シェヘラザードの本棚

物語同士のコネクションを探して

新年のごあいさつにはおくれたけど、いだてんの感想を少々と去年触れた物語の雑記

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少し遅くなりましたがあけましておめでとうございます!!
というかもう寒中見舞いの時期になってしまいました。
ほんとは紅白がどうのこーのといだてん楽しみだね!というような事を書こうと思っていたんですが
もう放映した後なので、軽くいだてんの感想を書こうかなと思います。

<それはまるで聖火の灯のように>
第一話はテンポがよくて、ワクワクしてすごく面白かったです。
なにより心を打たれるものがありました。
何に打たれたと言えば嘉納の見る夢にです。
スポーツの楽しさを通して生まれる国を超えていく楽しさ、相手へのリスペクト、

それが平和につながっていくという彼の夢。
その夢に美しさを感じ、限りなく共感します。
と同時にそれは国などの外部環境で大きく左右されて
しまうし、もろく持続するのが難しく現実が立ちはだかるもの。

この時代だから難しいというわけではなく、現在進行形でこの夢の難しさを抱えています。スポーツだけではなく。

そして嘉納の夢は永井の「国を背負ったり競う事で消費される競技者」といつも隣り合わせ。
でもだからこそ嘉納のスポーツ本来の持つ力に対する夢は守っていかねばならないし、
絶やしてはいけないものではないでしょうか。
それはまるで聖火の灯のようです。
嘉納の個人の見る小さく暖かな夢は、国や大きな物の前では吹き飛んでしまうかもしれない。
だけどその灯を消さぬようにきっと誰かが繋いでいく、バトンのように、聖火のように。
この大河はその「継承」を見せてくれるかもしれない、そう思いました。
次が楽しみです。

 

いだてん 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド)

いだてん 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド)

 

 <やっぱり「関係性」が好き!>
さて、次は去年の物語についてなど。
やはり「半分、青い。」が大きくしめてましたね。
楡野鈴愛の生き様に感情がジェットコースターだったのも、もちろんのこと
彼女のソウルメイトである萩尾律の存在が良かったです。
物語の感想についてはもう当ブログで書いたので省略しますが
彼女達の関係性は改めて面白かったと思います。
主役の相手役の人生の重みが対等に感じられるのが、改めて好きなんだとこの作品で感じる事ができました。
これは「おんな城主直虎」の直虎と政次からも思ったんですけど、
二人の関係性の終結がどこに向かうか(恋人or友情)よりも、彼らが彼らでありさえすれば私はなんでもいいんだなぁと
発見できました。
けどどっち?どっち、どっち?と関係性の行く末に振り回されれること自体は好きなんですよね~。

 

 他作品では書籍化した「チーズ・イン・ザ・トラップ」を読み直すと、
ヒロインである雪と相手役の青田先輩の関係も面白かったです。
男性が主役でミステリアスなヒロインに振り回されるも、惹かれていく。
だけど本心に近づけないというのは見るんですよね。
だけど男女が逆で、男性側の心が見えにくいというのが私の中では珍しく新鮮でした。
この作品では、青田先輩が何を考えているのかわからなかったですね。
というか今もつかみ切れてるとは言い難いです。
ヒロインも疑心暗鬼で積極的に関わらないようにしてて、
私自身もむしろこの人やばいんじゃ?人の心がないのでは?と思いつつ、
ミステリー小説のように楽しめました。
ほんとこれを読むと相手の本当の姿を見つけ、そして見つけ続けることの難しさを感じさせられました。

 

チーズ・イン・ザ・トラップ(1)

チーズ・イン・ザ・トラップ(1)

 

 最後に去年のベストオブ好きな関係性と物語のご紹介。
「9-1-1:LA救命最前線」
消防士・救命オペレーター・警察官達の緊急通報から始まる、一話完結型のレスキュードラマなんですけど
これがほんとうに面白い。
物語自体が軽すぎず、重すぎずの最高のエンターテイメントでめちゃくちゃお薦めです。
全部いいんですけど、オペレーターのアビーと消防士のバックの関係性がほんと好きで、好きで。
ふらふらしていた男性ががほんとうに好きな女性と出会うとどうなるか?という王道展開なんですけど
これがまた、出会いから関係の変遷がほんとうにいいんですよー。
そもそもアビーが冷静で土壇場の度胸もある聡明な女性という私のドストライクな人間ってのもあるんですが。

相手の深い所に踏み込む時の怖さや、相手の生き方が自分の生き方を顧みる感じとかが、
本当に人生をシェアしている感じが出ててほんとによいなーと思いました。
まだシーズン1なので二人が果たしてどうなるのか?というのはわからないのですがシーズン2が楽しみです。

 

 

かつてアイドルだった君(運営)が創り出す夢~少年ハリウッド~

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*注意アニメ及び小説の少年ハリウッドのネタバレについて触れています。

少年ハリウッド完全版の上映記念!おめでとうございます!
ここに出てくるアイドル達の物語や魅力は様々な方が触れていると思われるので
今回は、元・アイドルで現・芸能事務所の社長である桜木広司さんについてあーだこーだいっていこうと思います。

