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物語同士のつながりが好き

パックス・イマガーワ(今川家傘下の平和))の揺らぎと小野政次政務官の政策の行方~おんな城主直虎17話~

おんな城主 直虎 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

前回は、内政で国を潤す「富国」で今回は軍事力強化をする「強兵」の話となりました。

新兵器「種子島」(火縄銃)を自国で量産化を目指すものです。

百姓集めの時は遠回りなアドバイスをしてくれた政次も「今川家から謀反の疑い」をかけられるといって軍事力を増すことには反対のようです。

で、ここで私の中で政次への疑問が二つありそこから彼の政治家としての思考を推測していこうと思います。

 

①「軍備増強にほんとうに反対なのか?」

②「今川家の属国であり続けるという戦略は正しいことなのか?」

 

 

まずは①から。

いや、従属国として宗主国のお伺いをたてなきゃいけないし、疑われるような事をしてはいけないという事はわかるんですが、この戦国乱世のなかで他国が新兵器で武力をつけていく中で自分のとこだけやらないというの自殺行為です。
というか軍事力が均衡していなければ戦争の抑止力にならなくて、強い方がすぐにせめこんできます。たとえ今川でなくとも。
なので井伊と今川の二国間で火縄銃の共同開発を提案するのが、今川をたてつつ井伊にとってもベターな選択の一つ。
それなのに「今川家の逆鱗にふれそうだから。」というだけで反対するには理由が弱い。
彼が今川家に盲目的ならわかるんですが、11回「さらば愛しき人よ」では直親と徳川とのパイプラインを作っておこうとう案に彼は消極的とはいえ賛成しています。
ゆえに彼は今川家を全面的に支持しているわけではありません。

 


じゃぁ、なんで反対したのか?と考えると直虎を後見から引きずり下ろす目的が主にあると思います。
まだ、あきらめてなかったんかい!?という思いもありありますが今回、今川家ではある動きがありました。
「寿佳尼が倒れた事」です。
この事実がもたらすのは今川家の本格的な政権交代が起こり、反・井伊家の機運が高まる可能性です。
氏真が当主とはいえ実質、寿佳尼が実権を握っていました。彼女のような道理をわかってくるタイプなら直虎はよかったのですが氏真はそうとは限りませんし、というか相性が悪そうなんですよね。ばんばんぶつかっていく雰囲気さえ感じます。しかも二度目はないと釘をさされた。
それよりか氏真の気性を知り、御していける自分が後見になった方が井伊も直虎も守っていけると政次は考えたのでは?と思います
(ぶっちゃけ8割がた直虎のためな気がするけど)

 

 

そして②について。
これだけ群雄割拠して明日どうなるなかわからない時代に、今川との同盟だけをメインに考えるのはちょっと危険な感じがします。
従属国が従う・従わざるをえないという状況は、圧倒的に宗主国側に「武」や「商」の力があり、その覇権のもとに安全が保障されているとい時に有効な体制です。
(独立国としてそれはいいのか?という問題が残るとはいえ。)
なのでこの条件を満たすのは「今川家」が周辺国を圧倒的軍事力でおさえる事が前提となります。

ですが、そんなに「今川家」って強いのでしょうか?

遠州錯乱」がおこり反・今川家の運動の高まりで国が弱体化しています。(いくらかは、そこから回復したかもしれませんが)
だから今川家以外との可能性として、直親の徳川家と同盟を組んでバランスをとる戦略は悪くなかったとは思います。
ただ圧倒的に外交センスがなく、インテリジェンス(諜報活動)の動きに鈍いだけで。
このへんのマクロの動きがちょっと知識的にわからないし、直虎目線で書かれているので、政次がどれだけ見越して戦略を練っているのかはかりかねるところです。

 


ただなぁ、①でもいいましたが政次は別に今川家に忠誠心があるわけでもないので、中華帝国儒教ベースにとりこまれ身動きとれない朝鮮王朝とはわけがちがうと思うんですよ。
ほんとは、間者を使って情報収集して総合判断できればいいのですが、なんたって井伊は人材不足。
人材どころか資源もない!金もない!軍事力もたいしてない!
そんな、なにもない中でやっていかないといけないので非常に苦しいです。

 

柳生大戦争 (講談社文庫)

柳生大戦争 (講談社文庫)

 

 いやぁ、まあ単純に直親との策を命でもって失敗したので、トラウマになっているだけかもしれませんが。
その失敗を失策だったと彼が考えているのであれば、今川家に逆らわない事を最優先事項とする彼の方針に合点がいきます。
しかも同じ過ちで直虎を失うとか恐怖でしかないでしょうから。
でも、政次さん、戦術レベルの失策したからといって戦略がまちがいだったわけじゃないですよ。いくら結果論だとしても。

これに関しては、次回以降ででわかるかもしれないしわからないかもしれないので心して待っときたいと思います。

 

 

 

さて、いつものごとく全然内容にふれてないのでそろそろ虎松周辺についても触れておきます。
私は家庭という場所は、人間が一番初めに愛憎を受けると同時に「政治」に触れる場でもあると考えています。
戦国時代であればなおのこと、この政治的側面が強くなるでしょう。
なので井伊を率いなければならない虎松があきらめない姿勢を将来の臣下である亥之助に見せたことは極めて意義があったと思います。
接待囲碁をやっていた時にはなかった「やるじゃん。虎松様!!」という淡い尊敬の念が芽生えたのではないでしょうか?
そして亥之助は、政次譲りの実務実現能力でもって虎松をきっと支えていくことでしょう。
しかしながら、虎松も井伊の猪突猛進ぶりばかり似ても困るので政次がそのへん指導してくれたらなぁ、という願望が高まります。

 


