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物語同士のつながりが好き

不器用な悪女の最期の一手~おんな城主直虎46回~

 

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武田との内通の疑惑により、信長から信康の命を差し出すよう言われた家康。
表立っては言う通りに動きますが、裏では城を転々と移動させることで時間稼ぎをます。
そのあいだに北条と結ぶことで、それを手土産に助命を嘆願しよう画策する徳川勢。
しかし瀬名が武田と密通していた手紙を残し、どこかに消えてしまいます。
果たして「信康救出作戦」はどうなるのか?

 

つらい、(政次処刑の回から二度目)だが美しい。
もうこの一言に尽きるしかなくて感想もなにも考えられない状態でした。
それは政次をはじめ、先が見えぬ戦いに散っていった者達の姿がありありと思い出されたからもあると思います。
一度も回想シーンを使わなかったとしても、生きる者は死者に二度と会えなくても、
生きている頃よりも彼らの存在を強く感じられる。
私の中では言葉はいらねぇ!考えるな!感じろ!回でしたが琴線に触れたところをぼちぼち、だらだら書いて行きたいと思います。


<逆転する立場・瀬名と直虎>
twitterで家康は直親・政次を見殺しにしてきた因果が巡った、みたいなことを書きましたがこれは瀬名も同じ。
10回「走れ竜宮小僧」の回で直虎は瀬名の命乞いに駆け回ってましたが、いざ直親を助けるとなると瀬名は拒絶しました。
今回は逆に瀬名が直虎に頼ろうとしても、直虎は下手に巻き込まれるのを恐れ帰ってしまいます。

立場は逆転していますが、共通するのは二人とも守るべき物のがあるのでやむえなくという点です。
瀬名にとっても直虎にとっても彼女達は数少ない同性の友人。
それを切り捨てる事も切り捨てられる事、どちらも身を切るような思いがしたことでしょう。
あの時の相手の立場に初めて立つこということはどんな思いがするのか?
その立場に立ってやっと相手が見ていた風景にたつ、というのはよくある普遍性をもった話だといえますが
それが命のやり取りというのが戦国の厳しさを浮かび上がらせます。

<母の背中>
徳川の妻として、母としての死に赴く理由を語る瀬名。
言っていることは武家の女性のまさにそれです。

けどなぜ瀬名がそんな事を言える「立派な」女性足りえるのか?

その理由を武家の女性だから、で通す事も作中可能です。それが戦国時代の女性にとっては「普通」の事だと。
しかしその「普通」に瀬名という女性の動機と人格を描写を少しずつ入れる事で、彼女は記号ではなく、血肉を宿した戦国女性なっていたと思います。

 

幼少時代、氏真の嫁になる!といきこんでいたのは母の佐名のためでした。
やり方がすごく不器用ですよね。
そのころから勝気で、けど優しい瀬名姫。
11回では佐名は娘と敵対してしまい、それが死を意味すると知っていても瀬名に激励の言葉を送っています。
それが自分の望みだとして。
直虎は瀬名に「助けられなかった者、生き残ってしまった者の無念やつらさがわかるか!?」
といってますが瀬名はもう十分にそれを知っています。母の佐名を助けられなかった。
だけど自分に志を託し、生かさんとするその母の背中があればこそ、自分もまた信康のためにとびこんでいける。
あの時死ぬんだと絶望したときに、家康が見捨てないでくれた。
それは人生を新たに貰ったに等しい、だからそんな夫を助けるために命を捨てる理由になる。

 

その過程がサブストーリーとして流れていたおかげで、美しく不器用で優しい瀬名姫の最後の一手が「悪女」になることになんの疑問もありませんでした。
まさに数正が「美しい。」といった時に「なにをいまさら。」という言葉の通り、
ほんとうに彼女は昔から変わらずそういう女性でした。
だけど、死んでからそれを強く思う事になるなんて思いもませんでしたし、ひたすらその事がつらいです。

<走れ!万千代>
表立って動けない家康の代わりにあちこちに駆け回る万千代。
前回、この信康事件は井伊家の今までの歴史を圧縮したものだと書きました。
井伊の時は万千代はまだ幼くそれゆえに何もできなかった事、それなのに周りから「潰れた家」の子だと馬鹿にされることの悔しさを味わいました。
無力な子どもで参加できないつらさがありましたが、今回は無力な大人がベストをつくしても届かない諦念のつらさをあじわう事になります。

 

繰り返される悲劇の中で、出口が見えず自分のその無力さに動けなくなる。
それでも、残された者の役目は意思を継ぐこと。
そんな風に直虎は万千代にアドバイスをしていきました。
それを聞き、万千代は一人で碁をうち悲しみの中に沈んでいた家康に、瀬名のごとく碁石を払いました。
まるで子どもように泣いて怒る家康。

 

このシーンは震えるほど良いところです。
なにがいいって、家康への救いとなっていますが、その救いとなる万千代の大切な者達をかつて見殺しにしたのは家康だというとこです。
その見殺しにした者達が繋げた命に今まさに救われる家康。

 

確かに負の因果は断ち切りがたく続いてしまいがち。
だけどたとえ悲劇に終わったとしても、負けたとしても、それでも
そこにあったのは、ほんとうに悲しくつらい事だけだったのか?
そこには笑顔もやさしさも、悲劇を断とうとする熱意や勇気が確かにあったはずです。
「負」も連鎖するなら「正」もきっと連鎖され、いつかはその「正」が負に打ち勝つ時がくるかもしれない。
その熱意や温かさに祝福されて生かされている万千代は、だから家康の先達となれる。
万千代の中には直親を切らざるをえなかった闇を背負った政次、その政次を切らざるをえなかった直虎に、
光を見出していた彼だからこそ差し伸べられる手だったと思います。