 

 

<アイドルPに求められるものとは?>
アイドルをプロデュースするにあたって必要であって欲しい三つの人格があります。
一つ目はビジネスマン、二つ目は芸術家、そして教育者の人格。
もちろん大きな組織であれば一人の人間すべてが背負うものではなく分担されるものです。
ですが少ハリを擁するノエルジャパンエージェンシーはまだまだ小さな会社。

桜木広司社長の裁量権は大きく彼の考えが、ダイレクトにアイドル及び彼らの活動に影響を与えているでしょう。
そこで、桜木広司を上記に最初にあげたあげたプロデューサーに必要な人格をあくまで個人的にみてみると下記のようになります。

 

<ビジネスマン>
営業をかけたり企画(街中握手会)を立てたりと、
初期段階は少しずつはファンを増やしてたけど頭打ちになり停滞化。
実質的にかつての仲間であり現在は芸能プロダクションの経営者である早水海馬の支援がはいるので得意ではない。

<芸術家>
芸術の分野に答えなんてないけれど、自分の中では100点満点。

<教育者>
マネージャーであるテッシーと分担しているとこはありますが、アイドルを叱るべきところは叱り
そして一人一人をちゃんとみてるうえに、観察力が抜群。
彼らの本質を見抜き彼らにこれから何が必要であるのか?というのがわかっています。

 

 

<アイドルとプロデューサーの関係性>
で、この上記三つのバランスを保ちつつ大きくなるのが一番だけれどなかなかうまくはいかない。
彼の場合<ビジネスマン>の点が他二点より劣っています。
それはおそらく彼がロマンチストな人間である事も一つの起因してると思われます。

16話の握手回をお話にあらわれており、
「必然的にすることができる握手会での握手よりも、道端でばったりできる握手の方がよくないか?」
という考えで握手会をすることを渋っていました。

握手会の是非はここで置いとくとしても、やったほうが売り上げに結び付くのは事実。
だけどそのロマンチスト性は彼の芸術を結びついており、そこが愛すべき所でもあるんですよね。
そして彼の芸術家としての在り方の尊い所は、アイドル達が自分の芸術の駒になることをよしとしないところにあります。
(ここが言いたかった。前提が長い笑)

 

 

アイドルの「produce」は一歩間違えればというか自分の理想を創造するための道具になりかねない危うさと隣り合わせです。
これを回避するには、アイドルとプロデューサーが対等に夢を追いかけていける同志、または同じ夢の共犯者になる必要があります。
かといって最初から何もわからない、覚悟もない子供達にそれを求める事はできないので、彼は忍耐強くアイドル達を導いてきました。
それが結実するのが24話。
少年ハリウッドには「シャチョウのいう事がぜったい。」というものがありますが、
これはもう、いつかそれを超えて欲しいので彼は言っているんですよ。
劇場立てこもり事件は自分達がアイドルを「やらされている」ものではなく「なっていくもの」だと決断するお話になっており、彼らは自分達の意思でアイドルとしての行動がとれるようになっていました。

 

 

<本当に大切な者を守るために>
ではなぜ桜木広司がそのようなアイドル達に育て上げたいのかと言えば、彼がアイドルをやめる決断をした時の事が大きいと推測します。
当時社長であった人物が事故死する事で、少年ハリウッドは解散しなければならなかった。
それを決めたのは彼らの意思であるとはいえ、出来る事なら続けたかったと思います。。
なぜそれができなかったといえば「少年ハリウッド」が彼ら自身の夢ではなく「社長」の夢の延長にあるものだったから。
だからこそ今の新生少年ハリウッド達には自分達の力で輝ける強さを持って欲しかったのではないかと。
「社長」は永遠にいつでも「アイドル」を守ってやることはできない、それを身にしみている彼は、例え自分がいなくなったとしても少年ハリウッドが生き残れるようにしたかったのでしょう。
そのやり方はすごく不器用で、厳しい芸能界では技術はもちろんビジネス面では少し弱くなるし足りない所がある。

けれども心の在り様として私は彼のそういうところを愛してやまない。ものすごくロマンチストな考えではありますが。
だけど愛する者や物を自分がいなくても生きていける強さを、その人や物の中に宿す手伝いをするということが
ほんとの意味で守るという事の一つではないかと思います。

 

 

<エゴが世界を包み込む>
だけどその彼の在り様は別に「いい人」だからいうわけではありません。
むしろ少年ハリウッドに対するものは深く重く、危うげなものでもあります。
(別に描写があるわけではないですけど彼は少ハリのためなら死ねるな、と感じますね。)
ただ、桜木広司のエゴである「少年ハリウッド」を永遠のものにしたいという目的を達するためには、
結果的に彼らのアイドルとしての「自主性」を芽生えさせなければならなかったんですよね。
それがよくあらわれているのが
「誰かの 何かために存在するエゴイスティックな気持ちってね、極めると世界のすべてを愛すってとこにまでたどり着くんですよ。」
という彼のセリフだなと思います。

 

 

