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物語同士のコネクションを探して

源氏物語に異世界トリップした俺は悪役女御の元で陰陽師になったんだが~十二単衣を着た悪魔~

十二単衣を着た悪魔 源氏物語異聞 (幻冬舎文庫)

59もの会社から内定が出ぬまま大学を卒業した二流男の伊藤雷。

それに比べ、弟は頭脳も容姿も超一流。ある日突然、『源氏物語』の世界にトリップしてしまった雷は、皇妃・弘徽殿女御と息子の一宮に出会う。

一宮の弟こそが、全てが超一流の光源氏

雷は一宮に自分を重ね、光源氏を敵視する弘徽殿女御と手を組み暗躍を始めるが……。

エンタメ超大作! ! 

amazon内容紹介より

 

 <悪役から見た世界への眼差し>
十二単衣を着た悪魔」というタイトルは映画「プラダを着た悪魔」からとっているようです。
が、読んでみるとどちらと、いうとweb小説でよくみかける異世界トリップの印象が強い小説でした。
もちろん映画のように厳しい女性上司のもとで働くという点では同じですが。
この小説の中の女性上司の名は弘徽殿女御。
彼女は帝の寵愛を桐壺更衣に奪われたことで、その息子である光源氏を憎むようになる、
というのが源氏物語における彼女の悪役としての役割でした。
悪役から物語の世界を見つめなおす、というパターンは、実はその悪役の性格は悪くないというのが多い気がしますが
この弘徽殿女御は一言でいえば「傲慢」。
弱小一族の悲願を背負って後宮に入った桐壺更衣を
「親も娘も何も能力もないのに、色と運だけでのしあがろうとする品のなさ、大嫌い。」
と一刀両断。実家の強いバックアップを受けられる弘徽殿女御と弱小の桐壺更衣ではまずスタートラインが違う。
それはちょっと強者の眼差しが強すぎるがする。
だけどその傲慢ともいえる上から目線には、彼女の裏打ちされてきたこれまでの経験と能力、自身の在り方が反映されています。
だからこそ同じように上から目線で世界を眺めているが中身のない主人公の雷が、彼女のような「本物」と出会う事でどんどん変化してくんですよね。

 

 

 

悪役令嬢後宮物語 (アリアンローズ)

悪役令嬢後宮物語 (アリアンローズ)

 

 <彼女は高潔か?それとも傲慢か?>
この弘徽殿女御についても少し深く突っ込んでいきたいと思います。
彼女は左大臣の娘という強い後ろ盾がある環境に、自分が恵まれているなんてこれっぽっちもおそらく思っていません。
もちろん上には上の立場や責任がある、いわゆるノブレス・オブリージュを果たさなければならないので、それは恵まれているといえるのか?という議論は存在します。
桐壺更衣も社会全体をみればも支配階級の人間ではあるので、その責任を果たす義務は生まれます。


だけど上記のような貴族の義務として弘徽殿女御は、桐壺更衣を告発してるというよりも、根本的に彼女には自信があるからでしょう。
どんな環境にいようと、どんな立場にいようと、決して自分は揺らぎはしないという確かなものが自分の心にある事を。
悪女といわれても結構。その在り方にこそ彼女は誇りを持っている。


だから桐壺更衣を憐れむことなんて絶対にしない。それは、もしかしたらありえた自分への憐れみと同じことだから。
自分を憐れむなど、彼女にとっては唾棄すべきことだったでしょうから。
だけどその鮮烈にて強烈な生き方についていけない人や傷つく人いた事もいたとは思います。

この自分一人でも生きていけるという高潔さと傲慢さは、後宮での彼女を孤高にしました。愛すべき優秀で善良な息子がいたとしても。
そして彼女の孤高さは、誰も同じ目線で世界を見ず同じ立場に立つ人間がいない事でもあります。

 

 

