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シェヘラザードの本棚

物語同士のコネクションを探して

王冠を戴くアメリカンアイドル。その名はPresident of the United States of America~さらば白人国家アメリカ~

さらば白人国家アメリカ

「二大政党の将来がどうなるかはわからない。ただ言えるのは、アメリカが白い肌に青い目で英語を話す人々の国だった時代は、確実に終わるということだ」――トランプ対ヒラリー、史上最悪の大統領選が暴いた大国の黄昏。在米の人気コラムニスト町山智浩氏が、党大会、演説集会をはじめ各地の「現場」で体感したサイレント・マジョリティの叫び! 

アマゾン商品紹介より

 

アメリカで行われた選挙について、トランプさんを軸にしながらもどんな候補が他にいたのかをわかりやすく説明してくれています。
政治というマクロの話は、基本的には得意ではないのですが、ものすごく読みやすかったです。
まぁ、読もうと思ったのは、アメリカのドラマや映画が大好きなので、登場するキャラクター達が生きている世界とはどんな世界なのか?
どういう思いを抱えて世界を眺めているか?ということを考えると、やはり知っていた方がより理解が深まるのだろうなという軽い気持ちです。

なので今更ながら、アメリカの選挙戦を振り返ってみました。

 

 

さて、トランプさんに大統領が決まったとき、ものすごくショックだったんですよね。トランプさんが選ばれた事がというよりヒラリーさんが選ばれなかったことが。
彼女はすごく優等生的で、私は多様性がある社会であって欲しいと考える人なせいか彼女のスピーチにはやはり胸が打たれるものがありました。
だけど、「目が離せない。」という点ではどう考えてもトランプさんに有利。
いまや大統領のトランプさんですが、この人誰かを思い出すなぁとぼんやり思ってたら雰囲気がなんとなく「ハマコー」こと、浜田幸一さんなんですよね。
思想とか考え方じゃなく、こう居酒屋で飲んでガハガハ笑ってるおじさん的な。(あくまでイメージです。)

 

〈トランプさんの支持者〉
だからそこらへんのおじさんで、きわどい差別的発言や無茶なマニフェスト(メキシコとの国境に壁をつくる)をいう彼は、まぁいい線まではいくけど最終的には選ばれはしないだろうと私はたかをくくっていました。というのも、アメリカのオーディション番組を見ていると、こういうヒールな役って最終的には落ちていく印象があったので。
そんな彼の支持者は誰か?という話がでると白人の労働階級であるとよくいわれており、町山さんも以下のように述べています。


出馬表明のすぐ後、2015年8月にユーガヴ社が行なった調査によれば、まず、トランプ支持者の9割は白人。半分は45歳から65歳で、65歳以上も34%。つまり8割以上が中高年だという。大卒率はわずが19%。
また、3割以上が一人当たりの年収5万ドル以下。年収10万ドル以上の高所得者は1割だった。
だが、トランプ支持者は貧しいわけではない。2016年5月の調査では、トランプ支持者の世帯年収の平均は7万2000ドルだった。
全米平均では5万6000ドルだから中の上だ。ちなみに民主党の2人の候補ヒラリー・クリントンバーニー・サンダースの支持者の世帯年収の平均は6万1000ドル。
民主党支持者には、都市部のリベラルなインテリも多いが、独身の若者や学生、黒人、メキシコ系の貧しい人々も多いからだ。
まとめると、トランプ支持者の平均像は、夫婦で年収7万ドル台の中流、中高年の高卒の白人ということになる。


じゃあ、どうして彼らに支持されるの?と考えた時どうも現政治への絶望と不満があるようなんですよね。
読んでいてびっくりしたのがアメリカはPAC(政治活動委員会)という政治資金団体があり、そこを通せば上限なく支持する政治家への献金が可能です。
つまり金さえあればいくらでも選挙で戦えます。
だけど、裏をかえせばスポンサーの意見を聞かないといけない政治家は、彼らに有利の政策をしなければならないということです。
そんな中、トランプさんは自前で選挙活動をし、他候補者を非難します。

まるで金持ちに立ち向かっているヒーローのようにみえるんですよね。
彼自体が、トップクラスの富裕層だというのに。
けど少ない選挙資金で戦っていけるのか?というものがありますが問題はない。
だっていくらだってメディアが取り上げてくれるので広告費がまるでかからないから。

金持ちと書きましたが、要するに大企業や富豪や財団は、ビジネスのために人件費のかかる国内よりも安い国外へと工場を移すものです。
そうなると給料はもちろん下がり、職を失う。
そういう状況で

「中国やメキシコはあなたがたアメリカの労働者から仕事を奪った!」
トランプは叫ぶ。
「だが、あいつらを野放しにしたアメリカの連中のほうを憎む!」

といった言葉はかなり強いと思います。是非はおいといて大企業がグローバル化を推し進めた結果、国内の労働者は行き場を失いますから。得をするのは経営陣だけ。
彼はこの二元論の対立を煽るような事をいって人の心理をつくのがほんとうまかったなぁと。

他にも選挙の争点として、人工中絶の是非・銃規制・移民問題マリファナ合法化・テロ対策・医療制度・同性婚などいろいろあります。
ですが白人ブルーカラーが支持基盤の共和党は、それらの彼らのニーズにどうも答えることができなかったようなんですよね。
その隙をトランプさんはうまくついたと思います。自分ならそれに答える事ができる!君たちの味方なんだ!と。

 

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 <支持者は白人労働階級だけなのか?>

ここまで、書いてて気付きましたが、別にこれって白人労働階級じゃなくとも、心を動かされる人がいてもおかしくないのでは?と思います。
なんというか未来に絶望し、大きな正義に疲れちゃって「世界の警察・アメリカ」を降りたがってる。
だって正義のためにといいながら中東の問題は解決せず、それどころか憎悪の対象として見られテロの被害は大きい。
他国や安全保障のことなんかより、自分達の小さな共同体を潤す事にもっと目を向けてほしい。一部の富裕層だけではなくもっと庶民の暮らしを考えてよ!

