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物語同士のつながりが好き

加害者と加害者もしくは被害者と被害者の狭間で~おんな城主直虎48話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

武田滅亡は叶ったものの、信長の影響により瀬名・信康を失い、人材を丸抱えするという策を潰された家康。
そんななか、少しでも明るくと徳川は宴会は開きます。
が、なんとその信長から甲斐からの帰り道のもてなしを要求されました。
今回はこの信長浜松観光ツアーから始まる戦国ミステリーという趣があります。
タイトルの「信長、浜松来たいってよ」は「桐島、部活やめるってよ。」のパロディ。
この作品の中では桐島自体は登場せず、だけどその存在にふりまわされてる人々が描かれてしました。
それと同様に、信長という人間が結局のところ何を考えているかわからない状態です。
一人の人間として物語のなかに存在しているというより、彼はもはや現象としての「織田信長
それは厄災なのか?それとも?という不安の中、誰を信じて何が正しい道なのかわからないまま進まなくてはならない。
一回でも選択をミスれば死への直結ルート。
だからこそ、信長の一挙手一投足に敏感になっている周りの人々。
深読みなのか?、実はそこまで悪人ではないのでは?と思わせるのはこれまでのこの作品、が敵であろうと一理あるし、向こうから見れば自分達こそ悪である、
というものを見せてきたから。 
そう思うと今の疑心暗鬼な状態こそ、製作陣の手のひらの上といったところでしょうか。

 

桐島、部活やめるってよ
 

 

<彼らの帰結>
今回、我らのぼっちゃま!氏真が活躍しまくっていました。
父親の仇である信長を前にしても笑顔を崩さず、座興を用意してきます。
そして彼は光秀から持ち掛けられた信長暗殺計画に一枚からんでいます。
そんな氏真と直虎のここにきての対談は、これまでの彼らの軌跡を見てきた者としては感慨深いものがありました。
今はもう正式な当主といっていいかわからない二人。戦国大名から降りた氏真とほぼ農婦の状態の直虎。
でも当主ではない今だからこそ、自由に動くことができ、お互いに本音で語ることができました。
当主同士ではないのに今の方が当主らしい会話になっています。


氏真の
「瀬名や、桶狭間の戦いで死んでいった者(直盛、玄番達)の仇をとりたくないか?
のセリフに答えない氏真に答えない直虎にこう続けます。
「そうか。そなたからすればわしも仇か。」
そこで直虎が
「ゆえに、仇は誰かと考えぬようにしております。」
と答えます。
(略)
そして最後に氏真は
「逆風になれば、仲間は裏切り、下につく国衆は裏切る。そなたもよう知っておると思うがの。」
と言います。

 

ここのシーンはささやかで短いものですが、この大河の名シーンの一つといってもいいのではないでしょうか。
直虎がどのような思いで近藤と手を取り合っているのか言葉にせずとも伝わってきます。
氏真が平気なふりして生きていても心の奥底にある青い炎のような恨みがあるように。

 

確かに今川配下である時代には井伊は逆らえず辛酸をなめさせられました。直虎から見れば今川は加害者に見えるけど、今川から見れば裏切りが日常茶飯事の世界で、その目を潰す事は当然であったことも事実。
実際に井伊は沈みかけた今川から脱却しようとしていました。
裏切ったという意味では、今川にとって井伊が加害者たりえる。
だけどどちらも、ただひたすら戦国時代を生き抜こうとしてただけ。
今川を悪とするなら、生きる事そのものさえ悪であり許されない事になってしまう。
そういう意味で二人とも、よくいわれる言葉を使えば「戦の被害者」であります。
そしてなんの因果か、加害者であり被害者である彼らが同じ「信長暗殺計画」の元に動こうとしている。
ただ、直虎と氏真の違いがあるならば、直虎は仇をうつために行動をおこしてはいない点です。

ファム・ファタール直虎>
氏真との対談のあと、直虎は家康と話し合いの場を持つことになります。
twitterで下記のようなことを書きましたがほんとこの場面は「おんな城主直虎」ではなく「おんな検事直虎」といったものでした。

 

共に戦を避けようとしているという点において直虎と家康には共通性がありましたが、直虎の家康への理解力が高くないとこうもうまく誘導できません。
家康の心の中にある、これを実行すれば!いやしかし!でも!というぐるぐる巡る思考を直虎が口に出させます。

 

織田に報告すれば徳川は安泰→だけど織田は徳川を潰そうとしてるのでは?→じゃぁ、信長を殺す?→でもその後は?結局、乱世が続くわけでは?→だったら織田の天下を邪魔せず、やはり報告?→最初に戻る。

 

この無限ループの中にいるから家康は頭を抱えて踏み出す事ができません。
ここで直虎が家康に「織田にとってかわり、日ノ本をまとめる扇の要になって欲しい。」と発破をかけます。
ここですね、いいシーンなんですけど一歩見方を変えると、直虎が家康にとってのファム・ファタールのような悪魔のささやきともとれるな、と感じます。
あとで家康も直虎に語りますが、だからといってこの戦国の世を変えるための代替え案が直虎にも家康にもまだないのです。
だかこそ、家康はより深く悩むわけで。
代替え案なき状態で天下をとったところでなにも変わらないんですよね。むしろそれこそ正義に見せかけた「悪」といってもいい。
なのに直虎はやってみてなくてはわからない、だけど決めるのはあなただ!というような事をいって去っていきます。

 

もしかしたら信長の天下布武のほうが正しい選択なのかもしれない、それなのになぜ直虎が家康にこそ天下をとって欲しいと思うのか?
推量ですが、信長の政策が直虎にわからない状態です。そして彼女は瀬名・信康事件から信長は恐怖によって人を支配してるような人間に見えているのではないでしょうか。
このやり方で誰を思い出すかといえば今川家が井伊にしてきた事です。
そこで降り積もる恨みはやがて国衆達の今川家への裏切りへと繋がったといえなくもありません。
だかこそ直虎は恐怖政治の限界というものを感じているのではないでしょうか。

 

では直虎の代替え案なき提案は無責任であるか?というともそうともいいきれません。
というのも何故戦がおこるのか?という問いに、食料不足によっておこるものがありました。(武田信玄の侵攻理由がまさにそれ。)
そこを彼女はこれまで内政の充実により回避しようとしてきました。
これをつまり全国レベルで実施することを彼女は夢を見ているのかもしれません。
かといって具体的にはまだよくわかってない状態であると思いますが。

