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物語同士のつながりが好き

笑うコダヌキ、泣くコトラ~おんな城主直虎39話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

直親の13回忌がとりおこなわれるという事で、虎松が6年ぶりに井伊谷に帰ってきました。
この虎松が物語の新たな風となり吹き込んできました。。
風というには荒々しく、嵐のような男の子でしたが。
基本的にはここからは彼の出世の物語が話の中でたちあがってくのでわくわく感がすごいです。
かといって虎松から直虎へ主人公が変わったわけではなく、おそらく直虎にとって次世代への「継承」の物語の始まり。
今までは直虎と政次の共犯関係のW主人公でしたが、(←私の中では)虎松の場合、ある種の師弟関係のようなそれになるような気がします。
大人である直虎が「井伊」を今はまだ子供である彼に渡し、そして受け取っていく。

その序章が始まりました。

 

<レベル0からのスタート> 

虎松ですが、彼の中には直虎が言うように確かに色んな人がいる。

絵のうまさは奥山家の祖父から、あきらめぬ猪精神は直虎。策を立て動くところは政次。
情の激しさはしの。人を惹きつける笑顔は直親から。
そして彼はなにより頭がいい。だからこそ、南渓に頼み、根回しをすることで家康の口から井伊家の再興を口に出させる事に成功しました。
自分から言い出さぬことで松下の父への言い訳もいちよはたちます。
美目麗しい若い彼は、亡国の王子として憐れまれる立場がうまく大人の中で作用する事も計算のうちにもしかした入ってるかもしれません。(直親の息子的に)

 

だけど、そんなに甘くない。徳川は百戦錬磨のツワモノどもぞろい。
豆狸たる家康にしてやられます。
今まで彼を囲む大人と言えば母親のしのをはじめ、隠し事のできない六左衛門、人のよさそうな養父である源太郎など。
彼ら相手だとどうにかできたでしょう。
相手をを軽んじてるというわけでなく、世界に対して自分ならうまく渡っていけるという若さゆえの自信があるので。
しかしその自信と戦国の政治力や自分の立ち位置の知らなさから、痛い目にあいました。
小姓ができると思っていたら草履番ではだいぶ格が落ちてしまいます。

 

だけど、なんというか彼のこの失敗は愛おしく思えてきます。
松下の虎松ではレベルがカンストしてたけど、井伊の虎松だとレベルがゼロから始めなきゃいけない。
人生のステージが変わった瞬間、己自身をその世界へのルールにあわせて再構成していく。
これは、直虎がただの「次郎」から城主「直虎」へと変わった時にも起こった事です。
あぁ、そう考えるとあの時「徳政令」を安請け合いした直虎には政次が諫言してましたが、
今回はその直虎が政次の立場となり、虎松に何かものを申すのかもしれません。


<竜宮小僧、スキル「政次」をゲット>
その直虎は、近藤殿が井伊谷を治めていますが裏のボスとして君臨しているようです。
といっても内政面のアシスト役といいますか。うまく近藤と役割を分担しているようですよね。
まるで近藤が太陽で、直虎が月のよう。そういう意味でも、政次は直虎の中で生きているといえるのではないでしょうか?
その役割自体は、政次的でありますが直虎が調整役を買って出てるのは実は昔からなんですよね。
奥山朝利刺殺事件の時も、政次のために駆けずり回り、

気賀で築城するときに反対派・賛成派と別れた時は調停役を買って出ていました。
みんなのために直虎はいまだ竜宮小僧のような心根で、立場は政次的というのは面白いです。
というか、きっと竜宮小僧の魂を二つに分けたのが直虎と政次だったのではと今となってはそう思います。


<「家」とは?>
虎松は井伊の「家」の復興を望んでましたが、この「家」とは一体なんなのだろうか?と思います。
確かに人は特定の「家」がなくても生きていける。その方が直虎にとっては現状動きやすい。これがもっと大きな意味になると、「国」になったりするのでしょう。
それは命を懸けてでも守る価値があるものなのか?そしてその意味があるならば、その「家」を守り伝えていく事は人にとってどういう意味があるのか?
もしかしたらこれから書かれていくのかもしれません。

 

これ、ほんと大河では珍しいのでは?と思います。「お家のために」がスタンダードでそこに、疑問が差し込まれないものなので。
そういう時代なんだよで消化するのではなく、虎松や直虎達と共に考えていけるのかと思うと嬉しいです。
しかも、これがその「家」のために死んでいった男達を見送り、一人生き残った直虎の経験からくるものだというのがいいところです。

 

さて、その「家」がいったいなんなのかは今のところ答えは出てませんが、今回のお話ではそれは「貯金」のように感じました。
貯金といってもマイナス・プラスの貯金があります。
例をとれば徳川にとっては、数々の貢献をした松下はプラス査定。井伊は政次の遺恨と、侵攻の時兵を出さなかったのでむしろマイナス査定。
だから松下の虎松には価値がありましたが、井伊の虎松にはない。そして虎松自身も徳川になにもなしていない。

 

そりゃぁ、草履番も納得です。虎松は豊かな井伊谷の土地を見てプラスを引き継げると思ったかもしれませんが、むしろ借金を背負ってるぐらいです。
これは、直虎が井伊家の家督を引き継いだ時に借金に頭を悩ませたことのリフレインですね。
前の世代が残した宿題を解いていくこそが次世代の役目なのかもしれません。

<虎松の動機>
最後に、彼がなぜその「家」の復興をそんなにも望むのかについてです。おそらく次回あたりに語られるとは思いますが。
虎松がほんとうに井伊の「城主」になる事の意味をわかっているのか?いろいろと気になる所です。

<余談 直政/ZERO>

それにしても、もしこの話から見ればそれまでの38回は、虎松にとってはエピソードゼロ。まさに英傑・直政にいたるまでのストーリー。

彼の登場によって作画というかキャラクターデザインが変わったような気さえします。

そこで、じゃぁ今までどんな話だったのだと私が感じてたかというと

下記の通り。

 

「土着の狭い共同体と『家』。濃い血縁関係が生み出す閉塞感。それらのしがらみがあるゆえに、乱世というパラダイムシフトについていけない者たち。そして・・・」 といったところでしょうか。