が実は、それに限りなく近い男性が二人います。
一人は主人公の雷。そしてもう一人は実は帝。
先に帝の事から言いますと、彼は実は能力、器という点でおそらく弘徽殿女御と同レベルと思われます。
だけど彼女に心を寄せることはできず、政治的な必要悪として受け入れざるをえないという状況です。
反対に、雷は彼女に共感することができますが能力、器においてこの二人に追いついてないんですよね。
この(雷-弘徽殿女御-帝)に似た構造をもつ関係性があるのでは?と推測されるのがあって
それが実は(弘徽殿女御-帝-桐壺更衣)なんですよね。
もしかしたら帝にとって政治的好敵手であるのが弘徽殿女御であり、帝の等身大の自分をさらけだして付き合えたのが桐壺更衣ではなかったのか?
と考えます。


雷が弘徽殿女御と同じ立場に立ててないといいましたが、たった一度、彼らの目線が同じになる機会があります。
雷がこの世界の毒をくらい自ら悪をなしていこうと決断するシーンがあり、その罪の共有によって、
弘徽殿女御は雷の事を「悪い男」だと評します。
源氏物語を読んでいるおかげで、預言者のごとくふるまえるチート能力がある彼は、その世界の「傍観者」でしかありませんでした。
だけど、この瞬間にまさしく「当事者」となったのです。
悪女の自分と並び立つ、悪い男であるという彼女の評価は、紛れもなく称賛でしょう。


<宮廷政治劇の匂い>
弘徽殿女御の帝が自分を嫌うのは個人的好悪だけではなく、外戚政治から脱却して、天皇自ら「親政」をめざしているからでは?
との推測します。
それに、雷が帝が身分の低い桐壺更衣との恋に溺れていただけではなく、彼女を寵愛することで自らの「親政」の道具の一つかもしれない、
と返答するシーンは興味深かったです。
このような政治サイドからみる源氏物語をドラマとして描ければ、帝の政治家としての政策および平安時代とはどのような時代だったのか?という理解が深まるかもしれません。


<余談>
雷が現代社会と若者達への批判がありますが、それがちょっと痛い。
一度か二度ならいいのですが何度も入るので、ドラマの下手なコマーシャルみたいに、読んでるとノイズになってしまいます。
彼の上から目線の描写であるともいえますが、それなら平安時代の人たちの言葉遣いや所作を上げて現代を下げずに、受け取り方をこちらを信用してまかせて欲しかったと思います。

 

 

伽藍堂の王子様。愛すべき井伊直親~おんな城主直虎~

 

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

注意 直親への妄想が爆発してます!

いまやスケコマシと名高い直親ですが、この物語の中で、自分から遠い場所で幸せになって欲しい男ナンバーワンが彼でした。
己の顔面偏差値の高さを無意識レベルで活用してるとこ、嫌いじゃない、むしろ好き。
だけどそれはやっぱり物語の中の自分とは関係のない世界でいてくれるからであって、近くにいたら厄介に感じるんだろうなぁと。
しかも厄介だなぁと感じつつも次第に情が出てきて、ずぶずぶと関係が続いていきそうなこがまた厄介そうで。

 

 

でも、直親がなぜ「スケコマシ」になったとかといえばtwitterでも書きましたが、彼自身が「愛され直親」を演じようとしてたからだと思うんですよね。
井伊の良きプリンスを周囲が望むから、そういう自分を作り出す。人当たりの良さや誰にも愛され、波風を立てないようにふるまう事が彼の生存戦略
逃亡生活がさらにそれに拍車をかけており、その場で誰の敵にもならないようにプリンス・スマイルを振りまきながら過ごしてきたのではないでしょうか?
いい子でいるから、いい人でいる事が、ここにいてもいいんだ、許されるんだと思ってた子供がそのまま大人になった。
誰にでも誠実であろうとするから結果、不誠実に見える。むしろ誠実とはなんなんだ!?(哲学)
と考えさせるのが直親でした。

 