しのちゃんについては、うん。確かに跡取りの生母としてどうなんだ?という批判はわかるのですがこの人は愛情をかけてやればその分めちゃくちゃ返してくれるタイプに見えるんですよね。情の激しさがあるだけに。(前回も同じこといいましたが)
直親のこと好きだったのに、彼の愛情が得られなかったことからくる自尊心の低さ。自分には生母である以外に何もできないんだいう彼女の無力感と直虎への劣等感。
それらをコントロールできる頭の良さがないがゆえの攻撃性。
このちっぽけな自分とつきあっていかなきゃならないつらさは身に沁みます。。
しのちゃんの感じとして「カルバニア物語」のプラティナ王妃を思い出します。
こちらも夫が昔の恋人と大恋愛のすえ、結ばれなくて代わりとして自分がきたもんだからいつも愛情に飢えていたところがありました。
あぁ、彼女が心の隅っこにひっかかっていて、だから私は気にかけちゃうんだなぁ。

 

カルバニア物語(7) (Charaコミックス)

カルバニア物語(7) (Charaコミックス)

 

 なんであれ、直虎も女子のコミュニケーション低く、お互い欠点があるので精神的にこぶしで殴り合って分かり合うのが一番かと思われます。

 

 

君(物語)は私の友達だから~物語が擬人化し、人が物語化すること~

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〈物語の擬人化〉

キャプテン翼」の翼くんのように「物語」が幼いころからの友人でした。
幼稚園の頃なんかはホント友達がいなくて、だけど不思議とつらさがなかったのは、絵本やアニメがあったからだと思います。
母が毎晩、読み聞かせをしてくれるたびにここではないどこかへ連れていってくれるあの感覚は、今でも確かな温もりを呼び起こしてくれます。

 

キャプテン翼 (第1巻) (ジャンプ・コミックス)

キャプテン翼 (第1巻) (ジャンプ・コミックス)

 

 小学生からだんだんと友人ができ始めても物語が好きな事は変わらず、むしろ小説・ドラマ・漫画と媒体が広がる事でますますのめり込む結果に。
そうやって多くの物語に触れていると不思議なことがおきます。
自分の心の中に教室みたいなものができて、物語のひとつひとつが人格を持ち出します。
彼ら・彼女らは私たちと同じようにいろんな友人やグループをつくって、わいわい・がやがやしている感じです。

 

なにいってんだ?と思われるかもしれませがそうとしかいいようがなくて、
このブログでただ今絶賛「おんな城主直虎」キャンペーン実施中なので例えに出しますが、彼女の性格は現実にシビアなところがあるけど、すごく眼差しが暖かくてユーモアがあり生命力にあふれている。
その彼女の同じグループに「カルバニア物語」と「テンペスト」、「金の国・水の国」がいる。
彼女らは雰囲気が似てたり価値観が似てたり、ほとんどちがうけど一部は似てるところもあったりしています。

 

「カルバニア物語」は、女性の生き方や作品の持つやさしい眼差しが。

「金の国 水の国」は、技術や経済が世界を動かしていく事が。

テンペスト」は、宗主国と従属国の関係性の中で前に進もうとする人々の姿が。

 

カルバニア物語(1) (Charaコミックス)

カルバニア物語(1) (Charaコミックス)

 

 

 

 

 

テンペスト  上 若夏の巻

テンペスト 上 若夏の巻

 

 


一つの物語と新たに出会うたびに連鎖反応を起こし、シナプスみたいに別の物語と繋がっていく。
だから私のブログはある一つの作品を紹介する時に、他作品がよく出てくるんですよね。
「この子(物語)はあの子の友達でもあるんだよね。あの人にも似た雰囲気あるかも。」みたいに。


〈人の物語化〉

 

今度は、逆に人を物語のように感じる事について。

 

私は人の外見は「キャラクターデザイン」

雰囲気やしゃべり方、ファッションは「演出」

そして中身は「脚本」

 

と考えてるところがあります。

 

なので「キャラデザ」がよかろうと「演出」や「脚本」がだめだと、なにもかもだめだと感じちゃったり、逆に「脚本」が許せなくても「キャラデザ」と「演出」がずば抜けていると
まぁ、いっかと許せてしまう時があるんですよね。

 

この二つは矛盾してますが「程度」があって総合評価になっちゃいますね。
まぁ、だいたい「脚本」がいいとキャラデザも好きになっちゃうところがあります。
これは、つまりその人の人格を好きになっちゃうと外見もなぜか可愛くみえてくる恋は盲目というやつでしょう。

 

 

こんな風に人をまるで一つの物語のように感じるので、言葉が足りなくて誤解されやすかったりちょっと変わっていて理解されにくい友人がいたりすると、
「彼女という物語を途中から読んでいるから分かりにくいだけだよ。なれてくると行間に隠れた良さに気づくよ。」
といいたくなっちゃうんですよね。
だけど新たな人と出会うということは、連載途中の週刊誌を読み始める作業に似ているのでわかってもらえるのに時間がかかります。
まぁ、それでもわからないものはわからないし、きらいなものはきらいなのでこればっかりは相性としかいえないところですね。
だからこそ、自分は相手の言動や言葉の裏に隠れた文脈を読み取ろうとしますが、いかんせん修行中なのでいつもうまくわけではありません。

 

こんな風に「物語」と「人」がごっちゃになっているから、私の中でその境目が非常に曖昧でグラデーションのように繋がっています。
(現実と虚構を同じにするなと怒られそうだけど)
あくまで私の心の中の話として。


