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物語同士のつながりが好き

なかない鶴は呪詛を吐きながら愛を鳴く~おんな城主直虎33話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

今回、言葉になりませんでした。言葉にできないほどの感情があふれてきて、ちゃんとブログに感想をおとしこめるか、自信がないまま書こうとしています。
なにを書こうと、自分が受け止めた気持ち以上の事をちゃんと言語化できてはいないと思います。
だけどこの瞬間を見るために自分はこのドラマを見てきたんだ、その事への圧倒的感謝をこめて書き記していきたいと思います。

 

<為政者の正しさ>
徳川勢を井伊谷へ迎え入れようとした時、彼らに向かって矢が放たれました。
それは腹に一物抱えた近藤が仕掛けた罠でした。
直虎は井伊や小野の者達の仕業ではないと主張しますが、近藤は政次が仕組んだことではないかと疑問を投げかけます。
この場では「矢が徳川側に放たれた。」という事実だけが明確で、誰がやったのかという証拠は提示されない。
ゆえにこの議題は水掛け論になってしまいます。
この両者の言い合い、何を思い出すかと言えば「罪と罰」の回の出来事です。

 

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この回の感想の中で私は、「小さな正しさと大きな正しさの両立の難しさ」を書きました。
今回でいえばこの小さな正しさは、政次の冤罪を晴らす事になります。龍雲丸の時とは違って本当に濡れ衣です。
そして大きな正しさとは、武田が駿府を落とした今、早く掛川に向かわなけれならない殿としての家康が下さなければならない決断の事です。
私の説明が下手で伝わりにくいとは思いますが、「大きな正しさ」といっても倫理的な正しさではありません。
為政者として、軍務を司る者としての最善手の事を指しています。
その家康が下した決断は一体なんなのか?

彼は近藤の意見をいぶかしみます。井伊の方に義があるのではないかと。家康は直虎に直に会ってそれは確信に変わりました。
だけどそれでも、家康は井伊を切り捨てる事を選びます。
なぜなら、戦えない井伊よりも近藤を味方につけた方が、戦場で勝ち抜くうえで得策だからです。
私はその事が仕方ない事だとしても、それによって犠牲になる直虎へ頭を下げた家康は愛すべき豆狸だなと思えます。
別に、直虎本人に確かめなくとも戦略的に近藤に味方をしていた方がいいに決まっている。
だけど自分が犠牲にする者をこの目に焼き付けた。そのうえで大きな正しさを貫こうとする。
その痛みを知ってもなお決断できる彼はある意味、直虎にとって為政者として先を走る先輩だといえます。(同じ今川チルドレンだしね。)
まぁ、事実に確信を得る事で近藤の人間性をしっとこうという古だぬき精神が彼の中に無意識に育っているのかもしれませんが。

<同じ立場であり続ける事が許されない>
近藤氏の寝所襲い牢に入れられた政次。龍雲丸が救出しようと動きます。
しかし政次はそれを拒絶。龍雲丸は「分かんねぇわ、俺には。」といってましたが、これは半分ホントで、半分嘘。
城を守るために死んだ父親といまや守るべき者達が多くいる龍雲丸。
だから命を懸けてでも「守る」事の意味は知っている。「守る」という事において「城」とか「国」とかいう抽象的な事だけでははなく、その行為の中に具体的な顔を思い浮かべる事が出来る事も出来る。
だけど、悪役の汚名を背負ってまで全うする、というのは彼の人生においてはない。この政次の生き様は、確実に龍雲丸に何かしらの影響を与えるでしょう。
そして、政次が処刑される事の一因は「罪と罰」回の龍雲丸達が遠因となっている。
確かに彼は武士が行う戦にによる戦災孤児であったけど、彼が被害者のみであり続ける事を乱世は許さない。
頭のいい彼は、自分がある意味今回の事に関して自分が加害者の一人である事に無自覚ではいられないでしょう。
「守る」という一点において政次とは社会的カーストをこえた理解者で、龍雲丸はそんな彼と親友同士になれたかもしれない未来を失いました。

<忠臣の死と「王器」の誕生>
死ぬ事を選んだ政次から白の碁石を託された直虎。
井戸の前でそれを見つめながら政次の意図を読み取ろうとします。
彼女の胸の内には政次と碁をうちながら語らった日々がよみがえります。「我をうまくつかえ。我もそなたをうまく使う」の言葉と共に。

 

そしてついに処刑の日がやってきます。
取り調べの最中に拷問にあったであろう酷い姿の政次と美しい静謐さを漂わせる白い頭巾の直虎。
刑が二人の兵士によって施行されよとしたその時、近くにいた別の兵の槍を奪い取り政次の胸を突き刺します。
直虎は鋭い眼光を政次にむけながら
「地獄へおちろ!小野但馬!地獄へ。ようもここまで我をあざむいてくれたな!遠江、日の本一の卑怯者と未来永劫語り継いでやるわ!」
と罵倒します。
それに対し政次も
「笑止!未来など、もとより女子だよりの井伊に未来があると思うておるのか!生き抜けると思うておるのか!家老ごときにたやすく謀られる愚かな井伊がやれるものならやってみろ!地獄の底から、見届け…」
と吐血しながらも答え、笑みを浮かべながら絶命しました。
白頭巾に一滴の血を残して。