<そしてこれから>
瀬名の首をさしだしても結局は「好きにすれば。俺も好きにするし。」という信長に
忖度しなければならかった家康。
信康を失う事になりました。とにかく徳川の勢力を是が非でもそぎたかったのでしょう。
憎らしいくらい悪役を背負ってますが、そんな彼が描く夢が気になる所です。
その夢の中の一部である堺という都市に龍雲丸が生きているというのはじわじわとくるものがあります。
そして信長は経済によって長篠の戦を制したように、富国強兵をおこなったところはどこか直虎的でもあります。むしろ直虎よりそれを成功させてる。
なのであの信玄でさえ彼なりの義があったように、信長もある事でしょう。
彼にはなんらかのビジョンがあるのかもしれません。
ただ、残酷なやり方をするのであればそこにつく家臣に、そのビジョンを徹底的に共有させないと脱落する者が出てくるが出やすいのはないでしょうか?
それがこの作品で描かれるかはわかりませんが。

 

 

家康も戦なき世を目指したいとしても、それを通すには何かしらの「力」が必要となり
天下取りの椅子取りゲームに参加せざるをえません。
その「戦なき世」をなすには、未来を勝ち取りたいならば、今目の前にある命を捨てていかなければやはりいけない。
第二第三の直親、政次、瀬名、信康、名もなき子の犠牲が出てくるのは必須。
その意味では信長も家康も「悪」という点ではなんら変わらないかもしれません。

大きな正義のために小さな悪を成していく事を彼らはしているのですから

 

 

 

 

 

恩賞の行方の裏には罪と罰~おんな城主直虎45回~

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前回、家康への暗殺者を捕えた万千代。
この働きが認められ、家臣の一人として末席を与えられました。
今回はこの万千代の「功」から始まっていく悲劇のプロローグを見てるようでつらかったです。
当たり前の事ですが戦国において誰かが「恩賞」を勝ち取るとき、その陰には他の誰かが負けて散っていく。
Twitterでもよく感想で見かけましたがその「恩賞の彼方」に万千代が見たものが、今までの井伊家の歴史を圧縮したような悲劇というのなんともいえません。
自分が功をたてた結果、自分達が今川から強いられてきた被害者から加害者側にまわっていく。
もちろんそれは万千代になんの瑕疵もないけれど、その痛みを知るのと知らないのじゃだいぶ違う。
誰もが生きていく限り、被害者であり続ける事も、加害者であり続ける事も許していかない構図の厳しさが出ていたように思います。

<Go For Broke!>
武田の内通で処罰を受けた武助の一族。
が、それだけにとどまらず罰は岡崎衆への連帯責任へと広がりました。
もちろん不満がでますが信康は彼らに頭を下げます。
だからこそ武功をあげて、浜松勢を見返してやろうではないかと。
そこで一致団結した彼らが戦場で勇敢に戦ったことがナレーションではいりますが、ここで思わず涙ぐんでしまいました。
というのもここで「第442連隊戦闘団」をい思い出したからなんですが。
山崎豊子さんの作品「二つの祖国」でもでてくる、日系アメリカ人の部隊の事です。
ものすごく活躍しまくった部隊なんですよね。
当時差別を受けていた彼らが、だからこそアメリカへの忠誠心をアメリカ人よりも証明していかなきゃいけなくて勇敢に戦い、戦争の最前線に立たなけれなならなかったなど、かなり考えさせられました。
語りだすと長くなるのでここでは割愛させてもらいますが。
この自分がしてない事でも、そこに所属しているというだけで、不当な扱いを受けてしまうのはかつての万千代も同じです。
だからいって信康達がルサンチマンに陥らず、誰よりも徳川のためにと命を賭して戦っていく姿はすごく眩しいしそれだけで涙が出てしまいます。
まぁ、たった一文のナレーションで実際に描かれたわけではないのですが。

 

二つの祖国 第1巻 (新潮文庫 や 5-45)

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 <見えぬ信長の真意>
家康の側室に男子が誕生しました。名は長丸、後の二代将軍秀忠です。
浜松が歓喜に沸く中、焦った瀬名は信康に側室を置き、跡取りとしての基盤を固めようとします。
側室を置き男子が生まれたとしても、信康の正室である篤姫が母であると、約束することで織田の顔もしっかりたてようとしました。
が、これが悲劇のフラグの一つとなってしまいます。
信長の真意がわからないためどうにも推量となってしまいますが、だんだんと大きい勢力になりつつある徳川の力をそぐために、
信康を取り込もうとしているみたいなんですよね。
これは信長に「徳川勢力の力を落とす」という目的があり、彼が実行しようとしたことは計画はまず下記にあるAプラン。

A信康を取り込む事。
B信康ごと潰す事。

今回、のプランでは、茶器を授けようとしたり官位を持ち出したりとしました。

しかしだめになったのでBに移行します。

 

この計画を回避するには、果たして信康はいかにふるまえばよかったのか?
となるとかつての政次のように裏切りの態度を取り続けるる二重スパイのような態度をとったり、
直虎がいったように女だとなめてもらった対応をしてもらったほうが、動きやすいを考え、馬鹿殿を演じればよかったのでしょうか?
しかしながらこれだけ好青年の信康だからこそ家臣達が屈辱をあじわっても、ついてきたのも事実。
そう考えると、岡崎はヒールを演じてた政次不在の井伊家ともいえるのでしょう。

 

最初にも書きましたけど、この井伊家の悲劇を圧縮して万千代に追体験させています。
信長に脅され究極の選択を選ばされた酒井は、かつての政次。
信康を葬ろうとする信長は、直虎の優秀さゆえに殺さなければならないとした寿桂尼
そんな井伊家を見殺しにしてきた家康が、今度は我が身を切り捨てていかなければなりません。
それは武家としていきていれば仕方ない事。だけどそのルールを人に強制すればまた自分も縛らなければならない。
その自覚が、そうやって生きてきた家康にあればこそ

於大の方が「それは通らない。」というセリフにほぼノータイムで理解することができるのです。
というか、このシーンめちゃくちゃ良くて「子供を殺せ」と冷酷なことをいいつつも慈母らしさがありました。
人間をすてた冷徹人間ではなく、あくまでにんげんだからこそ!というような雰囲気のある於大の方でした。
(あと、家康の部屋に入る前に一度目をつぶって覚悟を決めるようなとこも)

<顔を見せぬ徳姫>
信長の真意がみえにくいと書きましたがそれ以上に隠されて書かれているのが信康の正室であり、信長の娘の徳姫。
顔みせしてないので真意がみえにくいんですよね。
といっても信長への手紙から信康を裏切っている様子も不満があるようにも見えません。