〈だからこそ〉


「物語」と「人」を同一視しているから、自分にとって大切な物語(人)が、例え世界にとって無価値だといわれて取るに足らないと評価されても、私は君(物語)に会うために生まれてきたし、君(物語)もまた私のために存在しているんだと思っています。(←少年ハリウッドの社長だ!!
抽象的な言い方をしていますが要は、世間からみたらイケメンじゃない彼氏でも自分にとっては世界一かっこいいし特別じゃないですか?
物語を自分の一部のように感じるから、そりゃぁ他人に否定されれば悲しいし褒めてもらえたら我がことのように誇らしい。
だけど世間の評価で揺らぐような「好き」じゃないんですよ。自分自身の評価が絶対基準にあるので。


だから、私のブログは基本的に「のろけ」なんです。

私の友達(物語)のここが好きで素敵で誇らしい。みんな見てくれ!最高だから!っていう名の。


〈最後におまけ〉


私にも当然きらいな物語や許せなかったり理解できない物語もあるのですが、
「なぜ嫌いなのか?」という分析作業にはいってしまい似た作品を読み漁り
「あぁ。だから嫌いなんだ。」と結局、自分自身の人間性や思考を浮かびあがらせて満足して終わってしまうという。
いや、嫌いな気持ちは消えたわけじゃないのですが、ほんのすこしだけ心に余裕ができる。
それに今、理解できなくてもこの先わかる日がくるかもしれない。一年後、五年後、十年後は自分もまた変質して、久しぶりに会ったら笑って話せる仲になるかもしれないし、ならないかもしれない。
その分かり合えるかもしれない余白は残しておこうと思います。

 

 

 

英雄不在の世界で生きる者達に捧ぐ歌「カ~ン・カンカン・カ~ン」~おんな城主直虎16話~

おんな城主 直虎 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

前回、寿佳尼に「民を潤す事」がマニフェストの最優先事項と提示した直虎さん。
今回はその政策の具体的実行力が問われる話となりました。


「国の土台は『食』と『安全』にあり。」と考えてる私ですが、それだけでは発展はありえないでしょう。
もうワンランク生活レベルをあげるために「殖産興業」ともいえる「綿花栽培」に着手します。
そのための「人材が必要が圧倒的に足りない井伊家はどうやってそれを解決するのか?」が直虎の今回の課題でした。

もう先に簡単に言っちゃと

「口コミ(ミュージカル風)によるプロモーションを茶屋という経済交流サロンで大々的に行う。(無料)」
というものです。

 

最初、直虎さんは他の領主に頼み込むというあほみたいな事をやったり(政次のいうように相手にうま味がないのでnot win-win)
「人がいなければ買えばいいじゃない?」と人身売買をマリーアントワネットみたいなのりでいいだしたりと、はちゃめちゃでした。(人買いは、購入費が高いしそもそも不定期でしかやっていない)

 

 ここで私がおもしろいと思ったのは、戦国時代に人と情報の流動性がかなりあるという点でした。歴史に明るくないしそれが正しいかは私にはわかりませんが

農民達は「逃散」といっていざというとき逃げ出す事ができるし、領主にその器がないと見るや他の権力機関に訴えを出すことができる存在として描かれています。
これってつまり意外と「土地」に縛られずに生きており、彼らには自主性があるという事です。
茶屋にも様々な職業の人たち(僧・山伏・職人・武士など)があつまり、情報交換の場として活気に満ちていました。
だからこそ条件のいい直虎の「募集要綱」にすぐに人が集まってきます。

 

 

この普通の人達の生活レベルから戦国時代を眺める視点というのは、私個人としてはめちゃくちゃ面白い。
というのも、そもそも直虎本人も別に「百年の計」を考えられえるようなウルトラ戦略家でもないし、戦場で華々しく活躍したり、散っていくような武将タイプではないんですよね。
つまり「英雄」足りえないんです。いってしまえば、これは、たとえ彼女にリーダー性やヒーロー気質があるとはいえ「そのへんの女性」がどうにか頑張っていくお話なんです。
「英雄」が世界を変えていく話は魅力的で大好きですが、「今」を生きている私たちの世界は「英雄」不在なんです。
なにがいいたいかというと現代は、一人の「英雄」ではなく「経済」や「技術」の力で一人ひとりが社会の役割を担う事でどうにかやっていってるじゃないですか?
つまり直虎たちが直面している問題は舞台が戦国でありながら現在の私たちに通じるものがあるのです。
というか、「おんな城主直虎」は英雄の話ではなく英雄(井伊直政)を育てる話だとTwitterでみかけてそのように考えました。
(そういえば、森下さんは実業家・小林一三の話も書いていましたね。)

 

経世済民の男 小林一三 [DVD]
 

 

 

それをふまえて考えると「おんな城主直虎」が様々な社会階層にフォーカスをあてることで戦国時代の社会構造を明るみにだしていくとういのはなんともチャレンジングです。

今回は農業革命とそこから火縄銃に繋がる戦争の戦術ががらりと変わるイノベーションについてふれていました。

 

 

 

堅い話はこのへんにして直虎さんは今回、政次の案が自分より優れていたのでリーダーとしてへこんでしまいましたね。
さすがお役所仕事をさせれば右にでるもはいない政次プロデューサーです。政策実行力の腕が違います。
だけど直虎はへこむ必要はぜんぜんないんです。
前から感想記事で書いていますが直虎は政治家タイプで政次は官僚タイプ。
政次がいくら事務処理能力にたけようと、リーダーには不向きなんです。
彼女のフットワークの軽さや、ブレイクスルーできる力、あきらめずに飛び込んでいく姿勢は土壇場になったときに、きっと下の人たちの心の支えとなっていきます。
いざ自分が何かに追い込まれた時に「直虎様ならここであきらめない。あきらめたっていわない。」と思わせるでしょうし、それは意外とすごい事なのです。
政次もそこを自覚的に利用できるようになるとよりいいんですが。