 

 

この場面は、いわずもがなの圧倒的名シーンでした。
彼らは本音を言わずして相手へのかけなしの愛を語っています。そしてこの芝居をうつことの意味について少し考えていきたいと思います。
直虎は政次をかばった言動をしていました。だからこそ騙されていて怒りのあまり逆上し、自らの手で奸臣を討つ主君を演じなけれならない。この事件の圧倒的被害者として。
このことで近藤氏が井伊に漬け込む隙を潰し、なおかつ徳川勢の井伊への不信感を払拭できる。
たとえ、それが芝居だと近藤が気づいているところで、建前上の正義は近藤にある。可哀そうな尼領主を彼は救っているという構図があるので、それを彼はひっくりかえせない。
この芝居こそが井伊が徳川のもとで生き残る政策の最善手。上記で家康が痛みを知ってもなおそれを抱えながらもした決断と同じ。

 

しかし、しかしですよ。直虎はそんな「大きな正しさ」を貫きながらも「小さな正しさ」をここで両立してるように見えます。
ここでいう「小さな正しさ」とは政次の人生の肯定です。

 

ものすごく個人的推測なんでここからは話半分ぐらいで読んでください。
政次は直親を見殺しにして井伊を救った事が深く心を傷つけていたと思われます。その事の自罰的な反動で、今川から帰ってきてからはヒールを演じていました。
井戸で直虎と邂逅した時、本心を語らず突き放したのは、親友の血によって汚れてしまった自分が直虎の横に立てないという思いや、直親を残して生き残ってしまったサバイバーズギルトがあるからだと思います。
政次はその日から、自分がこの世に残さた意味を考え続け、そのためには自分自身の心を殺し続け悪役を演じて井伊を助けていかないと生きていいる意味なんてない!ぐらい思っていたかもしれません。
彼の自己犠牲を伴う献身はここからきていると思われます。その終わりなき贖罪の旅の終着点を、井伊の悪役として死ぬ事と彼は見定めました。
あの日、直親でなく俺が生き残った意味はこの日のためにあったのか!と思ったことでしょう。ゆえに、この処刑に身を投じること自体に彼自身の救済がほとんどある。
父親の政直に、直親に、直盛たちに井伊の仇を貫きながらも忠臣であり続けたんだと間違いなく胸を張って言える。
そして、そんな万感の思いを胸に抱きながら一人で死にゆこうとした時、直虎が自らの手で政次を刺しました。
この行為によって直親を見殺しにして井伊を生かそうとした政次と同じ立場に直虎が立ったといえます。前回では、直虎は政次が置かれていた状況を理解しました。
だけど理解しただけではなく、同じ立場、同じ選択の前に立って、政次と同じように手を汚しました。一人で逝こうとした彼を、直虎は一人にしなかった。ここで汚れる事で、汚れたと感じていたあの日からの政次を肯定しました。

そしてここで政次が、自分を刺した直虎を肯定するなら、翻って直親を見殺しにするという選択をしたあの日の自分を認めてやらなきゃならないんです。
川名の隠れ里で、政次がなつに語ったように家臣に汚れ仕事を押し付けた主君はきれいな場所に立っている方がいいのかもしれない。
だけど、そんなものぶち壊して直虎は政次と同じ場所に立ちました。そしてその汚れながらも「おおきな正しさ」を貫いて主君の格をこれでもかと政次に提示する。
その姿は、いつも政次の想像を飛び越えていく「おとわ」の姿でいて同時に忠臣が使えるべき君主の姿。

「選ばれよ。」と寿桂尼にいわれ選択したあの日の政次に、直虎と政次二人がこの日、光と手を差し伸べた瞬間でもありました。

 

この「おおきな正しさ(徳川のもとで生き残るための芝居)」と「小さな正しさ(政次の人生の肯定)」という難しい事をやりきった直虎は「王の器」足りえると言える。
その器は確実に直虎と政次、二人のこれまでの軌跡によって生み出されたもの。
政次が忠臣である事、直虎が君主である事、お互いが望む本分を全うさせること。これを愛と呼ばずして何を愛と呼べばいいのか?
この場面はこれ以上ないラブシーンであったと思います。

<余談>
それでも、最期が幸せだったとしても前回で政次がこれからの井伊での日々に夢を見てた事が忘れられない。
贖罪の日々を抱えても、直虎と碁をうちながらもなつがそばにいて、直之達とは新たな絆が生まれ世界が広がったかもしれない。
嫌われに慣れすぎて人の好意を軽視する彼が変わっていく日々が見れない事にたまらなく心が痛いです。

 

 

 

因果は巡れど、愛する事をやめず人は歩む~おんな城主直虎32話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

駿河へは武田が、遠江へは武田が侵攻することによって今川家が窮地に立たされています。
乱世の火花が散る中で、昨日の敵は今日の友の名の通り、誰が敵でも味方でもおかしくありません。
一体、何が、どの道が正しい答えなのかわからない中で己で考え歩んでいかなくてはならない。
直虎は生き残るため、今川の目付をとらえ城を開ける代わりに臣下に加えてくれる頼みをしたためた書状を徳川に送ります。
裏切り、下剋上なぞ生きるために上等の世界で、「忠義」の化身たる政次の最後の仕事が見え始めた今回の話でした。
というか完全にそれの前半のお話なので、よっぽど次回とまとめてやろうかと思いましたが軽く書きとめときたいと思います。
いろいろとつらいものがありますが…。


