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龍は天に、虎は地に~おんな城主直虎38回~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

武田軍の侵攻に開戦しようとする近藤に対し、直虎は兵力となる百姓達を隠すことで戦を避けようとしました。
兵糧となる食べ物さえもっていかれた信玄はもちろんおかんむり。そこで彼は井伊谷の里のすべてを焼き払ってしまいました。
以前、直虎の事を

英雄でもない平凡な人達だからこそマクロの動きが読めず翻弄され、愛する人々を奪われていき、その荒野を走り続けていかない主人公

といってましたが、まさしくこの回はその荒野に立つ者(直虎)と、そこを荒野にした者(信玄)の生き様が書かれていたように思います。
そこにフォーカスをあてつつ感想を書いていきたいと思います。


<甲斐の太陽・井伊谷の月>
南渓と信玄の腹黒コンビの会話が実におもしろい。
南渓は信玄と謁見した時、まるで武田ががきてくれた事が井伊にとって救いの神かのようにいっていました。
近藤とは対立しているので、これを機に井伊家の再興をと南渓は申し出てます。
もちろんこれは策なのですが、内情に詳しくない信玄に対し、今の井伊谷は一枚岩ではないのです。近藤派と井伊はに分かれており、民からの「信」は井伊側にあります。
だからこちらに味方をしてくれないかな?と言うあたり南渓の腹黒さがでています。
なんといっても、井伊が逃散させたという事と近藤が火をつけた事はまぎれもない事実。
その事実に対して嘘の物語を上乗せしてますね。
しかもここで騙す策とは言え、どさくさに井伊の再興のフラグも立ててるのでは?と私は疑ってしまいます。直虎にその気はなくとも。
むしろ直虎はそんな作為がないがゆえに、近藤は信じられたのだと思います。だから負の部分は南渓が背負う。背負ってる事に誰にも気づかせぬほどに。
政次はよく月のように例えられてましたけど、それは直虎にとっての月であり、ある意味では井伊谷」にとっての「月」であるのが南渓ではないのかと思います。


その井伊谷フィクサーの南渓に対峙する信玄もまた面白い存在です。
彼は自国である甲斐の土地の事を酒の席で語っていました。山に囲まれた厳しい土地で切り開かないと道はなく、川はすぐにあふれだしてしまう。
だからこそ、他国を侵攻しなければ、戦に強くなければ生きてはいけぬと。
これは第21話「ぬしの名は」で高瀬が

 

「おらたちの手で食べ物を作っているのに、おらたちの口には入らねぇ。奪われておると思うたことねえもんはおらぬと思います。」

 

に対応しているセリフだと思われます。
食べ物や資源がなくて民は困っているが、それを解決するために奪うための戦をしていかなければならない矛盾。なぜ武田がそのような戦いに赴かなければならないのか?

それについては以前触れててので下記に引用します。

 

21話の感想で、脚本家の森下さんが戦国時代はプチ氷河期で作物が育たず、食糧難だったのでは?という事に触れましたが、もし武田がそのような状況ならだいぶ苦しい状況に置かれています。自給自足もままならないと、他国の物資や食料を奪ったほうが手っ取り早いと考える可能性があって、それが後々響いてくのかな?と。

少女の夢はもう見ない。だから、さよならを君に。~おんな城主直虎24話~ - シェヘラザードの本棚

 

そのような苦しい中で、信玄は甲斐にとってどんな存在だったのでしょうか?私は、彼は「希望」であり「羨望」であったのでは?と思います。
彼は家臣たちに、今より明日はきっといい日のなる!暮らしが前向きになる!という夢を見せたのでは?と。それだけの実力が彼には確かにあった。
暗く明日をもしれぬ中でも、敵が死ねば小躍りしだす信玄に憧れを抱いてもおかしくはない。残酷さや現実の厳しさの中でもチャーミングさを失わないあの姿に魅入られてしまう。過酷な人生を楽しんでる姿はそれだけで人に希望を与える。
義理の息子を自害に追い込もうが、国のための走り続けた彼は「民」や「家臣」達の「父」でありました。

 

 