直虎のほうも政次にだけ、感情をむき出しにあらわしています。(「赤毛のアン」のアンもギルバートにそうでしたね。)
彼女が政次の能力を見定め使う事はこれからの課題です。
自分の感情の意に反する人をも使っていく事が彼女のリーダーとしての責務だからです。

 

 

さて、今回ちょっとしのさんについて触れておきますが、私は彼女が愚かな人だとは思えないんですよね。分をわきまえてないといえばそうですが。
彼女は父親が不慮の事故とはいえ政次に殺された時に「悪いのはきっと父だったのだ。」とちゃんとわかっていました。
だけど、それでも感情面がついていかない。それだけ彼女は「情」のパワーが強い人です。
実は直虎もこの「情」のパワーの強さは負けず劣らずで、その発散先として政次が選ばれており、意外としのと直虎は似たところがあるんです。
直虎は社会的地位の確立によって精神的バランスがとれていますが、しのさんの井伊家での政治力のなさっぷりをみるに彼女の精神的居所はまるでない。
このタイプは、爆発させるか、寄り添うかのどちらしかないと思いますが政次は、うん、そういうのできないタイプですね。
彼は、相談にのられたら具体案はだすけど彼女から「いや。そういう正論はいいから。聞いて欲しかっただけなんだけど?」と逆切れされるタイプなんですよね。悲しいことに。
そのへんの人間関係の機微も注目してみていきたいと思います。

 

 

そういや政次VS直虎と銘打って記事をを書いていましたが、どちらが勝とうが結局、政次の思いどおりじゃん!!と考えあきらめました。
勝っても負けても美味しい思いをするなんてずるいですよ!!おのれ政次!!(そこが好き)

 

『おんな城主直虎』好きにおすすめする『カルバニア物語』~世界の残酷さや断絶をとらえる柔らかい眼差し~

カルバニア物語(1) (Charaコミックス)


大好きな作品を誰かと語り合った時、好きなポイントが全然違った!!って経験はありませんか?
例えば、「おんな城主直虎」のどこがいい?って意見をきいたら、「役者さんの演技がいい」「音楽がいい」「脚本がいい」などのふんわりした理由から「直虎・直親・政次の三角関係が素敵!」「国衆達が戦国の世に振り回されていくマクロのダイナミズムが面白い」などの具体的なものまで様々です。

 

 

これってようするに「作品をどうとらえるか?何を求めているか?」という「視座」が人によって全く違うから起こっていてどの意見や感想も正しさがあります。
だけど、いやだからこそ「この作品が好きならこれがおすすめだよ。」って言う時には、自分の作品への姿勢や眼差しを添えて紹介していきたいと思います。
きっとおなじような「視座」をもつ人ならきっと琴線に触れると思うから。

 

キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)

キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)

 

 

さて、いつものごとく前振りが長くなりましたが本題に入ります。
なぜ「おんな城主直虎」好きに「カルバニア物語」を進めるかというと二つの作品のなかに「ひとの欠点や瑕疵やなかなか抜け出せない『業』」「だけど別の角度から見た時に同時にそれが光でもある」という両方を内包しているからです。
まぁ、そんなかたいことをいわなくてもこの二作品の設定は似たところがあります。

 

「カルバニア物語」は中世ファンタジーな世界で17才で即位した女の子「タニア・カルバニア」と女公爵を目指す「エキュー・タンタロットを中心とした群像劇。
彼女達は男性・保守的社会のなかで他貴族と時にぶつかり、理解しながら奮闘していきます。
こう書くと堅苦しくて構える人がいると思う人もいると思いますがけど肩の力を抜いて読んでほしい。

 

例えばここで出てくる、保守的な「タキオ・バスク」という領主。彼は「女の下につくのは嫌だ」といって最初の方はエキューを嫌っていますが

ビジネスを一緒にやっていくうちにだんだんと変化していきます。
が、それでもエキューが女侯爵になることに懐疑的です。
そんなタキオにエキューが「やれることや、やるべき事をしているのに何がきにくわない?」
と聞いた時、こうタキオは答えます。

「エキュー。気にくわないことなどひとつもない。」
「本当のことを言おう。いつも君には感服している。」
「君は公正で勇気があって努力家で、そりゃあ大した女だ。」
「君こそはきっとタンタロット侯爵がおつくりになった最高傑作だろう。」
「だからこそいい人生を歩んで欲しいんだ。」
「確実な良い人生を。」
「君には愛する男に手をひかれて安全な美しい道を歩いてほしい。」
「意外に思うだろうけど私もハゲたちだって君の幸せを心から願っている。」
「だからカルバニア初の女侯爵なんて誰も経験したことない冷たい風の吹く荒地みたいな場所に、君をたたせたくないんだ。」
「君の美しい顔が苦痛にゆがむのを見たくない。」(タキオ)
「君を気にいっている。」(タキオ)
「だから私はこうしてここにいるんだ。」
カルバニア物語10巻より

 

カルバニア物語(10) (Charaコミックス)

カルバニア物語(10) (Charaコミックス)

 

 

このタキオの言い分は確かに保守的な面もあるでしょう。その面には「女は男の領分に入ってはいけない」という負の部分もはらんでいるかもしれない。
だけどそれでもその中にタキオのエキューに対する深い敬意や愛情が同時に矛盾せず存在しています。
彼女を気に入っているから守ってあげたい。それが彼女の自己実現をさまたげようとも。
この保守的な考えの中にある両義性がタキオという人間の深さをあらわしています。

(というか、二つの矛盾した思いの中で悩みぬくこそが愛なんですよね。政次。聞いてるか?お前の事だよ。≪小声で≫)

 