少年ハリウッドの未来>
完全に妄想なんですけどこれから少ハリが大きくなっていく段階で、組織が肥大すると
どうしても社長やアイドル達の意思ではどうにもできないことが起きうるし、
細部まで行き届かなくなっていったりするのかぁと考えたりもします。
今は小さな組織だから社長のディレクションが伝わりやすいですけれども。
もしかしたら彼らを守るため、大きくするために分裂することがおきるかもしれない。
例えば桜木社長と早水海馬の考え方がずれていくとか。
その辺も三期があるのであれば見たいところ。
だけど早水さんは桜木社長のこと、好きすぎるのでないかなぁ。
仲間同士だからこそ対立するときはドラマ性あるけどうーん、どうだろう?
この辺は好き勝手に妄想するだけ楽しいです。

 

 

<素の自分と期待される自分>
アイドルがアイドルになる自主的な意思について散々語ったんですけど
この物語では同時に誰かに期待される自分になり続けることを肯定しているんですよね。
個人的には私はその二つのバランスがとれており、時として溶け合っている状態がベストであるんだろうなと思います。

青い自分で人生を乗り回す、またはロードローラー鈴愛~半分、青い。~

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大河を見てた時にも思ったのですが、長期間にわたる物語が完結する時は言葉に出来ない気持ちがこみあげてきます。
平日、毎日15分ずつという視聴習慣は確実に自身の「生活のメロディ」になっていたと思います。

 

アイデア

アイデア

 

 <お隣さんちの鈴愛ちゃん>
この作品は私にとって不思議な物語体験でして、普段はどちらかというと物語へのスタンスは距離があるんですよね。
箱庭を覗くように物語を普段は見ていてワンクッションあるかんじ。

 

だけど「半分、青い。」はそんな私の視線をぐっと鈴愛が生きている世界に引きずり込んでました。
この世界の登場人物に対する好悪や揺さぶられる感情は、まさにリアルに自分が接している人達への感情と近い所があったんですよね。

 

だからでしょうか、いつも誰かの友人の話を聞いているような気持ちでいました。
まるで鈴愛や律達を見守るご近所さんのように。
それは鈴愛だけではなく時として、より子や清さんに至るまで。
彼らの友人だったら自分はどんな感情を抱くのだろう?と想像しながら見るのがとても楽しかったです。
(ちなみに清さんのつかず離れずのサークル仲間として律への惚気と愚痴を聞く、というわけわからない妄想をしていた)
そういうふうに「半分、青い。」の世界に住まわせてもらった事は、ほんとうにありがたい経験になりました。

<ぐるぐる定規のように広がる関係性>
上記で友達のように「半分、青い。」の世界に生きたといいましたが、
やはり主人公である鈴愛に寄り添う事が多かったので、律がなにも言わずに結婚した時はびっくりしました。
律がアメリカに旅立ったあとにより子さんと離婚した時も。
伏線がないとか多分言われる事もあるかと思われますが、私はすんなりすとんと腑に落ちたんですよね。
なんというか理屈ではなく皮膚感覚として納得したというか。
というのも実際に実生活では、距離が遠くなった相手と久しぶりに会うと、

親しい相手や近い親せきだとしても
「実はうちの親、ガンで入院してたんだよね?」「実は離婚してさ。」

と後から聞かられるケースが多くて。
(それはあなたの人望がないのでは?というツッコミはおいといて。)
自分自身の場合でも大人になり、相手と関わる時間が減ればどうしても「相手も忙しいし、自分の事を相談するのもあれだよな。」
と思って改めて言う機会も減ってしまう。

 

それの良し悪しは多分、それこそ半分・半分なのでしょう。
自分で乗り超える意思や力があるということでもあり、その頼らなさはもしかしたら誰かを寂しくさせてるかもしれない、そしていざというときに「助けて。」と言えない事に繋がる可能性もあります。

 

 

そんないくら親しい相手だとしても「知らない事もある。」という事はこの作品の中でもずっとあったように思われます。
鈴愛と律はソウルメイトでありベターハーフと呼ばれるものだとしても、相手の事をすべてを知っているわけでも立ち入れるわけでもなくて。
唯一性の宿る関係性というのは彼ら二人だけのものではなく、例えば鈴愛は裕子や涼ちゃんとも築いておりまるでぐるぐる定規の模様のように広がっていく。
他にもそれはあって鈴愛と三オバ達、かんちゃんと律などもいっぱいありました。
そういう関係性の広がりがとても心地よいものでした。

 

 <永遠などないし、何者でもないけど。>
鈴愛の人生はどこにでもあるような、それでいて波乱万丈なものです。
立身出世系、いまここにある日常を愛する系、夫を支える系のどれにもあてはまらず、そしてあてはまったヒロインでした。

 

今考えると、上記のどんな時にも彼女の中には「幸せになりたい。」というごくごく当たり前な欲望があったように思います。
それは細分化されれば「有名になりたい。」「おいしいものを食べたい。」「金が欲しい。」といったもので
「夢」と言うには俗っぽすぎるのでは?と思ってしまう感情。
鈴愛は自分にあるそんな感情を真正面に受け続け、そして彼女がそんな人生を手放して雑に扱ったことを一度もなかった。
その彼女の有り様は時にかっこ悪くて誰かを傷つけた。
だけどそんな自分の欲望を肯定し続けた彼女が最終的に