<今川チルドレン>
飛ぶ鳥を落とす勢いの信玄に手も足もでない氏真。武田への寝返りも多数、出ており追い詰められていきます。
氏真は能力が圧倒的に足らない中、信玄という調略大好きおじさんを前になんとか頑張っていますがいかんせん、カリスマ性がない。
時代は今、武田だぜ!という気運の高まりもあり、寝返る国衆が多数出てしまいました。
寿桂尼の戦における才覚は氏真に残念ながら受け継がれなかったようですが、ある意味でその流れの系譜にいるなと思うのが家康と直虎。

家康は幼少の頃から今川家のもとで暮らしながら学び、直虎は寿桂尼にある意味では鍛えられました。
つまりこの二人は同じ今川学校の兄弟弟子。
だからこそ家康が、直虎の今川を欺き裏で政次と手を組むいという策に思わず驚き、彼女に会ってみたいと思ったのは感慨深い。
今川の血脈の流れを組むのは氏真でしたが、寿桂尼の才能の本質を受け継いでいくのはこの二人。
「血」だけではなくその人の「生き方」や「記憶」が誰かに渡されていく。その積み重ねが「今」の私たちの時代をつくってきたことでしょう。
そんな今川チルドレンの戦いはまだ始まったばかり。寿桂尼がなくなった際に、祈りをささげた彼ら三人は今後、どう交わっていくのでしょか。

 

<直虎の涙を引き出す政次>
徳川との内通について政次と示し合わせたい直虎。
そこにちょうど関口氏の武田への寝返りによって、ガードがゆるくなった井伊谷の館から政次がやってきました。
一通り話し合ったあと直虎は、政次が望むなら主の座を受け渡しても構わないと、提案します。
それに対し政次は、

商人にぜひ領主にと頼まれ、百姓達が体をはって助けようとし、盗賊までもが尼小僧のためならと一肌脱ぐ。
そんな領主はこの日ノ本を探してもどこにもいない。そこから降りる事は許されない、と返答しています。

 

直虎の今までの人生を肯定する言葉に彼女は涙を滲ませてます。
このシーンは胸がしめつけられるようでした。
直親達を亡くしたあの日から涙を見せなかった直虎。前回は、悲しみなどの複雑な感情の負の涙でしたが、今回はうれし涙。
どちらも政次がきっかけで引き出されてる。
涙を流すという事は心が動かされているという事
智謀ある政次にコンプレックスを抱いていた直虎にとってそんな彼が自分を認めてくれてる、これ以上の喜びはありません。

 

政次が直虎を妻にしてたら、後見から引きずりおろしていたら、政次は直虎のこの嬉し泣きの笑顔は見れなかった。
もちろんそういう人生の幸せもあるでしょう。けど、この笑顔を見てしまったらもはや、別の可能性を見出そうと思わないのではと。
直虎の「井伊を守りたい!」という願いをまっとうさせる事に、最後まで寄り添おうとする政次。
彼の献身さは大きな「愛」であり美しく一方通行にも見えますが、そうじゃないと私は思います。
少しへっぽこであっても誰よりも人望がある直虎を日ノ本一の主だと認める事は、彼女に仕え、忠義を見せる小野家もまた日の本一の家臣である事の証明で、これまでの自分の人生の肯定でもあります。
そしてその忠義に答える立派な領主でなり続けようとする直虎と、その彼女を支える事で忠義者でいたい政次の関係は

「われをうまく使え。われもそなたをうまく使う。」
のセリフのように共犯関係かつ補完関係になっています。

相手の人生を認める事が、お互いそのまま自分の人生にフィードバックされてるんです。

あの時の直虎の提案が今まさに実になって結ぼうとしている。

 

なにより、最初は幼馴染で恋慕する「おとわ」を支えるために動いていた彼が、今は彼女が領主として相応しいから仕えているという逆転の構造に美しさを感じる。
これは政次の「失恋」でもあります。フラれたわけでもない彼は確かに今「恋」を失い代わりに直虎との間に最上の信頼を築き上げた。
直親に井伊を捧げられた直虎が、その井伊を託してもよいとまで言われた政次は、その信頼のためになら死んでもいいとさえ感じる幸福を得た事でしょう。

 

<彼と彼女の間にあるやるせなさ>
さて動機が逆転したといえばなつさん。ここでの解釈はほんとうにいろいろあると思うんで、ここからは個人の妄想として受け止めてください。