夫婦仲が悪いような様子も感じられませんでした。
それを「徳は夫思いじゃのう。」といってましたが、裏を返せば徳は父思いではないよね?といった意味にとれます。
前にも武家の女性は外交官でありインテリジェンス・オフィサーみたいだなと書きましたが、
そう考えると徳姫は外交官として失敗してしまったのかもしれません。
本国(織田)の意図を図り損ねたいいますか、両家の立場にたつ彼女の二重スパイ性はだんだんと徳川よりになったのかもしれません。
この辺難しくて、取り込んだ地域の娘(武田の元家臣)ではなく織田から側室を探すという手もありましたが、まさか父親がそんな事を考えるとは徳姫は思い至れなかったのかもしれません。
というか前者は多分普通にあった事だったとはおもうんですけど、そこらへんどうなんでしょうね。
それを裏切りだと信長は考えたのか真偽は今のところ闇のままです。

<動いても、動かなくても>
前回、喧嘩になった万千代・直虎ですが今回の事件で二人は何を感じたのでしょうか?
万千代は武功をたてることで、直虎はお家騒動に巻き込まれたくないからと側室を井伊谷から出さぬ事はこの悲劇の一端を担っています。
二人ともやり方は違えど、何かのためにとやったことで、それでも大切なものが手のひらからこぼれ落ちていこうとしています。
二人とも井伊家の人間なので傍観者の立ち位置となり、それゆえに「井伊家」自体が傷ついたわけではありませんが。
何かを成そうとしてもしなくても生きていくという事は誰かを傷つけうる事がある、このルールから何人も逃げられはしない。
それについて二人がどのように受け止めていくのか見守りたいと思います。

 

 

 

井伊谷のばらを照らした太陽~おんな城主直虎44話~

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初陣を飾る事となった万千代・万福コンビ。
やっと戦に参戦でき、武功がたてられるかも!意気込む万千代ですが軍議にも参加させてもらえません。
しかし家康を狙う間者を見事に捕え、一万石を与えられる事になります。
が、色小姓としての手柄と周りに思われてる節もあり、なんとしても元服して家督を譲ってもらいたい万千代。
そこに、井伊谷から祐椿尼の体調悪化の知らせが届き、思いもかけず直虎と口論になってしまいます。

 

 

今回の二人の喧嘩というかぶつかり合いは、祐椿尼と直虎の互いへの「優しい嘘」(病気を隠す・気づかないふり)とは対照的でした。
それは事実を受け入れていく直虎と、変えていこうする万千代の世界への認識の差でもあります。
「若さ・未熟」VS「老成・老害」ともいえますが、そういうには言葉が足りないし割り切れない。ここまでの彼らの歩みを見てみれば。
どちらにも肩入れしたくなるのは、完全にこの大河の製作陣の手のひらの上といったところです。
そんな黒でも白でもないこの世界の複雑さ、奥行きが今回書かれていたように感じました。


<高瀬・オルタナティブ
万千代が捕えた家康への間者はどうやら武田の者のようです。
信玄が死に、勝頼は押され気味とはいえさすがとしかいいようがないです。
このエピソードだけなら武田やばいな!万千代よくやった!としか思いませが、高瀬間者事件があったので
この間者である武助にも思いを馳せてしまします。
高瀬のように脅されたのかもしれないし、家康が死ねば跡取りである信康や岡崎衆のためにもなると囁かれたのかもしれません。
事実、前の話で岡崎の不満は消えたわけでもなく不信感が残ってたでしょうから。
そこの亀裂を修復しようとするのが家康・信康ですが、治るまえにうまいとこついてきたのが武田でした。
失敗しても岡崎の不満分子がなんらかのアクションを起こそうとするかもしれません。
ここらへんは武田がすごく日本社会の集団心理をよくわかってるというか、戦前の青年将校達の暴動を思い出すというか。
かといって下の組織を尊重しすぎて俯瞰的決断を下せなくなるようでは本末転倒。
「正しい決断」と「正しい(と思わせる)空気の支配)」が組織にとってどれだけ重要なのかが薄く見えてきてちょっと胃が痛くなります。

 

といってもここまで私の妄想なんですけど。けど高瀬を挟むこと想像の余白を生んでくています。
まじで、戦は軍議だけでおこってるんじゃない!現場でおこってる!(ただし、責任をとるのは上層部だ!!)

<正しいと正しいがぶつかる時>
さて、直虎と万千代の言い合いですが上記で書いたようにどちらにも言い分がある。
直虎に心をよせる人もいれば万千代を応援したい人もいる事でしょう。
万千代はどうやら政次を死に追いやり井伊谷を奪い取った近藤が許せない。
これはよくわかります。まさに彼は個人的復讐心からそういってる。
自分の親しい、愛する人を奪った者がその土地でのさばっていると思うと悔しくてたまらない。
普通はそうです。個人的な思いとしては彼は正しい。
それに対して直虎が言い返します。

「それでとりかえしたところで何かビジョンがあるのか?ないなら、褒められたいだけだろ?近藤達とせっかく治めてる場所で。」

 

これは俯瞰的に見たら正しい。復讐の連鎖を自分のとこでなんとしても止めようとする、これは政次の生き方にも通じるとこがあります。
そしてリーダーの資格という点ならば18回の下記の直虎のセリフに圧縮されているように思います。

 

 

「私には、恨みを後生大事にかかえるような贅沢など許されますまい。」 のセリフ。いや、これほんとそうで義憤にかられて戦争ふっかけられるほど井伊に国力ないんですよ。現実的な話。 個人的恨みを乗り越えて国の明日のためにベストな選択をとることができるのがリーダーの責務なんですよね。

なかない鶴と鳴く犬は。人のステージが変わった瞬間をみてしまった。~おんな城主直虎18話~ - シェヘラザードの本棚

 

そして政次を追い詰めた近藤を許せないというロジックなら直親を見殺しにしたといえる家康に仕える理由が破綻する。
そういう世界の複雑さの上に万千代はたっていますが、今はまだ若くそれがわかりません。
ちゃんと説明すればいいかもしれませんが、己が経験しなきゃわからないと直虎は思っているのかもしれません。
もちろん、その複雑さを知りそれでもなお!と思うならばそれはもう、覚悟の問題です。


