not Gonna Miss You

最後にアルツハイマーになったカントリー歌手のGlen Campbellの

Ⅰ’m Not Gonna Miss YOU

僕はきみの事を寂しいとすらおもわなくなる)

を。

 

 

 

 

 

 

パックス・イマガーワ(今川家傘下の平和))の揺らぎと小野政次政務官の政策の行方~おんな城主直虎17話~

おんな城主 直虎 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

前回は、内政で国を潤す「富国」で今回は軍事力強化をする「強兵」の話となりました。

新兵器「種子島」(火縄銃)を自国で量産化を目指すものです。

百姓集めの時は遠回りなアドバイスをしてくれた政次も「今川家から謀反の疑い」をかけられるといって軍事力を増すことには反対のようです。

で、ここで私の中で政次への疑問が二つありそこから彼の政治家としての思考を推測していこうと思います。

 

①「軍備増強にほんとうに反対なのか?」

②「今川家の属国であり続けるという戦略は正しいことなのか?」

 

 

まずは①から。

いや、従属国として宗主国のお伺いをたてなきゃいけないし、疑われるような事をしてはいけないという事はわかるんですが、この戦国乱世のなかで他国が新兵器で武力をつけていく中で自分のとこだけやらないというの自殺行為です。
というか軍事力が均衡していなければ戦争の抑止力にならなくて、強い方がすぐにせめこんできます。たとえ今川でなくとも。
なので井伊と今川の二国間で火縄銃の共同開発を提案するのが、今川をたてつつ井伊にとってもベターな選択の一つ。
それなのに「今川家の逆鱗にふれそうだから。」というだけで反対するには理由が弱い。
彼が今川家に盲目的ならわかるんですが、11回「さらば愛しき人よ」では直親と徳川とのパイプラインを作っておこうとう案に彼は消極的とはいえ賛成しています。
ゆえに彼は今川家を全面的に支持しているわけではありません。

 


じゃぁ、なんで反対したのか?と考えると直虎を後見から引きずり下ろす目的が主にあると思います。
まだ、あきらめてなかったんかい!?という思いもありありますが今回、今川家ではある動きがありました。
「寿佳尼が倒れた事」です。
この事実がもたらすのは今川家の本格的な政権交代が起こり、反・井伊家の機運が高まる可能性です。
氏真が当主とはいえ実質、寿佳尼が実権を握っていました。彼女のような道理をわかってくるタイプなら直虎はよかったのですが氏真はそうとは限りませんし、というか相性が悪そうなんですよね。ばんばんぶつかっていく雰囲気さえ感じます。しかも二度目はないと釘をさされた。
それよりか氏真の気性を知り、御していける自分が後見になった方が井伊も直虎も守っていけると政次は考えたのでは?と思います
(ぶっちゃけ8割がた直虎のためな気がするけど)

 

 

そして②について。
これだけ群雄割拠して明日どうなるなかわからない時代に、今川との同盟だけをメインに考えるのはちょっと危険な感じがします。
従属国が従う・従わざるをえないという状況は、圧倒的に宗主国側に「武」や「商」の力があり、その覇権のもとに安全が保障されているとい時に有効な体制です。
(独立国としてそれはいいのか?という問題が残るとはいえ。)
なのでこの条件を満たすのは「今川家」が周辺国を圧倒的軍事力でおさえる事が前提となります。

ですが、そんなに「今川家」って強いのでしょうか?

遠州錯乱」がおこり反・今川家の運動の高まりで国が弱体化しています。(いくらかは、そこから回復したかもしれませんが)
だから今川家以外との可能性として、直親の徳川家と同盟を組んでバランスをとる戦略は悪くなかったとは思います。
ただ圧倒的に外交センスがなく、インテリジェンス(諜報活動)の動きに鈍いだけで。
このへんのマクロの動きがちょっと知識的にわからないし、直虎目線で書かれているので、政次がどれだけ見越して戦略を練っているのかはかりかねるところです。

 


ただなぁ、①でもいいましたが政次は別に今川家に忠誠心があるわけでもないので、中華帝国儒教ベースにとりこまれ身動きとれない朝鮮王朝とはわけがちがうと思うんですよ。
ほんとは、間者を使って情報収集して総合判断できればいいのですが、なんたって井伊は人材不足。
人材どころか資源もない!金もない!軍事力もたいしてない!
そんな、なにもない中でやっていかないといけないので非常に苦しいです。