<これからのこと>
家康と直虎に代替え案がないことへの告発と絵にかいたような大魔王である悪の信長の解体が、今作の大河で見れるかとすると、みれないような気がします。
というのも実質、信長のあとを継ぐ秀吉が真のラスボスであるので物語上、家康達はここで「あがり」をまだむかえてはいけないので。
あとは尺の問題により(笑)
すごいメタにかたよった見方ですが。でも信長は最後に彼らの正義になにかものを申すシーンがあるかもしれない。どっちだろ?
いや、けど信長が悪のまま死んで、後になって家康達が彼のやりたかった事に気づく、というのもおいしい。けど、それはまた別の話になるけど。(思考がぐるぐる)

 

話がずれましたが、それでも家康が信長を接待するために道を作ったというところをみると、にやりとさせられてしましいます。
道、つまり高速道路のようなものをつくることにより人、物、金がの流れがそこにはできる。
道は相手が攻めやすくなるというリスクがもちろんありますが、そこで生まれる経済のうま味が戦よりも上回ることができるなら戦を回避できます。

家康は今はまだ代替え案ない状態ですが、これから少しずつ少しずつ学びつつそれと同時に戦に勝つという技術を向上させていくのではないでしょうか。
いつか「戦なき世」をつくるために、今は戦という手段で。

 

遺志を継ぐ者の意思の感染~おんな城主直虎47回~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

信康、瀬名を失った家康を支えていく万千代。
この死を無駄にしないためには、彼らの遺志を宿し勝利をいつの日かおさめる事。
家康の止まりかけそうだった時が万千代によって新たに動き始めました。
一方、直虎の方も自分の命の使い道を「戦なき世」を目指すべく、万千代を使い徳川にそれを成し遂げてもらう、
という新たな目標が決まります。

大切な人の死は生きている者の時間を時として止めてしまいますが、前に進める動力にもなる
そしてその小さな決意は今はまだ、若葉のように頼りなく、世間の荒波に押しつぶされてしまいそう。
だけどいつの日かその若葉が大樹となるように、小さな一歩を踏み出さんとする彼らがそこにいました。


<直虎と家康の共通するリーダー像>
信康を失った岡崎では離反する者、後を追うものが絶えないようです。
数正もその一人でした。
家康は彼らの元に出向き、妻と子を失ってしまったのは自身の過失である事、ほんとうは無実である事を知っていたこと、
だからこそ瀬名の望みである駿河を手に入れたい事を語り掛けます。

 

このプレゼンが万千代のアドバイスであったからもわかるように、これは直虎が百姓達が逃散したときに使った手法でした。
「腹を割って話をする。」というとだいぶオブラートに聞こえますが、リーダーが従える者達の現実を正確に認識、共感し、その上で目標を提案するやり方です。

岡崎衆は家康への不信感や怒り・恨みがあります。
だけどそれだけではなく、彼らの心の底にあったのは「信康・瀬名を守り切れなかった自分への呵責」があったんだと思います。
なのに自分達だけ生き残ってしまった。その「生き恥」をどうぶつければいいのかわからない状態だったのではないでしょうか。
だからこそ、二人を守れなかった事の悔恨を家康は自ら口にだしました。
そこで共感を覚えた彼らに、駿河を取るという具体的な夢を与える。
「共感」と「夢」どちらも人を動かすのに必要でした。
この大河の中では上記のような事が出来てこそリーダーの資質足りえる、というような書き方がされているように思います。

 

あともう一つこの結束によってもたらしたものは、信長の徳川の力を削ぐという目的を潰しているという事です。
まったく効果がなかったのかというと、跡取りと正室が失われたのでそうとはいいきれませんが大惨事になるところがソフトライディングしたように思われます。

<新たな人材登用がもたらす事>
籠城する武田に、家康は万千代はある策を語ります。
敵を囲い込むように砦を築き、徐々に追い詰めて我慢できずに降伏させる、というものです。
そしてその武田の者達を丸抱えしようという意図があると語ります。
これに唖然とする万千代。彼が言うようにその甘さでは飼い犬に手をかまれかねません。

 

このやり方も誰かを思い出すといえばやはり直虎。
そしてその原点に誰がいるかと思えば直盛なんですよね。
井伊にとって小野家自体が獅子身中の虫でありました。
直盛自身はどうする事もできませんでしたがいつの日かきっと、という彼の消極的願いは井伊家の忠心の中の忠心である政次を生み出すことになりました。
異質な者を取り込むという直虎もまた、武士らしくない六左衛門、間者の可能性を残す高瀬を受け入れて、それが今回の武田の間者を突き止める事に繋がっています。
六左衛門はそれが顕著に出ています。
武士らしい威圧感はない代わりに、誰とでも隔てなくコミュニケーションをとれるという利点が相手を油断させました。

 

要は人の受け入れるという事は組織にとって新たな情報が入りやすくなり風通しが良くなる事でもあります。
そしてこの多様な人材の登用は既存の価値観では見つからない新たな視点を投げかけてくれます。
ちょうど万千代が家康に榊原達では思いつかぬようなアドバイスを投げかける事ができるように。

長所をいいましたが、このやり方はもちろんやはりリスクがあります。

やはり裏切られる可能性は捨てきれない。この欠点をカバーするにはどれだけ受け入れた人材と運命共同体となれるかが肝になっていくような気がします。
この直虎の過去とと家康の今のやり方が重なっていく様はぞくぞくします。

<覇道の信長・王道の家康>
家康の丸抱え作戦ですが、信長によってとん挫してしまいます。
敵をせん滅させるというやり方に反感を覚える徳川サイド。
といってもこのやり方が何を思い出すかといえば堀川城への仕置きの仕方です。
徹底的に敵を滅ぼすことで、他の地域の戦意を喪失させ、早期の戦争終結へと向かわせる事が出来ました。
前回は忠次がそれを主導していましたが、今回ははっきりと家康自身がそれを行う決断をしています。
瀬名と信康を失い、人の言うことに流されたままでなく、自分で決める!
そう泣き叫んだ彼は信長に押し付けられた形とは言え、それさえも自身の決断として受け止めていく姿がそこにありました。
手段としてはそれは「悪」であるかもしれないけど、それを自覚し自分の責任としつつ、
だが現状を良しとはしない彼は、不器用な悪女の隣に立つまさに優しい悪人となりました。

 

 