<直親の原風景>

そんな彼の萌芽は幼少期にあって、武家社会において体が弱くて得意な事は笛しかないと感じている顔の綺麗な直親は、きっとコンプレックスを抱えていた。
しかもそばには、男勝りで元気に動き回るおとわと聡明な鶴丸
おとわはもし自分が男ならばと思ったこともありましょうが、直親は俺はただ性別が男ってだけじゃないか?性別が逆ならおとわの方が当主としてはふさわしいはずだ。
と悩み、
鶴丸には、俺はたままたま井伊家に生まれたってだけじゃないか?鶴のほうが頭がいいじゃないか?
との想いを抱えていた。

 

 

そんなことを第1回、父の直盛が亡くなり、山中でのおとわとのシーンで精神的に追い詰められた直親が吐露していました。
自分は出来損ないであると。
だけどそこはさすがおとわちゃん!主人公!
誰よりも笛が上手くて、笑顔が良くて、負けん気が強くて、人につらさを見せない!いい男じゃん!ダメな時は、私が亀の手足になるし!
と涙を流しながら断言します。
この力強さ、こんな子が近くにいてくれたら一瞬で恋におちますよ。
私がおとわなら「え?出来損ない?顔がいいから気にすんなって!?」とてんぱって言ってしまい、フラグも心もバッキバキにおってるとこです。

 

で、それだけ強い全肯定の言葉をもらった直親が、身を隠している生活の中でユキ(高瀬の母)とちゃっかりいい仲になってる。
これはでも、仕方ないなと私は思うとこがあって。
というのも鶴丸の存在が大きい。もし鶴がおとわの側にいない状況なら、誰とも関係を持たずに待っていた可能性が高かったのでは?と思うんですよね。
だけど、聡明な鶴と行動力のあるおとわ、誰よりも認めている二人がくっつくって、状況的にもめちゃくちゃありじゃないですか?
幼いころも、鶴丸は堂々とおとわを諫める事ができて、おとわも負けじと言い返す。
はたから見ればすごく、対等にみえて、そして自分はその中に入ってないのではという疎外感を感じてたと思うんですよ。
実際に後におとわと鶴丸は最強じゃなくとも至高のコンビとなっていくので彼には先見性があった。
そう考えると誰よりもこの二人の特性をいちはやく見抜き、認めていたのは実は直親なんですよね。
自身のなにもなさに悩むがゆえに、幼馴染たちのそれに敏感になれた。

そしておそらく鶴丸から見れば下記にあるように、小野家の自分と井伊家の二人という括りで見てたかもしれませんが

鶴丸→(おとわ

直親から見れば

→(おとわ鶴丸
という構図が頭にあったのではと思われます。

 

 

だからこそ「おとわは待っていてくれるかもしれないけど、俺がおとわなら鶴丸と結婚するよ。だって鶴丸かっこいいし…」と思いながら
誰よりも鶴丸肯定論者の直親は思春期を、戻れぬかもしれぬ逃亡の日々を過ごさなければなかった。
もうここは、思春期の妄想爆発で、美少女から美女として成長したおとわとインテリイケメンに成長した鶴がくっつくかも!と悶々としたこと間違いなしですよ。
そんな彼が初恋のおとわに似てるかもしれない(南渓和尚・談)ユキを好きになっても仕方ないではないですか?

もう私は
直親がユキに
「ユキっていい名前だな。雪は溶けて水になり、山や田畑を潤す。そして春になる。暖かな名だ。」
とかナチュラルジゴロをかましてても許せますよ。
いや、これ全部私の妄想なんですけど。
(そういやユキ(雪)も高瀬もどこか水に関わる名前で、竜宮小僧を連想させますね。)