と、思う人がいてもおかしくないかなと。
たとえトランプさんが差別的発言をしようと、「私は差別主義者ではないのだけど、彼の言い分は一理あると思う。差別主義者では、ほんとないけど。」と思う中道派の人が多くいたんじゃないかと。
別に私はアメリカで暮らしたわけででもないので、あくまで想像ですが。
ただ、隠れトランプ支持者の人たちはいたと聞くので、こういう面があるかなと。

こういう不満や不安がでてくるというのは、やっぱりアメリカ全体にその空気が立ち込めているからかなぁと推測します。

 

 

だからといってトランプさんの差別的発言や行動にさらに傷つく人たちがいる事が確かです。
トランプ支持者が見捨てられた国民だという思いがあって、じゃあ、自分達以外の「国民」(イスラム教徒や貧困黒人層・移民)についての痛みを無視していいのか?
というものがあります。そんな彼らへの批判として「実力・能力主義重視がアメリカだ。人種や性別・宗教でがたがたいうな!今が不満なら自分が努力しろ!」
という意見があるとは思いますが、そのある種の正論は彼らに届かない。(←ある種といったのは、努力してもだめだった。能力がなければほんとにいけないのか?問題があるので)
ただ、自分達以外の存在を悪であるとみなすのは、冷静さを失い相手の本質をつかみ損ね、余計な分裂をまねくように思います。

 

 

<トランプさんを選んだ世界の行く末>

今後、グローバリズムの反動でナショナリズムの面が大きく出てきたこの世界がどうなるかまだわかりません。
トランプさんは、優秀なマーケターで人々の不安を見抜きました。だから、その不安を解消してくれそうな魅力的な器に見えたことでしょう。
その器が本当に使い物になるかはわからない。だけど、いろんなものが同時に求められるアイドルのような存在である彼がどうそれを御していくのか非常に気になるところです。

 

 

まぁ、言うこと、なす事が矛盾していても「トランプだから仕方ない。」というキャラクター性が彼にはあるのでその辺が強味ですよね。
そもそも、女性蔑視な発言をする割には娘を重用したりするところがあるので。

 

 

 

 

 

 

女達は慟哭したのち、再生す~おんな城主直虎20話~

おんな城主 直虎 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

前回はシリアスなテーマ「法と秩序の為政者としての判断と、個人レベルの正しさを通す両立の難しさ」をうまくコーティングして、どたばたコメディの様を見せていました。
今回も、しのと直虎の関係性の変化に大笑いしたものの、なかなか心打たれる話だったと思います。


<しのさんの心の変遷を追う>
さて、そのしのさんですが直親の忘れ形見が発覚し、これ幸いと直虎に「私も可哀そうだけど、あんたはもっとかわいそうね。」と同情を装ったマウンティングを仕掛けていました。
もうこの時点で笑って見てたんですけど、周囲の反応が私が思うよりも「直虎様は、お可哀そう。直親とも結ばれず、彼のために出家し、しかも自分の子じゃない虎松様の後見まで務めてるのに、その直親様は、他の女とできていた。お辛いでしょう。」
という雰囲気がありました。僧侶たちは憐憫の目を向け、直之や六左衛門さえも恐る恐る気遣う始末。
この事は、周囲が直虎に同情的であればあるほど、しのが置かれていた状況の残酷さを浮かび上がらせます。
彼女は奥方という場所に立ったはいても、その立場に能力的にも器としても追いついていませんでした。
そうなるとますます夫も周囲も「あぁ、これが直虎様だったらなぁ。」という悪意なき視線があってますます彼女を追い詰めてます。(それが事実かどうかではなく、彼女の中で)
自分が至らないせいだとわかってはいても、自分の劣等感と付き合っていくのは難しい。
虎松が生まれてからは、少しずつそれが良い方向にいくと思われました。
が、その矢先に直親の急死。彼の心を直虎に置き去りにしたまま。
だからこそ、そのもやもやした負の感情を直虎を憎むことで、どうにかちっぽけな自分を支えてきました。

 

 

<初恋の死と新たな絆の誕生>

そんな彼女が負の自分から解放される日が今回の話です。
舞台は井伊家のご初代様ゆかりの井戸。
しのは、直虎に初めていたわりの言葉をかけました。
それを契機に、直虎からの直親への不満が大爆発。それに、しのも同調して二人で直親への悪口大合唱会となりました。
このシーンってすごく笑えるのですが、同時にすごくいいなと思って、なぜかっていうと、ここで初めて、しのさんが「人間・直虎」を見たからなんですよ。
今までは、「直親の元許嫁で想い人」というフィルター越しでしか、彼女を見ようとはしませんでした。
直虎本人もどこか巫女的というか世俗から離れていたせいか、嫉妬という負の感情にも遠い存在に見え、それが拍車をかけたことでしょう。。
そのせいで、しのが自分自身との違いを思い知り、かつ必要以上に直虎を悪い存在へとイメージさせていたのかもしれません。
このバイアスがかかった状態から、等身大のその人自身に触れる瞬間ってのは結構大きい出来事です。
こういうことって、よくある話ではないでしょうか?

 

 

私事の話で申し訳ありませんが、英語が母国語の人2割、非母国語の人8割の合宿みたいなのに参加したことがありました。もちろん共通言語が英語となりますが、
私は「ネイティブ・スピーカーは楽でいいよなぁ。こっちはついてくだけで必死なのに。あぁ、発音馬鹿にされてたらどうしよう。」とひがみ根性丸出しで過ごしていました。ですがある時、同じメンバーのある ベネディクト・カンバーバッチ似の普段はあまり愛想がないオーストラリア人がふと

「いつもちゃんと自分の英語が伝わっているか不安なんだ。わかりやすく伝えてるつもりだけど、僕は比較的早口だし、伝わってなかったらごめん。もっと頑張る。」
とぼそっと言って、鈍器で殴られたような衝撃と恥ずかしさ感じました。
あぁ、私は彼の事を「英語が母国語のオーストラリア人」としか受け取ってなくて、言葉の苦労なんてないだろうと思い込み、彼がどんな人間で何を考えているか知ろうともせず、そして自分の事を可哀そうだとおもってたから、彼が傷ついてることに鈍感になってたなと思いました。

 