さて、信長のやり方を結局は受け入れた家康ですが演出がまるで違う。
家康の周りには家臣がいて一緒に悩んでいるという描写がされていますが、信長は室内といい服装といい「孤高」が見えます。
まさに絵にかいたような記号的な「悪」。
メタなことをいえばわかりやすい悪役を配置しているのでしょう。
家康が敵を味方にするというやり方で、飼い犬にかまれない方法は結局のところ、自分達の外側に敵を設けることになります。
要は身内ではなく外に仮想敵を置くことで結束を固める。
これ自体は登場人物達が意図的にしているというより物語、脚本の流れがそうなっているように私は感じます。
だけど信長が記号的でありながらも完全に悪役とならないのは、やはり堀川城での一件を挟んだからにほかならないからだと考えます。

そして堀川城で徳川は同じようなやり方をしているので、この脚本が告発したいのは彼の冷酷なやり方ではなく
家臣に心を開かない信長であるのではないのでしょうか?
彼は岡崎で腹を割って話した家康とは対象的でもありました。


<この道は政次の来た道>

「戦なき世」を目指すために万千代を支える決断をした直虎。
これまで彼女は誰かに仕える喜びを体験した事がありませんでした。
姫という立場、城主という立場により基本的には誰かを従わせるサイドの人間です。
確かに今川家の臣下でしたが、自分から心の底から喜んで仕えていたというわけではありません。
それを家康に仕える万千代を支えていく事で知っていくのではないでしょうか?
どんな気持ちで政次が直虎に仕えていたのかという事を。
戦わずともよい道を探りあった日々を胸に、戦いのない世を目指しながら。
以前になつは政次は不幸ではなかったといような事をいってましたが、それを自身で体験してやっとそこに思い至るのでは?
と思います。
政次がけして直虎の犠牲になったのではく、彼女の見る甘い夢の中に自身も立ちたいという願いがそこにあったから。
井伊のはじかれ者であったゆえにリアリストで世界の冷たさを人一倍感じていた政次。
だからこそロマンチストな直虎の作る国に懸けてみたくなってしまった。

今は苦い体験もしてきた直虎が現実を見る事でさらに大きな夢をみる、その戦いのの至る先を残り少ない話数で見守りたいと思います。

 

 

不器用な悪女の最期の一手~おんな城主直虎46回~

 

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

武田との内通の疑惑により、信長から信康の命を差し出すよう言われた家康。
表立っては言う通りに動きますが、裏では城を転々と移動させることで時間稼ぎをます。
そのあいだに北条と結ぶことで、それを手土産に助命を嘆願しよう画策する徳川勢。
しかし瀬名が武田と密通していた手紙を残し、どこかに消えてしまいます。
果たして「信康救出作戦」はどうなるのか?

 

つらい、(政次処刑の回から二度目)だが美しい。
もうこの一言に尽きるしかなくて感想もなにも考えられない状態でした。
それは政次をはじめ、先が見えぬ戦いに散っていった者達の姿がありありと思い出されたからもあると思います。
一度も回想シーンを使わなかったとしても、生きる者は死者に二度と会えなくても、
生きている頃よりも彼らの存在を強く感じられる。
私の中では言葉はいらねぇ!考えるな!感じろ!回でしたが琴線に触れたところをぼちぼち、だらだら書いて行きたいと思います。


<逆転する立場・瀬名と直虎>
twitterで家康は直親・政次を見殺しにしてきた因果が巡った、みたいなことを書きましたがこれは瀬名も同じ。
10回「走れ竜宮小僧」の回で直虎は瀬名の命乞いに駆け回ってましたが、いざ直親を助けるとなると瀬名は拒絶しました。
今回は逆に瀬名が直虎に頼ろうとしても、直虎は下手に巻き込まれるのを恐れ帰ってしまいます。

立場は逆転していますが、共通するのは二人とも守るべき物のがあるのでやむえなくという点です。
瀬名にとっても直虎にとっても彼女達は数少ない同性の友人。
それを切り捨てる事も切り捨てられる事、どちらも身を切るような思いがしたことでしょう。
あの時の相手の立場に初めて立つこということはどんな思いがするのか?
その立場に立ってやっと相手が見ていた風景にたつ、というのはよくある普遍性をもった話だといえますが
それが命のやり取りというのが戦国の厳しさを浮かび上がらせます。

<母の背中>
徳川の妻として、母としての死に赴く理由を語る瀬名。
言っていることは武家の女性のまさにそれです。

けどなぜ瀬名がそんな事を言える「立派な」女性足りえるのか?

その理由を武家の女性だから、で通す事も作中可能です。それが戦国時代の女性にとっては「普通」の事だと。
しかしその「普通」に瀬名という女性の動機と人格を描写を少しずつ入れる事で、彼女は記号ではなく、血肉を宿した戦国女性なっていたと思います。

 

幼少時代、氏真の嫁になる!といきこんでいたのは母の佐名のためでした。
やり方がすごく不器用ですよね。
そのころから勝気で、けど優しい瀬名姫。
11回では佐名は娘と敵対してしまい、それが死を意味すると知っていても瀬名に激励の言葉を送っています。
それが自分の望みだとして。
直虎は瀬名に「助けられなかった者、生き残ってしまった者の無念やつらさがわかるか!?」
といってますが瀬名はもう十分にそれを知っています。母の佐名を助けられなかった。
だけど自分に志を託し、生かさんとするその母の背中があればこそ、自分もまた信康のためにとびこんでいける。
あの時死ぬんだと絶望したときに、家康が見捨てないでくれた。
それは人生を新たに貰ったに等しい、だからそんな夫を助けるために命を捨てる理由になる。

 

その過程がサブストーリーとして流れていたおかげで、美しく不器用で優しい瀬名姫の最後の一手が「悪女」になることになんの疑問もありませんでした。
まさに数正が「美しい。」といった時に「なにをいまさら。」という言葉の通り、
ほんとうに彼女は昔から変わらずそういう女性でした。
だけど、死んでからそれを強く思う事になるなんて思いもませんでしたし、ひたすらその事がつらいです。

<走れ!万千代>
表立って動けない家康の代わりにあちこちに駆け回る万千代。
前回、この信康事件は井伊家の今までの歴史を圧縮したものだと書きました。
井伊の時は万千代はまだ幼くそれゆえに何もできなかった事、それなのに周りから「潰れた家」の子だと馬鹿にされることの悔しさを味わいました。
無力な子どもで参加できないつらさがありましたが、今回は無力な大人がベストをつくしても届かない諦念のつらさをあじわう事になります。

 