なつさんは最初、小野と井伊をつなげるという大義から政次のそばにいたと思います。
それは彼女の使命であり、亡き夫である玄番の遺志を継ぐという事もでもありました。
ですが、だんだんとそれは政次への思慕へと変わっていきました。
だけど理性が強く聡明な彼女は、大義を隠れ蓑に恋心を持ち続け、政次のそばにいる事にどこかうしろめたさを感じたのではないでしょうか。
洞察力に優れているぶん彼女は、そんな下心がある自分に気づいてしまい恥じてしまう。逆にそこで悩む時点で彼女がいい人である証だと言えます。
そしてその洞察力は、政次の心の忠心にはいつも直虎がいる事がわかってしまう。たとえ、政次が「それはそれ。これはこれ。」と言おうと、
いつか彼が直虎の方にいってしまうのではないかの恐怖とそれにつきあっていく覚悟を決めなければならない。
だから政次となつのシーンは想いがかなってウルトラハッピーには見えない。そこはかとなくほろ苦い。

 

そして政次ですが、彼が直虎の人生を深く愛すれば愛するほど、大切にしようとすればするほど、そんな自分を支えてくれるなつさんの存在の大きさを無視できなくなってきたのだと思います。
直虎を支えようとした時、いつもそこにはなつさんがいました。
直虎を愛すほどに、なつの事も愛おしさが増す、そこはなんともやるせない人の心の流れがあります。
なつも政次がこれほどに直虎を愛し献身する姿を見なければ、彼を愛することはなかった。
その因果関係すらその人自身なんだと、それを抱きしめて歩いていこうとする彼や彼女にひと時でも幸せな時間がありますように。

 

<余談>
短く済まそうと思ってましたが、やはり長々となってしまいました。
ほんとは近藤さんの「罪と罰」回からの因果の巡りとか、書きたいところなんですが自分も混乱してるんでこの辺で。
ここで書いてある事とまったく逆の事をtwitterで呟いたりして矛盾だらけですが、生暖かく見守っていただけたら幸いです。
特に、政次。君の肩をぶんぶん揺らしながら言いたいことがけっこうあるぞ!

 

医療ドラマから見えてくるもの~シカゴ・メッドとコード・ブラック~

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医療ドラマの傑作といえばER緊急救命室が有名で、個人的にも大好きな作品でした。
それと同じレベルで「好き」いえる作品にはもう出会えないかな?と思ってましたが
ここで紹介する「シカゴ・メッド」と「コード・ブラック」が面白い。
この二作品を見る事で、気づいたことがあるので感想というより自分用のメモとして残していきたいと思います。


<「死」を通して>
病院が舞台である以上、そこにいる医療関係者はみな「死」というものに対峙します。
それはつまり、「死」を前にして、その人がどういう風に生きたいのか?生きるとは何か?という「生」を同時に問われやすい。
彼らの使命は「命」を救う事。だけど、時として患者は自分の「命」より大切なものがあり、それを優先しようとする。

 

例えば長い闘病生活に疲れ果て、蘇生措置を拒む患者。
新薬による治験の可能性がそこにあったとしても、僅かの希望から絶望に叩き落されるより「死」を選ぶ。
なんとかあきらめないで欲しい医者のウィルと自分の意思で命に見切りをつけたい患者のジェニファー。
ウィルは病気で母親を亡くしており、可能性が少しでもあるなら「命」を投げ出すことをどうしても認める事ができない。
しかしそれは他人の自由な生き方を否定している事になる。例え、それが「死」という選択だとしても。
家族でもない人間がそれを強要するのはある種の傲慢さがあるかもしれない。

 

だけど私はウィルのこと、全否定しづらいです。ジェニファーから見れば自分の意思を邪魔する悪であり、無駄に苦しみを与える存在でした。
ウィルも最後の方は自分の選択が間違っていたと思い始めます。
だけど彼が最後まで命を助けようとした事実は、彼女の死後、葬儀で彼女の夫から

「ジェニファーをあきらめないでくれてありがとう」

のセリフで少しだけ肯定されているような気がします。
看病生活に疲れきってしまっいる夫。どこかで生きていて欲しいという思いがありながら、けど妻はそれを求めていないし、求める事は彼女を苦しめるかもしれない。
そんな自分達でさえあきらめようした命を、救おうとしたウィルは悪魔であり、また同時に天使のような存在でした。

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<カオスの中の決断とヒーロー性>
「シカゴ・メッド」と「コード・ブラック」、どちらも救急医療の名の通り緊急性があり、スピードが求められています。
そのスピードによる緊張感を見せてくれるのが「コード・ブラック」です。
そもそも患者の救急処置室の許容量を超える緊急事態(コード・ブラック)が年間300回も発生するという設定なので
現場はいつもてんやわんやで張り詰めた空気が漂っている場面が多い。
一見すると何が起こっているのかわからなくて見ている方も混乱してきます。
研修医たちはその中でおろおろしながらも、その中で指導医が彼らに教えながら命を救っていく。

 

ただ、そこには明確な命の優先順位がある。余裕がないので全ての人にいつもベストな医療が施せるとは限らない。
だからこそ、ベストでなくともセカンドベストを、そうじゃなくともベターを。
その重い決断がほぼノータイムで求めらる。時間も人材も足りない中で。
しかも、その時の決断がいつも正しいわけじゃない。「命」を取り扱っている以上、間違う事が許されないというのに。

 