負の連鎖の断ち切りと継承の難しさ~おんな城主直虎 - シェヘラザードの本棚

 初期の頃にこんなこと書いてましたが、まさにその閉塞感を打ち破ったのが直虎と政次だったのだと改めて思います。村社会の「生贄」的存在だった彼は、その因果を反転して「英雄」となった。それが、虎松や亥之助達の心に生き続けている。

政次は死のうとしてあの結果になったのではなく、生きようとしたらああなったのが、よりヒロイズムを感じて・・・って話がずれた。(これが政次ロスか・・・。)

ともあれ血族・地縁の横溝正史的因果の巡りが、三世代目の虎松世代ですごく薄まって新たな世界へと飛び出すのがすごく良いです。だけどそれは時間の解決だけでなくどうにかせんとする先人たちの絶えまぬ努力があった。暗闇の出口までひっぱってきた一世代目や二代目に改めて思いを馳せます。

龍は天に、虎は地に~おんな城主直虎38回~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

武田軍の侵攻に開戦しようとする近藤に対し、直虎は兵力となる百姓達を隠すことで戦を避けようとしました。
兵糧となる食べ物さえもっていかれた信玄はもちろんおかんむり。そこで彼は井伊谷の里のすべてを焼き払ってしまいました。
以前、直虎の事を

英雄でもない平凡な人達だからこそマクロの動きが読めず翻弄され、愛する人々を奪われていき、その荒野を走り続けていかない主人公

といってましたが、まさしくこの回はその荒野に立つ者(直虎)と、そこを荒野にした者(信玄)の生き様が書かれていたように思います。
そこにフォーカスをあてつつ感想を書いていきたいと思います。


<甲斐の太陽・井伊谷の月>
南渓と信玄の腹黒コンビの会話が実におもしろい。
南渓は信玄と謁見した時、まるで武田ががきてくれた事が井伊にとって救いの神かのようにいっていました。
近藤とは対立しているので、これを機に井伊家の再興をと南渓は申し出てます。
もちろんこれは策なのですが、内情に詳しくない信玄に対し、今の井伊谷は一枚岩ではないのです。近藤派と井伊はに分かれており、民からの「信」は井伊側にあります。
だからこちらに味方をしてくれないかな?と言うあたり南渓の腹黒さがでています。
なんといっても、井伊が逃散させたという事と近藤が火をつけた事はまぎれもない事実。
その事実に対して嘘の物語を上乗せしてますね。
しかもここで騙す策とは言え、どさくさに井伊の再興のフラグも立ててるのでは?と私は疑ってしまいます。直虎にその気はなくとも。
むしろ直虎はそんな作為がないがゆえに、近藤は信じられたのだと思います。だから負の部分は南渓が背負う。背負ってる事に誰にも気づかせぬほどに。
政次はよく月のように例えられてましたけど、それは直虎にとっての月であり、ある意味では井伊谷」にとっての「月」であるのが南渓ではないのかと思います。


その井伊谷フィクサーの南渓に対峙する信玄もまた面白い存在です。
彼は自国である甲斐の土地の事を酒の席で語っていました。山に囲まれた厳しい土地で切り開かないと道はなく、川はすぐにあふれだしてしまう。
だからこそ、他国を侵攻しなければ、戦に強くなければ生きてはいけぬと。
これは第21話「ぬしの名は」で高瀬が

 

「おらたちの手で食べ物を作っているのに、おらたちの口には入らねぇ。奪われておると思うたことねえもんはおらぬと思います。」

 

に対応しているセリフだと思われます。
食べ物や資源がなくて民は困っているが、それを解決するために奪うための戦をしていかなければならない矛盾。なぜ武田がそのような戦いに赴かなければならないのか?

それについては以前触れててので下記に引用します。

 

21話の感想で、脚本家の森下さんが戦国時代はプチ氷河期で作物が育たず、食糧難だったのでは?という事に触れましたが、もし武田がそのような状況ならだいぶ苦しい状況に置かれています。自給自足もままならないと、他国の物資や食料を奪ったほうが手っ取り早いと考える可能性があって、それが後々響いてくのかな?と。

少女の夢はもう見ない。だから、さよならを君に。~おんな城主直虎24話~ - シェヘラザードの本棚

 

そのような苦しい中で、信玄は甲斐にとってどんな存在だったのでしょうか?私は、彼は「希望」であり「羨望」であったのでは?と思います。
彼は家臣たちに、今より明日はきっといい日のなる!暮らしが前向きになる!という夢を見せたのでは?と。それだけの実力が彼には確かにあった。
暗く明日をもしれぬ中でも、敵が死ねば小躍りしだす信玄に憧れを抱いてもおかしくはない。残酷さや現実の厳しさの中でもチャーミングさを失わないあの姿に魅入られてしまう。過酷な人生を楽しんでる姿はそれだけで人に希望を与える。
義理の息子を自害に追い込もうが、国のための走り続けた彼は「民」や「家臣」達の「父」でありました。

 

 

だけどその中でどうしても犠牲になる人がでる。必ず弱い所から。それが高瀬という存在であったのではないかなと。
その信玄がとりこぼしてしまったものを「母」たる直虎が抱きしめるというのはなんともいえないものがあります。
しかし、そのことは直虎が「聖女」ということを示しているわけではありません。
生まれる場所を人は選べないといいますが、まさにそれで温暖で気候に恵まれた井伊谷では誰かから奪うという発想は生まれてこないのかな?と。
ゆえに直虎は基本的に防戦型になります。誰かの土地を奪うほど困ってなく、むしろ綿花で殖産興業を発展させ、気賀という物々交換ができる土地が近いので。
そのような土地で借金の肩に間者になった高瀬が、借金だらけの井伊家が踏ん張りながらも頑張っていく姿をどのように見つめていたでしょうか?
井伊の再生は、高瀬にとっても自身の再生であったのではないのか?と想像します。

 