繰り返される悲劇の中で、出口が見えず自分のその無力さに動けなくなる。
それでも、残された者の役目は意思を継ぐこと。
そんな風に直虎は万千代にアドバイスをしていきました。
それを聞き、万千代は一人で碁をうち悲しみの中に沈んでいた家康に、瀬名のごとく碁石を払いました。
まるで子どもように泣いて怒る家康。

 

このシーンは震えるほど良いところです。
なにがいいって、家康への救いとなっていますが、その救いとなる万千代の大切な者達をかつて見殺しにしたのは家康だというとこです。
その見殺しにした者達が繋げた命に今まさに救われる家康。

 

確かに負の因果は断ち切りがたく続いてしまいがち。
だけどたとえ悲劇に終わったとしても、負けたとしても、それでも
そこにあったのは、ほんとうに悲しくつらい事だけだったのか?
そこには笑顔もやさしさも、悲劇を断とうとする熱意や勇気が確かにあったはずです。
「負」も連鎖するなら「正」もきっと連鎖され、いつかはその「正」が負に打ち勝つ時がくるかもしれない。
その熱意や温かさに祝福されて生かされている万千代は、だから家康の先達となれる。
万千代の中には直親を切らざるをえなかった闇を背負った政次、その政次を切らざるをえなかった直虎に、
光を見出していた彼だからこそ差し伸べられる手だったと思います。


<そしてこれから>
瀬名の首をさしだしても結局は「好きにすれば。俺も好きにするし。」という信長に
忖度しなければならかった家康。
信康を失う事になりました。とにかく徳川の勢力を是が非でもそぎたかったのでしょう。
憎らしいくらい悪役を背負ってますが、そんな彼が描く夢が気になる所です。
その夢の中の一部である堺という都市に龍雲丸が生きているというのはじわじわとくるものがあります。
そして信長は経済によって長篠の戦を制したように、富国強兵をおこなったところはどこか直虎的でもあります。むしろ直虎よりそれを成功させてる。
なのであの信玄でさえ彼なりの義があったように、信長もある事でしょう。
彼にはなんらかのビジョンがあるのかもしれません。
ただ、残酷なやり方をするのであればそこにつく家臣に、そのビジョンを徹底的に共有させないと脱落する者が出てくるが出やすいのはないでしょうか?
それがこの作品で描かれるかはわかりませんが。

 

 

家康も戦なき世を目指したいとしても、それを通すには何かしらの「力」が必要となり
天下取りの椅子取りゲームに参加せざるをえません。
その「戦なき世」をなすには、未来を勝ち取りたいならば、今目の前にある命を捨てていかなければやはりいけない。
第二第三の直親、政次、瀬名、信康、名もなき子の犠牲が出てくるのは必須。
その意味では信長も家康も「悪」という点ではなんら変わらないかもしれません。

大きな正義のために小さな悪を成していく事を彼らはしているのですから

 

 

 

 

 

恩賞の行方の裏には罪と罰~おんな城主直虎45回~

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前回、家康への暗殺者を捕えた万千代。
この働きが認められ、家臣の一人として末席を与えられました。
今回はこの万千代の「功」から始まっていく悲劇のプロローグを見てるようでつらかったです。
当たり前の事ですが戦国において誰かが「恩賞」を勝ち取るとき、その陰には他の誰かが負けて散っていく。
Twitterでもよく感想で見かけましたがその「恩賞の彼方」に万千代が見たものが、今までの井伊家の歴史を圧縮したような悲劇というのなんともいえません。
自分が功をたてた結果、自分達が今川から強いられてきた被害者から加害者側にまわっていく。
もちろんそれは万千代になんの瑕疵もないけれど、その痛みを知るのと知らないのじゃだいぶ違う。
誰もが生きていく限り、被害者であり続ける事も、加害者であり続ける事も許していかない構図の厳しさが出ていたように思います。

<Go For Broke!>
武田の内通で処罰を受けた武助の一族。
が、それだけにとどまらず罰は岡崎衆への連帯責任へと広がりました。
もちろん不満がでますが信康は彼らに頭を下げます。
だからこそ武功をあげて、浜松勢を見返してやろうではないかと。
そこで一致団結した彼らが戦場で勇敢に戦ったことがナレーションではいりますが、ここで思わず涙ぐんでしまいました。
というのもここで「第442連隊戦闘団」をい思い出したからなんですが。
山崎豊子さんの作品「二つの祖国」でもでてくる、日系アメリカ人の部隊の事です。
ものすごく活躍しまくった部隊なんですよね。
当時差別を受けていた彼らが、だからこそアメリカへの忠誠心をアメリカ人よりも証明していかなきゃいけなくて勇敢に戦い、戦争の最前線に立たなけれなならなかったなど、かなり考えさせられました。
語りだすと長くなるのでここでは割愛させてもらいますが。
この自分がしてない事でも、そこに所属しているというだけで、不当な扱いを受けてしまうのはかつての万千代も同じです。
だからいって信康達がルサンチマンに陥らず、誰よりも徳川のためにと命を賭して戦っていく姿はすごく眩しいしそれだけで涙が出てしまいます。
まぁ、たった一文のナレーションで実際に描かれたわけではないのですが。

 

二つの祖国 第1巻 (新潮文庫 や 5-45)

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 <見えぬ信長の真意>
家康の側室に男子が誕生しました。名は長丸、後の二代将軍秀忠です。
浜松が歓喜に沸く中、焦った瀬名は信康に側室を置き、跡取りとしての基盤を固めようとします。
側室を置き男子が生まれたとしても、信康の正室である篤姫が母であると、約束することで織田の顔もしっかりたてようとしました。
が、これが悲劇のフラグの一つとなってしまいます。
信長の真意がわからないためどうにも推量となってしまいますが、だんだんと大きい勢力になりつつある徳川の力をそぐために、
信康を取り込もうとしているみたいなんですよね。
これは信長に「徳川勢力の力を落とす」という目的があり、彼が実行しようとしたことは計画はまず下記にあるAプラン。

A信康を取り込む事。
B信康ごと潰す事。

今回、のプランでは、茶器を授けようとしたり官位を持ち出したりとしました。

しかしだめになったのでBに移行します。

 