 

柳生大戦争 (講談社文庫)

柳生大戦争 (講談社文庫)

 

 いやぁ、まあ単純に直親との策を命でもって失敗したので、トラウマになっているだけかもしれませんが。
その失敗を失策だったと彼が考えているのであれば、今川家に逆らわない事を最優先事項とする彼の方針に合点がいきます。
しかも同じ過ちで直虎を失うとか恐怖でしかないでしょうから。
でも、政次さん、戦術レベルの失策したからといって戦略がまちがいだったわけじゃないですよ。いくら結果論だとしても。

これに関しては、次回以降ででわかるかもしれないしわからないかもしれないので心して待っときたいと思います。

 

 

 

さて、いつものごとく全然内容にふれてないのでそろそろ虎松周辺についても触れておきます。
私は家庭という場所は、人間が一番初めに愛憎を受けると同時に「政治」に触れる場でもあると考えています。
戦国時代であればなおのこと、この政治的側面が強くなるでしょう。
なので井伊を率いなければならない虎松があきらめない姿勢を将来の臣下である亥之助に見せたことは極めて意義があったと思います。
接待囲碁をやっていた時にはなかった「やるじゃん。虎松様!!」という淡い尊敬の念が芽生えたのではないでしょうか?
そして亥之助は、政次譲りの実務実現能力でもって虎松をきっと支えていくことでしょう。
しかしながら、虎松も井伊の猪突猛進ぶりばかり似ても困るので政次がそのへん指導してくれたらなぁ、という願望が高まります。

 


しのちゃんについては、うん。確かに跡取りの生母としてどうなんだ?という批判はわかるのですがこの人は愛情をかけてやればその分めちゃくちゃ返してくれるタイプに見えるんですよね。情の激しさがあるだけに。(前回も同じこといいましたが)
直親のこと好きだったのに、彼の愛情が得られなかったことからくる自尊心の低さ。自分には生母である以外に何もできないんだいう彼女の無力感と直虎への劣等感。
それらをコントロールできる頭の良さがないがゆえの攻撃性。
このちっぽけな自分とつきあっていかなきゃならないつらさは身に沁みます。。
しのちゃんの感じとして「カルバニア物語」のプラティナ王妃を思い出します。
こちらも夫が昔の恋人と大恋愛のすえ、結ばれなくて代わりとして自分がきたもんだからいつも愛情に飢えていたところがありました。
あぁ、彼女が心の隅っこにひっかかっていて、だから私は気にかけちゃうんだなぁ。

 

カルバニア物語(7) (Charaコミックス)

カルバニア物語(7) (Charaコミックス)

 

 なんであれ、直虎も女子のコミュニケーション低く、お互い欠点があるので精神的にこぶしで殴り合って分かり合うのが一番かと思われます。

 

 

君(物語)は私の友達だから~物語が擬人化し、人が物語化すること~

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〈物語の擬人化〉

キャプテン翼」の翼くんのように「物語」が幼いころからの友人でした。
幼稚園の頃なんかはホント友達がいなくて、だけど不思議とつらさがなかったのは、絵本やアニメがあったからだと思います。
母が毎晩、読み聞かせをしてくれるたびにここではないどこかへ連れていってくれるあの感覚は、今でも確かな温もりを呼び起こしてくれます。

 

キャプテン翼 (第1巻) (ジャンプ・コミックス)

キャプテン翼 (第1巻) (ジャンプ・コミックス)

 

 小学生からだんだんと友人ができ始めても物語が好きな事は変わらず、むしろ小説・ドラマ・漫画と媒体が広がる事でますますのめり込む結果に。
そうやって多くの物語に触れていると不思議なことがおきます。
自分の心の中に教室みたいなものができて、物語のひとつひとつが人格を持ち出します。
彼ら・彼女らは私たちと同じようにいろんな友人やグループをつくって、わいわい・がやがやしている感じです。

 