だけどその中でどうしても犠牲になる人がでる。必ず弱い所から。それが高瀬という存在であったのではないかなと。
その信玄がとりこぼしてしまったものを「母」たる直虎が抱きしめるというのはなんともいえないものがあります。
しかし、そのことは直虎が「聖女」ということを示しているわけではありません。
生まれる場所を人は選べないといいますが、まさにそれで温暖で気候に恵まれた井伊谷では誰かから奪うという発想は生まれてこないのかな?と。
ゆえに直虎は基本的に防戦型になります。誰かの土地を奪うほど困ってなく、むしろ綿花で殖産興業を発展させ、気賀という物々交換ができる土地が近いので。
そのような土地で借金の肩に間者になった高瀬が、借金だらけの井伊家が踏ん張りながらも頑張っていく姿をどのように見つめていたでしょうか?
井伊の再生は、高瀬にとっても自身の再生であったのではないのか?と想像します。

 

<奪われた二人の分かつ道>
嵐のような武田が去った後、里の家々は焼かれてしまいました。
それに対し直虎は百姓達に頭を下げ、そして復興のためにまずは寄合場を作ろうと提案します。
井伊谷の民たちはゼロからスタートとなりましたが、直虎と共に前向きに取り組んでいるようです。
民のために奔走する彼女を見て龍雲丸は色々と思いを馳せているようです。
直虎は中村屋と再会したとき、彼が気賀に戻ってきたのかと勘違い。
もし直虎が龍雲丸の事を好きな「おとわ」なら、中村屋が自分達を堺に連れていくためにいくのだと喜ぶべき場面です。
なのに、そのことがすっかり頭から抜け落ちている。
そんな様子を見て、龍雲丸は堺行きを取りやめ、直虎は井伊谷にいるべきなのでは?直虎に言います。
ここのシーンはすごくぐっときました。
戦によって難民が出てるが井伊谷がその受け皿になりうる。彼らに生きる力を教えて共に栄えていく。今の井伊はだんだんそんな場所へと変化していってる。
それは幼き日に戦により孤児になってしまった龍雲丸が見たかったあの続きの一つ。

たとえ今の自分の有り様に後悔はなくとも。
龍雲丸はそんな井伊谷の土地があったのなら、あの日の自分はどうなっていただろうというと考えたのではないでしょうか?
その夢の続きを直虎は見たくはないのか?と彼女に問いかけますが、彼女は否定します。
自由意志をなにより優先する龍雲丸は、それを一旦は受け入れます。
ですがいざ出立の際には、直虎は上の空。和尚が見送りに遅れ、直之がすぐになにかしら動いたことが気がかりのようです。
ここで、わざと龍雲丸はきつい言葉を直虎に投げかけます。
城や家がなかろうと直虎は、根っからの井伊谷の城主であると言って。

 

賛否あるとは思いますが、龍雲丸が井伊谷に直虎と共に残るという選択をしなかったのがすごく好きです。
二人の本質的な所で「自由」さを共有している。その共有ゆえに自分がやりたいこと、相手にとって本当の意味で自由でいられる場所がほんとうに大事なんだなぁと。
直虎は龍雲丸にとっての人生の補助輪ではないし、龍雲丸にとっての直虎も違う。彼らの関係は政次とのそれとはまた違う意味ですごく対等。
しかも龍雲丸は、ちゃんと「おとわ」を抱きしめる事で、直虎をあるべき場所に戻した。そこに自分の居場所がないとしても。
お互いが本来自由に生き生きしている姿の相手が好きなら、道が分かれてしまう。これは政次と綺麗なシンメトリーを描いていて、政次は「直虎」を龍雲丸は「おとわ」を手にいれています。
だから龍雲丸の場合「おとわ」受け入れることができたけど、政次のような「共犯関係」にどうしてもならない。
生きる場所が違うから。
でもそれは悲劇なのではなくあくまで自分達の意思で選ぶ所が、自由な彼ららしいところでもあります。


<余談>
虎松が「松下の虎松にございます。」といったあとに、南渓和尚の苦笑い?するようなカットが差し込まれてまれていたのが意味深でしたね。
やはりこの発言は南渓が以前、幼き日々の虎松になにかしら吹き込んだことが影響を与えてそうです。
これから次世代達と直虎がどのようにむきあっていくか楽しみです。

<余談2>
記事更新遅れたのは、歯が痛くて処理能力落ちまくってたからです。お腹はすくのに食べれないし寝れないいうプチ地獄でした。
とはいえ、ちょっとよくなって「ごはんがおいしい。生きてるって素敵!」となったので、「これが食べる事は生きる事か!!森下さん!」ってなったのでまぁ、良かったです。