この計画を回避するには、果たして信康はいかにふるまえばよかったのか?
となるとかつての政次のように裏切りの態度を取り続けるる二重スパイのような態度をとったり、
直虎がいったように女だとなめてもらった対応をしてもらったほうが、動きやすいを考え、馬鹿殿を演じればよかったのでしょうか?
しかしながらこれだけ好青年の信康だからこそ家臣達が屈辱をあじわっても、ついてきたのも事実。
そう考えると、岡崎はヒールを演じてた政次不在の井伊家ともいえるのでしょう。

 

最初にも書きましたけど、この井伊家の悲劇を圧縮して万千代に追体験させています。
信長に脅され究極の選択を選ばされた酒井は、かつての政次。
信康を葬ろうとする信長は、直虎の優秀さゆえに殺さなければならないとした寿桂尼
そんな井伊家を見殺しにしてきた家康が、今度は我が身を切り捨てていかなければなりません。
それは武家としていきていれば仕方ない事。だけどそのルールを人に強制すればまた自分も縛らなければならない。
その自覚が、そうやって生きてきた家康にあればこそ

於大の方が「それは通らない。」というセリフにほぼノータイムで理解することができるのです。
というか、このシーンめちゃくちゃ良くて「子供を殺せ」と冷酷なことをいいつつも慈母らしさがありました。
人間をすてた冷徹人間ではなく、あくまでにんげんだからこそ!というような雰囲気のある於大の方でした。
(あと、家康の部屋に入る前に一度目をつぶって覚悟を決めるようなとこも)

<顔を見せぬ徳姫>
信長の真意がみえにくいと書きましたがそれ以上に隠されて書かれているのが信康の正室であり、信長の娘の徳姫。
顔みせしてないので真意がみえにくいんですよね。
といっても信長への手紙から信康を裏切っている様子も不満があるようにも見えません。

夫婦仲が悪いような様子も感じられませんでした。
それを「徳は夫思いじゃのう。」といってましたが、裏を返せば徳は父思いではないよね?といった意味にとれます。
前にも武家の女性は外交官でありインテリジェンス・オフィサーみたいだなと書きましたが、
そう考えると徳姫は外交官として失敗してしまったのかもしれません。
本国(織田)の意図を図り損ねたいいますか、両家の立場にたつ彼女の二重スパイ性はだんだんと徳川よりになったのかもしれません。
この辺難しくて、取り込んだ地域の娘(武田の元家臣)ではなく織田から側室を探すという手もありましたが、まさか父親がそんな事を考えるとは徳姫は思い至れなかったのかもしれません。
というか前者は多分普通にあった事だったとはおもうんですけど、そこらへんどうなんでしょうね。
それを裏切りだと信長は考えたのか真偽は今のところ闇のままです。

<動いても、動かなくても>
前回、喧嘩になった万千代・直虎ですが今回の事件で二人は何を感じたのでしょうか?
万千代は武功をたてることで、直虎はお家騒動に巻き込まれたくないからと側室を井伊谷から出さぬ事はこの悲劇の一端を担っています。
二人ともやり方は違えど、何かのためにとやったことで、それでも大切なものが手のひらからこぼれ落ちていこうとしています。
二人とも井伊家の人間なので傍観者の立ち位置となり、それゆえに「井伊家」自体が傷ついたわけではありませんが。
何かを成そうとしてもしなくても生きていくという事は誰かを傷つけうる事がある、このルールから何人も逃げられはしない。
それについて二人がどのように受け止めていくのか見守りたいと思います。

 

 

 

井伊谷のばらを照らした太陽~おんな城主直虎44話~

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初陣を飾る事となった万千代・万福コンビ。
やっと戦に参戦でき、武功がたてられるかも!意気込む万千代ですが軍議にも参加させてもらえません。
しかし家康を狙う間者を見事に捕え、一万石を与えられる事になります。
が、色小姓としての手柄と周りに思われてる節もあり、なんとしても元服して家督を譲ってもらいたい万千代。
そこに、井伊谷から祐椿尼の体調悪化の知らせが届き、思いもかけず直虎と口論になってしまいます。

 

 

今回の二人の喧嘩というかぶつかり合いは、祐椿尼と直虎の互いへの「優しい嘘」(病気を隠す・気づかないふり)とは対照的でした。
それは事実を受け入れていく直虎と、変えていこうする万千代の世界への認識の差でもあります。
「若さ・未熟」VS「老成・老害」ともいえますが、そういうには言葉が足りないし割り切れない。ここまでの彼らの歩みを見てみれば。
どちらにも肩入れしたくなるのは、完全にこの大河の製作陣の手のひらの上といったところです。
そんな黒でも白でもないこの世界の複雑さ、奥行きが今回書かれていたように感じました。


<高瀬・オルタナティブ
万千代が捕えた家康への間者はどうやら武田の者のようです。
信玄が死に、勝頼は押され気味とはいえさすがとしかいいようがないです。
このエピソードだけなら武田やばいな!万千代よくやった!としか思いませが、高瀬間者事件があったので
この間者である武助にも思いを馳せてしまします。
高瀬のように脅されたのかもしれないし、家康が死ねば跡取りである信康や岡崎衆のためにもなると囁かれたのかもしれません。
事実、前の話で岡崎の不満は消えたわけでもなく不信感が残ってたでしょうから。
そこの亀裂を修復しようとするのが家康・信康ですが、治るまえにうまいとこついてきたのが武田でした。
失敗しても岡崎の不満分子がなんらかのアクションを起こそうとするかもしれません。
ここらへんは武田がすごく日本社会の集団心理をよくわかってるというか、戦前の青年将校達の暴動を思い出すというか。
かといって下の組織を尊重しすぎて俯瞰的決断を下せなくなるようでは本末転倒。
「正しい決断」と「正しい(と思わせる)空気の支配)」が組織にとってどれだけ重要なのかが薄く見えてきてちょっと胃が痛くなります。

 

といってもここまで私の妄想なんですけど。けど高瀬を挟むこと想像の余白を生んでくています。
まじで、戦は軍議だけでおこってるんじゃない!現場でおこってる!(ただし、責任をとるのは上層部だ!!)