なんか万千代を責めるような感じになっていますが、そうではないです。
万千代は直虎が戦から降りた!とせめてますがいいとこをついていると思います。
というか家督をいずれ譲られる彼だからこそ、直虎を告発できる立ち位置にいる。
私個人としては直虎は一旦は降りて休んだが、また違うやり方で戦ってるのではと思います。
それでも、奪われぬ世や卑しい事を丸出しにいなくても生きていける世になるという夢がスケールダウンしたのも事実。
それが直虎がもう大人であり、まだ万千代が子供だからといいきることもできますが、
未熟ゆえに、指摘できる真実もあることでしょう。

「やってもなければわからない」そんな直虎の姿を一番、敬愛していた万千代だからこそ失望も大きかったのかもしれません。
万千代はこれまでの直虎の歩みを知らずして、彼女を本質を肯定したり否定したりと面白いです。

<花冠の王を見守る太陽>
祐椿尼と直虎の会話は「ベルサイユのばら」のオマージュ。
いわゆる「普通」の女子の生き方をさせられなかったと悔やむ親と、だからこそ得る物があったと語る娘。
このテーマはもはや使い古されていているかもしれないけれど、それゆえに王道で胸をうつところがあります。
祐椿尼は自分が男子を生まなかった事、それによって直虎に大変な道を歩ませたことに心を痛めています。

 

それを直虎は否定しますが私も言いたい。
彼女は素晴らしい母親です。井伊谷にとっても直虎にとっても。
直虎はじぶんが普通に嫁いでいたら、百姓達は米をただ運び、ならず者は悪党、商人は銭儲けの卑しい者、乗っ取りをたくらむ家老はただの敵
と思っていたかもしれないと言っています。
彼女は謙遜してますが、好奇心をもって人に接したり自分から歩み寄る事のベースは、両親が直虎に深く愛情を注いでたに他ならないと思います。
天真爛漫な彼女が仲間外れの家の男の子に光をさしこませた所から、このお話の核は始まっているともいえるのです。
そんな彼女だから、銭の犬の方久も受け入れ、武士に疑心暗鬼だった甚兵衛達の心を開かせ、ならず者たちでさえ助けてくれる。

 

よく考えれば、みな、この世界で生きづらさを持つ人達でした。家臣である六左衛門は武士らしくなく、最初から近藤のようなリーダーではやっていけなかったでしょう。
人材不足だったからだったとはいえ、そんな外れ者達が直虎という珍しくも美しい花を咲かそうと集ってきた。
直虎自身が、やっても無駄だよ。女子だからね、という空気に挑戦する存在であるがゆえに。
彼らは家臣という葉となり茎になり、百姓達は根になりました。
その花を照らしていたのは間違いなく祐椿尼でありました。
それと同時に自分の悲しみをこらえ、手紙を通し井伊谷の人たちに気配りを行う姿は、まさに井伊谷の母ともいえるものです。
直盛が植えた種が育ち、その花を見守っていた太陽の温もりは、みなの心に生き続けていくことでしょう。

 

 

 

 

 

今いる僕らは、名もなき民の轍の上に~おんな城主直虎43話~

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武具の手入れを丹念に行った事が認められ、小姓にあがることができた万千代。
今回、他の小姓達に冷たくされながらも奮闘する万千代を見る事ができました。
一方、井伊谷では長篠に木材を届けた事がもたらしたある問題について書かれています。
万千代の話も井伊谷での話も戦後処理といいますか、華々しい戦のあとに比べれば地味だが大切な作業が書かれています。
「植林」も「論功行賞」。どちらも怠れば次の戦の火種となりうるものです。
そう考えると戦が終われば、次の戦へをさけるための戦いが始まったといえる回だったのではないでしょうか。


<恋と忠義>
まずは、万千代サイドから。
いっそのこと、色小姓になってしまえば?と提案された万千代ですが、自分の力で功をあげたいからと断ります。
今回、小姓の仕事がなんたるかが説明されていました。洗顔や、歯の手入れ、髪を整えたりと。
こうみるとだいぶ信頼関係がないとできないんですよね。というかここで信頼関係を深める。
幼年というには年を重ね、だけど大人というにはまだ幼い。そんな年ごろの家臣の子ども達が、主君と信頼を重ねると同時に政治を学ぶ場だったのでしょう。
いまでいう、政治家をめざす若者が議員秘書をしている場所のようなものでしょうか。
主君のほうもできるだけ多くの信頼できる部下をここで育成することができます。

 

その中でも、「色小姓」というのは肌を直にふれさせるほどの「信」をその者に置いているという側面があったのではと思います。精神的にも肉体的にも絆を結ぶことで。
だからこそ他の小姓は万千代の寵愛発言にたじろいでしまいました。
戦が絶えない世の中で暗殺もあるとなると、その価値はだいぶ高いように思われます。
このお話のなかでは万千代と家康の間に色恋や性愛はないように書かれていますが、古来男性同士のカップルの強い軍隊があったように
恋と忠義が一緒になると、とてつもない働きを戦場で見せるのでしょう。
それをプラトニックに高めるとこまで高めたのが政次であったように思います。

<禅の教え>
新人だというのに他の小姓たちから仕事の指示をもらえない万千代・万福コンビ。なにかやれることはないかと自発的に動きます。
草履番をやってたおかげで、雨でぬかるんだ地面を平らにしたり、論功行賞のため普段よりも人が多く登城することに気づき、いちはやく動く事ができました。
そして家康が家臣への手柄について悩む様子をみて万千代は表にして整理すると提案します。
出来上がったものは見事に縦軸と横軸を使い、わかりやすいものでした。

 

ここのシーンを見ていると、どこで万千代はこんな技術を学んだのか?草履番で整理する事を学んだのか?と思いましたが、
それだけではなく禅寺で過ごした事が生かされているのでは?と思います。

「一 掃除、二 信心」というくらい禅では掃除に重きをおいているので。
その禅寺で教育を受けたおとわ自身も、万千代が草履番の時に名札を貼ればよい、とアドバイスしていました。
万千代は家康に信を置かれているおとわに、嫉妬めいたものをかんじていましたがやはり似たとこがある二人といえます。