 自分の話はこの辺にして、とにかく、こういう体験はぐっと相手の距離が近づくんですよね。

そして直虎本人も自分のもやもやした直親への想いを吐き出した事がすごくいい。
個人的にはその感情を無視して、ものわかりのいいおんな領主として、直親の娘も受け止めると描かれなくて良かった。
ちゃんと、個人的感情を吐きだしてから、「公」では理性的にふるまった。
いや、多分前回の「私」を優先して痛い目にあったので、学習して「公」の立場をとろうとしたともいえるのですが。
(政次先生の授業の結果!!やったね!政次!けど、逆に若干、政次の方が甘かった気がするけど。「武田の工作員ということにして追い出してもいいよ。というあたり。)

この二人の女達の本当の意味での初恋への分かれと新たな絆の誕生シーンを見て思ったのですが、舞台である井伊の井戸は、あの世を繋ぐ「死」の象徴かつ、湧き出る水のイメージから「再生」の象徴であるように思われます。
その「死」と「再生」を繰り返すのは井伊家そのものと、直虎自身のもつ物語を示してるのではないでしょうか。


<立ち入れない美しさ>
さて、ぼろかすにいわれていた直親さんですが、彼の真意は故人となったいま、結局どこにあったのかわからず直虎達も、メタ視線で見ることができる私たちでさえもそれを知ることができません。
映画「第三の男」も結局、主人公も親友の本当の「思い」はぼんやりとわからないままでした。
けど私はこの、物語のすべてを知ることができないし、視聴者さえ立ち入ることが許されていないというのは案外好きなんです。
だからこそ、相手の事を知ろうとするじゃないですか?
その最たるは、我らが小野政次で、彼は一度も具体的な想いを口にだしていないにも関わらず、こちらは彼のコンマ一秒単位の表情や振る舞いから何かを読み取ろうと必死になります。
今回も情報過多で、傷ついているであろう直虎への心配や直親への複雑な想いにあふれていました。

 

 この立ち入れなさというか、限られた情報の中で思案し試行錯誤しなければならないというのは、井伊家の今の国際情勢の情報戦そのもので

いまだ姿をみせない武田信玄織田信長の不気味さともつながっています。
ここでも相手国が一体何を考えているかどういう目的をもっているか?ということを過少にも過大にも評価せず見極めていかないといけません。
しのちゃんが、直虎個人をちゃんと見たように。

 

<スパイの本質>

ここで高瀬がもしかしたら武田のスパイかもしれないし、そうであっても転向させるかもという伏線は、おもしろいんですよね。
というかスパイってどちらに属しているかぱっとみわからないというところがポイントで、常慶なんかは本拠地は武田に近く、松平に出入りし、実家は今川家に使える松下家という、もはや君はどこの誰なんだ!?というような経歴。
むしろこの経歴の複雑性があるから、どこからの目線からも深く捉える事できて、かつ俯瞰できます。
これは使い勝手がいいように思われますが、バランスを崩すと相手の立場に立ちすぎて向こうに寝返ってしまうんです。
「HOMELAND」にもそんな危うさが描かれていました。
だからこそ、武田領の出身で身元は井伊の姫君という彼女の二重性は確かに彼女のスパイとしての資質は感じます。
といってもこの時代は結婚でさえいろんな国と調略のために行っていたので、彼女に特異性があるといえば、そこまでないのですが。

こう考えると、この時代の姫君たちは優秀な外交官であらねばならなかったのでしょうね。

まぁ、これは制作側のミスリードの可能性大なので気楽にかまえておきたいと思います。

 

 

 

杉原千畝: 情報に賭けた外交官 (新潮文庫)

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 それにして森下さんの脚本は一見すると軽いタッチだったり笑いの方向に舵をとることも多く、誰にでもわかりやすくシンプルな話に書くので、そこにある奥深さをスルーしてしまいそうになるんですよね。

ごちそうさん」の初期がそうで、私は、当時ぼんやりとしか見てなかったので見返すと伏線のオンパレードだし、人間に対する洞察力には舌を巻くものがありました。
これからも彼女の紡ぎだす世界を楽しみにしていきたいと思います。

 

 

 

 

 

英雄去りし組織を率いるリーダー『Major Crimes~重大犯罪課』

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突然ですが私の好きなタイプをいいますと「理性的だけどその裏に負けないくらい情があって、だけどそれを理性でおさえて行動する。(たまに感情がこぼれるのはよし。むしろ可愛い)」
というのがあります。これは男女あんまり関係なくて、男性としても好きだし女性としても好きなんですよね。

 

そんなキャラクターが主人公になっている作品があります。
『Majyor Crimes~重大犯罪課』というアメリカのドラマです。重大犯罪課という名前がつく通り、主人公のシャロン・レイダーは、警部として働いています。
この作品はもともと『クローザー』という刑事ドラマのスピンオフとして誕生しました。

 

<変革型のリーダー>

シャロンについて語るまえに、この「クローザー」の主人公ブレンダ・リー・ジョンソンに触れなけれなばりません。

クローザー <ファースト・シーズン> コレクターズ・ボックス [DVD]

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 ブレンダは容疑者への尋問に関してのエキスパートであり、事件を終わらせる(close)事が出来る人です。

彼女は正義感が強いのはいいのですが、規則破りまくりで猪突猛進な破天荒な性格。
おそらく賛否両論がわかれるキャラクターだなぁと思います。
というのもこういう異分子な人物は悪い方向に行くと組織から排除され、良い方向に行くと組織そのものを変えていくことができるからです。
組織の「今」に安住を見出してる普通の人からみると邪魔でたまりません。
いわゆる周りの空気を読まずに、自分の信念が絶対だ!というある種の妄信じみた何かがないとできないんですよね。
が、これがはまるとめちゃくちゃ気持ちよく、組織に囚われず自由に動いている姿は爽快です。
物語の、世界を変える系の「英雄」型の主人公によく見られます。

 

 


彼女の「信念」というか思い込みが組織の他の人をどんどん巻き込んで変えていくというのは、「パッチ・アダムス」の主人公を思い出します。
「暖かい笑顔は世界に”伝染”するのです」というキャッチコピーがついていましたが、暖かさでというより、彼の持つ強い「信念」が他の人々に伝染していったというか巻き込まれた結果、事が動き出した印象を持ちました。
いや、このキャッチコピーが間違っているというわけでは、けしてないのですが。

 

パッチ・アダムス [DVD]