<奪われた二人の分かつ道>
嵐のような武田が去った後、里の家々は焼かれてしまいました。
それに対し直虎は百姓達に頭を下げ、そして復興のためにまずは寄合場を作ろうと提案します。
井伊谷の民たちはゼロからスタートとなりましたが、直虎と共に前向きに取り組んでいるようです。
民のために奔走する彼女を見て龍雲丸は色々と思いを馳せているようです。
直虎は中村屋と再会したとき、彼が気賀に戻ってきたのかと勘違い。
もし直虎が龍雲丸の事を好きな「おとわ」なら、中村屋が自分達を堺に連れていくためにいくのだと喜ぶべき場面です。
なのに、そのことがすっかり頭から抜け落ちている。
そんな様子を見て、龍雲丸は堺行きを取りやめ、直虎は井伊谷にいるべきなのでは?直虎に言います。
ここのシーンはすごくぐっときました。
戦によって難民が出てるが井伊谷がその受け皿になりうる。彼らに生きる力を教えて共に栄えていく。今の井伊はだんだんそんな場所へと変化していってる。
それは幼き日に戦により孤児になってしまった龍雲丸が見たかったあの続きの一つ。

たとえ今の自分の有り様に後悔はなくとも。
龍雲丸はそんな井伊谷の土地があったのなら、あの日の自分はどうなっていただろうというと考えたのではないでしょうか?
その夢の続きを直虎は見たくはないのか?と彼女に問いかけますが、彼女は否定します。
自由意志をなにより優先する龍雲丸は、それを一旦は受け入れます。
ですがいざ出立の際には、直虎は上の空。和尚が見送りに遅れ、直之がすぐになにかしら動いたことが気がかりのようです。
ここで、わざと龍雲丸はきつい言葉を直虎に投げかけます。
城や家がなかろうと直虎は、根っからの井伊谷の城主であると言って。

 

賛否あるとは思いますが、龍雲丸が井伊谷に直虎と共に残るという選択をしなかったのがすごく好きです。
二人の本質的な所で「自由」さを共有している。その共有ゆえに自分がやりたいこと、相手にとって本当の意味で自由でいられる場所がほんとうに大事なんだなぁと。
直虎は龍雲丸にとっての人生の補助輪ではないし、龍雲丸にとっての直虎も違う。彼らの関係は政次とのそれとはまた違う意味ですごく対等。
しかも龍雲丸は、ちゃんと「おとわ」を抱きしめる事で、直虎をあるべき場所に戻した。そこに自分の居場所がないとしても。
お互いが本来自由に生き生きしている姿の相手が好きなら、道が分かれてしまう。これは政次と綺麗なシンメトリーを描いていて、政次は「直虎」を龍雲丸は「おとわ」を手にいれています。
だから龍雲丸の場合「おとわ」受け入れることができたけど、政次のような「共犯関係」にどうしてもならない。
生きる場所が違うから。
でもそれは悲劇なのではなくあくまで自分達の意思で選ぶ所が、自由な彼ららしいところでもあります。


<余談>
虎松が「松下の虎松にございます。」といったあとに、南渓和尚の苦笑い?するようなカットが差し込まれてまれていたのが意味深でしたね。
やはりこの発言は南渓が以前、幼き日々の虎松になにかしら吹き込んだことが影響を与えてそうです。
これから次世代達と直虎がどのようにむきあっていくか楽しみです。

<余談2>
記事更新遅れたのは、歯が痛くて処理能力落ちまくってたからです。お腹はすくのに食べれないし寝れないいうプチ地獄でした。
とはいえ、ちょっとよくなって「ごはんがおいしい。生きてるって素敵!」となったので、「これが食べる事は生きる事か!!森下さん!」ってなったのでまぁ、良かったです。

逃げていい。嫌いでいい。許さなくていい。闘ってるから、闘わなくてもいい。~かがみの孤城~

かがみの孤城

 あなたを、助けたい。

学校での居場所をなくし、閉じこもっていたこころの目の前で、ある日突然部屋の鏡が光り始めた。輝く鏡をくぐり抜けた先にあったのは、城のような不思議な建物。そこにはちょうどこころと似た境遇の7人が集められていた――
なぜこの7人が、なぜこの場所に。すべてが明らかになるとき、驚きとともに大きな感動に包まれる。
生きづらさを感じているすべての人に贈る物語。一気読み必至の著者最高傑作。

amazon内容紹介より

 

 

青春ファンタジーミステリーになるのかな?
お話の前半は九時から十七時まで鏡をすり抜けて訪れる事が出来る城で、あるミッションを仲間達とこなしつつ仲良くなるところにわくわくしました。
ラストのほうは、もう怒涛の展開に号泣。思い出しても涙が出てきます。

 

<学校の人間関係の圧倒的描写力>

辻村深月さんの中・高の舞台がお話は、あの頃の閉ざされた空間の手触りをありありと思い出させてくれます。
普段はそれが心の底で眠ってますが、黒板消しを持って窓の外で叩いておとす時の匂いや、授業が終わる五分前のそわそわ感とかそういうの。
それはほろ苦い温かいノスタルジーだけでなく、ひりひりした痛みも連れてきて。

 

あの頃、家庭か学校が世界のすべてのように思えたんですよね。
だから、今も昔もこれからも学校という政治ゲームの一面がある場で「いじめ」という生贄として選ばれると、この世界のどこにも自分の生きていける場所がないように感じてしまう。
私自身、仲間内からいじめられるという事はなかったけど、グループ外のクラスメイトから見えにくいタイプのいじめ(机を少しだけ離す。少しでも触れたらハンカチでふくなど)を受けた事あるので、学校で生きづらくなってしまう気持ちはよくわかる。
クラス内の政治ゲームは、ほんと繊細で気を使うものでちょっとしたことではぶれてしまう。
あれだけ仲良しに見えてた女の子が次の日から無視される。
そのグループ内の話で済ませばいいけど、自分達の内部抗争を他の男子のグループを巻き込んで集団的に無視させたりするのとかは、ほんとぞっとした。
男の子があれほど笑顔でその子に話しかけてたのに次の日からあいさつもしない。
といっても徹底されてたわけではないので、その子はなんとなくちがう女子のグループに溶け込めていったんですけど。

 

