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君が生きる大河。君と生きた大河。~おんな城主直虎・総評~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

直虎が終わってちょっとほわほわしています。
もともと脚本家の森下さんの作品に出てくる登場人物達はキャラクター的でありながら、どこか生々しさ残していて、
本当に彼らの人生を共に追体験するような感覚に捕らわれるんですよね。
物語の人物でありながら「生きている!」という実存感をかんじさせられる。
だからその主人公たる直虎の一生を一年近く共に見守ってきて、その虚脱感がすごいです。
正直な所、頭の中すっからかんな状態ですが、とりとめとなく最後の感想を書いていこうと思います。

 

<負の鎖は溶かし、正の連鎖を紡ぎなおす>
まず私がこのドラマの初期の方に感じていた事が以下にあります。

 

12話まで視聴して、このドラマはどんなドラマかと聞かれれば、 「土着の狭い共同体と『家』。濃い血縁関係が生み出す閉塞感。それらのしがらみがあるゆえに、乱世というパラダイムシフトについていけない者たち。そして・・・」 といったところでしょうか。 特に前者の感覚は、横溝正史さんの「金田一耕助シリーズ」や京極夏彦さんの作品でも感じる、あのじめじめした狭い人間関係が起こす悲劇なんですよね。

負の連鎖の断ち切りと継承の難しさ~おんな城主直虎 - シェヘラザードの本棚

 

彼らの作品は日本的な土着社会と「家」の中にある闇の部分にフォーカスをおいていました。
で、直虎もそういう部分が練りこまれていたんですが、それだけではなくその負の連鎖を断ち切ろうとする人たちにも同時に光をあてていたんですよね。
かといってそういう闇を背負いながらも、そこから生まれた絆や命にも目をむけていました。

そんな闇の中で生まれた直虎という主人公、彼女は型破りな人として描かれてきました。
それこそ初登場から川に飛び込むような少女として。
時には畑から大根を盗みとったり、蹴鞠で願い事を聞いてもらおうとした事もありました。
そんな子供時代からの彼女を場の空気が読めないし、それがゆえにその場を支配する「空気」を変えていける力がある、
という見方もできますが、それだと少し言葉がたりない。

 

彼女は空気を読める力はある。でなければ、商人達との交渉事や政次が奥山殿を切りつけたあとの事件の収集に根回しをするなどということはできない。
空気をよんでもなお、空気を読まずに新たな道を指し示すことができる意思と力こそ彼女の本質。
それがもっともあらわれていたのが最終回の於大の方とのやり取り。
「子どもの首をさしだす」という空気に対して、出さなくても済む方法を提示しました。
そしてそこまでたどり着くのに、多くの救えない命があり、だからこそこれはご都合主義ではなく彼女の努力が導いた奇跡だと感じる事ができる。
戦国乱世で幼い命でも散っていくのが仕方ないという空気を、いやそれでも、そんな空気があるとしても違う道があるはずだと、しめしきる彼女は間違えなく
名もなき英雄で主人公でした。


<英雄のままにしないからこそ>
初期の井伊谷で嫌われ役の空気を押し付けられていた小野政次
彼は負の連鎖の中にいたにもかかわらず、闇にのまれず、その鎖さえ利用して最終的にはそれを断ち切る事に成功しました。
そして井伊のためなら己の命さえ厭わないという忠臣でもあります。
その行動は英雄的でもありますが、凡人より一線をこえた動機をもっていたかというと違うと思います。
直虎がいないと世界に対して生きてる実感を失ってしまうゆえに、命を投げ出すことに躊躇がない!それ以外はどうでもいい!と言い切りはできないというか。

 

確かに、直虎は彼にとって最優先事項で本懐ではありますが、その他の事に未練や執着がないとまでは言いない。
彼は今川の楔が断ち切れるかもしれないという時に、「小野」が光の当たる場所にいけるかもしれない、誰か(なつ)と家族になり共に生きる事ができるかもしれない、
そういう希望を確かにもっていました。

 