<先人たちの彼方には>
一方、直虎サイド。長篠の戦で木を伐りすぎたせいで、山の保水力を奪ってしまったのでした。
これでは、災害が起こるだけではなく河川の氾濫をまねき食力自給率も自然と下がってしまいます。
百姓達は、武士の勝手でそうなったのに、なぜ植林という事業をこちらがしなければならないのか不満げです。
これに対する甚兵衛が「山の前ではみなただの人。山は武家だろうと百姓だろうと区別しない。」
というようなことを村人達に言います。ここ、かっこいいですね。

 

そして、なんで甚兵衛がそいうことをいってくれるのかといえば、直虎と積み上げてきた信頼関係が元になっています。
「徳政令」の回の時、直虎が目先の利益だけでなく未来への希望を語り、それが実を結んできたからに他なりません。
だからこそ遠い井伊谷の未来のために行動を甚兵衛がとることができる。
確かに、農作業がしながらの「植林」は百姓達にとって「今」負担になる。
だけど、直虎が見せた夢と共に駆け抜けた甚兵衛には、その「今」にやるべきことをやることで「未来」に投資する意味を知っている。

 

甚兵衛は名もなき民の一人にすぎません。だけど、彼のような人たちが、遠い未来の子孫達のために残さんとするために努力を積み重ねてきた。
私たちが見まわす日本の山々も昔からただそこにあっただけではなく、彼らの不断の努力の延長上があってこそ存在しているといえるのではないでしょうか?

<組織の成長痛>
ここで、また万千代サイドに戻ります。
彼が作った表によって、家康は武功のめどはつきましたが一つ問題が浮上します。
浜松と岡崎でどうしても差がひらいてしまうのです。
岡崎組が織田との橋渡しをうまくしてくれたおかげで浜松組は助かりました。
だけど実際に武功をあげたのは浜松組。
この辺はほんとに難しい。可視化したのはいいものの、可視化できない仕事もありその重要性もわかる。
だけどそれにねぎらう事はできない。万千代は「恩賞がなくとも、殿が知っているというだけで心強い。」と進言します。
前に、家康にそうされたことがよほど嬉しかったのでしょうね。
それを伝えるメッセンジャーに万千代は命じられます。信康はそれを聞き、苦しい立場にも関わらず快く了承してくれました。
なんていい跡取りなんだ!と今からでも泣けてきます。

 

ここのシーンはほろりとさせられるだけではなく直虎ー甚兵衛と家康ー岡崎組との距離の差が書かれているように思いました。
直虎は泥にまみれ、甚兵衛達に直に訴えかける距離にいました。甚兵衛は、上の人間が見ていてくれること、一緒に悩んでくれる喜びを得る事ができたのです。
だけど家康の場合、徳川はもう組織として大きくなりつつある。
直接、家康がいけばほんとは感激されるかもしれない。けど今はもうそんな事はできない。
どちらも

「清風払名月名月払清風(せいふうめいげつをはらいめいげつせいふうをはらう)」

の心があるというのに。
成長していく「家」の主である家康と、その「家」を捨てたからこそ自由に民のために動ける直虎。
家康は様々な者達の「家」の欲をコントロールせねばならず、自分の欲のまま動けない。両者の違いは見ていて面白いです。
といっても、信康はできた人間なので岡崎の不満を父に代わり治めていくと思います。

組織が大きくなればなるほど、トップとダウンの距離が開けば開くほど、上の意思を汲みつつも、下への配慮を忘れずやっていける彼のような人材が必要になってくるでしょう。
(というか、彼にすまないがこらえてくれと頭を下げれたりしたら、ぐうの音もでない。)

<おまけ>
木材のことがよく出てくる大河ですが、ここまでみると「もののけ姫」を思い出します。
奥深い山林に住む者達と人間の生存競争と共生への道。
今見返すと、また違った想いを抱いてみることが出来そうです。
それと林業についての物語なら「WOOD JOB!(ウッジョブ) 神去なあなあ日常」もいいです。

 

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弱点を鎧に、欠点を剣に、くじけぬ心を胸にせよ。~おんな城主直虎42話~

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材木を届ける事で手柄を立て、初陣を飾ろうとした万千代。
だけど直虎の策により留守居となってしまいまいた。
この万千代が可愛くて可愛くてですね。
ふてくされつつも頑張り、横取りされてしまい落ち込むも、それを家康が確かに見てくれていた事の喜びが思わずこぼれだすシーンにもう10000点!
って感じでした。

あれだけ気の強い万千代が声を詰まらせ感極まって涙ぐむとか、ギャップ萌えでどうにかなりそうです。
しかも覚悟していてもいざとなるとたじろいでしまうとことかも、理屈に感情が追い付いてなくて最高でした。
今回はこういうキャラクターへの偏愛を感じながらも、鉄砲を導入する新たな戦争のスタイルの変化や材木を通して戦国という世界がどういうものか?
という事を提示していたと思います。
万千代が可愛くて今日も飯がうまい!だけでもいいのですが、個人的にそういった気になる所、疑問点を書いていきたいと思います。

長篠の戦いから漂う堺(経済)の気配>
織田が援軍とはいえ戦場の設楽原にて主導権を握ってます。
そのことに徳川家臣団も不満げです。
ここで織田との仲介役となる信康・数正の気苦労を想像すると大変そうですが、信康自身は今のところはなんとかやっていっているようです。

 

信長の策を聞いてみると、なんと鉄砲を主力に使うという事。作戦の具体的な中身が語られる事はありませんでしたが、忠勝も、よく練られた策と納得がいった様子。
さらっとしか触れられてませんが織田信長の凄みがここにあるように思います。それは二つあって

①戦場で使えるほどの大量の鉄砲をそろえられている技術力と経済力がある事。
②それを実践レベルまで高められるほど戦術としね練り上げられている事。

にあると思います。あくまでこの大河ドラマ内から推測できうる事として書いていきたいと思います。

 

についてですが、言うまでもなく戦争において経済がきってもきれない関係性にありそこを信長が上手く利用しました。
直虎の若いころ種子島の導入についての話が出ていましたが、今川にもってかれうやむやになっていました。
あの頃の井伊は、今川家傘下で軍事力を下手に増強できないという属国ならではの難しさがありました。
状況が違うとはいえ信長は「鉄砲」という新技術を大量生産するほどの実行力があります。