なにいってんだ?と思われるかもしれませがそうとしかいいようがなくて、
このブログでただ今絶賛「おんな城主直虎」キャンペーン実施中なので例えに出しますが、彼女の性格は現実にシビアなところがあるけど、すごく眼差しが暖かくてユーモアがあり生命力にあふれている。
その彼女の同じグループに「カルバニア物語」と「テンペスト」、「金の国・水の国」がいる。
彼女らは雰囲気が似てたり価値観が似てたり、ほとんどちがうけど一部は似てるところもあったりしています。

 

「カルバニア物語」は、女性の生き方や作品の持つやさしい眼差しが。

「金の国 水の国」は、技術や経済が世界を動かしていく事が。

テンペスト」は、宗主国と従属国の関係性の中で前に進もうとする人々の姿が。

 

カルバニア物語(1) (Charaコミックス)

カルバニア物語(1) (Charaコミックス)

 

 

 

 

 

テンペスト  上 若夏の巻

テンペスト 上 若夏の巻

 

 


一つの物語と新たに出会うたびに連鎖反応を起こし、シナプスみたいに別の物語と繋がっていく。
だから私のブログはある一つの作品を紹介する時に、他作品がよく出てくるんですよね。
「この子(物語)はあの子の友達でもあるんだよね。あの人にも似た雰囲気あるかも。」みたいに。


〈人の物語化〉

 

今度は、逆に人を物語のように感じる事について。

 

私は人の外見は「キャラクターデザイン」

雰囲気やしゃべり方、ファッションは「演出」

そして中身は「脚本」

 

と考えてるところがあります。

 

なので「キャラデザ」がよかろうと「演出」や「脚本」がだめだと、なにもかもだめだと感じちゃったり、逆に「脚本」が許せなくても「キャラデザ」と「演出」がずば抜けていると
まぁ、いっかと許せてしまう時があるんですよね。

 

この二つは矛盾してますが「程度」があって総合評価になっちゃいますね。
まぁ、だいたい「脚本」がいいとキャラデザも好きになっちゃうところがあります。
これは、つまりその人の人格を好きになっちゃうと外見もなぜか可愛くみえてくる恋は盲目というやつでしょう。

 

 

こんな風に人をまるで一つの物語のように感じるので、言葉が足りなくて誤解されやすかったりちょっと変わっていて理解されにくい友人がいたりすると、
「彼女という物語を途中から読んでいるから分かりにくいだけだよ。なれてくると行間に隠れた良さに気づくよ。」
といいたくなっちゃうんですよね。
だけど新たな人と出会うということは、連載途中の週刊誌を読み始める作業に似ているのでわかってもらえるのに時間がかかります。
まぁ、それでもわからないものはわからないし、きらいなものはきらいなのでこればっかりは相性としかいえないところですね。
だからこそ、自分は相手の言動や言葉の裏に隠れた文脈を読み取ろうとしますが、いかんせん修行中なのでいつもうまくわけではありません。

 

こんな風に「物語」と「人」がごっちゃになっているから、私の中でその境目が非常に曖昧でグラデーションのように繋がっています。
(現実と虚構を同じにするなと怒られそうだけど)
あくまで私の心の中の話として。


〈だからこそ〉


「物語」と「人」を同一視しているから、自分にとって大切な物語(人)が、例え世界にとって無価値だといわれて取るに足らないと評価されても、私は君(物語)に会うために生まれてきたし、君(物語)もまた私のために存在しているんだと思っています。(←少年ハリウッドの社長だ!!
抽象的な言い方をしていますが要は、世間からみたらイケメンじゃない彼氏でも自分にとっては世界一かっこいいし特別じゃないですか?
物語を自分の一部のように感じるから、そりゃぁ他人に否定されれば悲しいし褒めてもらえたら我がことのように誇らしい。
だけど世間の評価で揺らぐような「好き」じゃないんですよ。自分自身の評価が絶対基準にあるので。


