シェヘラザードの本棚

物語同士のコネクションを探して

井伊谷のばらを照らした太陽~おんな城主直虎44話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

初陣を飾る事となった万千代・万福コンビ。
やっと戦に参戦でき、武功がたてられるかも!意気込む万千代ですが軍議にも参加させてもらえません。
しかし家康を狙う間者を見事に捕え、一万石を与えられる事になります。
が、色小姓としての手柄と周りに思われてる節もあり、なんとしても元服して家督を譲ってもらいたい万千代。
そこに、井伊谷から祐椿尼の体調悪化の知らせが届き、思いもかけず直虎と口論になってしまいます。

 

 

今回の二人の喧嘩というかぶつかり合いは、祐椿尼と直虎の互いへの「優しい嘘」(病気を隠す・気づかないふり)とは対照的でした。
それは事実を受け入れていく直虎と、変えていこうする万千代の世界への認識の差でもあります。
「若さ・未熟」VS「老成・老害」ともいえますが、そういうには言葉が足りないし割り切れない。ここまでの彼らの歩みを見てみれば。
どちらにも肩入れしたくなるのは、完全にこの大河の製作陣の手のひらの上といったところです。
そんな黒でも白でもないこの世界の複雑さ、奥行きが今回書かれていたように感じました。


<高瀬・オルタナティブ
万千代が捕えた家康への間者はどうやら武田の者のようです。
信玄が死に、勝頼は押され気味とはいえさすがとしかいいようがないです。
このエピソードだけなら武田やばいな!万千代よくやった!としか思いませが、高瀬間者事件があったので
この間者である武助にも思いを馳せてしまします。
高瀬のように脅されたのかもしれないし、家康が死ねば跡取りである信康や岡崎衆のためにもなると囁かれたのかもしれません。
事実、前の話で岡崎の不満は消えたわけでもなく不信感が残ってたでしょうから。
そこの亀裂を修復しようとするのが家康・信康ですが、治るまえにうまいとこついてきたのが武田でした。
失敗しても岡崎の不満分子がなんらかのアクションを起こそうとするかもしれません。
ここらへんは武田がすごく日本社会の集団心理をよくわかってるというか、戦前の青年将校達の暴動を思い出すというか。
かといって下の組織を尊重しすぎて俯瞰的決断を下せなくなるようでは本末転倒。
「正しい決断」と「正しい(と思わせる)空気の支配)」が組織にとってどれだけ重要なのかが薄く見えてきてちょっと胃が痛くなります。

 

といってもここまで私の妄想なんですけど。けど高瀬を挟むこと想像の余白を生んでくています。
まじで、戦は軍議だけでおこってるんじゃない!現場でおこってる!(ただし、責任をとるのは上層部だ!!)

<正しいと正しいがぶつかる時>
さて、直虎と万千代の言い合いですが上記で書いたようにどちらにも言い分がある。
直虎に心をよせる人もいれば万千代を応援したい人もいる事でしょう。
万千代はどうやら政次を死に追いやり井伊谷を奪い取った近藤が許せない。
これはよくわかります。まさに彼は個人的復讐心からそういってる。
自分の親しい、愛する人を奪った者がその土地でのさばっていると思うと悔しくてたまらない。
普通はそうです。個人的な思いとしては彼は正しい。
それに対して直虎が言い返します。

「それでとりかえしたところで何かビジョンがあるのか?ないなら、褒められたいだけだろ?近藤達とせっかく治めてる場所で。」

 

これは俯瞰的に見たら正しい。復讐の連鎖を自分のとこでなんとしても止めようとする、これは政次の生き方にも通じるとこがあります。
そしてリーダーの資格という点ならば18回の下記の直虎のセリフに圧縮されているように思います。

 

 

「私には、恨みを後生大事にかかえるような贅沢など許されますまい。」 のセリフ。いや、これほんとそうで義憤にかられて戦争ふっかけられるほど井伊に国力ないんですよ。現実的な話。 個人的恨みを乗り越えて国の明日のためにベストな選択をとることができるのがリーダーの責務なんですよね。

なかない鶴と鳴く犬は。人のステージが変わった瞬間をみてしまった。~おんな城主直虎18話~ - シェヘラザードの本棚

 

そして政次を追い詰めた近藤を許せないというロジックなら直親を見殺しにしたといえる家康に仕える理由が破綻する。
そういう世界の複雑さの上に万千代はたっていますが、今はまだ若くそれがわかりません。
ちゃんと説明すればいいかもしれませんが、己が経験しなきゃわからないと直虎は思っているのかもしれません。
もちろん、その複雑さを知りそれでもなお!と思うならばそれはもう、覚悟の問題です。


なんか万千代を責めるような感じになっていますが、そうではないです。
万千代は直虎が戦から降りた!とせめてますがいいとこをついていると思います。
というか家督をいずれ譲られる彼だからこそ、直虎を告発できる立ち位置にいる。
私個人としては直虎は一旦は降りて休んだが、また違うやり方で戦ってるのではと思います。
それでも、奪われぬ世や卑しい事を丸出しにいなくても生きていける世になるという夢がスケールダウンしたのも事実。
それが直虎がもう大人であり、まだ万千代が子供だからといいきることもできますが、
未熟ゆえに、指摘できる真実もあることでしょう。

「やってもなければわからない」そんな直虎の姿を一番、敬愛していた万千代だからこそ失望も大きかったのかもしれません。
万千代はこれまでの直虎の歩みを知らずして、彼女を本質を肯定したり否定したりと面白いです。

<花冠の王を見守る太陽>
祐椿尼と直虎の会話は「ベルサイユのばら」のオマージュ。
いわゆる「普通」の女子の生き方をさせられなかったと悔やむ親と、だからこそ得る物があったと語る娘。
このテーマはもはや使い古されていているかもしれないけれど、それゆえに王道で胸をうつところがあります。
祐椿尼は自分が男子を生まなかった事、それによって直虎に大変な道を歩ませたことに心を痛めています。

 

それを直虎は否定しますが私も言いたい。
彼女は素晴らしい母親です。井伊谷にとっても直虎にとっても。
直虎はじぶんが普通に嫁いでいたら、百姓達は米をただ運び、ならず者は悪党、商人は銭儲けの卑しい者、乗っ取りをたくらむ家老はただの敵
と思っていたかもしれないと言っています。
彼女は謙遜してますが、好奇心をもって人に接したり自分から歩み寄る事のベースは、両親が直虎に深く愛情を注いでたに他ならないと思います。
天真爛漫な彼女が仲間外れの家の男の子に光をさしこませた所から、このお話の核は始まっているともいえるのです。
そんな彼女だから、銭の犬の方久も受け入れ、武士に疑心暗鬼だった甚兵衛達の心を開かせ、ならず者たちでさえ助けてくれる。

 

よく考えれば、みな、この世界で生きづらさを持つ人達でした。家臣である六左衛門は武士らしくなく、最初から近藤のようなリーダーではやっていけなかったでしょう。
人材不足だったからだったとはいえ、そんな外れ者達が直虎という珍しくも美しい花を咲かそうと集ってきた。
直虎自身が、やっても無駄だよ。女子だからね、という空気に挑戦する存在であるがゆえに。
彼らは家臣という葉となり茎になり、百姓達は根になりました。
その花を照らしていたのは間違いなく祐椿尼でありました。
それと同時に自分の悲しみをこらえ、手紙を通し井伊谷の人たちに気配りを行う姿は、まさに井伊谷の母ともいえるものです。
直盛が植えた種が育ち、その花を見守っていた太陽の温もりは、みなの心に生き続けていくことでしょう。