<正しいと正しいがぶつかる時>
さて、直虎と万千代の言い合いですが上記で書いたようにどちらにも言い分がある。
直虎に心をよせる人もいれば万千代を応援したい人もいる事でしょう。
万千代はどうやら政次を死に追いやり井伊谷を奪い取った近藤が許せない。
これはよくわかります。まさに彼は個人的復讐心からそういってる。
自分の親しい、愛する人を奪った者がその土地でのさばっていると思うと悔しくてたまらない。
普通はそうです。個人的な思いとしては彼は正しい。
それに対して直虎が言い返します。

「それでとりかえしたところで何かビジョンがあるのか?ないなら、褒められたいだけだろ?近藤達とせっかく治めてる場所で。」

 

これは俯瞰的に見たら正しい。復讐の連鎖を自分のとこでなんとしても止めようとする、これは政次の生き方にも通じるとこがあります。
そしてリーダーの資格という点ならば18回の下記の直虎のセリフに圧縮されているように思います。

 

 

「私には、恨みを後生大事にかかえるような贅沢など許されますまい。」 のセリフ。いや、これほんとそうで義憤にかられて戦争ふっかけられるほど井伊に国力ないんですよ。現実的な話。 個人的恨みを乗り越えて国の明日のためにベストな選択をとることができるのがリーダーの責務なんですよね。

なかない鶴と鳴く犬は。人のステージが変わった瞬間をみてしまった。~おんな城主直虎18話~ - シェヘラザードの本棚

 

そして政次を追い詰めた近藤を許せないというロジックなら直親を見殺しにしたといえる家康に仕える理由が破綻する。
そういう世界の複雑さの上に万千代はたっていますが、今はまだ若くそれがわかりません。
ちゃんと説明すればいいかもしれませんが、己が経験しなきゃわからないと直虎は思っているのかもしれません。
もちろん、その複雑さを知りそれでもなお!と思うならばそれはもう、覚悟の問題です。


なんか万千代を責めるような感じになっていますが、そうではないです。
万千代は直虎が戦から降りた!とせめてますがいいとこをついていると思います。
というか家督をいずれ譲られる彼だからこそ、直虎を告発できる立ち位置にいる。
私個人としては直虎は一旦は降りて休んだが、また違うやり方で戦ってるのではと思います。
それでも、奪われぬ世や卑しい事を丸出しにいなくても生きていける世になるという夢がスケールダウンしたのも事実。
それが直虎がもう大人であり、まだ万千代が子供だからといいきることもできますが、
未熟ゆえに、指摘できる真実もあることでしょう。

「やってもなければわからない」そんな直虎の姿を一番、敬愛していた万千代だからこそ失望も大きかったのかもしれません。
万千代はこれまでの直虎の歩みを知らずして、彼女を本質を肯定したり否定したりと面白いです。

<花冠の王を見守る太陽>
祐椿尼と直虎の会話は「ベルサイユのばら」のオマージュ。
いわゆる「普通」の女子の生き方をさせられなかったと悔やむ親と、だからこそ得る物があったと語る娘。
このテーマはもはや使い古されていているかもしれないけれど、それゆえに王道で胸をうつところがあります。
祐椿尼は自分が男子を生まなかった事、それによって直虎に大変な道を歩ませたことに心を痛めています。

 

それを直虎は否定しますが私も言いたい。
彼女は素晴らしい母親です。井伊谷にとっても直虎にとっても。
直虎はじぶんが普通に嫁いでいたら、百姓達は米をただ運び、ならず者は悪党、商人は銭儲けの卑しい者、乗っ取りをたくらむ家老はただの敵
と思っていたかもしれないと言っています。
彼女は謙遜してますが、好奇心をもって人に接したり自分から歩み寄る事のベースは、両親が直虎に深く愛情を注いでたに他ならないと思います。
天真爛漫な彼女が仲間外れの家の男の子に光をさしこませた所から、このお話の核は始まっているともいえるのです。
そんな彼女だから、銭の犬の方久も受け入れ、武士に疑心暗鬼だった甚兵衛達の心を開かせ、ならず者たちでさえ助けてくれる。

 

よく考えれば、みな、この世界で生きづらさを持つ人達でした。家臣である六左衛門は武士らしくなく、最初から近藤のようなリーダーではやっていけなかったでしょう。
人材不足だったからだったとはいえ、そんな外れ者達が直虎という珍しくも美しい花を咲かそうと集ってきた。
直虎自身が、やっても無駄だよ。女子だからね、という空気に挑戦する存在であるがゆえに。
彼らは家臣という葉となり茎になり、百姓達は根になりました。
その花を照らしていたのは間違いなく祐椿尼でありました。
それと同時に自分の悲しみをこらえ、手紙を通し井伊谷の人たちに気配りを行う姿は、まさに井伊谷の母ともいえるものです。
直盛が植えた種が育ち、その花を見守っていた太陽の温もりは、みなの心に生き続けていくことでしょう。

 

 

 

 

 

今いる僕らは、名もなき民の轍の上に~おんな城主直虎43話~

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武具の手入れを丹念に行った事が認められ、小姓にあがることができた万千代。
今回、他の小姓達に冷たくされながらも奮闘する万千代を見る事ができました。
一方、井伊谷では長篠に木材を届けた事がもたらしたある問題について書かれています。
万千代の話も井伊谷での話も戦後処理といいますか、華々しい戦のあとに比べれば地味だが大切な作業が書かれています。
「植林」も「論功行賞」。どちらも怠れば次の戦の火種となりうるものです。
そう考えると戦が終われば、次の戦へをさけるための戦いが始まったといえる回だったのではないでしょうか。


<恋と忠義>
まずは、万千代サイドから。
いっそのこと、色小姓になってしまえば?と提案された万千代ですが、自分の力で功をあげたいからと断ります。
今回、小姓の仕事がなんたるかが説明されていました。洗顔や、歯の手入れ、髪を整えたりと。
こうみるとだいぶ信頼関係がないとできないんですよね。というかここで信頼関係を深める。
幼年というには年を重ね、だけど大人というにはまだ幼い。そんな年ごろの家臣の子ども達が、主君と信頼を重ねると同時に政治を学ぶ場だったのでしょう。
いまでいう、政治家をめざす若者が議員秘書をしている場所のようなものでしょうか。
主君のほうもできるだけ多くの信頼できる部下をここで育成することができます。

 

その中でも、「色小姓」というのは肌を直にふれさせるほどの「信」をその者に置いているという側面があったのではと思います。精神的にも肉体的にも絆を結ぶことで。
だからこそ他の小姓は万千代の寵愛発言にたじろいでしまいました。
戦が絶えない世の中で暗殺もあるとなると、その価値はだいぶ高いように思われます。
このお話のなかでは万千代と家康の間に色恋や性愛はないように書かれていますが、古来男性同士のカップルの強い軍隊があったように
恋と忠義が一緒になると、とてつもない働きを戦場で見せるのでしょう。
それをプラトニックに高めるとこまで高めたのが政次であったように思います。