これって「おんな城主直虎」のなかにもあって単純に「男」と「女」。「支配者」と「被支配者」。「外敵」と「身内」と、いっけん対立をはらみ敵視してしまいがちな相手の中に、スポットライトを別の場所からあてるとまったく違うものが浮かび上がってくる構造をもっています。
「女のくせに」という直之の中にある「女性は守らねば」という思いや、立場上弱くて守らなければならない百姓達にあるずるさと強さ、井伊家における小野家の存在。
その矛盾を抱えたものをみんな持ち合わせていて、それをつきつめて考えていくといくと誰も悪人なんていない。
そして相手の事が理解できたとしても完全にはその立場に立つことができない自分と相手の断絶さがそこにあり、自分の正義や生き方が誰かを傷つけていく残酷な事実が浮かび上がってきます。
だけどその過程には同時に優しさや愛おしさも確かにあるという人生のやるせない美しさが浮かび上がってくる。

 

 

なぁんか、小難しい事言い出していますが、とにかく二作品とも厳しさの中に優しい眼差しを感じるんですよね。
そういう作品が好きだ!って人にはおすすめします。

 

いや、「おんな城主直虎」にこの文脈の一つを私が勝手に感じ取っているだけで、ほかにもいっぱい面白いって感じるところがあって少女漫画的でありながら少年ジャンプの趣があったり小野政次さん、最高すぎない?」というキャラクターへの偏愛があり、弱小国衆やその下の名もなき人々の戦争だけじゃないサバイバルがあったりして、いいだせばきりがないんですよ。

 

そういういろんな観点からみえる面白さで他の作品を軽率にお勧めすればいいんじゃないな。みんな。
音楽がいいなら菅野よう子さんが携わっている他作品をおすすめしたり、小野政次が好きならきっとこのキャラも好きになる、とかね(←まじで求む)。
それがきっと作品を楽しむうえでの豊穣さにつながっていくと思います。

 

まぁ、そんなこといいつつ

「おまえの文脈の読み方なんて知るか!!これは面白いから見ろ!!」ってオラオラな壁ドンスタイルでおすすめされるのもぶっちゃけ大好きです(矛盾)

政次さんの対直虎成績0勝1敗 果たして勝利の女神は今回どちらに微笑むのか?外交編~おんな城主直虎15話~

おんな城主 直虎 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

前回は、井伊の内政問題を扱っていました。今回は外交になります。
昔から上下関係の同盟関係をもつ国の関係は非常にバランス感覚をとるのが大変です。
独立した一国としてのアイデンティティを守る事と安全保障のためには従順でなければならないという現実のはざまで、なんとかやりくりしなければならないからです。
中国の冊封体制のもとにいた韓国や琉球王国の外交官達の努力は涙なくては語れません。

 

テンペスト 第一巻 春雷 (角川文庫)

テンペスト 第一巻 春雷 (角川文庫)

 

 さて、我らが政次さんですがまだまだ後見人争いから降りる気はないようです。

「徳政令で農民達の心はつかめたかもしれないし代案も示せたが、それはあくまで井伊内部のことであって外の世界じゃ通用しないよ。」

といったところでしょうか。たしかに外の世界での外交キャリアは政次のほうに分があります。
嫌われている井伊家よりも動きやすさがある分こちらが有利といえるでしょう。

 

まずは政次がどんな策でもって直虎を攻略しようとしたかを見ていきます。

 


今川家からの呼び出しは直満・直親の例があるようにほぼ「死」を意味しています。
そこで政次は「後見からおりれば命だけは助かる。セカンドベストじゃないか。」
と評定の場と今川家への道中で二度も直虎へ提案します。
が、基本的に直虎がのむわけないのをみこしてのことなので、「とりあえず言ってみた。」って感じが強いです。
そこで虎松の生母であるしのに「直虎の後見を認めない」と一筆書いてもらいました。
これが政次の切り札となります。
たとえ、直虎が今川家に運よくたどり着いたとしてもこの一筆さえあれば、ひっくり返すことができる魔法のカードです。
しかもバックには今川家がついてるという。鬼に金棒状態とはまさにこの事。

 

さて直虎はこの小野・今川連合に対してどう対抗していくのか?
まずは、今回の直虎のミッションを整理します。

    • ①「今川家に無事にたどりつけ!!」
    • ②「徳政を行わなかったことを通させろ!」
    • ③「直虎が後見だと今川家に認めさせろ!」

     

     

という3点です。

 

は直之との衣装チェンジで政次を出し抜きました。(直虎があきらめる女子ではないと知っていながら、蛇でおびえる彼女をみてしまったものだから政次はぬかってしまった。)

 

 

法治国家である今川家に対してその法である「仮名目録」を使って対抗しました。ルールで誰かをしばるなら自分もまた縛られるので、今川サイドも筋が通らない無茶ぶりは出来ない。
ですが、ここで寿佳尼も負けてはいません。
すかさず「その法律古いよ。バージョンアップしてるからそっちに従おうね。だからさっさと徳政を行わんかい!!」と命じます。

 

 

ここでに繋がるのですが直虎はとっさに「徳政を行うということは、つまり私が後見でいいって事ですよね?」と返します。
なにこの理屈の殴り合い?法廷もののドラマをみているようでめっちゃ楽しいですね。

 

さてさて、ここで割り込んでくるのは政次くん。

上記にある魔法のカード「しのの一筆」を取り出します。
二人のやり取りを無効化できる最強のカードです。

なぜならどんなに直虎が机上で政治的手腕を発揮してもその正当性に支持がないとすれば、実行力があるかは疑わしいといっているようなものだからです。
すなわち後見とは認められません。
政次はそれを見据えて、ここぞというときにこのカードを切りました。