<負けず嫌いな直親>
自分には何もないといってましたが、実はおとわのいうように、負けず嫌いな直親。
幼いころはあまりピンときませんでしたが成長して、もどってきた時にそれを感じられるシーンがありました。
第6話「初恋の分かれ道」での「いくら待とうとおとわはそなたのものにならぬぞ。」発言。
これ、文脈的にはおとわは直親の隠れた妻になることよりもかびた饅頭なり、竜宮小僧として生きていく。
彼女は、井伊谷と結婚したような女だから、俺やお前、他の誰のもにもならないよ、
と言いたいのでしょうが、自分がおとわに断られた事をいわないものだから、ただ単に牽制や嫌味のようにしか聞こえないんですよね。
鶴丸からすれば、そんなこといわれんでもおとわが自分のものになんことくらいわかっとるわ!という感じだった事でしょう。
だけど、直親のほうはというと嫌味ではなく半分はこれで俺とお前は「わーい!俺ら、おとわが手に入らなかったフレンズだね!」みたいなノリがあったのではないでしょうか。
でも半分くらいはやっぱり悔しいし、鶴に「ふられちゃったよー。」なんて泣き言は、いいたくない。家臣ではあるし、親友だけど恋のライバルだし。
おとわのいうように、つらい時につらいといえない。
その辺はやっぱりプライドが高く孤高な王子様なんですよね。

<甘える直親>
そして問題の第七話「検地がやってきた」
この回に関してはホントは一つ記事side政次side直親で書かなきゃならないくらいなんですが
ここでは長くなるので省略します。

で、検分役の岩松から隠し里について追及された時に、直親が政次に丸投げした場面ですが
ここは酷いなこいつ…。という感情よりまず先に「政次に甘えてるな。」弟が兄に甘えてるように。
と思いました。

前述したように、直親にとって政次への評価がめちゃくちゃ高い。
だからこそ、政次がなんとかしてくれるもん!精神が出たんだろうなと思います。
この後に政次が「信じなくてもいいけど信じるフリなんかするな!」
っていってますが、ここはむしろガチで信じてたんだと思います。
だけどこの「信じる」って危うい一面があり、それに身を委ねるというのはある種の甘美さをもってるんですよね。
「信じる」って行為は美しく見えるじゃないですか?だけどそれは自分で考える事の放棄という一面もあり、無責任さも気を付けないと伴う。
多くの民の命を預かる当主ならそれは致命的。

 

この件を第33話「嫌われ政次の一生」の時に、政次はなつに語ってました。
ほんと直親はひどかったよね。だけどそれでなつが笑ってくれるならまぁ、いっか、と。
これはつらい経験も笑い話になって良かったというのもありますが、直親と直虎の対比でもあるようでした。
直虎は政次を信じて良いのか?という描写が差し込まれてます。
ここまで一緒にやってきた政次を信じられない彼女の是非もあるとは思いますが、
相手の起こしたアクションの結果、起こった出来事の責任を共に背負うというのが私の中では大きく、
それってやはり「伴侶」なんですよね。

 

なんか話が直親からずれていったので、戻しますと検地回で直親が
「共におとわのために頑張ろうよ。」みたいなこと言い出した時は
やはりフラれた仲間同士がんばっていこうよみたいなノリが彼の根底にあるんだろうなと思いました。

<それでも、好きだよ。>
ここまで好き勝手書いてきましたが、やっぱり彼が好きなんですよね。(厄介だけど)
第一話でおとわと鶴が言い合いを始めると笛をふいて止めようとした直親。
自信がなくて自分には何もないんだ、と思っている男の子が「それでも自分にできる事」をやろうとする。
それはやっぱり、ささやかながらも勇気であり、やさしさがあるからできる事。
不確定で不安な未来に身を投じられるとこは、失敗したとはいえ、今川の楔から脱しようとした直親らしい。
それはそのまま直政の中に流れていく。
能力も自信もなくとも、未来へ進んでいこうとする彼はまさにこの凡人大河の物語らしい、主人公の初恋の君でした。

<終わりに>
そんな直親の屈折した思いや劣等感を持っていたことに、政次が気づけなかったのは仕方ない。
いや、それに気づいたところで羨んでほしいなんて思ってないでしょうが。
この辺の二人の機微を語ると沼に沈んでいくのでこの辺で。