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<保守型のリーダー>

話を戻しますが、このブレンダに対抗する形で現れたのがシャロンです。

シャロンは内務調査員としてブレンダの前に登場しますが、性格は、真逆といっていいです。
ものすごくまじめで、冷静沈着、そして規律を守ることを重要視しています。
ブレンダのめちゃくちゃなやり方に慣れていると、風紀委員のごとく登場したシャロンがちょっとうっとうしく感じるんですよね。

 

 

そんなブレンダのアンチテーゼのごとく存在しているシャロンを主人公にしたドラマというのが面白い。

なにが面白いかというと、ブレンダは、ある意味、停滞した組織の空気を壊す存在として、ある種の「英雄」的な描かれかたをしています。
だからこそブレンダ個人にフォーカスがおかれた「クローザー(解決人)」というタイトルがつきます。
が、英雄が去り、組織が残されました。その組織に残された人達が英雄なしでやっていく物語が「Major Crimes~重大犯罪課」となります。

そんな組織をひっぱっていく存在がシャロンです。

型破りな親分肌な一代目から二代目に代替わりしたようなものです。

彼女はやっぱり最初は、反発をくらいますが、徐々に部下たちの信頼を勝ち取っていきます。

じゃあ、どうやって勝ち取っていくの?ってなったときに、目の前の事をほんとひたすらにこなしていくことしかないんですよね。

組織のルールにのっとった形でやるシャロンのやり方は、先代から比べると地味かもしれないけど、比べられる事をひがまず、組織の正義を信じているから、それに殉じている彼女の姿勢は心が打たれるものがあります。

 

 

 

では、彼女が規則に口うるさいだけの情のない人か?というと全然違います。

シャロンはある殺人事件の目撃者であるホームレスの少年、ラスティを自宅で保護してます。

このラスティが問題児で、あの手この手とシャロンの手を焼かすんですが、普通なら放り投げてしまいそうな反抗的な態度なんですよね。

彼はすごく頭がいいので、何を言えば相手が怒るのかを知って、あえてそんな言葉をシャロンにぶつけます。

そんな彼と、ゆっくり時間をかけて絆をもとうとする姿からは、けっして彼女が冷たい人間ではないというのがじわじわ伝わってきます。

むしろ情が深さが、理性の下に確かにあって、ここまでくるとこの人なんて可愛いんだろ!?ってなっちゃいます。

なのに普段はすごく冷静で、ラスティの事となると少しだけ感情的になるところはたまらないものがあるんですよね。

 

 

<変革型・保守型の後に>

ここまでくるとただの私の萌え語りになっていますが、組織を壊すタイプのリーダーのあとに、シャロンような組織のルールを守って前に進んでいくというリーダーをむかえ、その後はどうなるのか?というのも個人的には気になるところです。

うーん。おそらく、この二タイプのリーダーを繰り返しながら、バランスをとろうとする力学が働くとは思うのですが。

その辺も考えながら見ていきたいと思います。(だけど、ほぼシャロンラブで見てる。)

 

いつか罪と罰を分かち合うその日まで~おんな城主直虎19話~

おんな城主 直虎 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)


前回がシリアス回だったので今週はサービス回かな?ブログでキャラ萌えに特化した記事が書けるぞ!ガッハッハ!なんて、阿呆なことを考えていました。
すみません。重かったです。
話自体は盗賊たちの材木窃盗にまつわる井伊家のてんやわんやな話に、コミカルなおちがついているので軽いっちゃ軽いんですけど。
そもそもドストエフスキーの「罪と罰」をタイトルに入れている時点で色々と察するべきでした。

 

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

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 <井伊の内政。司法・裁判編>

そもそも現代ほど法と秩序が整っていない時代、というかほぼ無秩序な世界だと、やられたら自分達でやりかえすぜの自力救済の精神がいきわたってるかと思われます。

かといってそのままそれを放置すると復讐の連鎖が止まらなくなります。
そこでその仲裁人たる領主が司法のトップとして、みんなが納得する判断を下さないといけません。

じゃないと人は納得がいかず社会が荒れてしまいます。
いまみたいに司法と政治が別であればいいのですが、この時代の権力は領主の一極集中型。

こう書くとなんでもありの生殺与奪権を握っているように見えますが、
その裏返しとして、たとえどんな時でも私情を交えず正しく公平な判断を「個人」(領主)が下さないといけないという力が働きます。
だからこそ今回の、身内びいきな直虎の行動に目をひそめた方も多いかと思われます。
といっても視聴者がつっこむ前に、作中でも直虎は政次をはじめ、いろんな人にそこを告発されていました。

 

 

だけど彼女のこれまでの言動をみてみると罪人とはいえ、二回も相談にのってくれ、それでうまくいった恩人を死罪にするのは忍びないと思うことに、違和感は感じませんでした。

女性的価値観や現代的価値観というより、直虎イズムがそうさせているのだと。
亀のために、百姓たちのために、井伊のためと誰かのために奔走する姿をこの脚本は丹念に書いてきました。
だからこそ直虎が彼女のエゴイスティックな正義を通そうとする姿に100%共感できなくとも理解できます。

 

そしてここに興味深いテーマがたちあがってきました。

 

小さなの正しさ(恩人を助けたい)と大きな正しさ(まっとうな司法権の行使)の両立の難しさです。

 

 

ここでの小さなの正しさっていうのは客観的に見て正しいとかじゃなくて、あくまで直虎個人レベルでみたらという観点からです。

 

で、為政者は大きな正しさを優先し小さな個人を切り捨てていきます。

政策の一環の名のもとに。

しかし、それは危うさをもち、例えばドストエフスキーの「罪と罰」のなかの主人公・ラスコーリニコフは「選ばれた人間は正義のためになにをやってもいい。些細な悪事は大きな善のためにはかまわない」と犯罪をおかしました。
このへんは「DEATH NOTE」の月くんと似たところがあります。
彼らは、ほんとうの意味でミクロレベルの人の尊さがわかっていませんでした。

 

だからこそ私は見てみたいのです。為政者としては優しさの中に甘さをもつ直虎が政治的決断を下す日を。
今回、それに決着をつけなかったということは今後の布石です。
私は個人の尊さをしっている普通の人(直虎)が、リーダーとして大きな正しさを選ぶ瞬間が見てみたい。