それでも彼らも人間なんで間違う時だってあるんです。
だから後悔を抱える時がある。だけど今日の患者を救えなかったとしても、明日の患者を救うべく立ち上がっていく。
その姿は私にとってはヒーローのように見える。
救うからヒーローでいられるわけじゃなくて、失敗しようが救い続けるその在り方自体にヒーロー性が宿ってるような気がする。
自分が救われる立場だとして、それに失敗したとしても、

救おうとしてくれる人がいてくれた事、そのヒーローが少し落ち込んでも、明日の自分と同じような苦境に陥ってる誰かを救うような人がいる事、
その事実そのものに救われていくような気がします。

 

この二作品は間違いなく面白いといえるのでお勧めです。

 

未来という名の希望のため 今、生きている君を殺そう。~おんな城主直虎31話~

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「徳政令」を受け入れる事で、国を潰して国を生かす決心していた直虎。
そのプロットを実行しようとした時、思いもよらぬ役者たちがその舞台に躍り出ました。
直虎が窮地に立たされていると知って、徳政令撤回の申し出でる瀬戸・祝田村の百姓達
この時点では、政次と直虎はお互いの意思を確認しあってありません。おそらく相手はこう思っているだろう?という不確かな状況の中で動いていかなくてはなりません。
それしか道はないとはいえ、これからの道は選択によっては死に直結するもの。政治家としては決断を下すのが難しい所です。彼女の肩には井伊の民と未来が、かかっている。
その荷を背負いつつも、どこまで政次を信じていいのかという揺らぎがあったのではないでしょうか?
しかし政次の「信じろ。」という言葉によって、確信はできないが自分と同じ決心があると思った彼女は徳政令を受け入れました。
今回は、直虎・政次の二人の絆が試される時でもありましたし、直虎の覚悟が改めて問われている回でもありました。


<直虎の複雑な感情>
政令を直虎に受け入れさせた事で、関口氏からの信頼を得た政次。
ですが氏真がそれだけで満足するわけがないと読んでいました。もちろん直虎もそこは想定内。そのために虎松を密かに逃がします。
が、政次はさらに上の策を練りだしてきました。
彼は直虎が虎松を逃がしているという事を想定して身代わりの首を用意します。
これにより、虎松・直虎がが死ぬという最悪の事態を防ぐばかりか、偽りの「誠意」を氏真に見せることで今川からの「信」を得る事ができました。
しかしこれは、大きなかけでもありました。
何も知らない直虎が偽の首をみても関口氏を騙せるような演技ができるのかというのは、ふたを開けてみない事にはわからない。
直虎も政次に対して不安があったかと思いますが、彼もまた不安があったのではないでしょうか?
偽の首をみた直虎はそれを抱きしめ、慟哭しながらも読経をあげます。

 

 

ここでの彼女の心の内を測るのは難しい。いろんな感情があったのではないかと視聴者に委ねているところがあります。
国語のテストのように「ここでの登場人物の気持ちを100文字以内に述べよ。」というような問題に、一つの答えなど本来はない。
私としてもこれが一つだとは言い切れない複雑さが直虎の中にあったのでは?と思うのでいくつか挙げていきます。

 

まず、直虎の感情に一番最初に支配したのは、「安堵」。その首が虎松ではなかった事にほっとしました。
ですが次に襲ったきたのは、ほっとした自分に対する「うしろめたさ」。
そして虎松ではなかったとはいえ、井伊谷の民である幼子が犠牲になった事への「憐憫」。
民一人すら殺させぬと誓った自分自身が実行できなかった事に対する「ふがいなさ」。
この状況を読めなかった自分に対する「恥ずかしさ」。
その汚れ仕事を政次にやらせた自分に対する「絶望」。
とそうまでして井伊を生かさんとする彼の忠義を少しでも疑いを向けた自分へのどうしようないほどの「恥ずかしさ。」

上記にあげただけでもけっこうありますが、もっと複雑な感情が彼女の中で渦巻き、それが涙となってあふれたでしょう。
直虎は寿桂尼と対峙した時、「狂うてもおらねば、手を汚す事が愉快な者などいない。汚さざるを得なかった者の闇は、どれほどのものか」と言ってました。
政次はもちろん狂ってなどいない。その彼がそうせざるを得なかったこと、彼の抱えなえればならなかった闇の大きさ、その事の本当の意味を直虎はここで初めて知る事になります。
もしかしたら、直親をきってでも井伊を救おうとした時の彼の痛みや悲しみを、ここで初めて直虎は体験したのではないでしょうか?

 

そしてなんであれ、その姿に関口氏は騙された。
政次も直虎が一人の「民」のために抱きしめる姿に、演技でない為政者としての「慈愛」を感じ取ったと思うのは、私のうがちすぎかもしれませんが。