さすが小野外交官、やりますねぇ。

 

直虎もここまでか・・・と思われた時、巻物が届けられました。
瀬戸・祝田の百姓達の直虎後見の嘆願書です。

このシーンめっちゃくちゃいいんですよね。なにがいいって、直虎一人の能力だけではやっぱり今回は政次の策に抵抗できなかったんです。
それぐらいこのカードは強い。

 

 

Twitterでも書きましたが、「城主」直虎という「花」を咲かせるためには、「根」である民と「茎や葉」である家臣の支えが必要なんですよね。
彼女は今回そのことが身に沁みた事でしょう。

第三回「おとわ危機一髪」の回で蹴鞠勝負をしかけ成功しましたが、あれはあくまで大人の手のひらのうえで、おこったものでした。

自己完結した自己満足でとどいた小さくせまい世界のものです。そこに他者は存在しません。(それ自体は悪ではないし時にその思い込みで前に進める。)
だけど、直之をはじめ傑山達がどれだけ自分をささえているか、民の力はひとりひとりは小さくても確実に自分の力になっているか、それがわかったと思います。
直虎が戦っていく上で、自分の能力以外の他者の「見えへん力」がめぐりめぐって自分の力となっていくというのは、少女時代ではけっしてたどり着けなかった新たな大きくて広い世界です。

一人じゃ飛べない空もみんなとは飛べるってやつですね。

 

ここで対照的なのはやはり政次で、彼は一人で世界を背負ってしまっている人なのでどうしても自分の理論上の策にすがるしかない。
基本的に誰にも頼ることができず一人で生きていくしかなかった彼の限界が見えてしまいます。間違いでは決してないんですけど。
だけど彼のそうせざるをえなかったという生い立ちを考えると、それでも「井伊のために」という高潔さからくる行動はなかなかできるものではありません。


長くなりすぎて自分で書いててひいてますが、直虎と寿佳尼の対話にもどります。
ここのポイントは「なぜ寿佳尼は直虎を後見として認めたか?」です。

 

直虎自身で今川にたどりつく胆力を見せ、対等に渡りあったというのももちろんありますが宗主国のトップである寿佳尼の判断は以下の二点。

  • ①民意が直虎側にあること。
  • ②「民を潤す」という目的のために合理的判断ができる能力が直虎にはあると確信したため。

 

まず、について。
百姓達ってどうしてもいやだと思うと「逃散」してしまう力の持ち主達なんですよね。
だから、ここで無理に今川領にしてしまっても逃げ出してしまって意味がないんです。吸収合併したはいいものの、社員がストをおこしては元も子もありません。

 

について。
井伊はこれまでは「今川憎し」といいう動機で動いているところがありました。聡明な寿佳尼がそれに気付いてないとは思えません。
この従属国の宗主国に対するルサンチマンは根深いものです。
決して馬鹿にされるべきものではないと私は考えています。

 

だけど現時点での今川家に逆らうのは上策ではありません。
ただ、民意を背負った直虎は「民を潤す」という目的のための動き、それがひいては井伊や今川の「利」となるといっています。
これは民意に支持基盤がある直虎がいうからこその説得力があり、

支持者の声を一政治家である直虎は無視する事はできません。
これがもし「家」のためという個人的感傷だけなら信頼ができないんですよ。
家族を失うという悲しみや相手への憎しみを知っているからこそ(寿佳尼は息子・義元を戦場で亡くしていますよね)
簡単には直虎のいう事は信用できません。だっていままでどれだけ井伊の人が今川家によって葬られてきましたか?そこに寿佳尼は悪意はなくても自覚的でしょう。

今回の政治ゲームでは直虎は「情」という駒を動かさず合理的な「利」で盤上を制しました。
だからこそ「民のため」という目的が直虎にあるがゆえに、井伊を治めるぶんだけなら問題はない。(つまりそれを最優先に掲げるかぎり今川を裏切らない)
と政治的判断を寿佳尼は下した。
と私は考えています。(政治も歴史も明るくないのであくまで個人的推測ですが)

 

いやぁ、それにしても愛する人達を今川家によって大勢失ったというのに、直虎は意外とその辺あっさりとビジネスライクな対応ができますよね。
むしろ政次に対しては身内だとおもっているからこその愛憎があって感情の生生しさが出てしまいます。
お互いそこんとこ無自覚なのかなぁ?もし直虎が政次の事なんとも思ってなかったらあんなにも敵意をむき出しにはしませんよ。
期待してるから、好きだから相手が見えないというのは案外お互い様な二人です。

 

 

さてさて、今回の外交対決も直虎が勝ちました。まぁ政次は直虎に負けたのではない。「見えへん力」に負けたのだ。
ともいえますが、どうみても男装姿の直虎の雄姿に惚れなおした感があるので、二敗どころか三敗してるように見える政次でした。

(最終的にここが一番言いたかった。)

 

 

 

プロの矜持が救うもの。愛情や友情の絆からこぼれ落ちても。②~少年ハリウッド編~

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前回の記事で「愛情や友情の絆」からこぼれ落ちてしまった人達はどうすればいいのだろうか?
という問いに、「職業意識の高潔さが彼ら彼女らを救うんだ。」と私は結論づけました。
ただしこれはちゃんとした強い目的意識をもった組織人の話なので、もうちょっと身近で親しみやすいものを紹介したいと思います。


このブログでも一度書いた「少年ハリウッド」という作品です。


アイドル青春群像劇の名作アニメなんですが今回はここに出てくる「マッキー」こと甘木生馬と「キラ」こと佐伯希星という二人の少年に光をあてたいと思います。

 