けどそれをやってる側って明確な悪意はほぼないケースばかりじゃないでしょうか。いや、あるのはあるけど、殺意といえるほどの憎しみがそこにあるかといえばそこまではない。
主役の安西こころを追い詰める真田美織のように、集団で家に押しかけても悪気はなくて、自分の方に義があるとさえおもってるとこさえある。
そんな美織とこころはまったくわかりあえない。もう、違う別世界の生き物のように感じてしまう。話が全然通じないんですよね。
美織は軽い気持ちだけど、そうやって悪意をぶつけてくる人を、中一のこころが理解する必要も許す必要もない。大人になっても許さなくていいと思う。
だけど、こころにもそういうところがあって城の仲間を知らずに傷つけているし、上から目線なところもある。
けど、城の仲間とはちゃんとわかりあえたんですよね。
なんというか「わかりあえなさ」もこの本の中にはあるけど、それだけじゃなくて「わかりあえる可能性」もそこにあるようで、矛盾してるけどその二つがしっかり共存してる。
そこがすごく好き。別に大人になっても「わかりあえない」人間はたくさんいて、ただその人たちとは「上手く」付き合ってるに過ぎなかったりするので。
けど、分かりあえることも奇跡的だけどある。可能性が限りなく低いだけでまったくないとはいえない。
まぁ、わかったところで自分に悪意をぶつけた人間を許す必要もないし、嫌いなままでもぜんぜんかまわないと思いますが。

逆もあるかもですね。憎んでないけど理解できないとか。

だからこの作品は子供向きというだけでなく大人向けでもあると思います。

分かり合えなさを抱えながらも「今」生きている大人にむけての。

 

 


<余談>
どこかファンタジーな世界で、自分自身の問題と向き合ってっていくのは水城せとなさんの「放課後保健室」を思い出します。
こちらは、性と自意識が絡んできて「かがみの孤城」とはタイプがちがうけど傑作。

あと、今の自分が過去の自分を救う?といったらいいのかな。そういう意味では、「ウォルト・ディズニーの約束の約束」も良いです。

 

放課後保健室 1

放課後保健室 1

 

 

 

 

 

二つの顔を行き来して~おんな城主直虎37話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

家康が氏真と和睦を結ぶことで、一時の平和を手にいれた井伊谷。井伊家の再興をあきらめる事で、新たな生活が各々始まりました。
直虎は還俗し農婦となり、直之・高瀬は近藤に仕え、方久は薬の行商を始めて、祐椿尼は寺に身を寄せてます。
それぞれが近藤の元でのどかな生活を送っているようです。
今回は囲碁ではなく、オセロの表と裏のように色んな人達の二面性にスポットライトがあたったように感じました。
表と裏といってもはっきりと分離してるものではなく、黒と白をいったりきたりするようなとこもあれば、黒と白が溶け合いグレーゾーンがあるような感じを受けました。
それは人だけでなく、穏やかな日常生活の中に戦がいつも張り付いているこの時代のようでもあります。
不穏と日常のジェットコースターだったこの回の感想を書いていきたいと思います。

<穏やかな「日常」と刺激ある「冒険」>
農婦になった直虎は農作業も苦にせず百姓達ともうまくやれているようです。一方、龍雲丸は炭を作る仕事に就いています。
木材盗難事件を起こした彼がいまや、木を炭にする事を生業にするとは何の因果か。
その炭が今の彼を表しているがごとく、幸せで暖かいがどこかくすぶった想いがどこかにあるように見えました。

 

龍雲丸は本来自由な気質な人なので、変化のない土地よりも人の出入りが激しく変化ある土地の方がむいているのかもしれません。
むいているというか、魂が自然と引き寄せられる。それは中村屋から堺で商売の誘いを受けてからうきうきした様子からも見て取れます。
海のむこうに想いを馳せる彼の方が自然な感じがします。
そんな彼に直虎は、堺に行く事を勧めました。そこで龍雲丸は一緒に来ないかと誘いますが直虎は拒否します。

 

ここのシーンはほろ苦い。彼らは生き残ってしまった者としての罪悪感があります。
それが彼らを結びつけたきっかけになったとしても。
ここで炭を売って、百姓暮らしをしてたって愛してる誰かが生きるわけではない。
龍雲丸は上記のような事をいってましたが、ここで私はあぁ、彼はもしかして自分への罰を下してるのかな?と思いました。
本来の自分の性分とは、ずれたことを行う事によって。
風のように自由な龍雲丸は自分を土地に縛りました。

 

 

直虎も政次を殺し、井伊を取り潰した事から井伊を離れる事を自分に許せません。
自由な龍雲丸を見て自由に憧れた直虎が今、目の前に自由があるというのに、つかめずにいます。
だけど、直虎の場合それだけではなく、その自由が「誰かのために。」というのがあるのがややこしい所です。
自分のためではなく誰かのために動くことが直虎の自由なので。
事実、堺行きの件も祐椿尼が「孫をみせるため」という後押しがないと決断できないようでした。

 

この二人の素敵な所は相手のその性分を十分に理解している所です。
直虎が、自由に生きる龍雲丸が流動性のある堺のような場所で生きるべきだと思うように、龍雲丸もまた、武田の襲来に備え、民のために行動したい直虎の意思を尊重していました。

<「私」と「殿」の顔>
その直虎ですが今回は農婦になることで「私」としての普通の女性としての一面と「殿」としての民のために奔走する両方をみることできました。
「私」のときは龍雲丸に女性の影が?と疑い嫉妬する様子が描かれ、「殿」としては龍潭寺・直之達と民を生かすため策をねり、近藤氏の説得にあたっていました。
そのギャップにこちらがやられてしましそうでした。可愛らしさとりりしさが両方直虎の中で存在しているんですよね。
しかし、たとえ「殿」という地位についていなくとも「誰かのために」行動する彼女の姿はやはり「殿」で、どこにいても、その地位にいなくとも、彼女はやはり「殿」足りえているようで感動しました。
「徳政令の行方」の回で百姓達と一緒に田植えで汚れても、なお美しかった直虎のように。
それにしても、近藤に領主が変わっても上に政策されば下に対策ありな百姓の面々。(綿の据え置きの引き換えに水堀りを要求するあたり)
それは直虎にも言えて、上で戦が起ころうとも生き延びるために策を練る。かつて逃散をうけた直虎が逆に、領主側に要求する姿はなんとも面白いです。