最初は直虎だけが世界のすべてで生きる理由だったかもしれない彼が、ここにきて自分にそういう幸せを許している。
直親を失ったあの日から許されない願いだろうと秘めてきた彼が。

 

だけど、それでも直虎や井伊のためならば「それしかない」と自らが捨て石となり道を切り開こうとした。
ふだんは「いのちだいじに」をかかげ戦をせぬ道をさぐっていた彼が、ここぞという選択の前では「ガンガンいこうぜ」モードとなり自らの命を差し出す。

 

私は彼が死ぬことを避けてきたからこそ、生き残るために力をなげうってきたからこそ、直虎以外はどうでもいいとは思わない人間だからこそ
彼がそれでも選んだ「直虎という主君と井伊のために死ぬ」という答えに心が揺さぶられました。

そしてそんな彼を悲劇の英雄のままにしないでいてくれた井伊谷の住人達。
彼の行動が「英雄」だから出来て、それは自分のような凡人はできはしないとは思わず
彼が背負っていた荷物を直之、六左衛門、万千代、万福たちが背負いだした。
それが本当に嬉しかったです。
彼が死ぬことで崇めるのではなく、横に並び立とうとする。
小野政次はもう、ほんとうに一人ではないんだと、そう思えました。


<大河とは?>
私自身、いつもまじめに「大河ドラマ」というものを見てきたというわけではないので「大河ドラマとは何か?」
という定義を求められると答えられません。
だからぼんやりとしか語れないのですが、それでもこの「おんな城主直虎」は実験的かつ先鋭的であったように感じます。
凡人達にフォーカスをおいたゆえに、華々しく歴史を変えていく大きない意味での「ヒストリー・メーカー」にはなりえない、
そこが大河らしからぬとこでもあったかもしれません。
が、ゆえに大きな歴史という河を眺めてるというより、その大きな河の中に自分もいるような気がしました。

 

 

武家だけではなく、百姓、無法者、商人達の視座をいれたことで戦国という社会を描く事。
そもそもなんで戦がおこるんだ?という戦そのもののシステムへの言及が生まれること自体が、今までの戦国大河へのアンサーを提示しようというか、その先を描きたいんだ
という意思を感じるんですよね。

 

では、戦を行う武家が悪者か?というとそうではくて、
そのシステム上で生きていくとなると、人は残酷なこともせざるをえないという描かれ方をしていました。
それがまさに今川氏真や近藤殿という人物にとりわけあらわれていています。
万千代の死を幼い時は家のために望みもしたが、時がたち、同じ仲間サイドになると元服を祝ったり、政次を死に追いやりながらも直虎と手を結び、良好な関係を結ぶこともある。
これは別にキャラクターがぶれたわけではなく、立場や環境が変われば人はいかようにも転ぶ。
悪人にもいい所があるってよりは、その悪ってのは周囲の環境や見方によるところが大きいという描かれ方。

 

そしてこの悪役不在の中で、それでもその先をみたいんだ!そんな残酷な事をせずとも生きていける世界に!
という意思はそんな戦国乱世に疲れ果て、その先を目指そうする直虎や家康達そのものでもあります。
ヒストリーメーカーにはなりえないとはいいましたが、家康だけは英雄殺しの最後の英雄となるんですよね。
だけど、直虎の人生の範囲内ではそれは起こらないのでそれが描かれることはありませんが。

 

しかし書かれずともその先を知っている私たちは、彼らの遺志と意思の地続きの上にたっている事を知っている。
彼らが大きな河に流したメッセージが今ここに届き、そして今を生きる私たちでさえその大きな河の一部であるという体感をさせてくれました。
この、大河を眺めるのではなく、体感するという点においてなかなかに得難い物語体験です。

 

「おんな城主直虎」に携わった製作陣のみなさま、ほんとうにありがとうごさいました。


<最後に>
最後だといいましたが、直親について軽めのノリの記事を書きます。
それが年末になるか、年始になるかは未定ですが。
年始なら、そのまえに一本挨拶記事をはさみます。