 

この辺はこの大河では書かれていませんが、推測するとこうです。
山に囲まれた土地の武田は自給自足型の侵略国家となり、それを広げるために個人レベルの武力(騎馬武者)が特化し、
逆に信長は海洋型国家の織田は貿易で栄えることで、戦略レベルの武力(鉄砲導入)が伸びた。
それが彼らの勝敗の分かれ目だったのではと。

陸地型国家と海洋型国家については前に塩野さんの本について以下のように触れたのでそちらを参照。

 

国家は、陸地型の国家と海洋型の国家に大別されると、誰もが言う。私には、この二つのタイプのちがいは、自給自足の概念のあるなしによって決めてもかまわないと思われる。 自給自足の概念のあるところには、交換の必要に迫られないところから生れてこないし、定着もしない。このタイプの国家が侵略型になるのは、当然の帰結である。 他国を侵略するということは、ただ単に、自給自足圏の幅を広げるにすぎないからである。 海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年より

竜虎相見える。ミクロなやり取りから戦国というマクロへの問いかけ~おんな城主直虎21話~ - シェヘラザードの本棚

 

 

海の都の物語〈1〉―ヴェネツィア共和国の一千年 (新潮文庫)

海の都の物語〈1〉―ヴェネツィア共和国の一千年 (新潮文庫)

 

 について、ですがこの頃の鉄砲自体は連射する事が出来ず、風雨などの天候によって左右されてしまうのでなかなか使いづらいものがあったのではないでしょうか。
それをあの忠勝が認めるほどの策を信長が提示しています。
ここで詳しく描いてないのでなんともいえませんが馬防柵と鉄砲の合わせ技を使い、ぬかるんだ設楽原へと武田をうまく誘い込んでいます。
(そのための奇襲をおこなったのが、あの酒井だというがなんとも「らしい」という感じですね!)

鉄砲には上記のような欠点がありましたが、前に直之が「種子島」についてこれなら覚えたら誰にでも使えることができる!というような事をいってました。
「誰にでも使える」鉄砲を利用し、普通の人でも「使える」兵隊にまでしてしまった信長が、鍛えられた英傑をそろえる必要があった勝頼に勝ったというのは、
時代の流れを感じずにはいられません。
それが「経済」という人々の営みから生れてきたこともなんともいえないところがあります。

そして軍事と経済を担っていたであろう堺では「茶の湯」が発達していました。
その「茶の湯」で使われる「茶碗」を褒美として授ける信長から、そこでの「商売人」たちとの繋がりが見えてきますね。

その堺にあの龍雲丸もいるかと思うと、彼らのような武家ではない一般人の生命力が確実に戦を動かしているともいえて感慨深いです。
(彼は戦は武家同士でやってろ!と言ってましたが、生きている以上それに無関係ではいられないというこの鬼脚本!)

<かっこいい男達>
家康は信長と違って、武の才能はないというような事をいってましたが「人」を使う才能はずば抜けています。
なぜそのような人になったかというのは、結構今まで伏線がちりばめられていました。(といってもここでも私の妄想ですが)
彼は今川家で「三河のぼんやり」と言われたころから、スズメを手懐けていました。
その頃から「待つ」という根気強さや育成力がうかがい知れます。
ぼんやりしてみえるのは、彼が深く思考の海にもぐってしまうからではないでしょうか。
人質時代、弱気で人の顔色窺いつつ過ごさなければならなかった彼は、人を観察する能力が育っていったことでしょう。
だからこそ万千代の仕事ぶりに気づくことができました。

 

弱かったゆえに伸びた能力というのは、ノブが万千代に語った「潰れた家の子だからこその働きを!」という精神に通じるものがあります。

だけど一見するとマイナスに見えるものでも、うまく利用すれば長所にもなりうる、というのは
言われたらそうだけど実行するのはなかなか難しさがそこにはあります。
だからノブは万千代に「おまえはどうなんだ!」と言われた時に
少し間をおいて「そのつもりだ!今はまだそのつもりだけどな!」
といって返すシーンが好きで好きで。
子どもに説教したけど、逆に自分の覚悟を問われてしまったあの感覚。
ノブは万千代を励ましたが、逆に叱咤激励をうけてしまう形となって、そこがいいんですよね。
立場が違ってもすごくあの時の二人のやりとりは対等にみえて、ここから二人は徳川での同志となっていくんだなぁと思うと嬉しさがこみ上げます。

 

<戦と日常と地続きである事>
この「おんな城主直虎」では戦そのものだけではなく領国経営にスポットライトをあててきました。
それが今回「材木」という戦争の道具にもなる題材を通して、その二つが繋がりをみせたように思います。
武田を例にとっても食料がないから、家臣の恩賞のためにも侵略する、という事が戦争理由として提示されてきました。
ですがそのために大量の木材を消費すると山自身の保水力を低下させ、山崩れや川の氾濫を引き起こします。
そうなると自然と村の人々の生活力や食料自給率がた落ちします。食っていけないからそこからまた争いが生まれ、やはり他の土地を巡って戦いを!となる負の連鎖。

この「治水」も領主の仕事ですよね。前に井伊谷の百姓達も「水堀」について近藤にかけあおうとしていました。
この辺は次回でやるのでどうなるのか楽しみに待ちたいと思います。

 

それにしても国の基盤は「安全保障と食」でありますが、ここにきてその戦のための木材提供「安全保障」が山崩れにより「食」を脅かすかもしれない、
というのはおもしろく直虎達がどう立ち向かっていくか楽しみでもあります。
そして、どちらの「安全保障」と「食」もドラマの中で扱いが公平であるのが好きな所です。

 

 

 

世界の片隅は、されど中心でもありて~おんな城主直虎41話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

先週、今週とバタバタした中で風邪をひいてしまい記事の更新が遅れました。
ちょっとでも体調を崩すとこうやって遅れがでるというのに、長丁場である大河に携わる製作陣の皆様には頭が下がる思いです。
なんにでもいえることですが、体力が一番大事なのだと身につまされます。
読んでくださる方も季節の変わり目なので寒くなってきますので、ご自愛ください。

 

 

さてお布団をかぶりながらの録虎でしたが、上昇志向の強い万千代にひやひや、どきどきさせられっぱなしでした。
彼は自身が小姓に上がるために「後任指導」という課題をクリアしなければなりません。
といっても、どちらが指導していたかというと・・・というもので。
後の井伊直政といえど、今はまだ若き万千代。いろんな人たちが後ろで見守りながら彼を支えている様子がまだまだかいまみえました。
そしてそんな「人」の中で組織の歯車の一つとして働くならば、「根回し」も必要となってくる。
そこでは、その「人」達の間を行き交う「情報」を掴む事も重要です。
果たして今回、万千代は「人」を使い「情報」を掴み「チャンス」を手に入れる事ができたのでしょうか?