<「残酷さ」と「優しさ」は両立する>
近藤は、政次へは戦国武将としての冷酷さや残酷さがでてましたが、今回は仕える者達への優しさが出ていました。
その二面性はけして矛盾せず、前に祐椿尼が「戦をするのは功をたてる者に土地を与えるため。」といってたようにそれはつまり、家臣達のためでもあります。
優しく部下想いゆえの行動をとれる近藤だからこそ、政次を罠に仕掛けた時に直之が近藤の兵を捕えようとしても、その兵は自害を選びました。
直虎達に部下達が近藤の手当てをして欲しいと頼み、近藤が歩けるように回復した時もほんとうに彼らは喜びました。近藤は本当に慕われているのでしょう。

 

その近藤と直虎は材木の件から負の因果が続いてましたが、今回は直虎が近藤の命救った事で聞く耳をもってくれたように思います。
負の因果が巡るなら正の因果もまた然り。別に近藤が情にほだされたというだけでなく、直虎が政次との遺恨を持ちながらもそれでもそれに囚われず、民のために動ける人間だと知ったのが大きいかと思います。

 

これは材木事件の時のリフレイン回であり、すべてを分かり合い、許しあってはいませんが相手がどんな人間か知ったうえでの信頼関係が出来ているような二人でした。
というか材木事件の時は近藤にとって直虎の未熟さゆえに対等ではなかったし、近藤自身も彼女をあなどっていましたが、政次処刑を機に城主である直虎を見始めたように感じました。
城主でなくなってから城主である直虎に「領主」の形を見、対等になるというのは、いやはやなんともいえない趣が。(語彙力行方不明)

<「虚」が「真」になった?>
さて間者疑惑があった高瀬。やはり疑惑ではなく本当に間者であったようです。といっても武田の間者が脅して言うことを聞かせているあたり、武田に忠誠心があるわけではないっぽいですね。
お前はどこの家の者だと聞かれたら井伊の者だと答えると言っていた高瀬の言葉に嘘はないように思います。始めは間者として武田よりだったかもしれないけど、そこがもう高瀬の生きる場所ではないでしょうか。
もちろんそれは私の願望がはいってますが。というか、「虚」で始まった生活が「真」になってしまい、どちらの自分が本当かわからなくなり悩むのは、諜報員の物語としてよく見られるように思います。
だからこそ父親がいなかった高瀬が、未遂に終わったとはいえ父親的優しさを持つ近藤を毒殺しなければならなかったのはつらい。
任務失敗したことで、炎に導かれるように歩いて行った彼女はどんな気持ちだったのでしょうか?

 

<余談>
人々の生活にフォーカスをあてた場面が多かったですがやはり戦国。武田の遠江侵攻は破竹の勢いです。信濃駿河の二方面から徳川領へ。織田へも同時に侵攻し、上杉は一向一揆
武田包囲網もなんのそのでやってくる信玄公。ここまでくると上杉の一向一揆も工作したのでは?との疑念が生まれてきます。高瀬を送り込むだけの余力がある国ならばそれぐらい不思議ではありません。
しかし「明日は今川館が焼け落ちてるかもしれない。」の名の通り何がおこるかわらないのがこの時代でもあります。そんな戦国を直虎が井伊谷の人々とどう生き抜いていくか楽しみです。

 

 

井伊谷のいちばん長い日~おんな城主直虎36話~

 

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

twitterで足を負傷して、もう歩けなかったもしれなかった近藤さんが歩み始めた時、「クララみたいだね!」という感想を見かけましたが、
この回はまさしくアルプスの少女のごとく第一回の「井伊谷の少女」の直虎の原点が、問われるようなお話でした。
そして今回は人によって見方が全然変わる二つの問題があったと思います。
まずは、和尚のいうように、直虎は城主であることを仕向けられたのか、己で望んだのか?
二点目は井伊家再興をあきらめたのか?それとも為政者の最後の政策としてしての選択なのか?
これらを絡めながら書いていきたいと思います。

 

<なぜ人を助けたいの?>
前回から直虎は、ネガティブモード。ちょっとまとめるだけでも以下の通り。

 

「役立たずの我が生き残ってしまった。」(35回、気賀で龍雲丸に。)
「戦というものは思うよりはるかに様々な思惑が絡み合う物、我が未熟であったというだけじゃ。」(常慶に対して)
「まこと役立たずで、ご期待に添えず、申し訳ございませんでした。」(井戸の前で南渓に。)
「われは縁起の悪い女子。」(井戸の前で龍雲丸に。)

セリフだけでもこれだけあります。それ以外にも直虎が井戸の前で、碁石を手のひらで打ちながら今までの自身の歩みを回想しているシーンの中にもそれがあって、
直盛が「いっそ、わしの後を継ぐか?」とおとわに聞いた場面のあとに直虎が「我が井伊直虎である!」と宣言するシーンに移ります。ここまではいいのですが、
次に差し込まれる絵には政次の磔と直親の死が描かれてます。
ここで、え!?ちょっとまって!いろいろ省略されすぎでしょ?みんなでどうにか綿花栽培が成功にこぎつけた日や寿桂尼様からどうにか後見を認められた時とかいい事もいっぱいあったよ!!
とつっこみました。一瞬、直虎の記憶が戻ってないのでは?と思ってしまいました。
それほどに政次の死と気賀での大虐殺が彼女の中で非常に大きい。

 

twitterでも書きましたが、直虎はもともと「誰かのために。人のために。」と竜宮小僧の役割を背負ってきました。
だけど、その目的が結果として「誰かを傷つけ、人のためになってない。」という逆の結果が生まれました。
善意から生まれた動機が最悪な結果を導き出したその落差に自分自身がパンクしてしまったんだと思います。

 

そして、直虎自身が近藤や鈴木を一方的な悪役とは見なさなかったことが大きい。
つまり悪役不在の世界でただみな生きるのに必死だけと思うのは同時に、自分自身の正義を疑うことでもあります。
思考回路としては、悪がいない。→正義もない。→自分にも、正義はない、ゆえに行動に移せなくなる。
もちろん龍雲丸のいうように、いうほど負けてないし最悪ではないのですが、直虎自身がそう現実を認識している。
結果が最悪だと本人がそう思うからこそ、そもそもの「誰かのために」という動機で殿をやっていた直虎のゆらぎとなってしまいます。

