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落ちた涙は天へと昇り、やがて恵の雨となる~おんな城主直虎50話~

 

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [DVD]

とうとうこの日がやってきました。最終回です。
本能寺の変により信長は死にます。そのどさくさにまぎれて三河へ舞い戻った家康は、弔い合戦と称して甲斐・信濃への侵攻を開始しました。
一方、直虎は明智の謀反により、その子供である自然の身の安全に奔走する事となります。

感無量、ただひたすら感無量でした。今回、このドラマで受け取ったものを、言葉にするのが何か惜しいと思わされました。
言葉や理屈にすると、ふとその気持ちがこぼれおちてしまうのではないか、伝えきれないのではないか?
そんな気持ちを抱えながら、それでも言葉にしていきたいと思います。

 

<光さす時>
秀吉が明智を討ち取った事で、遺児である自然は謀反人の子として織田の追ってが迫ってきてしまいました。
彼の存在は徳川を危うくする、そう踏んだ於大の方は万千代を使い葬り去ろうと動きます。
が、そうはさせぬと直虎が彼女に立ち向かいました。

 

ここでの彼女達の問答は、家のために首を捧げ続けなければならなかった世に対する一つの答えというか、集大成がみえて感慨深かったです。
お家のために自然を引き渡せという於大の方に、自分の子以外は子には見えないのか?と返す直虎。
その挑発に、於大の方も負けません。子持ちじゃない尼にはわからないだろう?と皮肉を直虎に浴びせます。
ここで黙らないのが我らが主人公直虎、子を持ったことがないゆえに、みな等しく可愛く見えるもので!
と言い返すのです。

 

彼女達が言い争ってる時に、織田の追ってが到着してしまいました。
とっさに直虎は機転をきかせて自然が織田の忘れ形見であるとはったりをかまします。
どうにか難を逃れた直虎のやり方をみて「かように、守れたらよかったのですね。」言い頭を下げた於大の方

 

ここのシーンはうまくいえないのですが、ほんとにいい。
直虎は自分の子以外は子供に見えないの?と言いましたが、於大の方は信康の首を間接的に織田に差し出してるんですよね。
自分の孫の命でさえ家のために捧げてる。武家とはそういうもので、その中で生かされているのだからという理を飲み込みながら生きてきた人でした。
でも、この時に、直虎の殺さずともよい抜け道を目の前で見る事で救われてる。
この救われるというのはつまり、彼女はこの残酷な命を差し出す戦国サバイバルゲームにそれだけ絶望の中にいた事でもあります。
そんな世の中、ほんとは嫌で、でも変える力もなく自分もその世の中の加害者の一部になってしまっている。
世界にもそんな自分にもやるせなさを抱えながら前に進んできた。

 

そういう状況では普通はもっとニヒリズムに陥ったり、なんで自分がこんなつらい目にあわないといけないのか?自分がそうであるなら、他人もそうであるべきだ!
という思いになってもおかしくはないんですよね。
それか、一線をこえて狂気の世界に足を踏み込んでしまうこともありえたでしょう。
でも、ここで彼女が直虎に対して頭をさげ感謝するというのはつまり、そういう闇に陥ってなかったなによりの証です。
家のためとはいえ、親族を失い孫を殺すという業を背負い、その手が血にまみれてるとしても、彼女はその痛みを手放しはしなかった。
そしてそんな世の中や自分を許してはいなかった。
非情な世界で、非情な判断を下すとき、人間をやめる事の方が楽であったろうに。
この彼女の人間の高貴さは、あぁなるほど確かに家康の母であるのだと確かに感じるものでもありました。
私はずっと不思議だったのです。
家康が戦国の世で振り回されつつ、必要とあらば非情な手段を時としてとることもあった彼が、人の命を奪う痛みを持ち続ける事のできるピュアさがどこからくるのか?
もとからそういう人だと、理由なんていらないよ、ともいえますがそれが今回ぴったり一致しました。
武家のルールを変えられない物だと飲み込んできた彼女が、世界の残酷を知る彼女が、それでも変えられる時も確かにあるんだ!
ほんの少しの知恵や勇気で世界はほほ笑む時がある、そう思えてくれたらいいなと思います。