 

たとえ、そこにどんな痛みをつれてきたとしても。

そして非情にみえる政治的判断を彼女が下すとき、彼女の純粋性がどれだけ保たれているのでしょうか?(いや、そんな日がくるかどうかは知らないけど)

 

 

 

 

まぁ、とはいえ基本的にこういう二元論ではなく両方手にいれてこそ王道たる「王の器」足りえると思いますが。
(じゃあ、覇道とはなにか?という論理が出てくると長くなるのでここでは割愛)

 

といってもこれまでの話のなかでは、直虎は比較的このバランスをとっていたように思えます。

 

<から回った直虎さんの原因>

なのになぜ今回、比較的暴走したかを推測すると、まずひとつに、これまで大きな失敗をしなかったことにあると思います。
百姓達の支持もあって「チーム井伊」も軌道に乗り始め、外交もなんとか成功を収めました。
要は領主としての自信が少し出てきて、直虎さん調子に乗っちゃった感じです。

 

二つ目は、「政次が精神的に自分のとこに帰ってきた!」という安心感のもと遠慮なく暴走できたのではと。
これは、完全に推測というか妄想の領域なんですが。
理性的なとこを、がんばってやんなきゃ!と思っていた部分を丸投げできる人材(政次)が戻ってきたと直虎が無意識レベルで思っていたら、ちょっとうん、政次大変ですね。
それじゃいかんと思って彼は教師のごとく接し始めていますが、どうなることやら。
懇切丁寧に直虎にレベルをあわせて盗賊を見逃した時のリスクを説明しはじめた時は、思わず「政次先生!」と叫んでしまいました。
直虎も「教えてくれたのは政次じゃん!」と孫子の教えをそのまま鵜呑みにするというか素直に受け取りすぎる生徒感があるというか。
政次先生の「俺の言いたいことはそういう意味じゃねぇ!」という解釈違いが起こっていて見てる方は楽しいです。

 

<すくすく育つ下の者達>
それにしても直虎がダメダメな時でも、周りのバックアップ体制が整いつつあるが嬉しいです。
政次はもとより、直之も、六左衛門も、方久も。
これもひとえに彼女が引っ張り上げるリーダータイプではなく、完璧すぎないゆえに周りがそれを助けようと努力するタイプだからです。
個人的体験談ですが、私が高校生のころ、みんながやりたくないあるチームのリーダーに指名されました。
なんでクラス内政治力もリーダー適正もない私が!?と若干パニックになり所信表明で
「能力もない私を選んだってことは、みんながしっかりしなければなりません。選んだみんなの責任なのでそこんとこよろしく。」
と、今考えればあほみたいなこと言いました。というか、まじで、何言ってんだ・・。私。
これでやばいとみんな焦ったんでしょうね。実際やばいし。
結果、ものすごく働いてくれてぶっちゃけ私は、そのらくちんな神輿にかつがれた形になりました。
私の場合は、リーダーをやりたくないあまりとっさにでた本音にメンバーが危機感をもった形ですが、
直虎の場合は、魅力あるが危なっかしいリーダーのもと、下の者たちがこの人を支えなければ、成長しなければと思わせ、それが彼女の大局の力となっています。
直虎と自分の体験を比べるとか我ながらずうずうしいですが、なんとなくこの時の事を思い出して書いてみました。

 

 

 

ほんとうは、井伊が内部でわちゃわちゃもめているあいだにも、今川・武田関係のもっとおおきな国際情勢の変化があるのですが
これ以上は長く書くとやばい量になるので泣く泣く省略します。
だけど、そのままではいられない「井伊家」とそれまでに彼らがどんな絆を紡いでいくかを楽しみに待っていきたいと思います。

 

てか、

 と書いたけど今回の内容と対になってますね。小さな正義のために大きな正義を捨てようとした直虎と。

 

 

 

 

親と目線が対等になる時の衝撃~強父論~

強父論

エッセイスト兼タレントで活躍なさっている阿川佐和子さんの父親との思い出をつづった本です。
この阿川さんの父親は「山本五十六」などを書かれた小説家の阿川弘之さんですが、絵にかいたような昭和の暴君きわまった頑固おやじといいますか、
現代だと速攻アウトな人間です。

 

 

彼がどんな人間かというと佐和子さんはこう書かれています。

情に脆いところもあり、子供の頃から友達に揶揄されるほどの泣き虫だったそうだが、同時に非情なほどの合理主義者である。

と言いつつ、理屈より感情の先立つことが多い。男尊女卑でわがままで、妻や子供には絶対服従を求める。
他人に対しても、気に入らないことを言う人や、自分に興味のない話を勝手気ままに長々と喋りまくる人は嫌いである。
常に自分が中心でありたい。自らの性格が温和とほど遠い分、周囲はできるだけ穏やかであることが望ましい。
でも世間を相手にそこまで思い通りにいかないという分別がないわけではない。だから外ではなるべく我慢する。
極力おおらかな人間になって、「阿川さんはいい人ですね。立派な方ですね」と褒められたい気持が人一倍強い。
そのため少しばかり努力する。いきり立つ感情を抑える。
爆発するまい、癇癪を起こすまいと、自らを制し続け、我慢を重ねた末、家に帰り着いたとたん、ちょっとした火種、すなわち家族が無神経な言葉を発したり、気に入らない態度を示したりしたとたん、たちまち大噴火を起こす。
だから怒鳴られる側にとっては「唐突」の印象が強くなる。

 

 

 

ここを読んだだけでも、弘之さんは父親としては問題児ですが、当の佐和子さんはユーモアをもって書かれており読みやすかったです。(かなり受け入れがたい所があるにもかかわらず)
なんというか父親とそのきつい環境におかれた自分達家族をどこか客観視しているように見えます。その風景を映画館で楽しんでいるような佐和子さんがいて、そしてその映画館の椅子に座っている自分を横で見ている自分がまた別にいるような。

彼女の二重、三重の客観性を感じます。
多分、そこが彼女の司会者やエッセイストであるときの鋭さにつながってるんだなぁと腑におちました。
よほど強い客観性が彼女の中になければふつうなら人生を食われてしまうんですよね。テレビで拝見しているだけだとものすごくバランスがとれた方だと印象を受けます。