 

こで、南渓和尚が「自分がそうなるように仕向けたのか?否か?」みたいなこといってますがこれは直虎の本質を問う上で重要だと思います。
直虎のヒーロー性の根拠を和尚がちゃんとわかっているなら、そもそもそんな疑問は出てきません。
この和尚の疑問は、なんで直虎が誰かのために、人のために働くのか?という動機の根源に触れるものです。
別に、大河の物語の主人公にそんなこといちいち問わなくてもそういうものだといってしまっても構わないものです。
ヒーローになぜ人を救いたいの?という疑問がなくても物語が成立するように。
人を助けるのに根拠なんてなくて体が勝手に動いてしまう、というのもあるとは思いますが、それをなすにはあまりに彼女は事情が複雑な政治的立場に置かれている。

 

 

そしてそんな彼女の動機が、がんがん揺らいでるのがわかるセリフが
「まことにみなのためなのか?我のように頼りない領主のもとに。」とあります。
自分自身の「誰かのため」という思いに能力が追い付いていない以上、それが身勝手なエゴであるのでは?との想いがそこにあると思います。
事実、近藤にいっぱい食わされて政次は死に追いやられました。その一点だけ見れば戦国武将としては彼の方が上。
それなら格下の自分よりも格上の近藤が井伊谷の人々を守っていけるのでは?と判断してもおかしくはないかなと思います。
もちろんそこにはくやしさがある。今まで井伊のために死んでいった者達の意味を考えると。
だけど、民にとっては首が誰であっても有能なほうがいいに決まってる。
国や家のアイデンティティと民の現実の生活、どちらを取ればいいのかというのはかなり難しい問題ですよね。

だから私個人としては、井伊の再興をあきらめたというより、夢でなく今ある現実をとった政治家としての判断の根拠は上記のようにある。
だけどそのために、直虎のみんなのためにという「為政者」の動機の根拠は、彼女自身もわからなくなった。というのがあると思います。
そこが複雑に絡み合ってるから見る人によってそこんとこ評価が分かれてきそうなんですよね。

政次を刺し殺したように、井伊家も自身の手でとどめを刺した直虎。彼女は冠を返す事で、ただの「おとわ」となりました。
農婦となり一人の民草となった彼女はもう、政治に関わることはできません。
もし戻りたくなった時には、なぜそこに戻りたいのか?彼女の本当の動機の根源が問われてくるかもしれませんが果たしてどうなるのでしょか?
まぁ、次回、武田さんがうっきうきで「なんでそんなこと悩んでんの?」とばかりに踊りながら攻めてきそうなんですけどね。

 

決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)

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昭和史 〈戦後篇〉 1945-1989

昭和史 〈戦後篇〉 1945-1989

 

 井伊谷フィクサー
直虎にゆらぎが生まれた事で、井伊家の復興をあきらめる事を助言した南渓和尚
以前、彼について

誰かの味方ではなく、「井伊」全体の味方であらねばならない。それ以外はすべてを切り捨てていく。

井伊谷カルテットwith N (六左衛門・直之・方久・プラス南渓和尚編)直虎を囲む魅力的な脇役達について - シェヘラザードの本棚

 

 と書いてます。
頑張ってきた直虎に対しての優しさでもありますが、井伊のリーダーに、今のおまえはふさわしくないと、遠回しにいってるようでもあります。
多分、どちらもほんとうで矛盾なくそれが彼の中で存在してるのでしょう。
そして、虎松に対しても何かを言い含めて松下家への養子行きを了承させてました。
「今川館はいずれ焼け落ちるかも。」のセリフのように、何が起こりうるかわからないから、今のうちに種をまく南渓。
そんな彼は誰よりも井伊谷のために残酷になれるのかもしれません。

<虎松、小悪魔のほほ笑み>
お家復興の断念を虎松に伝える直虎ですが、あれほどあきらめるな!と言われて育った虎松からすると、「父親の失墜」でもあります。
あれだけ、民からの支持率も高く家臣からも慕われていた直虎は目指すべき指針だったかもしれません。
だけど親への失望はある意味、成長の契機でもあります。
底なしの愛情をしのから受け、なにがなんでも生き抜く事を直親から教わり、あきらめぬ姿を直虎の姿に見出し、そして目的のためなら本心を隠して行動する政次の
姿がそこにあるようです。ほんと、松下家の養父に対してのあざとさは、ほんと直親の愛嬌に政次の手段が合わさっていて最強で最高だと思いました。
この井伊谷の四人の生き様を受け継ぎ、徳川四天王へとなっていく虎松の一歩が踏み出された瞬間だったと思います。

<そのキスは苦く>
親をなくした子らが寄り添うように、喪失を抱えた直虎とくっついた?龍雲丸。
龍雲党という疑似家族を失った彼ですが、以前の気賀での暴動のようにテロリズムにはしる事は出来ない。
武家だからというだけで復讐を果たすことができないのは彼らも自分達と同じように必死に生きているだけだと知ってしまったから。
直虎や、政次のなかに。直之や六左衛門との交流の過程で。
悪がいないからこそ、己の義を信じて進めなくなった直虎と同じである意味、時が止まった龍雲丸。
行き場のない感情を抱えてるけど、生きているなら前に進まなくてはならない。
そのため手を取り合った二人に、時がそれを癒してくれるかもしれないけど、戦国という大きなマクロの変化がそれを許さないかもしれない。
恋は世界をきらきらさせてくれるものなのに、戦争によって導かれたこの二人は、それが引き起こした現実をただ受け止めるだけしかできない。しかしそれは確かに暖かく苦い。
愛する人々を失った世界で、果たしてどういう生き方を今後彼らがとっていくのかを見守って行きたいです。

<おまけ>
長くなったんですけど、戦国乱世のマクロの環境がばりばり動いてますね。見どころのあるシーンがいっぱいありました。
北条・上杉・徳川の武田包囲網ができてますが、そこで終わらない信玄公。
信長にお伺いをたてないといけないいまだ弱気立場の家康と、堀江城でも虐殺を命じた酒井も、内部ではほんとうに普通の一家臣。。
北条氏が死ぬことで、頼る寄る辺がなくさまよう氏真夫妻だけど、彼らには、直虎・龍雲丸カップルのような苦みはなくどこかコミカル。
於大の方と瀬名姫との今後を示してるような緊張したシーン。
高瀬の間者疑惑など盛りだくさん。
次回の感想では、こういったマクロの動きも触れられたらと思います。(あくまで願望)