誰かにそよかぜを届ける扇風機を届ける、という終わりを迎えた事がすごく嬉しかったです。

 

これまで何者にもおさまらなかった鈴愛の人生ははきっとこれからも変わりつづけていくことでしょう。
もしかしたら立ち上げた会社も潰れてしまうしまうかもしれない、律とだってどうなるかはわからない。
永遠の夢も関係性も幻かもしれない。
だけどそれでいいと思います。
楡野鈴愛はどこにいても何をしていても楡野鈴愛でありつづけるのだから。

 

<追記>

上記で「伏線がないとか多分言われる事もあるかと思われますが」と書いてますが

この作品を通してのいろんな伏線自体はありまくりですね。

 

 

 

 

 

井伊直虎と三澄ミコトの二人のヒーロー性についてのショートメモ~おんな城主直虎・アンナチュラル~

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おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

連続で視聴したからなのか、この二人の共通性があるような気がしてちょっとここに書いておきたいと思います。(いまさらながら!)
といっても記憶があいあまいなとこがあったり、考えがまとまってなく、非常にふわふわしたものとなりますので暖かな目で読んでください。
まぁ、短いし記憶の確かな直虎の分量が自然と多くなっちゃいますが。

 

 

<半径三メートル以内のヒーロー>
ミコトは家族の心中によって、直虎は戦争により自分が「生き残った」という体験をしているんですよね。
そしてその事が彼女達のヒーロー性の根本にあり、歩む道の方向性決定づけている。

 

けどヒーローといっても彼女達は私にとってあまり遠い存在に感じられないんですよ。
普段はヒーローって個人的には手の届かない選ばれた存在で、いつもは星を見るような気持になるんですが。
(ある意味それは「自分とは関係のない話」であるという突き放した見方でもあります。)
身近に感じる理由の一つに、彼女達の動機や目的が「世界を救いたい」とかいうめちゃくちゃ大きい動機があるわけではなく、
自分の目の届く範囲の人達に向けられている身近なヒーロー性に基づいているというのもあるとは思います。

 

 

直虎は「国を守る」という大きな課題がありましたが、彼女の仕事ぶりを振りかえってみるとものすごく小さなことをこつこつこつやってきました。
政令では農民達との対立をなんとかしたり、綿花栽培に着手したのはいいものの、人手が足りずにどうしようか?
人買いでもする?なんて話もありました。
エピソードとしてはとても地味です。
「どうすれば戦を終わらせることが出来る?」という俯瞰的な見方は後半の方にやっとでてきました。
しかしそこにたどり着くには、あくまで今まで積み重ねてきた地味なエピソードの上にあるんですよね。
直虎は別に百年先を見通せるような天才な戦略家でも政治家でもありません。
だけど命を奪い合わなければ生きてけない暗闇の中にいるような世の中で、正解の道がわからずとも己の中にある明かりを頼りに前に進んでいく。
話のなかにも出てきた「自灯明」といううやつです。

 

 

そんな暗闇を歩くような所はミコトにも当てはまります。
検死という仕事を通して死者と向き合っていくという事を、これまでも彼女はやり続け、これからも続けていく。
死という深淵を見続けるような作業を地道に、そして真摯に取り組んでいます。
彼女も直虎と同じように心に「自灯明」を抱えながら進んでいきますが、けして一人ではありません。
己の足元を照らしていた光は、同じように共に歩く人達を照らして、前に進む動力になっています。
その光はミコトだけではなく家族や中堂達UDIラボのメンバーの一人一人が集まったものです。
基本的には自分の足元をだけを照らしていたものが、気が付くとお互いの足元を照らし合って、思わぬ景色にたどり着ける。
直虎も同じように政次達がいましたね。


ミコトや直虎のその在り方は決して遠いものではないと思います。
才能のあるなしに関係なく、暗闇を一緒に並走する感覚がありました。
けして星を見上げるようなものではなく。

そんな二人のヒーローに続けて出会えて良かったです。

<余談①>
といっても星を見上げるようなヒーローは好きなんですよね。

<余談②>
アンナチュラルはシーズン2が望まれていると思いますが、もし続くのであれば
彼女達の世界の「警察」「病院」とか色んな職場が舞台のドラマになっても良いなと思います。スピンオフ的なやつで。
アメドラの「シカゴ・シリーズ」のように。
たまにクロスオーバーしたりしてね。

 

 

 

 

 

 <余談③>
あとは直虎とミコトの共通点としては、なんというか健康的?というか地に足のついたヒーロー感あるんですよね。
この感覚は自分でもいまだによくわかんないんですけど。
直虎は「狂うてもおらねば己の手を汚す事が愉快なものなどいない」と、リーダーの厳しさを言ってましたが狂ってはいませんでしたし
ミコトは絶対にそういうあっち側におちてたまるかと踏ん張って生きてきた人という印象を受けるというか。
これなんなんでしょうね(もう、煮詰まってきたので他人まかせ)