<禅の教え>
新人だというのに他の小姓たちから仕事の指示をもらえない万千代・万福コンビ。なにかやれることはないかと自発的に動きます。
草履番をやってたおかげで、雨でぬかるんだ地面を平らにしたり、論功行賞のため普段よりも人が多く登城することに気づき、いちはやく動く事ができました。
そして家康が家臣への手柄について悩む様子をみて万千代は表にして整理すると提案します。
出来上がったものは見事に縦軸と横軸を使い、わかりやすいものでした。

 

ここのシーンを見ていると、どこで万千代はこんな技術を学んだのか?草履番で整理する事を学んだのか?と思いましたが、
それだけではなく禅寺で過ごした事が生かされているのでは?と思います。

「一 掃除、二 信心」というくらい禅では掃除に重きをおいているので。
その禅寺で教育を受けたおとわ自身も、万千代が草履番の時に名札を貼ればよい、とアドバイスしていました。
万千代は家康に信を置かれているおとわに、嫉妬めいたものをかんじていましたがやはり似たとこがある二人といえます。

<先人たちの彼方には>
一方、直虎サイド。長篠の戦で木を伐りすぎたせいで、山の保水力を奪ってしまったのでした。
これでは、災害が起こるだけではなく河川の氾濫をまねき食力自給率も自然と下がってしまいます。
百姓達は、武士の勝手でそうなったのに、なぜ植林という事業をこちらがしなければならないのか不満げです。
これに対する甚兵衛が「山の前ではみなただの人。山は武家だろうと百姓だろうと区別しない。」
というようなことを村人達に言います。ここ、かっこいいですね。

 

そして、なんで甚兵衛がそいうことをいってくれるのかといえば、直虎と積み上げてきた信頼関係が元になっています。
「徳政令」の回の時、直虎が目先の利益だけでなく未来への希望を語り、それが実を結んできたからに他なりません。
だからこそ遠い井伊谷の未来のために行動を甚兵衛がとることができる。
確かに、農作業がしながらの「植林」は百姓達にとって「今」負担になる。
だけど、直虎が見せた夢と共に駆け抜けた甚兵衛には、その「今」にやるべきことをやることで「未来」に投資する意味を知っている。

 

甚兵衛は名もなき民の一人にすぎません。だけど、彼のような人たちが、遠い未来の子孫達のために残さんとするために努力を積み重ねてきた。
私たちが見まわす日本の山々も昔からただそこにあっただけではなく、彼らの不断の努力の延長上があってこそ存在しているといえるのではないでしょうか?

<組織の成長痛>
ここで、また万千代サイドに戻ります。
彼が作った表によって、家康は武功のめどはつきましたが一つ問題が浮上します。
浜松と岡崎でどうしても差がひらいてしまうのです。
岡崎組が織田との橋渡しをうまくしてくれたおかげで浜松組は助かりました。
だけど実際に武功をあげたのは浜松組。
この辺はほんとに難しい。可視化したのはいいものの、可視化できない仕事もありその重要性もわかる。
だけどそれにねぎらう事はできない。万千代は「恩賞がなくとも、殿が知っているというだけで心強い。」と進言します。
前に、家康にそうされたことがよほど嬉しかったのでしょうね。
それを伝えるメッセンジャーに万千代は命じられます。信康はそれを聞き、苦しい立場にも関わらず快く了承してくれました。
なんていい跡取りなんだ!と今からでも泣けてきます。

 

ここのシーンはほろりとさせられるだけではなく直虎ー甚兵衛と家康ー岡崎組との距離の差が書かれているように思いました。
直虎は泥にまみれ、甚兵衛達に直に訴えかける距離にいました。甚兵衛は、上の人間が見ていてくれること、一緒に悩んでくれる喜びを得る事ができたのです。
だけど家康の場合、徳川はもう組織として大きくなりつつある。
直接、家康がいけばほんとは感激されるかもしれない。けど今はもうそんな事はできない。
どちらも

「清風払名月名月払清風(せいふうめいげつをはらいめいげつせいふうをはらう)」

の心があるというのに。
成長していく「家」の主である家康と、その「家」を捨てたからこそ自由に民のために動ける直虎。
家康は様々な者達の「家」の欲をコントロールせねばならず、自分の欲のまま動けない。両者の違いは見ていて面白いです。
といっても、信康はできた人間なので岡崎の不満を父に代わり治めていくと思います。

組織が大きくなればなるほど、トップとダウンの距離が開けば開くほど、上の意思を汲みつつも、下への配慮を忘れずやっていける彼のような人材が必要になってくるでしょう。
(というか、彼にすまないがこらえてくれと頭を下げれたりしたら、ぐうの音もでない。)

<おまけ>
木材のことがよく出てくる大河ですが、ここまでみると「もののけ姫」を思い出します。
奥深い山林に住む者達と人間の生存競争と共生への道。
今見返すと、また違った想いを抱いてみることが出来そうです。
それと林業についての物語なら「WOOD JOB!(ウッジョブ) 神去なあなあ日常」もいいです。

 

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弱点を鎧に、欠点を剣に、くじけぬ心を胸にせよ。~おんな城主直虎42話~

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材木を届ける事で手柄を立て、初陣を飾ろうとした万千代。
だけど直虎の策により留守居となってしまいまいた。
この万千代が可愛くて可愛くてですね。
ふてくされつつも頑張り、横取りされてしまい落ち込むも、それを家康が確かに見てくれていた事の喜びが思わずこぼれだすシーンにもう10000点!
って感じでした。

あれだけ気の強い万千代が声を詰まらせ感極まって涙ぐむとか、ギャップ萌えでどうにかなりそうです。
しかも覚悟していてもいざとなるとたじろいでしまうとことかも、理屈に感情が追い付いてなくて最高でした。
今回はこういうキャラクターへの偏愛を感じながらも、鉄砲を導入する新たな戦争のスタイルの変化や材木を通して戦国という世界がどういうものか?
という事を提示していたと思います。
万千代が可愛くて今日も飯がうまい!だけでもいいのですが、個人的にそういった気になる所、疑問点を書いていきたいと思います。

長篠の戦いから漂う堺(経済)の気配>
織田が援軍とはいえ戦場の設楽原にて主導権を握ってます。
そのことに徳川家臣団も不満げです。
ここで織田との仲介役となる信康・数正の気苦労を想像すると大変そうですが、信康自身は今のところはなんとかやっていっているようです。

 