<「守る」というエゴ>
偽の首を井伊谷に埋めて葬ってやろうとする直虎。そんな彼女に龍雲丸は声をかけます。
「命短い子どもが親に売られ、その子はきっと喜んでいる。」
それが真実かどうかはわかりませんが、戦災孤児であった彼の話は、もしかしたらと思わせる説得力はある。実際、そんな事はあったでしょう。
だけど、それは直虎には届かない。
そして
「子どもを切った政次は後悔していない」
というような事をいっています。
直虎は
「頭に何がわかる!」
と言い返してました。
このセリフには武家である直虎・政次とフリーランスの職能集団である龍雲丸の断絶があります。
井伊という「家」を守ろうとするために、手を汚さざるをえなかった政次の気持が、それを捨てて生きている龍雲丸に何がわかるというのか?
と直虎は思ったかもしれません。
ですが、龍雲丸は
「守りたいから、守ったんだ」
と答えます。
この「守る」というのは、城を守って死んだ彼の父を思えば切実さがるように思います。そしていまや、彼は守るべき仲間達がいる。
それは彼がやりたいからやっている事。
龍雲丸は武家に生きる人々の事はわからないかもしれない。だけど、「守りたいから守る」というそのエゴを彼は知っています。
そのエゴが自分を傷つける事で、自分を愛してくれる人達を傷つけうる。

そうだとしても、それを成さんとする事は誰に強いられるわけでもなく、心の内から湧き上がってくる。
その事を社会的カーストを越えて、感覚的に龍雲丸は政次の事を理解しているのかもしれません。

<繰り返す負の連鎖を断ちきる>
虎松を守り通すことで、政次は自分の中にある一つのトラウマを昇華させています。
彼の父である政直は、友である直親の父親の直満を死に追いやりました。政直がそうやって井伊を守ろうしてたかどうかはさておき、
幼かった政次はそんな父親に対しての絶望と背負わなくてもいい自責の念を持ったのではないかと思います。
ですが今回、おなじような悪役を井伊で演じてはいても父親とはまったく違う結果を導きだした。
虎松を守るという事はつまり、あの日の何もできなかった子どもだった自分を救う事も同じ。
もしもタイムマシンがあるなら、政次はその日の自分に
「大丈夫。君は将来、直親の息子を守ることができるし、自分の息子のような甥っ子に同じ気持ちを味あわせない。」
とでも声をかけるのではないでしょうか。
亥之助に「負」の遺産を残さずにすむ事、むしろその因果が逆転し「正」になった事は、彼の一つの大きな仕事であり、確かにそれをやり遂げたました。

 


そして、政次が抱えるトラウマからくる人生の課題がまだ残されています。
平和であればそれを抱えながら生きていく事もできましたが、どうもそうはいかないようです。
それがどういう形に収束するのでしょうか?
その日が来るのが怖く、でも確かに見届ける覚悟をもっていきたいと思います。

天才(もしくは凡人)がもたらす栄光と影~ソーシャル・ネットワーク~

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あのフェイスブックを作った奇才、マークの話。
が、このマークがかなりくせのあるキャラ。思考回路は超論理的だが感情面が幼児的。彼女とのデートシーンにこの二面性が顕著に顕れている。会話は完全にディベート
もちろんマークはふられ、おもしろいことに彼女への腹いせでやったある事がのちのフェイスブック誕生の第一歩となる。

 

コミュニケーションが重要な人間関係において致命的。にもかかわらず、そんな彼が人々をコネクトするインフラの創始者というのが面白い。

その後、友人エドゥアルドと成功の道を走っていき、もう一人の天才ショーンと出会いさらにSNSの頂上へと駆け上がって行く。 

 

だがここで単なる成長物語では終わらない。栄光と引き換えに、人々の社会的な結びつきという名のインフラを作った彼が、彼自身の個人的な絆を失って行く。 

その過程がほんと秀逸。人生のワンステージが上がった側のマークとおいていかれた友人。そして彼を引き上げたシェーンの関係性は、あぁどこにでもあるなぁ、と感じられた。
マークにとってショーンは見たこともない景色を一緒に見れる人なので、その手を掴まずにはいられない。
そしてそこに「未来」をみてしまったら、「現在」の関係性を自覚的にしろ無自覚にしろ置いていく事になる。

 

 

別世界にいる奇才かつ、超成功者の話に感情移入しながら鑑賞できたのがすごいよかった。 
あんなほぼ論理だけで世界を認識している(普通の人はもっと感情面があるような?)マークの孤独を浮かび上がらせ、シンパシーを感じさせるのもよかったです。

それにも才能を短期間で時価250憶までに生み出すアメリカのビジネスの土壌に圧倒されました。
といってもアメリカだけじゃないですね。ネットの海はあらゆる可能性があって。開拓という意味では人類にとって残るフロンティアは宇宙とネットワークかもしれない。

そしてこの映画の雰囲気がなんか好きです。画面やストーリー自体はたんたんとしてるけど、飽きさせないなぁ。
見終わった後、じわじわきます。

 

<同じ目的を持つ者達の関係性>

実は、この感想はだいぶ前に自分のメモとして書きためていたものです。
なんで掘り返したかのかというと最近、クリントイースト・ウッド監督の「ジャージー・ボーイズ」を見たからなんです。
両作品とも成功していく過程で得る物と失う物が描かれている。
組織はアイディアマン、才能の発信者、その才能についていこうとする者、資金をかき集める者、さまざまな人がそこにはいて科学反応を起こしながら、何かを世の中に送り出していく。
その中でも「生み出す人」と「場や資金を提供する人」の関係性のバランスをとるのが難しいんですよね。この二つは本来なら補完関係になりうる。だけど性格の相性が才能の相性とぴったり合うわけじゃない。そして、どちらか一方の力関係が大きくなりすぎたりすると、一気に崩れてしまう諸刃の刃。