だから、私のブログは基本的に「のろけ」なんです。

私の友達(物語)のここが好きで素敵で誇らしい。みんな見てくれ!最高だから!っていう名の。


〈最後におまけ〉


私にも当然きらいな物語や許せなかったり理解できない物語もあるのですが、
「なぜ嫌いなのか?」という分析作業にはいってしまい似た作品を読み漁り
「あぁ。だから嫌いなんだ。」と結局、自分自身の人間性や思考を浮かびあがらせて満足して終わってしまうという。
いや、嫌いな気持ちは消えたわけじゃないのですが、ほんのすこしだけ心に余裕ができる。
それに今、理解できなくてもこの先わかる日がくるかもしれない。一年後、五年後、十年後は自分もまた変質して、久しぶりに会ったら笑って話せる仲になるかもしれないし、ならないかもしれない。
その分かり合えるかもしれない余白は残しておこうと思います。

 

 

 

英雄不在の世界で生きる者達に捧ぐ歌「カ~ン・カンカン・カ~ン」~おんな城主直虎16話~

おんな城主 直虎 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

前回、寿佳尼に「民を潤す事」がマニフェストの最優先事項と提示した直虎さん。
今回はその政策の具体的実行力が問われる話となりました。


「国の土台は『食』と『安全』にあり。」と考えてる私ですが、それだけでは発展はありえないでしょう。
もうワンランク生活レベルをあげるために「殖産興業」ともいえる「綿花栽培」に着手します。
そのための「人材が必要が圧倒的に足りない井伊家はどうやってそれを解決するのか?」が直虎の今回の課題でした。

もう先に簡単に言っちゃと

「口コミ(ミュージカル風)によるプロモーションを茶屋という経済交流サロンで大々的に行う。(無料)」
というものです。

 

最初、直虎さんは他の領主に頼み込むというあほみたいな事をやったり(政次のいうように相手にうま味がないのでnot win-win)
「人がいなければ買えばいいじゃない?」と人身売買をマリーアントワネットみたいなのりでいいだしたりと、はちゃめちゃでした。(人買いは、購入費が高いしそもそも不定期でしかやっていない)

 

 ここで私がおもしろいと思ったのは、戦国時代に人と情報の流動性がかなりあるという点でした。歴史に明るくないしそれが正しいかは私にはわかりませんが

農民達は「逃散」といっていざというとき逃げ出す事ができるし、領主にその器がないと見るや他の権力機関に訴えを出すことができる存在として描かれています。
これってつまり意外と「土地」に縛られずに生きており、彼らには自主性があるという事です。
茶屋にも様々な職業の人たち(僧・山伏・職人・武士など)があつまり、情報交換の場として活気に満ちていました。
だからこそ条件のいい直虎の「募集要綱」にすぐに人が集まってきます。

 

 

この普通の人達の生活レベルから戦国時代を眺める視点というのは、私個人としてはめちゃくちゃ面白い。
というのも、そもそも直虎本人も別に「百年の計」を考えられえるようなウルトラ戦略家でもないし、戦場で華々しく活躍したり、散っていくような武将タイプではないんですよね。
つまり「英雄」足りえないんです。いってしまえば、これは、たとえ彼女にリーダー性やヒーロー気質があるとはいえ「そのへんの女性」がどうにか頑張っていくお話なんです。
「英雄」が世界を変えていく話は魅力的で大好きですが、「今」を生きている私たちの世界は「英雄」不在なんです。
なにがいいたいかというと現代は、一人の「英雄」ではなく「経済」や「技術」の力で一人ひとりが社会の役割を担う事でどうにかやっていってるじゃないですか?
つまり直虎たちが直面している問題は舞台が戦国でありながら現在の私たちに通じるものがあるのです。
というか、「おんな城主直虎」は英雄の話ではなく英雄(井伊直政)を育てる話だとTwitterでみかけてそのように考えました。
(そういえば、森下さんは実業家・小林一三の話も書いていましたね。)

 

経世済民の男 小林一三 [DVD]
 

 

 

それをふまえて考えると「おんな城主直虎」が様々な社会階層にフォーカスをあてることで戦国時代の社会構造を明るみにだしていくとういのはなんともチャレンジングです。

今回は農業革命とそこから火縄銃に繋がる戦争の戦術ががらりと変わるイノベーションについてふれていました。

 

 

 