信長の策を聞いてみると、なんと鉄砲を主力に使うという事。作戦の具体的な中身が語られる事はありませんでしたが、忠勝も、よく練られた策と納得がいった様子。
さらっとしか触れられてませんが織田信長の凄みがここにあるように思います。それは二つあって

①戦場で使えるほどの大量の鉄砲をそろえられている技術力と経済力がある事。
②それを実践レベルまで高められるほど戦術としね練り上げられている事。

にあると思います。あくまでこの大河ドラマ内から推測できうる事として書いていきたいと思います。

 

についてですが、言うまでもなく戦争において経済がきってもきれない関係性にありそこを信長が上手く利用しました。
直虎の若いころ種子島の導入についての話が出ていましたが、今川にもってかれうやむやになっていました。
あの頃の井伊は、今川家傘下で軍事力を下手に増強できないという属国ならではの難しさがありました。
状況が違うとはいえ信長は「鉄砲」という新技術を大量生産するほどの実行力があります。

 

この辺はこの大河では書かれていませんが、推測するとこうです。
山に囲まれた土地の武田は自給自足型の侵略国家となり、それを広げるために個人レベルの武力(騎馬武者)が特化し、
逆に信長は海洋型国家の織田は貿易で栄えることで、戦略レベルの武力(鉄砲導入)が伸びた。
それが彼らの勝敗の分かれ目だったのではと。

陸地型国家と海洋型国家については前に塩野さんの本について以下のように触れたのでそちらを参照。

 

国家は、陸地型の国家と海洋型の国家に大別されると、誰もが言う。私には、この二つのタイプのちがいは、自給自足の概念のあるなしによって決めてもかまわないと思われる。 自給自足の概念のあるところには、交換の必要に迫られないところから生れてこないし、定着もしない。このタイプの国家が侵略型になるのは、当然の帰結である。 他国を侵略するということは、ただ単に、自給自足圏の幅を広げるにすぎないからである。 海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年より

竜虎相見える。ミクロなやり取りから戦国というマクロへの問いかけ~おんな城主直虎21話~ - シェヘラザードの本棚

 

 

海の都の物語〈1〉―ヴェネツィア共和国の一千年 (新潮文庫)

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 について、ですがこの頃の鉄砲自体は連射する事が出来ず、風雨などの天候によって左右されてしまうのでなかなか使いづらいものがあったのではないでしょうか。
それをあの忠勝が認めるほどの策を信長が提示しています。
ここで詳しく描いてないのでなんともいえませんが馬防柵と鉄砲の合わせ技を使い、ぬかるんだ設楽原へと武田をうまく誘い込んでいます。
(そのための奇襲をおこなったのが、あの酒井だというがなんとも「らしい」という感じですね!)

鉄砲には上記のような欠点がありましたが、前に直之が「種子島」についてこれなら覚えたら誰にでも使えることができる!というような事をいってました。
「誰にでも使える」鉄砲を利用し、普通の人でも「使える」兵隊にまでしてしまった信長が、鍛えられた英傑をそろえる必要があった勝頼に勝ったというのは、
時代の流れを感じずにはいられません。
それが「経済」という人々の営みから生れてきたこともなんともいえないところがあります。

そして軍事と経済を担っていたであろう堺では「茶の湯」が発達していました。
その「茶の湯」で使われる「茶碗」を褒美として授ける信長から、そこでの「商売人」たちとの繋がりが見えてきますね。

その堺にあの龍雲丸もいるかと思うと、彼らのような武家ではない一般人の生命力が確実に戦を動かしているともいえて感慨深いです。
(彼は戦は武家同士でやってろ!と言ってましたが、生きている以上それに無関係ではいられないというこの鬼脚本!)

<かっこいい男達>
家康は信長と違って、武の才能はないというような事をいってましたが「人」を使う才能はずば抜けています。
なぜそのような人になったかというのは、結構今まで伏線がちりばめられていました。(といってもここでも私の妄想ですが)
彼は今川家で「三河のぼんやり」と言われたころから、スズメを手懐けていました。
その頃から「待つ」という根気強さや育成力がうかがい知れます。
ぼんやりしてみえるのは、彼が深く思考の海にもぐってしまうからではないでしょうか。
人質時代、弱気で人の顔色窺いつつ過ごさなければならなかった彼は、人を観察する能力が育っていったことでしょう。
だからこそ万千代の仕事ぶりに気づくことができました。

 

弱かったゆえに伸びた能力というのは、ノブが万千代に語った「潰れた家の子だからこその働きを!」という精神に通じるものがあります。

だけど一見するとマイナスに見えるものでも、うまく利用すれば長所にもなりうる、というのは
言われたらそうだけど実行するのはなかなか難しさがそこにはあります。
だからノブは万千代に「おまえはどうなんだ!」と言われた時に
少し間をおいて「そのつもりだ!今はまだそのつもりだけどな!」
といって返すシーンが好きで好きで。
子どもに説教したけど、逆に自分の覚悟を問われてしまったあの感覚。
ノブは万千代を励ましたが、逆に叱咤激励をうけてしまう形となって、そこがいいんですよね。
立場が違ってもすごくあの時の二人のやりとりは対等にみえて、ここから二人は徳川での同志となっていくんだなぁと思うと嬉しさがこみ上げます。

 

<戦と日常と地続きである事>
この「おんな城主直虎」では戦そのものだけではなく領国経営にスポットライトをあててきました。
それが今回「材木」という戦争の道具にもなる題材を通して、その二つが繋がりをみせたように思います。
武田を例にとっても食料がないから、家臣の恩賞のためにも侵略する、という事が戦争理由として提示されてきました。
ですがそのために大量の木材を消費すると山自身の保水力を低下させ、山崩れや川の氾濫を引き起こします。
そうなると自然と村の人々の生活力や食料自給率がた落ちします。食っていけないからそこからまた争いが生まれ、やはり他の土地を巡って戦いを!となる負の連鎖。

この「治水」も領主の仕事ですよね。前に井伊谷の百姓達も「水堀」について近藤にかけあおうとしていました。
この辺は次回でやるのでどうなるのか楽しみに待ちたいと思います。

 

それにしても国の基盤は「安全保障と食」でありますが、ここにきてその戦のための木材提供「安全保障」が山崩れにより「食」を脅かすかもしれない、
というのはおもしろく直虎達がどう立ち向かっていくか楽しみでもあります。
そして、どちらの「安全保障」と「食」もドラマの中で扱いが公平であるのが好きな所です。