 

<変わらない人と変わる関係性>

それにしても弘之さんは典型的な家父長制における父親で、昔はよくいたんでしょうね。

この家族スタイルだと良くも悪くも絶対的に父親が上で妻子が下の立場という関係性にどうしてもなってしまうのですが、どうも佐和子さんが「物書き」をはじめてからちょっとおもしろい現象が起きます。
ある日、父親に関するエッセイを頼まれて、「うちの父親ってこんなに横暴なんです。」というような内容を赤裸々に書いて弘之さん本人に添削もらうシーンがあります。

 

 

「はい、赤鉛筆と眼鏡」
手渡すと、眼鏡をかけて原稿を読み始めた父の横の床に私は膝立ちの恰好で控える。
たちまち、父の持つ赤鉛筆が動いた。
「まず、名前の位置が悪い。タイトルのあと、一行開けて、名前。そこからまぁ二行ぐらい開けて、本文を書きだしなさい」
「はぁ」
「そこからここ。だった、だった、だった。だったが三回も続いている。安機関銃じゃあるまいし」
「ほぉ……」
「あと、に、に、に、に、『に』を四回も続けて、ニイニイゼミじゃない。こういうところに神経の行き届かない文章はダメだ」
「はい……」

 

 

これ、驚いたことに佐和子さんの内容に一切口出してないんですよね。本当は、彼の立場から言いたいことがたくさんあったのでは?と思います。彼の個人的性格を考えれば。

彼女も原稿を引きちぎるのではないかと思ったみたいですが、そんなこともなくただひたすら文法や語法について赤入れしてるだけなんです。
確かに彼は他人の人生についてあれやこれやと書いてきた作家なので、たとえ娘が自分の事を書こうと口出す権利はないとは思います。
だけど家庭内であれだけふんぞりかえっていた人が娘をちゃんと一人の作家として扱っているんです。
上から目線でしか見なかった父親が「ものを書く」同じ土俵にたって、はじめて目線が娘と同じになります。
別に彼らの関係性がそこから劇的に変わるわけではなく、あいもかわらず弘之さんは横暴ですが、親の「親であること」以外の人間性に触れてしまい
一瞬でも上下の力関係にいた者達が対等になっていているのはすごく面白い。

 

 

この相手の「違う面」に触れてしまうというのは結構あって、というか人はいろんな面がミルフィーユのように重なってその人ができてるんですよね。
親であることや子であること、社会人であったり、友人であったり、恋人であったり。
いろんな面のどれがほんとうの自分かということではなく、どれもほんとうの自分として。
だから、心が通じていると思っていた友人が思想性でぶつかったり、差別的でいやな人間と思っていた人が違う面では好きだと思えたりします。
まぁ、親が一番インパクトあるかもしれません。基本的には「親」である一面とほぼ子供はつきあっていくので。
だけどそれ以外の面を知っていくことは、私は悪いことではなくむしろ相手に過剰な幻想をいだかないようになるという点において、大人になるためのある種の「儀式」でもあるのかなと思います。

 このへんの話になるとよしながふみさんの「愛すべき娘たち」の中の

 

「分かってるのと許せるのと愛せるのとはみんな違うよ」

 

のセリフを思い出します。

 

佐和子さんの場合は、それはどの程度だったのか?自分はどうなんだろうか?と思いながらこの本を読みました。

 

 

 

 

 

 

なかない鶴と鳴く犬は。人のステージが変わった瞬間をみてしまった。~おんな城主直虎18話~

おんな城主 直虎 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

 

今回の「あるいは裏切りという名の鶴」は神回じゃなかったですか?
もう第何次小野政次インパクトなの?ってくらいこちらを揺さぶってきてました。
好きすぎて言語化も分析もしたくねぇー!!って感じで、心が脳を拒絶している状態だから
いつも以上に乱文になるとは思いますがお付き合いください。
というか、かなりの妄想と推測が入り混じるのですが、今時点での私の理解メモとして書いていますのでご注意を。


しょっぱなから「政次」「政次」といってますが最初に「瀬戸方久」について触れたいと思います。
私は政次と方久にある同じテーマを感じ取っていてそれが

 

「村社会という共同体のスケープゴート(生贄)に選ばれてしまった者」

 

 

というものです。

これっていわゆる現代にもつながる「いじめ」の構造にも似ているものがあります。
人身売買があるような血と血で争う内戦が続く乱世という戦国サバイバルを生き抜こうとすると集団が一致団結しなければなりません。
その時に、内部に仮想敵がいるとめちゃくちゃ仲間意識が高まる効果があって、ほんとこういとこだめだし許しがたいのですが
これが外部の敵に向かう時は意外に内部は穏やかでうまくいったりするのでなんとも難しい所です・・・・。

政次の場合は、もともと小野家が嫌われることで、方久の場合は「解死人」としてその役割を担っていました。

 

 

 

<利をもとめ鳴く犬・方久>

今回はそんな方久が活躍した回でした。彼は「解死人」から商人に成りあがった切れ者です。

政次達より先回りして種子島を今川に売りつけて謀反の疑惑をもみ消しました。
しかも直虎の指示なんですと説明をそえて。

いやはや、この清く正しく明るい死の商人(武器商人)っぷりは惚れそうになります。
今川・井伊・方久、三者にとっての「利」を彼は提供しました。
今川は軍備増強を。井伊は、謀反疑惑からくる直虎の後見おろし回避を。方久は開発費を。
しかも井伊に恩を売りつけ自分の立場をさらに強化することができました。

 

 

彼のこの軽やかさは、特定の土地や人や絆に縛られてないがゆえの自由な商売人の発想からきているものではないのでしょうか。。
集団に属してはいても最下層にいたからこそ、冷静に何が「利」になるかを見極めれるようになったのではないかと推測します。
ぶっちゃけていえば、「解死人」だったからこそ見える世界があって、それをばねに彼はここまできました。
バックグラウンドを考えれば闇しかみえてこないにも関わらず、人生を切り開いている胆力にはただただ唸るしかありません。

 

ヨルムンガンド(1) (サンデーGXコミックス)

ヨルムンガンド(1) (サンデーGXコミックス)

 

 