堅い話はこのへんにして直虎さんは今回、政次の案が自分より優れていたのでリーダーとしてへこんでしまいましたね。
さすがお役所仕事をさせれば右にでるもはいない政次プロデューサーです。政策実行力の腕が違います。
だけど直虎はへこむ必要はぜんぜんないんです。
前から感想記事で書いていますが直虎は政治家タイプで政次は官僚タイプ。
政次がいくら事務処理能力にたけようと、リーダーには不向きなんです。
彼女のフットワークの軽さや、ブレイクスルーできる力、あきらめずに飛び込んでいく姿勢は土壇場になったときに、きっと下の人たちの心の支えとなっていきます。
いざ自分が何かに追い込まれた時に「直虎様ならここであきらめない。あきらめたっていわない。」と思わせるでしょうし、それは意外とすごい事なのです。
政次もそこを自覚的に利用できるようになるとよりいいんですが。

直虎のほうも政次にだけ、感情をむき出しにあらわしています。(「赤毛のアン」のアンもギルバートにそうでしたね。)
彼女が政次の能力を見定め使う事はこれからの課題です。
自分の感情の意に反する人をも使っていく事が彼女のリーダーとしての責務だからです。

 

 

さて、今回ちょっとしのさんについて触れておきますが、私は彼女が愚かな人だとは思えないんですよね。分をわきまえてないといえばそうですが。
彼女は父親が不慮の事故とはいえ政次に殺された時に「悪いのはきっと父だったのだ。」とちゃんとわかっていました。
だけど、それでも感情面がついていかない。それだけ彼女は「情」のパワーが強い人です。
実は直虎もこの「情」のパワーの強さは負けず劣らずで、その発散先として政次が選ばれており、意外としのと直虎は似たところがあるんです。
直虎は社会的地位の確立によって精神的バランスがとれていますが、しのさんの井伊家での政治力のなさっぷりをみるに彼女の精神的居所はまるでない。
このタイプは、爆発させるか、寄り添うかのどちらしかないと思いますが政次は、うん、そういうのできないタイプですね。
彼は、相談にのられたら具体案はだすけど彼女から「いや。そういう正論はいいから。聞いて欲しかっただけなんだけど?」と逆切れされるタイプなんですよね。悲しいことに。
そのへんの人間関係の機微も注目してみていきたいと思います。

 

 

そういや政次VS直虎と銘打って記事をを書いていましたが、どちらが勝とうが結局、政次の思いどおりじゃん!!と考えあきらめました。
勝っても負けても美味しい思いをするなんてずるいですよ!!おのれ政次!!(そこが好き)

 

『おんな城主直虎』好きにおすすめする『カルバニア物語』~世界の残酷さや断絶をとらえる柔らかい眼差し~

カルバニア物語(1) (Charaコミックス)


大好きな作品を誰かと語り合った時、好きなポイントが全然違った!!って経験はありませんか?
例えば、「おんな城主直虎」のどこがいい?って意見をきいたら、「役者さんの演技がいい」「音楽がいい」「脚本がいい」などのふんわりした理由から「直虎・直親・政次の三角関係が素敵!」「国衆達が戦国の世に振り回されていくマクロのダイナミズムが面白い」などの具体的なものまで様々です。

 

 

これってようするに「作品をどうとらえるか?何を求めているか?」という「視座」が人によって全く違うから起こっていてどの意見や感想も正しさがあります。
だけど、いやだからこそ「この作品が好きならこれがおすすめだよ。」って言う時には、自分の作品への姿勢や眼差しを添えて紹介していきたいと思います。
きっとおなじような「視座」をもつ人ならきっと琴線に触れると思うから。

 

キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)

キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)

 

 

さて、いつものごとく前振りが長くなりましたが本題に入ります。
なぜ「おんな城主直虎」好きに「カルバニア物語」を進めるかというと二つの作品のなかに「ひとの欠点や瑕疵やなかなか抜け出せない『業』」「だけど別の角度から見た時に同時にそれが光でもある」という両方を内包しているからです。
まぁ、そんなかたいことをいわなくてもこの二作品の設定は似たところがあります。

 

「カルバニア物語」は中世ファンタジーな世界で17才で即位した女の子「タニア・カルバニア」と女公爵を目指す「エキュー・タンタロットを中心とした群像劇。
彼女達は男性・保守的社会のなかで他貴族と時にぶつかり、理解しながら奮闘していきます。
こう書くと堅苦しくて構える人がいると思う人もいると思いますがけど肩の力を抜いて読んでほしい。