神様、その嘘は愛ですか?~PK ピーケイ~

 

PK ピーケイ [Blu-ray]

留学先で悲しい失恋を経験し、今は母国インドでテレビレポーターをするジャグーは、ある日地下鉄で黄色いヘルメットを被り、大きなラジカセを持ち、あらゆる宗教の飾りをつけてチラシを配る奇妙な男を見かける。
チラシには「神さまが行方不明」の文字。ネタになると踏んだジャグーは、「PK」と呼ばれるその男を取材することに。
「この男はいったい何者?なぜ神様を捜しているの?」しかし、彼女がPKから聞いた話は、にわかには信じられないものだった。
驚くほど世間の常識が一切通用しないPKの純粋な問いかけは、やがて大きな論争を巻き起こし始める―。 amazon 商品紹介より


前作、「きっと、うまくいく」のラージクマール・ヒラニ監督と俳優のアーミル・カーンが再びタッグを組んだ作品。
これもまたものすごく面白かった!「きっと、うまくいく」は熾烈な競争社会の中で友情や恋愛、夢を追いかける事のエンタメをストレートに描いたものでで
もう、絶対にみんなみてくれよ~!ウルトラハッピーになる作品だから!!とおすすめしたい。
そして今回のテーマは宗教で、人によっては分かりにくく、扱いが難しいにもかかわらず、やっぱり超一流のエンターテイメントになっていて、あったかい気持ちにさせられました。

 

きっと、うまくいく [DVD]

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<告発者PK>
さて、W主人公の一人のPK。しょっぱなからネタバレすると宇宙人。彼は地球の常識がまったくわからないんですが、これが「宗教」というメスを入れにくいところに、スッと入ることができる役どころなんですよね。
なんでかというと、そこにバイアスがかからないから。彼の宗教に投げ抱える疑問すべてが、子供が大人に問いかけるような純粋な問いかけとして見てる側が受け止められる。
例えばインド以外の外国人でもいいのでは?となるけど、それならその国の事や宗教を勉強しなよ?と告発される要素が大きくなるのではと。
けど宇宙人というあまりにも自分達と違うファンタジーな存在だと、まぁわかんないならしょうがないよね?となるんですよね。
これって、タイムスリップものとか異世界トリップとある意味同じ構造をもっていると思います。
その「世界」にとって「異物」であるがゆえに、その「世界」のルールを疑問視することに違和感がない。
わかりやすくいえば戦国時代に普通の女子高生がいって「こんな殺し合いや人買いがある世の中間違ってる!」と言っても別に変ではないですよね?

 

それと同じように、PKがなぜ地球の人は服を着てるの?と疑問を持ってもおかしくない。なぜなら彼がいたところは服を着なくてもいいところだったから。
そしてPKの故郷では言葉を使わず心でコミュニケーションがとれるらしく、だからすれ違いや勘違いなんか起きない。
なんていうかPKのいる星の人々はおそらく「隔たり」がないんですよね。だけど地球人は違う。たくさんの「隔たり」があって、それが一つの文化や個性や宗教でもあったりします。
まず、人と人を「隔てる物」として人は「衣服」を着る。そして世界には「言語」が多種多様あり「宗教」の違いから様々な神様がいたりする。
そしてその「隔たり」は時として争いを生んだり、その「隔たり」を利用して利益を得ようとする人が出てくる。
それを告発する者としてPKは鋭く、そして優しい眼差しを地球人たちにむけていきます。
けど、その眼差しの切り込み方が鮮やかすぎてひやひやするものでありました。宗教の金儲けや矛盾についてのあれやこれやをみると。
これ、ほんちにインドで上映して大丈夫だったの!?と思いました。
けど、インドでヒットを飛ばしたのを見ると、私が思っている以上にインドは宗教を穏やかに受け止めているんだろうなぁと思います。

<嘘や虚構という名の愛>
裸の王様にあの人服着てないよ?といってしまった子どものように、宗教の抱える矛盾やそれが引き起こす悲劇を告発したPKですが、宗教自体にはすごく愛があふれている。
けど私はPKが宗教を使って金をむしり取る教祖をやり込めていくのを快感を覚えた一方で、その教祖が言った言葉で救われた人は確かにいるのでは?とも思ったんですよね。

 

この世界にはどうしようも出来ない残酷な事があって、それを直視しつづけるのがつらい事もある。すがる言葉も時として必要。それが一時のまやかしだとしても。
PKはおそらくですけどそんな宗教の必要性は認めていてだけど、そのために神様を利用して人を傷つける「言い訳」する事は、ほんとに許せない人。
これは、PKが映画の中で身をもって経験するある悲劇的な出来事からの考えだとは思いますが。

 

そんな彼が最後にある嘘を大切な女性につくのがほんとに良かった。
この「嘘」ってのはある意味では宗教や神様そのものであり始まりなんですよね。例えば、お守りなんかがただの紙だとしても、神様の加護があると思えばそれが心の支えになったりする。
それって「嘘で虚構」なんだけどそこから勇気や守られているんだと信じているなら「嘘」じゃないんですよね。確かにそこに神様は居る。
うーん。ちょっと説明するが難しくてうまく伝わってないんですけど。
好きな女性のためについたその嘘は、それが嘘だとばれたとしてもきっとずっと彼女を支え続けていく。
その嘘が愛に基づいたものだから。誰かを傷つけるためのものではなく。
ここで、あぁ、宗教の本質はほんとうは「愛」にあるのでは?と宗教に疎い私は思いました。
複雑化した世界だとそれが見失ってしまうけど、それをこの映画に出てくる人たちは見つけていく。
宗教や国境を越えて。
心が最初から通じ合うから嘘をつく必要がなかったPKが、最後についたその「嘘」はまぎれもなく「愛」でした。

 

 

瓦礫の下の消えない灯火~おんな城主直虎35話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]


