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親と目線が対等になる時の衝撃~強父論~

強父論

エッセイスト兼タレントで活躍なさっている阿川佐和子さんの父親との思い出をつづった本です。
この阿川さんの父親は「山本五十六」などを書かれた小説家の阿川弘之さんですが、絵にかいたような昭和の暴君きわまった頑固おやじといいますか、
現代だと速攻アウトな人間です。

 

 

彼がどんな人間かというと佐和子さんはこう書かれています。

情に脆いところもあり、子供の頃から友達に揶揄されるほどの泣き虫だったそうだが、同時に非情なほどの合理主義者である。

と言いつつ、理屈より感情の先立つことが多い。男尊女卑でわがままで、妻や子供には絶対服従を求める。
他人に対しても、気に入らないことを言う人や、自分に興味のない話を勝手気ままに長々と喋りまくる人は嫌いである。
常に自分が中心でありたい。自らの性格が温和とほど遠い分、周囲はできるだけ穏やかであることが望ましい。
でも世間を相手にそこまで思い通りにいかないという分別がないわけではない。だから外ではなるべく我慢する。
極力おおらかな人間になって、「阿川さんはいい人ですね。立派な方ですね」と褒められたい気持が人一倍強い。
そのため少しばかり努力する。いきり立つ感情を抑える。
爆発するまい、癇癪を起こすまいと、自らを制し続け、我慢を重ねた末、家に帰り着いたとたん、ちょっとした火種、すなわち家族が無神経な言葉を発したり、気に入らない態度を示したりしたとたん、たちまち大噴火を起こす。
だから怒鳴られる側にとっては「唐突」の印象が強くなる。

 

 

 

ここを読んだだけでも、弘之さんは父親としては問題児ですが、当の佐和子さんはユーモアをもって書かれており読みやすかったです。(かなり受け入れがたい所があるにもかかわらず)
なんというか父親とそのきつい環境におかれた自分達家族をどこか客観視しているように見えます。その風景を映画館で楽しんでいるような佐和子さんがいて、そしてその映画館の椅子に座っている自分を横で見ている自分がまた別にいるような。

彼女の二重、三重の客観性を感じます。
多分、そこが彼女の司会者やエッセイストであるときの鋭さにつながってるんだなぁと腑におちました。
よほど強い客観性が彼女の中になければふつうなら人生を食われてしまうんですよね。テレビで拝見しているだけだとものすごくバランスがとれた方だと印象を受けます。

 

<変わらない人と変わる関係性>

それにしても弘之さんは典型的な家父長制における父親で、昔はよくいたんでしょうね。

この家族スタイルだと良くも悪くも絶対的に父親が上で妻子が下の立場という関係性にどうしてもなってしまうのですが、どうも佐和子さんが「物書き」をはじめてからちょっとおもしろい現象が起きます。
ある日、父親に関するエッセイを頼まれて、「うちの父親ってこんなに横暴なんです。」というような内容を赤裸々に書いて弘之さん本人に添削もらうシーンがあります。

 

 

「はい、赤鉛筆と眼鏡」
手渡すと、眼鏡をかけて原稿を読み始めた父の横の床に私は膝立ちの恰好で控える。
たちまち、父の持つ赤鉛筆が動いた。
「まず、名前の位置が悪い。タイトルのあと、一行開けて、名前。そこからまぁ二行ぐらい開けて、本文を書きだしなさい」
「はぁ」
「そこからここ。だった、だった、だった。だったが三回も続いている。安機関銃じゃあるまいし」
「ほぉ……」
「あと、に、に、に、に、『に』を四回も続けて、ニイニイゼミじゃない。こういうところに神経の行き届かない文章はダメだ」
「はい……」

 

 

これ、驚いたことに佐和子さんの内容に一切口出してないんですよね。本当は、彼の立場から言いたいことがたくさんあったのでは?と思います。彼の個人的性格を考えれば。

彼女も原稿を引きちぎるのではないかと思ったみたいですが、そんなこともなくただひたすら文法や語法について赤入れしてるだけなんです。
確かに彼は他人の人生についてあれやこれやと書いてきた作家なので、たとえ娘が自分の事を書こうと口出す権利はないとは思います。
だけど家庭内であれだけふんぞりかえっていた人が娘をちゃんと一人の作家として扱っているんです。
上から目線でしか見なかった父親が「ものを書く」同じ土俵にたって、はじめて目線が娘と同じになります。
別に彼らの関係性がそこから劇的に変わるわけではなく、あいもかわらず弘之さんは横暴ですが、親の「親であること」以外の人間性に触れてしまい
一瞬でも上下の力関係にいた者達が対等になっていているのはすごく面白い。

 

 

この相手の「違う面」に触れてしまうというのは結構あって、というか人はいろんな面がミルフィーユのように重なってその人ができてるんですよね。
親であることや子であること、社会人であったり、友人であったり、恋人であったり。
いろんな面のどれがほんとうの自分かということではなく、どれもほんとうの自分として。
だから、心が通じていると思っていた友人が思想性でぶつかったり、差別的でいやな人間と思っていた人が違う面では好きだと思えたりします。
まぁ、親が一番インパクトあるかもしれません。基本的には「親」である一面とほぼ子供はつきあっていくので。
だけどそれ以外の面を知っていくことは、私は悪いことではなくむしろ相手に過剰な幻想をいだかないようになるという点において、大人になるためのある種の「儀式」でもあるのかなと思います。

 このへんの話になるとよしながふみさんの「愛すべき娘たち」の中の

 

「分かってるのと許せるのと愛せるのとはみんな違うよ」

 

のセリフを思い出します。

 

佐和子さんの場合は、それはどの程度だったのか?自分はどうなんだろうか?と思いながらこの本を読みました。