<戦は、始まる前こそ勝負なり>
草履番の新人としてやってきたのは、「ノブ」という男。万千代の言葉を借りれば「のろいし、覇気がない」年長者。
初めのうちはノブに対していら立つ万千代でしたが、彼は勤めをおえて玄関に出てくる人間を予測し、先に草履を並べます。
しかもそれが当たっている。彼は最初からさっさと物事こなすタイプではなく、無秩序に見える中に、ある種の秩序というかルール性を探し当てるタイプ。
洞察力にすぐれ、俯瞰的に物事を見るタイプなのでしょう。
だからこそ、そのルールにあてはめ、誰が誰と玄関にでてくるのか当てる事ができ

る。

そして、それはルール外の事態がおこったことも、すぐに察知出来る事を意味しています。

 

ノブは大久保という武士は二人でいつもは出てくるので、草履は二足分用意しました。
だけど出てきたのは、武士一人。
そこから何か上の方で動きがあったと見たノブは、上手く話しを聞き出します。
そして戦が近く徳川側が木材が必要であるという情報を聞き出すことに成功しました。

 

ここのシーンを見てて思ったのですが

「草履番」という仕事は「情報」を手に入れるためにかなり重要な場所だといえるのではないでしょうか。
万千代は「掃き溜め」といってましたが、そうじゃない。
今でいう、会社の受付のようなもので、「玄関」は誰もが通る。そしてそこに人が流れるゆえに、情報も流れる。片隅かもしれないけど、そこに流れる情報は重要。
世間話のような軽いと見える情報の中にも大切な何かが隠されています。
それに気づけるかどうか、そしてそこからチャンスを作り出すことができるのかの重要性が描かれているような気がします。

 

それにしても、この万千代達をこの「草履番」という職につけさせたといってもいい「ノブ」という男。
万千代達に悟られずして、彼らをアシストして導いています。
三河一向一揆をした彼もまた、徳川ではマイナスのスタートだと言えます。

なぜ、家康はそんな裏切りを働いた男を再雇用したのか?
それは前回でも書いた徳川家の組織改革の一部でもあるのではないでしょうか。
新たな風を組織に吹き込むために、ノブのような男でも有能であれば登用し、やる気と結果を残せば万千代のようにチャンスを掴めるかもしれない、
そのローモデルとして家康は二人に期待をかけているのかもしれません。
二人とも立場は違えど「徳川」のはずれもの同士。ゆえにこの「ノブ」は万千代に期待をかけているのかと思います。
万千代が出世を駆け上がる手助けは、ひいては自分の利、徳川の利になるともいえるのなので。

<武は力なり。が、力は武のみにあらず>
一方の直虎サイドも色々と動きがありました。
六左衛門が近藤家に仕官することになりましたが、なかなかその近藤とそりが合いません。
近藤はまさに「武」の人でありそこから、はずれて見える六左衛門にいらいらさせられっぱなし。
戦場では、ちょっとした事が生死の分かれ目になるので、のんびりした歩き方や、少しでも他の人の邪魔になるような行動が気になってしょうがない。
彼は戦で怪我をおって歩けなるかもしれないところまで追い込まれたので、けして意地悪で六左衛門にいっているわけではないのでしょう。
(まぁ、八つ当たり気味で、指導の仕方に難がないとはいえませんが)

だけど材木を扱う仕事となると、六左衛門の人の好さや潤滑油になれるその才が一気に開花します。
戦とは、戦場で武勇に優れる者だけではなく、そこに至るまでの「戦」の準備をする人達の上になりたっているのではないでしょうか。

 

一見いい話に見えますがここには、「戦」と「平時の内政」の両方を描いてきたこの大河ならではの味わいがあるような気がします。
この二つの境目はあいまいであり、強く接続されているものでした。
もともと「木材」は井伊家の内政のお話でありました。それが「戦」へと繋がっていく。

戦のために始めたわけではない木材の仕事が、今まさにその戦のために必要とされる。
つまり戦というものは「戦場」で勝手におこるものではなく、それは日常の延長上にあり「生きるがゆえ」におきるものです。
その是非はここではおいとくとして、その「戦」で優位に立ちたいなら、日ごろから様々な者達の能力を引き出し、使いこなす能力と、そのための根回しと情報収集が
どれほど大切なのかという事が問われています。
今でも、外交は平時の戦争だといえる部分があるので。
ゆえに、そこがまだまだ甘く自力だけでのし上がろとする万千代は、直虎達を含め大人たちにしてやられます。
だからこそ、「玄関」はある意味では万千代にとって大人の入り口でもあったのではないでしょうか。
彼は自分をついてないし大人が自分をいじめているような事をいってましたが、小姓からでは見えなかった世界がそこから見えたといっても過言ではないでしょう。

<最後に>
万千代は大人たちが見守っていてくれますが、直虎や政次達の時はそんな人達がいなかったなぁと改めて人材不足が身にしみます。
(南渓さんはおいといて。彼は、うん。)
だからこそ、直虎達がベンチャー企業のごとく若さで推し進められた利点がありましたが、失ったものも多くありました。
失ってにしては痛すぎる授業料でありましたが「木材」の事件がこうやって、後進である万千代達の道へと続いていく。
あの時行わなかった根回しを直虎が今することによって。
間違えた選択もあったけど、直虎が未来に、それでも人生に悔いはないとおもえますように。

それにしても俯瞰的に見れば、可愛くもある万千代ですが同僚だと結構やっかいそうではあるなぁと思います。

 

