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物語同士のつながりが好き

信長という尖ったダイアモンド。そして第三の選択を掴むビー玉達。~おんな城主直虎49話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [DVD]

信長から安土城に招かれた家康達。
しかしこの宴は自分達を殺すための罠であると、氏真を通して光秀から聞かされていました。
それを逆手にとり、この機に信長暗殺計画に協力要請された家康。
そこで万千代は直虎に三河への脱出ルートの確保をして欲しいと頼みにきました。

 

前回から続く本能寺を核とするサバイバルミステリー。
限られた情報しかない中で、いかに彼らが切り抜けていったのか?
「善・悪」「逃げる・戦う」などの二択でどちらが正しいのか?そもそもそれだけが選択肢なのか?
この事件の中心にいた織田信長とは果たしてどのような人物だったのか?
などなど盛りだくさんな内容でありつつ、この大河の集大成が近付いてきたような回でした。


<傷だらけのビー玉のような>
家康を自らの手で歓待する信長。手つきの細やかさ思わず家康も見とれてしまいます。
ここのシーンに、もし自分がいたとしたら不安と恐怖で冷や汗が止まらかったでしょう。
「おいおい?!信長様は最後の晩餐として旨いものを己の手で用意してやろう?その代わり首を頂戴するがな!と思ってるんじゃないの?!」
と考え絶対に箸が進みません。
しかしこのあとに出てくる信長のシーンでそれに疑いに疑問が生まれます。
彼は家康に与える茶器をほほ笑みながら選んでいたのです。
これ、面白いんですよね。信長が暗殺しようとしているとも思って見れば彼の接待シーンが恐怖にしか見えず、そうじゃないと思えば不器用ながらも一生懸命な人に見えてくる。
たった一つの行動であるにも関わらず見方によってはまるで違うものが見えてくる。
これは以下に書いた森下佳子さんの「ごちそうさん」から変わらないスタンスであるように思えます。(あくまで個人的意見です)

 

「瑕疵」だといった人の闇も、出会いや場所や環境が変われば、光にかわり闇も光にみえてしまう時がある。それはまるでビー玉についた傷を覗き込むような。光にかざせば輝きだし、暗いところでみればがらくたになってしまうなにか。

森下佳子は直さない。瑕疵を光へ変えていくこと。 - シェヘラザードの本棚

まぁ、信長がビー玉というよりダイアモンドのようにその硬さが時として人を傷つけ、だが光を放ち人をひきつけてやまない面もあったことでしょう。 

といっても信長が実は「いい人」であるかは疑問の余地が残ります。
というかここで彼が「善」だ「悪」だと思い込む事にどうしてもブレーキがかかる。この作品の傾向からいっても。

仮に信長がすることすべてに悪意がなかったとしても、彼が自身が人々に与える影響力を自覚して行動すべきでした。力ある者がその事に無自覚であるなら非常にまずい。


だけどそもそも誰かを過度に悪魔化・天使化するのではなく、その人の本質を見抜いていくことがここでは問われている気がします。
そしてその本質すら情報がなければ判断するのが難しいし、その判断もあいまいで不安定さが残る。
個人的な考えとしては彼はやはり瀬名と信康を死に追い込む冷徹さがありますが、だからといって家康を本当に弟のように思っている。
その矛盾が矛盾なく彼の中で両立しているのではないか?と思います。
まぁ、たとえ仮に信長が「悪人」だとしても、ずっと二十四時間、悪人である事があるだろうか?仮に悪人だとしても一つも優しい所がないわけでもない。
「いい人」がずっと「いい人」でなくてもいいように。
しかしなんといってもバイアスを外してその人の事を見る事は難しいんですよね。恨みを抱えているならなおさら。
だけどそれが出来る人だから、直虎や家康は上に立てるといえるのかもしれません。

<未来は過去のために、過去は未来のために>
家康の脱出のために海路の道筋をたてるために堺に寄る直虎。
そこで龍雲丸に再開します。彼はもう少し感動的なものを求めていたようですが直虎はミッションの事で頭がいっぱいです。
彼らの邂逅はどこか笑えるところもあり、すごく良かったというか地味に感動していました。
というのもこの大河では、大切な人の死が呪いや祝福のように、生き残った者の動機となり人生を支配してきました。
(それ自体が強烈な物語となり強いメッセージを発信します。)
だけどそれだけが人を前に進めるわけではない。
生きている龍雲丸と直虎達のあの日の別れの選択は、その選択が正しかったのだと、未来の自分達が思えるようにお互いが日々を重ねてきたからに他なりません。
果たされない約束だとしても、もしまた会えたとしたらお互いが誇れる自分であるように。
直虎は再び殿として裏の井伊谷フィクサーとなり動き、龍雲丸は通詞となり子供達への教育をし生きる術を授けている。
それはきっとよくある話で世界にはありふれている。だけど戦国乱世だろうが平時だろうが、人が死ななくても、そうやって私たちは何かを選び続けて生き続ける。
それに普遍性があるからこそ今回、心が動かされました。


<直虎の努力は無駄だったか?>
直虎が龍雲丸に頼み南蛮商人から船を貸してくれるように手配を頼みます。
これ自体は「伊賀越え」という有名なエピソードがある以上無駄に終わってしまいます。
だけど龍雲丸に金を渡し一芝居をうち、下手な徳川ミュージカルをどうにか形にしました。
つまり海路という道筋自体は無駄になったけど、そこで会った龍雲丸の手を借り彼らの元に届けるという事をしなければ、穴山達と一波乱何かしら起きた可能性があり、それを防げたともいえるのではないでしょうか?
(彼がいなくてもどうにかできた可能性はありますが)

 

<限られた選択肢の中で>
秀吉が中国地方で苦戦してるらしく援軍を要請された信長は光秀にその役を任せます。
そのイレギュラーな事態に徳川家の面々は先が読めなくなり右往左往。
それどころか光秀自体を信用していいのかという戸惑いが生まれます。
後手に回るなぁとも思いましたが、そもそも限られた情報の中、準備不足で選択肢を選ばなければならない状況でもあります。
しかしながらAとBの選択肢があるならCというどちらも選ばないという選択もあります。
三河に無事逃げ帰ったのはいいものの、織田につくべきか?明智につくべきか?混乱している情勢の中で決断するのは難しい。
A(織田)かB(明智)か問われる中で、穴山領の世話をしていたといたという言い訳をしてどちらにもつかないCプランを採用する家康。
「選ばれよ?選びたくなければ、そもそも選ばないという選択肢を作ればいいじゃない?」
といわんばかりの彼の今回の選択はきっと秀吉という隠れボスと戦っていく時も力となっていくことでしょう。

この辺の家康のCプランへの道は、直虎が南蛮商人と閨を共にするか?それとも龍雲丸が助けてくれるのを待つか?という二択の中で、
第三の自分で薬を盛るというプランを実行しようとしていたところとかぶります。
選ばない事で第三の道を行く家康と、第三の道を作り出す直虎。
彼らの対比が鮮やかです。

<終わりに>
あと一回で終わりを迎える今作。ほんとにさびしくもありますが彼女が人生をやりきる事になると信じて待ちたいと思います。