 

 

 

 

家族の中の境界線を抱きしめて~歩いても 歩いても~

歩いても 歩いても [Blu-ray]

 

是枝監督の「万引き家族」がカンヌ国際映画祭にてパルムドールを受賞しました。

好きな監督さんなので本当に嬉しいです。

という事で今回、数ある監督の作品からお気に入りの映画である「歩いても 歩いても」についての感想をさらっと短めに書いていきたいと思います。

 

<ある家族の風景にお邪魔する>

内容を簡単にいうと季節は夏、失業中の横山良多が15年前に亡くなった兄の命日に実家を家族を連れて訪れるというものです。

基本的には良多家族が姉夫婦家族や両親と過ごす二日間が大半を占めています。

 

事件が何も起きずに過ぎていきますが、この二日間がめちゃくちゃいい。

物語というもの自体に誰かの人生や世界をシェアする醍醐味があると思いますが

本当に誰かの実家への帰省に一緒にお邪魔してるような感覚を味わってるような気がしてきます。

最初はその家族についてよくわからなくても、会話の節々や雰囲気からからなんとなく

その家族の力関係、人となり、雰囲気、積み上げてきた歴史が少しずつ浮かびあがってくるんですよね。

 

それは良太の母であるとし子が作るとうもろこしの天ぷらだったり、良多が幼いころ、成りたかった夢の作文の中に。

ほんのちょっとしたものが、家族の歴史でありその人自身を作り上げていく。

 

 

その中でも亡くなった横山家の長男の順平がそこにいないにも関わらず、家族の中で今もなお、強烈に存在しています。

その事が家族に落とす影と書くと、暗そうな雰囲気になりますがそんな感じでなく、むしろ淡々と、家族の死という受け入れざる事を誰もが受け入れて生きている。

だけどちょっとした瞬間に、それに対する想いや情念、そして「業」があふれ出てしまう。

良多は兄へのコンプレックスを持ち、父親の恭平は息子の喪失に悲しみを抱えても、うまく表現できずない。母親のとし子は痛いほどの怒りの炎を内面に灯し続けている。

そんな家族の雰囲気が悪くなると懸命におちゃらけた雰囲気で場を持ちなおそうとする姉のちなみ。

 

 

 

この中でもっとも順平の存在が残り続けているのがとし子で、彼女の子供を亡くしたという情念のようなものは強烈で、その場にいたらその想いに引っ張られるかもしれない。

とし子のその想いに、夫である恭平は寄りそえず、息子である良多は何もできません。

何もできなけど、私はその何もできない諦念の中に少しだけ明るいものを感じます。

というのも、とし子のこの情念にある意味、恭平は巻き込まれずにすんでいるからです。

この事を本気で解決しようとすれば莫大なエネルギー量と長時間に渡る忍耐力が必要で

、どうかするとその人の感情に逆にのまれてしまう。

だけどもう大人で自分の家族を持つ良多は、母親への感情の境界線を越えてまで踏み込んでいこうとは思わないのかもしれない。

 

だけど彼女の怒りや悲しみという心の有り様自体を変えれないとしても、ただそれを「知っている」家族がいる事自体が、彼女を狂気の向こう側に行かせない枷の一つになっているように思うのです。

 

 

そんな母親との間にはっきり境界線がある良多ですが、その境界線はけして彼らだけではありません。

家族の中で他にも多く引かれています。

義理の家族と身内に見せる顔がまるで違ったり、実の親にも話せない事があったり、子ども同士だけの世界があったり、それこそ誰にも話さない秘めた気持ちがあります。ほんとうに様々な境界線がそこにはある。

分かち合う事も家族ですが、分かち合えない事を抱きしめながら、共に歩き続けるのが家族なのではないでしょうか。

 

そしてそれは、この映画で出てくる海と空のよう。

二つは水平線を境に凄く近い所にあるように見えるのに、本当は果てしない空間が広ががり、海の底には深い悲しみがあるというのに、晴れた日には穏やかに輝いた姿を見せてくれる。

家族というものはそんな関係性の中にあるのかもしれない。

そんな事を感じた作品でした。

 

<余談>

なんとなくだけど海街dialyに近いとこをありますよね。

うまくはいえないんですけど。

 

 

 

 

 

 

 

源氏物語に異世界トリップした俺は悪役女御の元で陰陽師になったんだが~十二単衣を着た悪魔~

十二単衣を着た悪魔 源氏物語異聞 (幻冬舎文庫)

59もの会社から内定が出ぬまま大学を卒業した二流男の伊藤雷。

それに比べ、弟は頭脳も容姿も超一流。ある日突然、『源氏物語』の世界にトリップしてしまった雷は、皇妃・弘徽殿女御と息子の一宮に出会う。

一宮の弟こそが、全てが超一流の光源氏

雷は一宮に自分を重ね、光源氏を敵視する弘徽殿女御と手を組み暗躍を始めるが……。

エンタメ超大作! ! 

amazon内容紹介より

 