才能だけがその人のすべてじゃないように、プライベートな部分だけがその人の本当の姿というわけじゃない。

だけどその二つが綺麗に重なった時はきっと何物にも変えられない幸福がある。

 

 なんだか、ソーシャル・ネットワークの感想から離れていきました。ジャージー・ボーイズとも少しずれますが。

最近、志が同じで才能の違う者同士の幸福な関係性はなんだろう?と考えてるからなんですよ。主に直虎(と政次)を見てるからなんでしょうけど。ちょっとこの辺は色んな物語のストックをためていきたいと思います。

 

そうせざるをえない者達~おんな城主直虎30話~

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とうとう武田との全面戦争が回避されなくなってきました。今川家はそのための準備にとりかかることに。
直虎は徳川との密約を水面下で結びつつ、氏真に命じられるまま戦備えをします。
その氏真に呼び出された方久は、気賀に蔵を建てる事と認める代わりに井伊家の取り潰しに手を貸すように言われます。
政令を出すことによって。
今回からつらい展開が続くようです。誰もが必死がゆえになりふりかまわなくなってくる。
直虎は卑しさを出さずとも生きていける世を経済によって成そうとこれまでしてきましたが、マクロの情勢がそれを許さない。
その夢みたいな理想郷に至るためにはこれから多くの犠牲が伴う。未来のそれのために、今、目の前にいる誰かが傷ついていかなければならない。
そのための序章が始まりました。

 

 

<裏切っても十字架を背負わない>
さて、方久は今川が井伊家を取り潰すための片棒を担がされました。
なぜかといえば今川は、武田と戦うにあたって後方にある井伊を安全地帯にしておきたいからです。
三河と隣接しているので今川防衛ラインの要の地。ここをとられたらうかうか戦もしてられません。
だからこそ井伊を自分の直轄地にしておきたい。
そして井伊の方も沈みゆく今川という船から脱出しようとしています。
今川も井伊を切らざるを得ない、

井伊も今川を裏切らざるをえない。

そこに悪意はなく、ただただ生き残りたいという切実な思いから来ています。

 

そして、この「せざるをえない」男が方久だといえます。
コミカルな動きに見えますが、そのなかには彼の井伊への裏切りのうしろめたさや葛藤があります。
方久がここではねつけたとしても、武力で今川にかなうはずのない現状を知っています。
徳政によって潰されるか?それとも武によって潰されるか?この二つを天秤にかけたとき、現実主義の彼は前者をとる。
直親を切らざるをえなかった政次と同じ道をたどったといえる方久。裏切者にみえますがそんな彼はいまだにおとわの櫛をもっている。
その櫛は彼にとって、どん底の人生から再起の象徴といえます。
そこから這い上がってきた彼は、これまで井伊を再生させようとしてきた直虎の生命力を信じているのかもしれません。

 

我ながらひいき目でみてるなぁ、とも思いますが私は裏切ってもあとから借りを返せばいいでしょ?と思ってそうな方久が好きなんですよね。
彼は、以前にも直虎に「瀬戸村から利益を出せるようになれば、あいつら手のひら返しをしますよ。」というような事をいっています。
だから命さえあれば逆転できるし、それ以外は些細な事だと思っているのかもしれません。
彼にとって今回の「裏切り」は取り返しがつかないことではないゆえに、罪悪感を抱いたとしても押しつぶされずに十字架を背負わずにいられる。
彼の生命力がこの戦時をくぐりぬけてくれることを切に願います。

 

 

<「嫌われ者」というカードをきる事で>
方久が損得勘定があり相手と自分のWIN-WIN関係を築くタイプなら、対照的に「滅私奉公」で動くのが政次。
これまで井伊家の裏切り者かつ、親・今川派のふりをして動いてきました。
ですが寿佳尼の裏切者をあぶり出す面接から直虎がすんなり帰っきたこと、目付の自分が知らされてない情報が増えてきた事でとうとう今川に自分の正体がを見破られていたことに気づきます。
それを知ったうえで、二重スパイのような立ち位置の彼は今回、動きを見せました。
龍雲丸を使って方久をおびきだし、揺さぶりをかけ今川の目的を早々に見抜きます。
そして関口氏が徳政令の発布を命じにきたあとで、直虎達に嫌味っぽく言うことで、これが寿佳尼が仕掛けた罠である事を知らせます。
ただでさえ今川からの信用がなく関口氏の目がある以上、直虎との密会はできない。
だけどこれまで思考回路を共に合わせてきた彼らは、相手の考えを読み取ろりすりあわせようとします。
とりあえず徳世令を受け入れ、徳川に戦っていくと見せかけて関口氏の首を差し出す。
けど、ここで緊急事態が発生。百姓達が徳政令撤回を関口氏に申し出ます。
その場にいた直虎に政次は刃を向けますが、おそらくこの状況を逆手に政次は取る事でしょう。
直之でなく、六左衛門でもなく、方久でもなく、彼だからできる事。「嫌われ者」というカードをきることで、井伊家の再生の道筋をみつけようとする忠義者。
いまはただ、そんな彼の行く末を見守っていくしかありません。