 余談ですが、彼の「銭の犬」芸というか、カンカン芸は「宮廷道化師」の感じがするんですよね。「笑い」がもつ差別構造を逆手にとって「王」に意見するとこが。
ムロツヨシさんの演技がそれに拍車をかけている気がします。

 

ミムス―宮廷道化師 (Y.A.Books)

ミムス―宮廷道化師 (Y.A.Books)

 

 <守るために沈黙する鶴・政次>

さて、政次の場合方久と違って土地や人や絆に縛られて生きてきた人です。
井伊の内部で差別にさらされてきた彼は、くせのある頭の良さというか理詰めな人になりました。
井伊のお前なんか嫌いだよ!!っていう負の感情の嵐から自分を守るには、論理的に対処する必要があったのです。
だけどまぁ、いわゆる「正論」をロジカルにを言おうが「空気よめねぇな。あいつ。」で結局悪循環にはまってしまうのですが。

政次が孤高のままほんとうにひとりぼっちなら話が変わりますが、彼には直虎や直親との幼少期からの絆があって今ではなつや亥之助という家族もいる。
その土地に住む人を愛しているから方久のようにそこから逃げ出す事はできません。
それらを守ろうとしたとき、誰かに頼ることができなかった環境で育った彼の方法は「悪役」になるという自己犠牲でした。
それが政次のこれまで築いた関係性を壊してしまうものだとしても。

 

 

「自己犠牲」と書きましたが、かれがそう思っているかはちょっと今は保留しときたいと思います。
一人称の小説じゃないのでここらへんは視聴者の想像力にゆだねてるとこがありますね。
うーん。少なくとも直親を失って以降は彼は自らの決断によって選択してると思うのですが。
なんにせよ、この方法って絶対に誰にもばれてはいけないという前提条件がないと成り立ちません。

で、今回それがもっともばれてはいけない人に知られてしまいました。
直虎です。(長かった。やっと本題に触れられる。)
彼女が政次にいいました。

 

「政次。われは己で選んだのじゃ。この身を直親のうつし身とすることを、誰に望まれるでもなく強いられるでもなく、己で選んだ。己で井伊を守ると、われは己で決めたのじゃ。」

 

 

この乙女らしい袖クイからの上記の剛速球なセリフに腰がくだけそうになったことはおいといて

政次はどうも直虎がこれまで「我慢」して、今いる立場にたたされていると思っているふしがありました。
マクロの事情に流されて直親とも結ばれることもなく悲恋に見えたことでしょう。しかも遠因は自分の父から始まり、彼を間接的に死に追いやったのは自分だと責めています。だから残された彼女だけでも守ってやらないと。直親のためにも。との思いがあるのかもしれません。

 

だけど、実際には彼女は自分の決断でそれを選んできました。
そんな彼女だからこそ自分自身の意思で「城主」になるという選択をしたんだ!!って宣言を政次にしています。
この自分の意思を尊重しろって相手に要求するときには同時にその相手の自由意志を認めなくてはなりません。
自分はよくても相手はだめなんて道理は通りません。
だからこそ、政次の不憫に見える自己犠牲的な策も彼女はまっこうから否定する事はできないのです。彼のシナリオに乗る、乗らない以前に。

「仮に、もし、われが女子であるから守ってやらねばならぬとか、つらい思いをせずとも済むようになどと思っておるのなら、お門違い。無用の情けじゃ!」

 

 

そしてその自分の決断を否定する理由に「かわいそうだから。女だから守ってやらないと。」というのは受け付けませんよといっています。
だって可哀そうではない彼女が選んだことだから。
それでも政次が否定したいのなら例えば「城主」としての器がたらないからという理由じゃなきゃ口出す権利がありません。


この後に、直虎は

「われをうまく使え。われもそなたをうまく使う。」

といっています。
これは政次の「悪役」という方法を否定せずに、かといって自分の「城主」である権利を通したうえで
お互いそれを利用しあいませんか?という交渉を「城主」として持ちかけています。
いや、このへんほんと彼女はすごいなと思います。
このあと政次は彼女への返答として「臣下」として「城主」に提言しています。

 

選ぶまでもないという選択肢がない不自由さの中で強いられた事と自らの意思でそれしないないと選択する自由の中にいることは同じ行動でもまったく意味合いが違います。
直虎も政次も後者であるとしたら、彼らはもはや可哀そうな井伊の犠牲者ではなく共に戦う自由意志をもった戦士なのです。

 

それにしても直虎は直親には「亀は、かわいそう。」とかいっといて政次には容赦ない感じはちょっと一周廻って笑ってしまいます。
政次は騎士道的愛で直虎を見上げてる感じが一部するのですが、直虎のほうが襟をつかんで対等な目線までひっぱりあげてるような。
ちょっと乱暴にあつかっても政次なら大丈夫☆という信頼というか甘えというか。
そもそも直虎は自分が男なら「直親は死ななかった」と思い、政次は自分が結果的には「直親を死においやった。」
というサバイバーズギルトみたいなものを抱えていて、そんな二人がようやくここまできたのは感慨深いです(史実から目をそらしつつ)

 

 

けど、個人的にはまだまだ恋心みたいなものは捨てきっているかというのはかなり懐疑的で、それを捨てずにあらたな感情がプラスされていった感じがあります。

男女のブロマンス的関係からはじまる恋愛があってもいいじゃないですか!?(本音)

政次の恋愛偏差値はこの際おいといて。

というか、直虎本人も大人だったり、少女だったり、城主だったり、そのへんの女性だったりころころ変わる一面をもっていて、「井伊のため」というマクロの選択をできる彼女が「嫁になんてもらってやんねーよ。」って軽口に「なにをー!」というような小学生レベルのやり取りしちゃうギャップに私ならやられちゃうんですよね。これは確かに政次じゃなくともからかいたい。けど、自分の本心に踏み込ませないために冗談で先回りするやり方には、真顔で彼を問い詰めたい感がある。だって傷ついた顔をするもんだから。

ここに龍の例のあの人が入り込んでくるのはなんとも修羅場的ですが。てか、直虎の水筒を飲み干すとこは、なんかエロかったですよ。

 

 

今回の本心をあかさず本心にふれるやり取りは、彼らの本当の意味での子供時代の終わりのシーンでした。
おがちちかさんのLandreaallという作品なかにもこういうセリフがあります。