 <悪役から見た世界への眼差し>
十二単衣を着た悪魔」というタイトルは映画「プラダを着た悪魔」からとっているようです。
が、読んでみるとどちらと、いうとweb小説でよくみかける異世界トリップの印象が強い小説でした。
もちろん映画のように厳しい女性上司のもとで働くという点では同じですが。
この小説の中の女性上司の名は弘徽殿女御。
彼女は帝の寵愛を桐壺更衣に奪われたことで、その息子である光源氏を憎むようになる、
というのが源氏物語における彼女の悪役としての役割でした。
悪役から物語の世界を見つめなおす、というパターンは、実はその悪役の性格は悪くないというのが多い気がしますが
この弘徽殿女御は一言でいえば「傲慢」。
弱小一族の悲願を背負って後宮に入った桐壺更衣を
「親も娘も何も能力もないのに、色と運だけでのしあがろうとする品のなさ、大嫌い。」
と一刀両断。実家の強いバックアップを受けられる弘徽殿女御と弱小の桐壺更衣ではまずスタートラインが違う。
それはちょっと強者の眼差しが強すぎるがする。
だけどその傲慢ともいえる上から目線には、彼女の裏打ちされてきたこれまでの経験と能力、自身の在り方が反映されています。
だからこそ同じように上から目線で世界を眺めているが中身のない主人公の雷が、彼女のような「本物」と出会う事でどんどん変化してくんですよね。

 

 

 

悪役令嬢後宮物語 (アリアンローズ)

悪役令嬢後宮物語 (アリアンローズ)

 

 <彼女は高潔か?それとも傲慢か?>
この弘徽殿女御についても少し深く突っ込んでいきたいと思います。
彼女は左大臣の娘という強い後ろ盾がある環境に、自分が恵まれているなんてこれっぽっちもおそらく思っていません。
もちろん上には上の立場や責任がある、いわゆるノブレス・オブリージュを果たさなければならないので、それは恵まれているといえるのか?という議論は存在します。
桐壺更衣も社会全体をみればも支配階級の人間ではあるので、その責任を果たす義務は生まれます。


だけど上記のような貴族の義務として弘徽殿女御は、桐壺更衣を告発してるというよりも、根本的に彼女には自信があるからでしょう。
どんな環境にいようと、どんな立場にいようと、決して自分は揺らぎはしないという確かなものが自分の心にある事を。
悪女といわれても結構。その在り方にこそ彼女は誇りを持っている。


だから桐壺更衣を憐れむことなんて絶対にしない。それは、もしかしたらありえた自分への憐れみと同じことだから。
自分を憐れむなど、彼女にとっては唾棄すべきことだったでしょうから。
だけどその鮮烈にて強烈な生き方についていけない人や傷つく人いた事もいたとは思います。

この自分一人でも生きていけるという高潔さと傲慢さは、後宮での彼女を孤高にしました。愛すべき優秀で善良な息子がいたとしても。
そして彼女の孤高さは、誰も同じ目線で世界を見ず同じ立場に立つ人間がいない事でもあります。

 

 

が実は、それに限りなく近い男性が二人います。
一人は主人公の雷。そしてもう一人は実は帝。
先に帝の事から言いますと、彼は実は能力、器という点でおそらく弘徽殿女御と同レベルと思われます。
だけど彼女に心を寄せることはできず、政治的な必要悪として受け入れざるをえないという状況です。
反対に、雷は彼女に共感することができますが能力、器においてこの二人に追いついてないんですよね。
この(雷-弘徽殿女御-帝)に似た構造をもつ関係性があるのでは?と推測されるのがあって
それが実は(弘徽殿女御-帝-桐壺更衣)なんですよね。
もしかしたら帝にとって政治的好敵手であるのが弘徽殿女御であり、帝の等身大の自分をさらけだして付き合えたのが桐壺更衣ではなかったのか?
と考えます。


雷が弘徽殿女御と同じ立場に立ててないといいましたが、たった一度、彼らの目線が同じになる機会があります。
雷がこの世界の毒をくらい自ら悪をなしていこうと決断するシーンがあり、その罪の共有によって、
弘徽殿女御は雷の事を「悪い男」だと評します。
源氏物語を読んでいるおかげで、預言者のごとくふるまえるチート能力がある彼は、その世界の「傍観者」でしかありませんでした。
だけど、この瞬間にまさしく「当事者」となったのです。
悪女の自分と並び立つ、悪い男であるという彼女の評価は、紛れもなく称賛でしょう。


<宮廷政治劇の匂い>
弘徽殿女御の帝が自分を嫌うのは個人的好悪だけではなく、外戚政治から脱却して、天皇自ら「親政」をめざしているからでは?
との推測します。
それに、雷が帝が身分の低い桐壺更衣との恋に溺れていただけではなく、彼女を寵愛することで自らの「親政」の道具の一つかもしれない、
と返答するシーンは興味深かったです。
このような政治サイドからみる源氏物語をドラマとして描ければ、帝の政治家としての政策および平安時代とはどのような時代だったのか?という理解が深まるかもしれません。


<余談>
雷が現代社会と若者達への批判がありますが、それがちょっと痛い。
一度か二度ならいいのですが何度も入るので、ドラマの下手なコマーシャルみたいに、読んでるとノイズになってしまいます。
彼の上から目線の描写であるともいえますが、それなら平安時代の人たちの言葉遣いや所作を上げて現代を下げずに、受け取り方をこちらを信用してまかせて欲しかったと思います。

 

 

伽藍堂の王子様。愛すべき井伊直親~おんな城主直虎~

 

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注意 直親への妄想が爆発してます!

