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未来という名の希望のため 今、生きている君を殺そう。~おんな城主直虎31話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

「徳政令」を受け入れる事で、国を潰して国を生かす決心していた直虎。
そのプロットを実行しようとした時、思いもよらぬ役者たちがその舞台に躍り出ました。
直虎が窮地に立たされていると知って、徳政令撤回の申し出でる瀬戸・祝田村の百姓達
この時点では、政次と直虎はお互いの意思を確認しあってありません。おそらく相手はこう思っているだろう?という不確かな状況の中で動いていかなくてはなりません。
それしか道はないとはいえ、これからの道は選択によっては死に直結するもの。政治家としては決断を下すのが難しい所です。彼女の肩には井伊の民と未来が、かかっている。
その荷を背負いつつも、どこまで政次を信じていいのかという揺らぎがあったのではないでしょうか?
しかし政次の「信じろ。」という言葉によって、確信はできないが自分と同じ決心があると思った彼女は徳政令を受け入れました。
今回は、直虎・政次の二人の絆が試される時でもありましたし、直虎の覚悟が改めて問われている回でもありました。


<直虎の複雑な感情>
政令を直虎に受け入れさせた事で、関口氏からの信頼を得た政次。
ですが氏真がそれだけで満足するわけがないと読んでいました。もちろん直虎もそこは想定内。そのために虎松を密かに逃がします。
が、政次はさらに上の策を練りだしてきました。
彼は直虎が虎松を逃がしているという事を想定して身代わりの首を用意します。
これにより、虎松・直虎がが死ぬという最悪の事態を防ぐばかりか、偽りの「誠意」を氏真に見せることで今川からの「信」を得る事ができました。
しかしこれは、大きなかけでもありました。
何も知らない直虎が偽の首をみても関口氏を騙せるような演技ができるのかというのは、ふたを開けてみない事にはわからない。
直虎も政次に対して不安があったかと思いますが、彼もまた不安があったのではないでしょうか?
偽の首をみた直虎はそれを抱きしめ、慟哭しながらも読経をあげます。

 

 

ここでの彼女の心の内を測るのは難しい。いろんな感情があったのではないかと視聴者に委ねているところがあります。
国語のテストのように「ここでの登場人物の気持ちを100文字以内に述べよ。」というような問題に、一つの答えなど本来はない。
私としてもこれが一つだとは言い切れない複雑さが直虎の中にあったのでは?と思うのでいくつか挙げていきます。

 

まず、直虎の感情に一番最初に支配したのは、「安堵」。その首が虎松ではなかった事にほっとしました。
ですが次に襲ったきたのは、ほっとした自分に対する「うしろめたさ」。
そして虎松ではなかったとはいえ、井伊谷の民である幼子が犠牲になった事への「憐憫」。
民一人すら殺させぬと誓った自分自身が実行できなかった事に対する「ふがいなさ」。
この状況を読めなかった自分に対する「恥ずかしさ」。
その汚れ仕事を政次にやらせた自分に対する「絶望」。
とそうまでして井伊を生かさんとする彼の忠義を少しでも疑いを向けた自分へのどうしようないほどの「恥ずかしさ。」

上記にあげただけでもけっこうありますが、もっと複雑な感情が彼女の中で渦巻き、それが涙となってあふれたでしょう。
直虎は寿桂尼と対峙した時、「狂うてもおらねば、手を汚す事が愉快な者などいない。汚さざるを得なかった者の闇は、どれほどのものか」と言ってました。
政次はもちろん狂ってなどいない。その彼がそうせざるを得なかったこと、彼の抱えなえればならなかった闇の大きさ、その事の本当の意味を直虎はここで初めて知る事になります。
もしかしたら、直親をきってでも井伊を救おうとした時の彼の痛みや悲しみを、ここで初めて直虎は体験したのではないでしょうか?

 

そしてなんであれ、その姿に関口氏は騙された。
政次も直虎が一人の「民」のために抱きしめる姿に、演技でない為政者としての「慈愛」を感じ取ったと思うのは、私のうがちすぎかもしれませんが。


<「守る」というエゴ>
偽の首を井伊谷に埋めて葬ってやろうとする直虎。そんな彼女に龍雲丸は声をかけます。
「命短い子どもが親に売られ、その子はきっと喜んでいる。」
それが真実かどうかはわかりませんが、戦災孤児であった彼の話は、もしかしたらと思わせる説得力はある。実際、そんな事はあったでしょう。
だけど、それは直虎には届かない。
そして
「子どもを切った政次は後悔していない」
というような事をいっています。
直虎は
「頭に何がわかる!」
と言い返してました。
このセリフには武家である直虎・政次とフリーランスの職能集団である龍雲丸の断絶があります。
井伊という「家」を守ろうとするために、手を汚さざるをえなかった政次の気持が、それを捨てて生きている龍雲丸に何がわかるというのか?
と直虎は思ったかもしれません。
ですが、龍雲丸は
「守りたいから、守ったんだ」
と答えます。
この「守る」というのは、城を守って死んだ彼の父を思えば切実さがるように思います。そしていまや、彼は守るべき仲間達がいる。
それは彼がやりたいからやっている事。
龍雲丸は武家に生きる人々の事はわからないかもしれない。だけど、「守りたいから守る」というそのエゴを彼は知っています。
そのエゴが自分を傷つける事で、自分を愛してくれる人達を傷つけうる。

そうだとしても、それを成さんとする事は誰に強いられるわけでもなく、心の内から湧き上がってくる。
その事を社会的カーストを越えて、感覚的に龍雲丸は政次の事を理解しているのかもしれません。

<繰り返す負の連鎖を断ちきる>
虎松を守り通すことで、政次は自分の中にある一つのトラウマを昇華させています。
彼の父である政直は、友である直親の父親の直満を死に追いやりました。政直がそうやって井伊を守ろうしてたかどうかはさておき、
幼かった政次はそんな父親に対しての絶望と背負わなくてもいい自責の念を持ったのではないかと思います。
ですが今回、おなじような悪役を井伊で演じてはいても父親とはまったく違う結果を導きだした。
虎松を守るという事はつまり、あの日の何もできなかった子どもだった自分を救う事も同じ。
もしもタイムマシンがあるなら、政次はその日の自分に
「大丈夫。君は将来、直親の息子を守ることができるし、自分の息子のような甥っ子に同じ気持ちを味あわせない。」
とでも声をかけるのではないでしょうか。
亥之助に「負」の遺産を残さずにすむ事、むしろその因果が逆転し「正」になった事は、彼の一つの大きな仕事であり、確かにそれをやり遂げたました。

 


そして、政次が抱えるトラウマからくる人生の課題がまだ残されています。
平和であればそれを抱えながら生きていく事もできましたが、どうもそうはいかないようです。
それがどういう形に収束するのでしょうか?
その日が来るのが怖く、でも確かに見届ける覚悟をもっていきたいと思います。