<こぼれ落ちた者に救いを>
一方の直虎さん。
彼女は戦なき世を万千代を通して実行していこうとしました。
そこでやるべきことは、なにも彼のサポート役というだけではありません。
「戦なき世」を実行していく時、必ずそこに痛みが出続ける。その道の過程で振り落とされる人々が出てきてしまう。
そういう人達のために寺を受け皿にしようと和尚に提案しています。
大きな戦なき世を作るという夢を抱えながら、その夢の過程で傷つく人々に眼差しを向けていく。
彼女のその有り様は本当に彼女らしい。
奪われた命もありましたが、寺によって救われたてきた直親、万千代の命、だからこそ自分が今度は誰かを救っていく。
政次が奪った名もなき子の分も、それこそ守りたい時には守れるだけの自分であるように。
世を平和にするという目的をもちながら、なんてその動機がささやかで等身大なんだろう。なのにその志は眩しい。
英雄なんていう手の届かない者にはけしてならず、だけどその有り様は誰よりも高貴である彼女は、
井伊直虎という殿でありながらも、おとわというただ一人の女性でもありました。

<this is 井伊!>
和尚が万千代に井伊の魂とはなんだ?という質問を万千代に投げかけます。
それに対して万千代は

 

井戸端の拾い子がつくったゆえに、よそ者に温かい。
民に対しては竜宮小僧のようであれ。
泥にまみれる事を厭わず、恐れず、戦わぬとも生きていける世を探る。

 

と答えます。
これちょっと面白いというか興味深いです。
万千代は明らかに直虎の有り様について言っていますが、この和尚の問い自体はもっと根源的であるように思われます。

 

この辺は完全に私見なので暖かな目でみてください。
戦国は地縁と血縁で結ばれてるイメージですが、井伊という国の始まりの「神話」はアメリカの移民国家のような側面をもっています。
よそ者を受け入れるという事は血のつながりよりも、その土地をよりよくしていこうという理想の共有による絆を重視してるところがあります。
そしてその国のトップたる者は、その理想に誰よりも殉じている者だというのが万千代の見解だと思われます。

 

ここで、ん?と思うのがいやいや、小野家には厳しかっただろ?というところです。
でも、これ言い換えれば政直の時がおかしかっただけで、本来の井伊イズムに立ち返れば今の直虎・万千代世代の方が正しい。
つまり、政次・直虎が原点に返したともいえるのではないでしょうか。
そしてその原点を受け継ぐだけではなく、新たに戦わずとも生きていける道を探るという新たな目標がプラスされています。
この指針が、あぁ!井伊直弼まで繋がっているのかなぁ?と想像するとなんて大きな歴史な河を私は見てるんだ!!って気持ちになります。

 

ちょっと話がそれたのでもどすと、井伊は血脈による継承ももちろんありますが、魂の継承を重んじている。
これはつまり直親・しのだけではなく、政次や直虎からの志の継承でもあります。
そしてそれこそがなによりも井伊であることの証であります。血よりも井伊にふさわしいにんげんであろうというその意思そのものが。
だからこそ万千代が新たに色んな家を家康に任せられた後に、、血脈や地縁にたよんじゃねーぞ!とばかりに鬼教官になっていくでのであろうなのが想像つきます。
この辺は完全に妄想なんですけどね。

<終わりに>
さてさて、次回、この物語の総括をなるべくはやめに書いていきたいと思います。
今回、触れずじまいなとこもあったので。氏真とか外交官万千代とか。
井伊の魂がなんだ?と問われた万千代のごとくこの大河とはなんだったのかについて、まとめていこうと思います。