いまやスケコマシと名高い直親ですが、この物語の中で、自分から遠い場所で幸せになって欲しい男ナンバーワンが彼でした。
己の顔面偏差値の高さを無意識レベルで活用してるとこ、嫌いじゃない、むしろ好き。
だけどそれはやっぱり物語の中の自分とは関係のない世界でいてくれるからであって、近くにいたら厄介に感じるんだろうなぁと。
しかも厄介だなぁと感じつつも次第に情が出てきて、ずぶずぶと関係が続いていきそうなこがまた厄介そうで。

 

 

でも、直親がなぜ「スケコマシ」になったとかといえばtwitterでも書きましたが、彼自身が「愛され直親」を演じようとしてたからだと思うんですよね。
井伊の良きプリンスを周囲が望むから、そういう自分を作り出す。人当たりの良さや誰にも愛され、波風を立てないようにふるまう事が彼の生存戦略
逃亡生活がさらにそれに拍車をかけており、その場で誰の敵にもならないようにプリンス・スマイルを振りまきながら過ごしてきたのではないでしょうか?
いい子でいるから、いい人でいる事が、ここにいてもいいんだ、許されるんだと思ってた子供がそのまま大人になった。
誰にでも誠実であろうとするから結果、不誠実に見える。むしろ誠実とはなんなんだ!?(哲学)
と考えさせるのが直親でした。

 

<直親の原風景>

そんな彼の萌芽は幼少期にあって、武家社会において体が弱くて得意な事は笛しかないと感じている顔の綺麗な直親は、きっとコンプレックスを抱えていた。
しかもそばには、男勝りで元気に動き回るおとわと聡明な鶴丸
おとわはもし自分が男ならばと思ったこともありましょうが、直親は俺はただ性別が男ってだけじゃないか?性別が逆ならおとわの方が当主としてはふさわしいはずだ。
と悩み、
鶴丸には、俺はたままたま井伊家に生まれたってだけじゃないか?鶴のほうが頭がいいじゃないか?
との想いを抱えていた。

 

 

そんなことを第1回、父の直盛が亡くなり、山中でのおとわとのシーンで精神的に追い詰められた直親が吐露していました。
自分は出来損ないであると。
だけどそこはさすがおとわちゃん!主人公!
誰よりも笛が上手くて、笑顔が良くて、負けん気が強くて、人につらさを見せない!いい男じゃん!ダメな時は、私が亀の手足になるし!
と涙を流しながら断言します。
この力強さ、こんな子が近くにいてくれたら一瞬で恋におちますよ。
私がおとわなら「え?出来損ない?顔がいいから気にすんなって!?」とてんぱって言ってしまい、フラグも心もバッキバキにおってるとこです。

 

で、それだけ強い全肯定の言葉をもらった直親が、身を隠している生活の中でユキ(高瀬の母)とちゃっかりいい仲になってる。
これはでも、仕方ないなと私は思うとこがあって。
というのも鶴丸の存在が大きい。もし鶴がおとわの側にいない状況なら、誰とも関係を持たずに待っていた可能性が高かったのでは?と思うんですよね。
だけど、聡明な鶴と行動力のあるおとわ、誰よりも認めている二人がくっつくって、状況的にもめちゃくちゃありじゃないですか?
幼いころも、鶴丸は堂々とおとわを諫める事ができて、おとわも負けじと言い返す。
はたから見ればすごく、対等にみえて、そして自分はその中に入ってないのではという疎外感を感じてたと思うんですよ。
実際に後におとわと鶴丸は最強じゃなくとも至高のコンビとなっていくので彼には先見性があった。
そう考えると誰よりもこの二人の特性をいちはやく見抜き、認めていたのは実は直親なんですよね。
自身のなにもなさに悩むがゆえに、幼馴染たちのそれに敏感になれた。

そしておそらく鶴丸から見れば下記にあるように、小野家の自分と井伊家の二人という括りで見てたかもしれませんが

鶴丸→(おとわ

直親から見れば

→(おとわ鶴丸
という構図が頭にあったのではと思われます。

 

 

だからこそ「おとわは待っていてくれるかもしれないけど、俺がおとわなら鶴丸と結婚するよ。だって鶴丸かっこいいし…」と思いながら
誰よりも鶴丸肯定論者の直親は思春期を、戻れぬかもしれぬ逃亡の日々を過ごさなければなかった。
もうここは、思春期の妄想爆発で、美少女から美女として成長したおとわとインテリイケメンに成長した鶴がくっつくかも!と悶々としたこと間違いなしですよ。
そんな彼が初恋のおとわに似てるかもしれない(南渓和尚・談)ユキを好きになっても仕方ないではないですか?