 

例えばここで出てくる、保守的な「タキオ・バスク」という領主。彼は「女の下につくのは嫌だ」といって最初の方はエキューを嫌っていますが

ビジネスを一緒にやっていくうちにだんだんと変化していきます。
が、それでもエキューが女侯爵になることに懐疑的です。
そんなタキオにエキューが「やれることや、やるべき事をしているのに何がきにくわない?」
と聞いた時、こうタキオは答えます。

「エキュー。気にくわないことなどひとつもない。」
「本当のことを言おう。いつも君には感服している。」
「君は公正で勇気があって努力家で、そりゃあ大した女だ。」
「君こそはきっとタンタロット侯爵がおつくりになった最高傑作だろう。」
「だからこそいい人生を歩んで欲しいんだ。」
「確実な良い人生を。」
「君には愛する男に手をひかれて安全な美しい道を歩いてほしい。」
「意外に思うだろうけど私もハゲたちだって君の幸せを心から願っている。」
「だからカルバニア初の女侯爵なんて誰も経験したことない冷たい風の吹く荒地みたいな場所に、君をたたせたくないんだ。」
「君の美しい顔が苦痛にゆがむのを見たくない。」(タキオ)
「君を気にいっている。」(タキオ)
「だから私はこうしてここにいるんだ。」
カルバニア物語10巻より

 

カルバニア物語(10) (Charaコミックス)

カルバニア物語(10) (Charaコミックス)

 

 

このタキオの言い分は確かに保守的な面もあるでしょう。その面には「女は男の領分に入ってはいけない」という負の部分もはらんでいるかもしれない。
だけどそれでもその中にタキオのエキューに対する深い敬意や愛情が同時に矛盾せず存在しています。
彼女を気に入っているから守ってあげたい。それが彼女の自己実現をさまたげようとも。
この保守的な考えの中にある両義性がタキオという人間の深さをあらわしています。

(というか、二つの矛盾した思いの中で悩みぬくこそが愛なんですよね。政次。聞いてるか?お前の事だよ。≪小声で≫)

 

これって「おんな城主直虎」のなかにもあって単純に「男」と「女」。「支配者」と「被支配者」。「外敵」と「身内」と、いっけん対立をはらみ敵視してしまいがちな相手の中に、スポットライトを別の場所からあてるとまったく違うものが浮かび上がってくる構造をもっています。
「女のくせに」という直之の中にある「女性は守らねば」という思いや、立場上弱くて守らなければならない百姓達にあるずるさと強さ、井伊家における小野家の存在。
その矛盾を抱えたものをみんな持ち合わせていて、それをつきつめて考えていくといくと誰も悪人なんていない。
そして相手の事が理解できたとしても完全にはその立場に立つことができない自分と相手の断絶さがそこにあり、自分の正義や生き方が誰かを傷つけていく残酷な事実が浮かび上がってきます。
だけどその過程には同時に優しさや愛おしさも確かにあるという人生のやるせない美しさが浮かび上がってくる。

 

 

なぁんか、小難しい事言い出していますが、とにかく二作品とも厳しさの中に優しい眼差しを感じるんですよね。
そういう作品が好きだ!って人にはおすすめします。

 

いや、「おんな城主直虎」にこの文脈の一つを私が勝手に感じ取っているだけで、ほかにもいっぱい面白いって感じるところがあって少女漫画的でありながら少年ジャンプの趣があったり小野政次さん、最高すぎない?」というキャラクターへの偏愛があり、弱小国衆やその下の名もなき人々の戦争だけじゃないサバイバルがあったりして、いいだせばきりがないんですよ。

 

そういういろんな観点からみえる面白さで他の作品を軽率にお勧めすればいいんじゃないな。みんな。
音楽がいいなら菅野よう子さんが携わっている他作品をおすすめしたり、小野政次が好きならきっとこのキャラも好きになる、とかね(←まじで求む)。
それがきっと作品を楽しむうえでの豊穣さにつながっていくと思います。

 

まぁ、そんなこといいつつ

「おまえの文脈の読み方なんて知るか!!これは面白いから見ろ!!」ってオラオラな壁ドンスタイルでおすすめされるのもぶっちゃけ大好きです(矛盾)