 

 

<善意から生れる最悪な結果>
百姓達の徳政令撤回の申し出には、これまでの直虎と彼らのの歩みがフラッシュバックして泣かされましたが、この動きを読めなかった直虎と政次は戦術を変えざるをえなくなります。
圧倒的に彼らが善意からそれをやってることがわかるから切なくて。それだけの人望が直虎にある事が、彼女が上に立つことができるなによりの長所だから余計にやるせない。
善意からそれが始まっても、結果は最悪なことも起こりうる。たとえ百姓達の自主的な動きだったとしてもおこった「結果」によって引き起こされる責任は為政者にある。
よかれと思ってやったことが最悪な結果を導いてしまった場合、どこでそれが間違ったのか?を考えていかないといけない。
まさに、マキャベリがいうように

「天国に行く最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知することである。」

直虎がこれからそれを身をもって知ることになると思うとつらい。そこから再起するだけの生命力を彼女がもっていると信じてるとしても。
ほんと最近の回は、つらくて思考停止状態で自分でも何を書いてるかわからなくなっているというかポエミーになってますが、がんばって視聴していこうと思います。

 

 

 

 

届かなかった夢を持った者達に祝福を~少年ハリウッド~

小説 少年ハリウッド 完全版 (小学館文庫)

このブログで少年ハリウッドについて触れるのも今回で三度目。
アニメの放送が2015年で終わっていますが、最終回の完全版を作るプロジェクトが進行中だったりと、ファンも彼らも出会ったあの日から生き続けてます。
そりゃあ、日々の生活で「少年ハリウッド」のことばかり考えているわけじゃない人が多いとは思う。
だけどふとしたときに、彼らの事を思い出したり、アニメを見直して明日の元気をもらったり、他のアイドルを見る時には、確実に少年ハリウッドの影響を受けずに見てないとはもう言えない自分がいる。
もはや、無意識レベルで彼らの事を考えずして人生や世界を眺めていることがあって、あとになって「あぁ。自分のこの考え方は、確実に少年ハリウッドの影響を受けてるんだな。」と思う事もしばしばあります。
「いつも」思ってなからこそ、「いつでも」彼らが自分の中にいる事がたまらなく嬉しい。
そんな「物語」に出会えた事に感謝しつつ、定期的に彼らからもらった「気持ち」をここに残していこうと思います。
といっても今回はアニメの方ではなく初代が書かれている「小説 少年ハリウッド」についてちょっとだけ思ったことを書いていきます。
なのでこの小説のネタバレをがんがんしていくのでご注意を。

 少年ハリウッド」はアイドルのお話なので「夢を叶える。」という事の煌めきがちりばめられているんですが、それにも関わらず根底に「夢が叶わなかった。」というものがある気がします。
そもそもアニメの「少年ハリウッド」が二代目のお話なんですよね。そこにはもちろん初代少年ハリウッドがいて、彼らのアイドルという夢は確かに叶ってはいるんです。
だけど「永遠にアイドルであり続ける。」という夢には破れたんです。
だからこその二代目。初代ができなかったことに挑戦するという意味で、この物語は「バトンを受け取り、バトンを渡す継承というものについて語られていると思います。
この「継承」という切り口を個別で見ていくときりがなくなるので、またの機会に書いていこうと思います。

 

<夢をもつ者の剛と持たざる者の柔>

さてタイトルにもある「届かなかった夢を持った者」とは誰なのか?というとずばり「正人」です。
彼は桜木広司(アイドル名・柊剛人)の友人かつシェアメイト。昔はカメラマンを目指していたようですが、三十前半の今では、会社員として勤めています。
広司が十代と間違えられてスカウトされアイドルという世界に足を踏み出す一方で、正人は「こちら側」に引き留めようとします。
正人は叶えられなかった夢をもつどこにでもいる普通の人です。仕事終わりのビールに幸せを感じるような。すごく「現実」を正しく生きている。彼の名前の通りに。
そんな自分と同じだと思っていた友人の広司はその「正しさ」をある日投げ出してしまう。
自分達は柔軟に現実に対応していたと思っていたのに、友人だけ夢の世界へとびこんでいけるだけのダイヤモンドのような堅く強い何かを手にいれてしまった。
ここの正人の気持ちを考えるとすごくつらい。彼は広司を見ると、まるで夢をあきらめた自分の人生を否定されているように感じたのではないでしょうか?
正人は嫉妬してた、といってますが、なんというかその一言のなかにはいろいろな感情があるような気がして。
けど、ここで自分の感情に素直に認める事ができる正人はかっこいい。そして夢に届かなかったからこそ、広司にあるプレゼントを送ることができる彼は超がつくほどかっこいい大人なんです。

そしてどちらの生き方も正しい。そこに人生への「剛」と「柔」があるだけで。

どちらもあるから世界は成り立っている。
書かれてなくともダイヤモンド(金剛石)の原石のような剛人は、ファンという名の太陽の光が届いてこそ輝きを放ったでしょう。

そして柊剛人のアイドルであり続けたいという夢は砕けてしまい、普通の広司に戻ったとしても、そのかけらは次世代へと受け継がれていきます。二代目の「少年ハリウッド」として。