 

君の君のための、君のためだけではない命~おんな城主直虎40話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

いよいよ万千代の徳川奮闘記が始まりました。
草履番からのスタートで順風満帆とはいきませんが、多くの人たちが彼に愛情をむけ、見守っている。
それは万千代の実父の直親が井伊谷に帰ってきた時に、おじじ様を含め、多くの人たちが彼こそが希望なのだと眼差しを向けたように。
今は、見てるこちら側が万千代の命にどれだけの意味が込められているかを噛みしめている。
つまり、ようやく私達はあのときのおじじさま達と同じ気持ちにたっているというわけではないでしょうか。
ちょっと感傷的な文章となりましたが、今回のお話は出世物語としてのおもしろさがありつつも、どこか戦後日本の復興やあり方について触れているようなとこもあると感じました。
権力をもたない権威者である直虎や、自分達が参加してない前の世代への戦に対して悪く言われる万千代・万福の事など。
もちろん、それは私のあくまで個人的に感じた事なので戯言として受け流してください。
というか、今回は諸事情により簡易版となります。

<己の凡を知るがゆえに非凡に辿りつ者>
とうとう今川チルドレンたる家康と直虎が邂逅しました!ここはもうテンションだだあがり。
今川家の傘下で平和を謳歌した原風景を持つ二人は、本当は戦を避けたいという共通点をもっています。
家康は直虎に、万千代登用の件は井伊家への罪滅ぼしや瀬名のためと語ってましたが、「利」の目的として、
大きくなりつつある徳川の組織改革について話していました。つまり三河以外の実力者を内部に取り込みたいということですね。
万千代が出世できれば三河の者以外でも出世できる道があるとして、多くの優秀な人材が集まります。

 

そのパイオニアかつ、ローモデルになれるだけの素質が万千代にはあると見込んだ家康。

万千代は、根回しできるだけの賢さがありつつも、皆の前でもぐっとがまんできるだけの度量がありました。あれは今考えると家康の最後の試験でした。
家康自身も組織が三河の者の他にも信用できる誰かを手元に置いて、自身の基盤にしたいのかもしれません。
政治的な意味でも酒井が強そうな場面がちょくちょくあったので。のらりくらりとかわしてはいますが。

 

 

それにしても直虎と家康は、似ているところがあるせいか話が弾みます。
上記の彼の「情」と「理」を掲げて相手に対峙するところは、まさに直虎もよくやるやり方です。(徳政令回避のため百姓への説得など。)
一人では何もできないと自己認識しているところもです。信玄のように戦上手ではなくとも、信長のごとく天賦の才がなくとも、
凡である事を己が知ってるから人を頼る事が出来ます。人を使う才というのは何物にも代えがたい。
なので、家康は圧倒的カリスマ性型のリーダーというより、人の才能を導き全体を統括する指揮者型なのかもしれません。


<「生者」か「死者」のためか?いや…>
直虎は万千代が井伊ではなく今からでも松下として徳川家に仕官しろと説得しようとします。
死んだ者達を喜ばせるために今、生きてる者を悲しませたり困らせたりして、どうしてそれが当主といえる?となおとらは万千代に問います。
彼は「ならあの時、どうして当主を降りたんだ!?」と言い返してますが、これ最初、どういうことかぴんとこなかったのですが
当主をおりた直虎という事実そのものが、あの日の虎松を悲しませたとう事でしょうか。共に井伊を守ろうとしたあの日の誓いはどうなったのだと、万千代は悔しかったのかもしれません。

 

万福が後に、直虎に自分達の心情を訴えるシーンに万千代が
「己があの日誓ったからだ。」というセリフがありました。これ、すごくすごく好きなとこです。
「家」を再興するのは死んだ者ためだけでもなく、自分自身がそれを望むがゆえというのが。
誰のためでもなく己の自由意志で何かを欲するというのは、まさに若き日の直虎です。
18話「あるいは裏切りという名の鶴」で直虎が

 

「政次。われは己で選んだのじゃ。この身を直親のうつし身とすることを、誰に望まれるでもなく強いられるでもなく、己で選んだ。己で井伊を守ると、われは己で決めたのじゃ。」

 

のセリフそのもで。
そうこられると、直虎は万千代の意思を否定できないし、万千代は知らずして過去の直虎を肯定してます。
別に誰かに認めてほしくてやってきたわけではなくとも、直虎の中では喜びがあふれたことでしょう。
とはいえ、認めたとは表立っていえないので、草履の棚についてアドバイスをすることで、万千代を暗に認めました。
といっても、万千代が井伊を名乗るうえで近藤家とは軋轢が起こるのは必須なので、直虎はその後処理に向き合わなければならないとこが大変なとこです。
だけど若者が道を歩むために、年長者が影ながら支えるというのは、大人の直虎だからできる仕事だといえます。

<その背中の大きさに>
その万千代を支えているといえば養父の源太郎です。彼の優しい支持なしでは、井伊と松下の間に禍根が残ることもありえました。
万千代は自分に才があるゆえに、若さゆえの自信過剰さがありました。だけど、源太郎が井伊と松下共に支えていこうと言ってくれた。万千代も万感の思いで頭を下げます。
どんなに戦国という場所が弱肉強食なとこであろうとも、能力だけで人は動いているわけではない。
実力・能力に関わらず共に立とうとしてくれる人がいるから、戦っていける。寿桂尼と氏真の関係もこれにあたります。(この場合、能力的には寿桂尼が上で、氏真が下だったので、今回は逆転してます。)
まさに、家康のいうように人は宝。そしてその家康の元、万千代は凡なる仕事である草履番に向き合い精一杯うちこんでいこうとしています。

<余談>
最初に、戦後日本の復興のような回だったと書きました。その事について少しだけ。
万千代・万福は敗戦者の子として、悪く言われたようですがけして上の世代を恨んでいるわけではない所がほんとうにぐっときます。
ルサンチマンに溺れず、負けた上の世代の業を背負いそれでも前に進まんとする姿勢はなによりも眩しい。
上の世代が残した宿題を前向きに取り組んでいく事は、どれだけ時代が変わっても共通する人の在り方なのかもしれません。