マッキーは、高校中退したヤンキーで家庭にもなんらかの事情があって疎遠になっており、アイドルという仕事にも向いてないのでは?と悩んでいます。

つまり社会、家族、友人との「居場所」がまったくないというわけではないけど、かなり希薄で危うい状態にたたされている男の子。
このどこにも、誰ともつながってないという恐怖感は、ありふれたものであるがゆえに袋小路になってしまう問題です。
だってこんなこと話たって「誰もがそうだよ。あなただけが抱える悩みじゃないんだ。」って一蹴されてしまうから。

 

 

そしてもうひとりの少年であるキラは、帰れる家があり、そこそこお金持ちで世間で忘れられたとはいえ朝ドラの子役で一度は人気を博した少年です。
なのでマッキーよりもキャリアがあり舞台慣れはしてるし、家族という居場所があってお金があるという世間からみると恵まれた少年です。

 

TVアニメ 少年ハリウッド-HOLLY STAGE FOR 49-キャラクターソングCD(佐伯希星)

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この二人って学校で出会うと絶対に友達にならないタイプ、っていうかそもそも入る学校から違うくらい差があると思うんですよ。性格も基本的には合わない。
身分制度がないといってもこの資本主義社会においてあきらかにかなりの生活レベルの差もあって、アイドルという職業の場がなければ絶対に出会わない二人といっても過言ではないんです。
そのうえ、能力差まである。共通点もまるでない。だからこの時点で友情なんてないんです。だってあまりにも違いすぎるから。

この相互理解が難しい彼らがある日、喧嘩といっても一方的ですが起こります。
マッキーがとうとう「芸能界なんてむいてない。キラみたいに生まれつきむいてるやつがやるべき。お前には居場所があっていいよな。」
みたいなことをいっちゃうんですよね。居場所がないと感じているがゆえに。
そこからのキラの言い返しがこうです。

 

「だいたいマッキーって努力してないでしょ?」(キラ)

 

「俺だって、俺なりに。」(マッキー)

 

「違う。マッキーのは努力のうちに入らない。努力の手前でばたばたしてるだけなんだよ。努力をしない人間に生まれつき向いているなんて簡単な事いわれたくないよ。」(キラ)

 

「こどものころから死ぬほど努力してきたんだ。ねぇ?乳歯が抜けただけで入れ歯したことある?小学校の修学旅行もクラスで僕だけいけなかった。運動会もほとんど出たことがない。」(キラ)

 

「自転車もサッカーも禁止。怪我したらだめだから。全部仕事のためだよ。お腹壊してさ、お腹壊してロケに出る時本当に不安でさお母さんに万が一のためにおむつ用意してって自分からいう小学生の気持ちがわかるかよ?」(キラ)

 

「都合のいい時だけ天才天才ってもちあげて、なのにさ、子役じゃなくなった途端に、相手にされなくなる気持ちがおまえらにわかるかよ!居場所居場所って簡単にいうなよ。」(キラ)

 

「僕は居場所もなにもなんだかわからないうちに全部がはじまってたんだよ。だからそこで努力するしかなかったんだ。自分できめたことなんて一つもない。」(キラ)

 

「マッキーは学校もやめて、家を出て、そのうえここもやめて?そうやって自分の居場所を決めれるじゃないか?」(キラ)

 

「僕の居場所はね、ここにしかないんだよ。」(キラ)

 

「だから磨くだよ。自分を。たった一つの居場所だから。」(キラ)

少年ハリウッド6話「雨の日の居場所」

 


もうね、これほとんど逆切れなんです。「プロの矜持」なんてかっこのいいものではないんですよ。もはや芸能界に必死にしがみついてきた少年の叫び声。
けど、マッキーは衝撃うけちゃうんです。というか彼の人生観の転機といってもいい。キラはまったくそんなつもりはないだろうけど。

マッキーからすると宇宙人レベルで理解できないと思っていたキラが、自分と同じように「居場所」について悩んでおり、むしろそこを死守するために戦ってきた人だった
事実に心が動かされてしまうんですよね。

「キラはなにもかもを持っている。俺には何もないけど。」という「下から目線」をここでぶち壊されるわけです。
これって「誰もがそうだよ。あなただけが抱える悩みじゃないんだ。」って意味を一般論から諭すようにいってはマッキーに届かなかったでしょう。
キラ自身の人生をまるごとさらした言葉だからこそマッキーの内面深くまでささりました。
友情でも優しさでも愛情でもないけど、それでもプロとしてなんとかやってきた彼の矜持が、居場所のない少年の居場所づくりをした瞬間でした。

 

①の時にも「GUNSLINGER GIRL」の中で書きましたが、マッキーはここで他者と「同じ目線に立つ。」という体験をしました。
能力や家庭環境、性格の差、そんなものどうだっていいじゃないですか。そんな「差」なんてけし飛んでいくんです。
むしろ「差」を飛び越えていく力が「同じ目線で立つ」共感能力にはあるんです。

まさに

In solitude,where we are least alone.(孤独の中で、我、ひとりにあらず。)

 

ってやつなんですよね。

 

これ、書いてて気づいたんですが、「愛情と友情の絆」も「同じ目的意識を持つ組織の中の絆」も違いはあれど「一人にしない」という事で共通してるように感じました。

まぁ、この二つは重なりあっている時があって明確に分けることができませんが。

 

 

 

 

直虎VS政次 人の上に立つ資格があるのはどちらか?~おんな城主直虎14回~

おんな城主 直虎 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

Twitterのほうでは、「政次がね、政次は~、政次ったら」とほぼほぼ政次botになっている私ですが、この話をみる限り、彼はどうも官僚タイプの人間で上に立つ政治家タイプではないんですよね。ほんと「シン・ゴジラ」みたく霞が関あたりで勤め上げた方がよっぽど才能を開花させそうですよ。(中の人的に)

