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君の君のための、君のためだけではない命~おんな城主直虎40話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

いよいよ万千代の徳川奮闘記が始まりました。
草履番からのスタートで順風満帆とはいきませんが、多くの人たちが彼に愛情をむけ、見守っている。
それは万千代の実父の直親が井伊谷に帰ってきた時に、おじじ様を含め、多くの人たちが彼こそが希望なのだと眼差しを向けたように。
今は、見てるこちら側が万千代の命にどれだけの意味が込められているかを噛みしめている。
つまり、ようやく私達はあのときのおじじさま達と同じ気持ちにたっているというわけではないでしょうか。
ちょっと感傷的な文章となりましたが、今回のお話は出世物語としてのおもしろさがありつつも、どこか戦後日本の復興やあり方について触れているようなとこもあると感じました。
権力をもたない権威者である直虎や、自分達が参加してない前の世代への戦に対して悪く言われる万千代・万福の事など。
もちろん、それは私のあくまで個人的に感じた事なので戯言として受け流してください。
というか、今回は諸事情により簡易版となります。

<己の凡を知るがゆえに非凡に辿りつ者>
とうとう今川チルドレンたる家康と直虎が邂逅しました!ここはもうテンションだだあがり。
今川家の傘下で平和を謳歌した原風景を持つ二人は、本当は戦を避けたいという共通点をもっています。
家康は直虎に、万千代登用の件は井伊家への罪滅ぼしや瀬名のためと語ってましたが、「利」の目的として、
大きくなりつつある徳川の組織改革について話していました。つまり三河以外の実力者を内部に取り込みたいということですね。
万千代が出世できれば三河の者以外でも出世できる道があるとして、多くの優秀な人材が集まります。

 

そのパイオニアかつ、ローモデルになれるだけの素質が万千代にはあると見込んだ家康。

万千代は、根回しできるだけの賢さがありつつも、皆の前でもぐっとがまんできるだけの度量がありました。あれは今考えると家康の最後の試験でした。
家康自身も組織が三河の者の他にも信用できる誰かを手元に置いて、自身の基盤にしたいのかもしれません。
政治的な意味でも酒井が強そうな場面がちょくちょくあったので。のらりくらりとかわしてはいますが。

 

 

それにしても直虎と家康は、似ているところがあるせいか話が弾みます。
上記の彼の「情」と「理」を掲げて相手に対峙するところは、まさに直虎もよくやるやり方です。(徳政令回避のため百姓への説得など。)
一人では何もできないと自己認識しているところもです。信玄のように戦上手ではなくとも、信長のごとく天賦の才がなくとも、
凡である事を己が知ってるから人を頼る事が出来ます。人を使う才というのは何物にも代えがたい。
なので、家康は圧倒的カリスマ性型のリーダーというより、人の才能を導き全体を統括する指揮者型なのかもしれません。


<「生者」か「死者」のためか?いや…>
直虎は万千代が井伊ではなく今からでも松下として徳川家に仕官しろと説得しようとします。
死んだ者達を喜ばせるために今、生きてる者を悲しませたり困らせたりして、どうしてそれが当主といえる?となおとらは万千代に問います。
彼は「ならあの時、どうして当主を降りたんだ!?」と言い返してますが、これ最初、どういうことかぴんとこなかったのですが
当主をおりた直虎という事実そのものが、あの日の虎松を悲しませたとう事でしょうか。共に井伊を守ろうとしたあの日の誓いはどうなったのだと、万千代は悔しかったのかもしれません。

 

万福が後に、直虎に自分達の心情を訴えるシーンに万千代が
「己があの日誓ったからだ。」というセリフがありました。これ、すごくすごく好きなとこです。
「家」を再興するのは死んだ者ためだけでもなく、自分自身がそれを望むがゆえというのが。
誰のためでもなく己の自由意志で何かを欲するというのは、まさに若き日の直虎です。
18話「あるいは裏切りという名の鶴」で直虎が

 

「政次。われは己で選んだのじゃ。この身を直親のうつし身とすることを、誰に望まれるでもなく強いられるでもなく、己で選んだ。己で井伊を守ると、われは己で決めたのじゃ。」

 

のセリフそのもで。
そうこられると、直虎は万千代の意思を否定できないし、万千代は知らずして過去の直虎を肯定してます。
別に誰かに認めてほしくてやってきたわけではなくとも、直虎の中では喜びがあふれたことでしょう。
とはいえ、認めたとは表立っていえないので、草履の棚についてアドバイスをすることで、万千代を暗に認めました。
といっても、万千代が井伊を名乗るうえで近藤家とは軋轢が起こるのは必須なので、直虎はその後処理に向き合わなければならないとこが大変なとこです。
だけど若者が道を歩むために、年長者が影ながら支えるというのは、大人の直虎だからできる仕事だといえます。

<その背中の大きさに>
その万千代を支えているといえば養父の源太郎です。彼の優しい支持なしでは、井伊と松下の間に禍根が残ることもありえました。
万千代は自分に才があるゆえに、若さゆえの自信過剰さがありました。だけど、源太郎が井伊と松下共に支えていこうと言ってくれた。万千代も万感の思いで頭を下げます。
どんなに戦国という場所が弱肉強食なとこであろうとも、能力だけで人は動いているわけではない。
実力・能力に関わらず共に立とうとしてくれる人がいるから、戦っていける。寿桂尼と氏真の関係もこれにあたります。(この場合、能力的には寿桂尼が上で、氏真が下だったので、今回は逆転してます。)
まさに、家康のいうように人は宝。そしてその家康の元、万千代は凡なる仕事である草履番に向き合い精一杯うちこんでいこうとしています。

<余談>
最初に、戦後日本の復興のような回だったと書きました。その事について少しだけ。
万千代・万福は敗戦者の子として、悪く言われたようですがけして上の世代を恨んでいるわけではない所がほんとうにぐっときます。
ルサンチマンに溺れず、負けた上の世代の業を背負いそれでも前に進まんとする姿勢はなによりも眩しい。
上の世代が残した宿題を前向きに取り組んでいく事は、どれだけ時代が変わっても共通する人の在り方なのかもしれません。