二回連続でハードな展開だったので、今回は寂しさと穏やかさと笑いと明日への希望がつまってました。
ただし、このあとお怒りモードの武田が来るんですが。いやぁ、ほんとあのお方はいつ来るのでしょうか?
さすがに次回はないとは思いますけど次々回あたり怪しいですね。
そんな現実からは今は、今だけは目をそらしてつらつら書いていこうと思います。

<厭離穢土はまだ遠い>
堀江城を無事に攻め落とした徳川サイド。逃げ出す民まで殺す苛烈なやり方をとった酒井に家康は、諸手を挙げて喜ぶ事ができません。
ですが酒井の言う通り、これにて後方を気にすることなく早々と掛川を攻め入る事が出来ます。
それがわかっている家康だから酒井の事を責める事が出来ないんですよね。
犠牲になる者達に対して心を痛める彼は、どこか「情」に走りやすい可能性をもっていながら実際にはそうならない。
家康は家臣に担ぎ上げられている状況とは言え、戦をそこそここなしていきます。
しかし戦の才をもちながらも戦を忌避する心根があります。
この彼の能力及び性格形成には今川での日々があったのかな?と想像します。
寿桂尼が死にかけてる時に夢で見た見たあの日の美しく穏やかな日常、その中で学び育てば自然とそのような日々を希求してもおかしくはない。
そして彼は一人で碁を打ちながら、論理的思考を鍛えていく。
だからこそ今の彼は夢見がちでありながらも現実的判断が下せる。
32話の感想で寿桂尼の才能を継いだのは家康だといいましたが、氏真と邂逅した時、この二人は本当に今川という一緒の学校で育ったんだなぁと思いました。
氏真は家康のように戦の才や技術が足りないかもしれませんが豊かな文化あふれるあの日々を家康と確かに共有しています。
立場が違っても才能に差が開いても、通じてしまう何かがある。たとえ口に出さなくとも。

家康はこれからその「才」と「心根」がこれからどう一致させ、この戦に溢れた世界と向かい合っていくのか気になっていくところです。
だけど氏真の言うように、戦が蹴鞠で決する世界はありません。蹴鞠が上手い者を巡ってまた争いが生じるから。
生きる事が戦いなら、誰もその「業」から逃げ出す事は出来ない。
だけどそれでも、それでもとその現実を直視しながら見る家康の夢は一体どんな形になっていくのでしょうか。


<白黒つかないこの世界>
乱世というものを書く以上、そこには勝者と敗者、善と悪がありますがそれは非常にあいまいでまさに白黒つかないグレーゾーン。
生きる事は、ことさら戦の中では加害者であり続ける事や被害者であり続ける事を許してはくれないしそれほど甘くない。

例えば、堀江城での戦いで負傷した近藤家の者達。彼らの手当てを最初は嫌がりながらも現場へ駆けつけた直虎。
政次を死に追いやった張本人である近藤本人が重症の怪我を負っていました。
そして政次の事で何もできずただ傍観していたと悔やんでいた鈴木が死に、その残された幼さが残る息子が戦場に駆り出される。

直虎の中ではかれらは悪役で加害者そのものでしたが、血を流しながら自分に怯える姿や戦場で散ってしまうかもしれない若い命は、戦場の被害者でもある。
そして同じ戦のもとで必死で生き抜かんとする仲間でもあると感じたのではないでしょうか。
仲間というのはいいすぎかもしれませんが、共感めいたようなもの。
直虎は生来の善性から相手も同じ人なんだと思ってたら手をさしのべてしまう。
かといって共感したり、相手の事情がわかったからといって政次の事を「仕方ない」とは割り切れない。
この「相手を殺してやる」と「いや、そうじゃない。殺したくない。」が心の中で揺らぎになっていく。
例え勝者になったとしても虚しさは残る。悪役がこの世界にいないなら、己に絶対的な正義はない。その時正しいと思った選択も間違えかもしれない。
それでも大切な者達のためには答えのない未来のため終わりなき戦いに身をおいていく。

今後直虎にこの事がどう影響あたえていくかを見守りたいです。

<命や想いのバトン>
井伊谷の住人たちは政次の物まね大会や、子供らの囲碁の中に政次の存在を感じています。
なんだかこのシーンを見ていると思わず自分もその場にいるような錯覚を覚えました。
「わかる。政次ってそういう表情あるよね。」と隣の誰かに思わず言ってしまうような。
メタ的にみて政次の事を知っていた視聴側の自分が、やっと彼らと心を共有できた気がします。
政次の命は燃え尽きてしまいました。だけど彼らの中に、それはともし火となって永遠にこの世界を照らし続ける。
政次だけではなくきっと誰もが命だけでなく記憶や想いのバトンを受け取り、そして次へと伝えていくランナー。ずっと昔から続いてきたことで、これからも続いてく。
その想いを確かに受け止めた者は、自分が誰かの永遠に残ることを確信できるがゆえに、時として命を投げ出してしまえるのかもしれません。


<寄り添う雛鳥のように>
南渓和尚とのギャグシーンが差し込まれ、飄々としてみえる龍雲丸。だけど彼の立場は非常につらい。
直虎は、なぜ役立たずの自分が生き残ってしまったのか?と彼にいってましたが、龍雲丸もそれは同じ。
そこには自分だけが生き残ったという思いと同時に、みなを守るべき立場のリーダーである自分が生き残ってしまったという思いもあるでしょう。
自分の命を差し出すことで、井伊を守った政次とは対照的に。
城を守って、自分を生かした父のようにもなれてない。
みなが生きてさえいれば負けじゃないと語った彼の横に龍雲党達はいない。
笑う事で偲びあえる井伊谷のような仲間が。
だけど、それでも同じく上に立つ立場の直虎が生きててくれて嬉しいと涙ながらに言ってくれることはどれだけ彼の救いなった事か。
この先、彼はどうなっていくのか、龍雲党達の生死によっても変わってきそうです。彼の本当の復興はそこから始まるのかもしれません。

<おまけ>
あんな大惨事が起こりながらも、銭の犬とし商売の気配を感じる方久は相変わらずで凄く好き。
けど薬は時として毒にもなりうるからなぁ。気を付けてほしい。だけどやっぱりその清濁併せ吞んだとこが彼らしくもあります。