策を弄することや根回しはできるんですが、ひたすらそれに特化した能力なんですよね。

 

シン・ゴジラ

シン・ゴジラ

 

 で、一方の直虎のほうを見てみましょう。彼女の城主としての器は実は第6回で示されています。

あの「かびた饅頭」事件です。それまで直虎という女の子は亀のために、髪を自分でそってしまい出家をしてしまうほどの苛烈さと一途さをもっていました。
「家」や他人の意見なんて関係なく確固たる自分自身の意思でもってです。ここまでだとひたすらにミクロの世界のみで生きている恋する女の子なんですが
彼女は直親と結ばれる機会を井伊というマクロのために拒絶します。
ここでわたしは、直虎という人はすごいかもしれない。と思ったんですよね。

 

えっとですね、これがもし彼女が最初から「家」のために生きいているような人なら、この選択にそんなに感心はしなかったんですよ。

「そんな小さな初恋なんて家の大事に比べたら些細な事だからしゃーないじゃん。」と最初から思うような子なら。
だけど、これまで直虎はどんなちいさな事も誰かのためにと「竜宮小僧」として働きつづけ、家族や周りの人間を深く愛せる事ができる子でした。
そんな愛情深い彼女が亀との「二人だけの世界」とう甘美な世界に逃げこまない。

ロミオとジュリエット」になるという選択はないんです。

どれだけ、彼の手を取りたかったかがひしひしと伝わってくるにもかかわらず。

 

だけどここで俯瞰して十年・二十年先を見据えた策をちゃんとわかってるんですよ。
そんなマクロの現実をちゃんとわかっていながらも、ミクロの人の痛みに敏感であるという彼女のバランス感覚はなかなかありえることではなんです。

 

ロミオとジュリエット (新潮文庫)

ロミオとジュリエット (新潮文庫)

 

 そしてここまでの前提をもって今回の話を見てみましょう。

 

政令」を発布しない直虎に腹をたてた農民達との夜の田植えのシーンです。彼女は二段構成のプレゼンで彼らを説得にかかります。

 

 

まず最初に徳政令を出した場合と方久の策に乗った場合の二つのケースが引き起こされる長期的な結果を彼らに示しました。
確実に方久側にアドバンテージがあると匂わせながら。
その後、たたみかけるように方久の金に忠実な人間性について語り、そういう男ならこの件に関しては裏切らないというロジックを展開します。
上記までが一段目です。

 

そしてここからが二段目。
自ら田植えをして泥だらけになるという農民の立場もちゃんとわかってますというパフォーマンスを行いながら、
「私は、あなたたちと共に歩みたい。一緒にやってくれないだろうか?」
と低姿勢で上の立場であるにもお願いしました。

 

 

なんか私がこう書くと腹黒くみえてしまいますが、直虎はナチュラルにやってのけていて自覚はないでしょう。
このプレゼンのすごいところは、ちゃんと最初に農民にとっての客観的な現実をしめし、その次に彼らの心に寄り添っていった点です。
これはどちらもないとだめでした。一段目も二段目、両方セットだからこそ効果が出るものです。
彼らも無自覚で直虎の意図をちゃんと理解しかは怪しいですが、民衆というのは情や理想主義だけではなかなか動きません。

策だけで人を動かせても心まで動かすことができず、逆もまた然りです。
目の前にある現実をちゃんと見たうえで、それから夢をみせることがどれだけできることができるか?彼らの動機をどれだけ社会に対してうごかしていけるか?

 

これは、現在の世界の為政者達さえ四苦八苦するような難しい課題です。
直虎がなぜこれを自然体で出来るかというのは、幼いころから市井の人たちとふれあい、ミクロな彼らを愛することができる感性にあります。
そこに本来のマクロの現状把握能力が加わると「城主」という器が出来上がります。
そういうわけで、私は人の上に立つのは直虎のほうに分があるなぁと、思ってしまうんですよね。

 

直虎が政治家タイプなんで本来なら官僚タイプの政次とは相性がいいはずなんです。お互いが補完関係になるので。「井伊を守る」という課題を取り組む同志ならなおさら。

しかし今の捻じれた人間関係がドラマになっています。

 

 

 

けど直虎って本来、天真爛漫でまっすぐなもんだから普通のかわいい女性に見えてしまうんですよね。(そこがギャップとしていいんですが)
そういう立場になったからリーダーの資質が顕在化されたものの、普通はわかんなくてそこに政次の誤算があるように感じます。
「知っておる。昔から。」とか彼氏面したセリフをいってて個人的には最高だな!!と思ったんですが
彼女の器についてはわかってないように感じました。
いや、そもそも亀が「かびた饅頭」事件のあとに、「おとわはそなたのものにならぬぞ?」とか爆弾発言かましているひまがあったら、
なぜおとわが自分と結ばれるのを断ったかとか説明しとけば、少しは彼女の能力が伝わったのでは?とタラればしてしまいます。
まぁ、「美しい思い出」として自分だけの記憶にしたかったささやかな彼の抵抗のあらわれだとは思いますが。

 

 

あぁ、でも毎回かたいことをかいてるなぁ。もう、週刊「政次」にしてしまいたいけど、
高橋一生さんの演技から機微を読み取る「政次ソムリエ」や「政次一級鑑定士」の
Twitter住人のみなさんの分析をみて満足しちゃってる自分がいますね。ほんと、副音声で古舘伊知郎さんばりに
「おっと!!今、政次は目線を下げましたがどう意味でしょう?!!」
といったら
「そうですね。直虎の方を驚いて思わずみてしまいましたが、すぐに自分を律して下を向きました。」
みたいな実況ごっこやったら楽しいだろうなぁと妄想しています。