もう私は
直親がユキに
「ユキっていい名前だな。雪は溶けて水になり、山や田畑を潤す。そして春になる。暖かな名だ。」
とかナチュラルジゴロをかましてても許せますよ。
いや、これ全部私の妄想なんですけど。
(そういやユキ(雪)も高瀬もどこか水に関わる名前で、竜宮小僧を連想させますね。)

<負けず嫌いな直親>
自分には何もないといってましたが、実はおとわのいうように、負けず嫌いな直親。
幼いころはあまりピンときませんでしたが成長して、もどってきた時にそれを感じられるシーンがありました。
第6話「初恋の分かれ道」での「いくら待とうとおとわはそなたのものにならぬぞ。」発言。
これ、文脈的にはおとわは直親の隠れた妻になることよりもかびた饅頭なり、竜宮小僧として生きていく。
彼女は、井伊谷と結婚したような女だから、俺やお前、他の誰のもにもならないよ、
と言いたいのでしょうが、自分がおとわに断られた事をいわないものだから、ただ単に牽制や嫌味のようにしか聞こえないんですよね。
鶴丸からすれば、そんなこといわれんでもおとわが自分のものになんことくらいわかっとるわ!という感じだった事でしょう。
だけど、直親のほうはというと嫌味ではなく半分はこれで俺とお前は「わーい!俺ら、おとわが手に入らなかったフレンズだね!」みたいなノリがあったのではないでしょうか。
でも半分くらいはやっぱり悔しいし、鶴に「ふられちゃったよー。」なんて泣き言は、いいたくない。家臣ではあるし、親友だけど恋のライバルだし。
おとわのいうように、つらい時につらいといえない。
その辺はやっぱりプライドが高く孤高な王子様なんですよね。

<甘える直親>
そして問題の第七話「検地がやってきた」
この回に関してはホントは一つ記事side政次side直親で書かなきゃならないくらいなんですが
ここでは長くなるので省略します。

で、検分役の岩松から隠し里について追及された時に、直親が政次に丸投げした場面ですが
ここは酷いなこいつ…。という感情よりまず先に「政次に甘えてるな。」弟が兄に甘えてるように。
と思いました。

前述したように、直親にとって政次への評価がめちゃくちゃ高い。
だからこそ、政次がなんとかしてくれるもん!精神が出たんだろうなと思います。
この後に政次が「信じなくてもいいけど信じるフリなんかするな!」
っていってますが、ここはむしろガチで信じてたんだと思います。
だけどこの「信じる」って危うい一面があり、それに身を委ねるというのはある種の甘美さをもってるんですよね。
「信じる」って行為は美しく見えるじゃないですか?だけどそれは自分で考える事の放棄という一面もあり、無責任さも気を付けないと伴う。
多くの民の命を預かる当主ならそれは致命的。

 

この件を第33話「嫌われ政次の一生」の時に、政次はなつに語ってました。
ほんと直親はひどかったよね。だけどそれでなつが笑ってくれるならまぁ、いっか、と。
これはつらい経験も笑い話になって良かったというのもありますが、直親と直虎の対比でもあるようでした。
直虎は政次を信じて良いのか?という描写が差し込まれてます。
ここまで一緒にやってきた政次を信じられない彼女の是非もあるとは思いますが、
相手の起こしたアクションの結果、起こった出来事の責任を共に背負うというのが私の中では大きく、
それってやはり「伴侶」なんですよね。

 

なんか話が直親からずれていったので、戻しますと検地回で直親が
「共におとわのために頑張ろうよ。」みたいなこと言い出した時は
やはりフラれた仲間同士がんばっていこうよみたいなノリが彼の根底にあるんだろうなと思いました。

<それでも、好きだよ。>
ここまで好き勝手書いてきましたが、やっぱり彼が好きなんですよね。(厄介だけど)
第一話でおとわと鶴が言い合いを始めると笛をふいて止めようとした直親。
自信がなくて自分には何もないんだ、と思っている男の子が「それでも自分にできる事」をやろうとする。
それはやっぱり、ささやかながらも勇気であり、やさしさがあるからできる事。
不確定で不安な未来に身を投じられるとこは、失敗したとはいえ、今川の楔から脱しようとした直親らしい。
それはそのまま直政の中に流れていく。
能力も自信もなくとも、未来へ進んでいこうとする彼はまさにこの凡人大河の物語らしい、主人公の初恋の君でした。

<終わりに>
そんな直親の屈折した思いや劣等感を持っていたことに、政次が気づけなかったのは仕方ない。
いや、それに気づいたところで羨んでほしいなんて思ってないでしょうが。
この辺の二人の機微を語ると沼に沈んでいくのでこの辺で。

それにしても、そんな直親という見る者によって色を変える複雑な役を演じきってくれた三浦春馬さん、ほんとすごいです。

20話「第三の女」の元ネタ「第三の男」のハリーのような善悪・強弱のゆらぎを思い出しました。
直親を演じてくれてありがとうございました。