「あいつとは多分一生建前のやりとりを続ける仲だが俺たちはそれでも友人でいられる」

「大人になるとな DX 」

「明かさない本心を無視する礼儀正しさを身につけて信用し合えるようになる」

 Landreaall 17巻  (オズモのセリフ)

 

こういう心の機微を戦国大河で見られるとは思っていなかったのでほんと僥倖です。

 

 

最後に少しだけ。
直虎の

「私には、恨みを後生大事にかかえるような贅沢など許されますまい。」

 

のセリフ。いや、これほんとそうで義憤にかられて戦争ふっかけられるほど井伊に国力ないんですよ。現実的な話。
個人的恨みを乗り越えて国の明日のためにベストな選択をとることができるのがリーダーの責務なんですよね。
だけど、簡単なことではないゆえにそれができる人がリーダーなんだという逆説的なものもあります。

 

この言葉からわたしはフィリピンのキリノ大統領を思い出しました。
彼は、日本兵に家族を殺されても将来の日比関係を見据えて私怨を断ち切る決断をしました。
この負の連鎖が続く世界で「赦そう」「乗り越えて見せる」とする意思が確かにあることは人々の道を少しでも明るく照らしてくれます。

 

フィリピンBC級戦犯裁判 (講談社選書メチエ)

フィリピンBC級戦犯裁判 (講談社選書メチエ)

 

 

 

 

 

記憶を失ってもそこに残る何か~アリスのままで  (原題 Still Alice)

アリスのままで(字幕版)

大学で言語学者としてバリバリに働いている50才のアリス。優しい夫は医師。
子供達は三人いてそれぞれ自分達の道を進んでおり、絵にかいたような比較的裕福な幸せな家族。
それがアリスの若年性アルツハイマーによって徐々に崩れていく。

 

<若年性アルツハイマー追体験

 

この作品はアリスの目を通してこの病気が奪っていく日常を体験していく事になります。
淡々と話が進むけどじみにつらくて例えば、趣味のジョギング中に自分がどこにいるのかわからなくなる。
講義中に言葉が出てこず生徒からの評価が悪くなる。
娘と喧嘩しても内容を覚えていない。
トイレの場所がわからなくなって、もらしてしまう。

一番きついなと感じたのは、アリスが「自分が本当にだめになったら自殺しよう。」
と思って動画で未来の自分のために自殺マニュアルを作ったんだけど、それすら実行できない病気の怖さ。
自分の知性によって人生を切り開いてきた彼女にとって、自分をコントロールできないのは耐えれない屈辱であり、そんな自分を家族にも迷惑かけたくないゆえの行動。
だけどいざその時になったら「死ぬ」という選択さえ、彼女には出来なくなってる。

 

<家族からみたアリス>

 

そんな彼女を支える家族の夫のジョン。長女のアナ。長男のトム。次女のリディア。
彼らのアリスに対する考え方の違いが対照的でリディア以外の家族はエリート街道をというかいわゆる安定した人生を送っている。
だから彼らがどんなにアリスを愛していても、その安定したレールから外れてしまった彼女に「憐憫」を感じおそるおそる接してしまうんです。
これって彼らがひどいわけではなく、愛しているからこそ自分達とアリスの間に出来てしまった「溝」にどうしても躊躇してしまうんですよ。

 

その逆にリディアは売れない不安定な職である女優。
アリスも明日、自分がどうなっているかわからない。その不安定さを共有することができるがゆえにリディアはアリスに対等に接することができる唯一の相手となります。
安定した職についてほしい母のアリスと夢を追い続けたい娘のリディアとの間にあった「溝」に皮肉にも病気が橋をかける。
重なり合う事のなかった彼女らの人生がここで重なってしまいます。

なんというか、ライフステージをおなじ所にいたゆえに出来てしまった「溝」と違う道を歩んでいるからこそ、わかりあってしまう人生の摩訶不思議さがここにあるような気がします。


<記憶を失えば、人はその人でなくなるのか?>

記憶を失っていくアリスを見て「自分」ってなんだろ?
と思いました。なんか哲学的問いになってるけど、記憶を全部なくしたら自分じゃなくなるのかな?と。
だけど、誰かと人生を共有したのならその人の中にも「自分」という存在は刻み込まれているんじゃないのかなぁ。
「自分」とは「他者」との絆の積み重ねの中にも「自分」が存在していて
「他者」の中に「自分」が存在する事。
「自分」の中に「他者」が存在する事。
それを「愛」と呼ぶのではないでしょうか?
だからこそ利己的な遺伝子を本来もつ生き物である私たちは、時として誰かのために自分の命だって差し出してしまう。

このひとつの形がベターハーフ(better half)で、相手の中にもう一つの自分の半身を見つけてしまうと自分以上の存在になる。

 

映画の最後にでじっとした(still)自分がだれだか分からないアリスが、いまもなお(still)アリスであり続けるのシーンをみてそう思いました。


<受け止めた先に>

アルツハイマー認知症を扱った作品はそこそこありますがここで「ペコロスの母に会いに行く」を紹介したいと思います。

 

ペコロスの母に会いに行く 通常版 [DVD]

ペコロスの母に会いに行く 通常版 [DVD]

 

 アリスのままで」はどちらかというとアルツハイマーを受け止めるまでの話でしたが、「ペコロスの母に会いに行く」は認知症になった事でたどり着くことができた風景があって、そのありふれた奇跡が美しかった。
これは私の認知症だった祖母もみた景色だったんで泣いてしまったんですよね。
作品自体は、ユーモアをもちつつ介護の厳しさがその中に確かにあることを感じました。
直接的なつらいシーンはそんなにないのですが、介護から離れて主人公が仲間たちとわいわい楽しそうにするシーンが逆に
「あぁ。ここは逃げ場なんだな。人生のつらさに立ち向かうための一時的シェルターなんだ。」
と、思わせてどこか介護はそんな甘くはないよ?という視聴者の目線に対してしっかり現実感を根付かせていたように思います。


Glen Campbell - I'm Not Gonna Miss You

最後にアルツハイマーになったカントリー歌手のGlen Campbellの

Ⅰ’m Not Gonna Miss YOU

僕はきみの事を寂しいとすらおもわなくなる)

を。