それにしても、そんな直親という見る者によって色を変える複雑な役を演じきってくれた三浦春馬さん、ほんとすごいです。

20話「第三の女」の元ネタ「第三の男」のハリーのような善悪・強弱のゆらぎを思い出しました。
直親を演じてくれてありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新年のご挨拶2018+雑記

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あけましておめでとうごさいます。

昨年からブログを開始して、まだ一年たっていませんが、なんとか週1ペースで更新してきました。

といっても、後半は直虎の記事一色でしたが。

本当は小説・映画・漫画・ドラマ・アニメなどの物語で個人的萌えデミ―賞みたいなのを、やりたかったのですが、直虎が賞を総なめにしてしまうので今回はやめときます。

(作品賞 直虎!ベスト主人公賞 直虎!ベストヒーロー賞 政次)みたいな。

というか、時間をすべて直虎に捧げていたので他を見れなかっただけともいう。

ここまで没頭できる作品に出会えたのはまさに僥倖でした。

 

 

さてさて、直虎は終わって今年度大河の「西郷どん」がもうすぐ始まりますね。

これなぁ、個人的には「征韓論」に触れ欲しい所。

開国して国際競争が激しい世界にエントリーする時、日本は肝心の外交をどうかんがえていたのか?どういう戦略をもっていたのか?当時のロシア・中国をどう見ていたのか?がここにあるというかここから始まった気がすんですよね。それこそ現代まで繋がるような。

まぁ、でも中身ががっつり触れられることはないかもなぁ。

 

あと明治維新を描くうえで明治天皇の視座がなかなかないので、そこんとこお願いします。大河ドラマさん!かなり重要人物なのに!!いつも!存在感が!!

とはいえ、今年度も視聴していきます!

だけど、毎回感想はもう無理なので気が向いたらかけたらいいなぁと思います。

 

西郷どん 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド)

西郷どん 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド)

 

 

 

処刑御使 (幻冬舎文庫)

処刑御使 (幻冬舎文庫)

 

 そういや戌年ということで軽率に犬が出てくる映画が見たい!

というこで「ベートーベン3」を正月の昼はみてました。

家族と犬+憎めない子悪党二人組+ロードムービーと設定てんこもりな内容でしたが

脚本はシンプル。

ベートーベンとは犬で、人間とは言葉がもちろん交わせない。

だから彼の善意はなかなか伝わらないけれど、最終的にはそれが届く。

たとえ異種同士であっても心は通じるというものでした。

久しぶりにファミリー映画というものを見た気がします。

 

心が温まったところであぁ、そういえば直親の記事を書かなければ。

彼を書かずして私の直虎は終われないぜ!

 

 

 

 

 

 

君が生きる大河。君と生きた大河。~おんな城主直虎・総評~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [Blu-ray]

直虎が終わってちょっとほわほわしています。
もともと脚本家の森下さんの作品に出てくる登場人物達はキャラクター的でありながら、どこか生々しさ残していて、
本当に彼らの人生を共に追体験するような感覚に捕らわれるんですよね。
物語の人物でありながら「生きている!」という実存感をかんじさせられる。
だからその主人公たる直虎の一生を一年近く共に見守ってきて、その虚脱感がすごいです。
正直な所、頭の中すっからかんな状態ですが、とりとめとなく最後の感想を書いていこうと思います。

 

<負の鎖は溶かし、正の連鎖を紡ぎなおす>
まず私がこのドラマの初期の方に感じていた事が以下にあります。

 

12話まで視聴して、このドラマはどんなドラマかと聞かれれば、 「土着の狭い共同体と『家』。濃い血縁関係が生み出す閉塞感。それらのしがらみがあるゆえに、乱世というパラダイムシフトについていけない者たち。そして・・・」 といったところでしょうか。 特に前者の感覚は、横溝正史さんの「金田一耕助シリーズ」や京極夏彦さんの作品でも感じる、あのじめじめした狭い人間関係が起こす悲劇なんですよね。

負の連鎖の断ち切りと継承の難しさ~おんな城主直虎 - シェヘラザードの本棚

 

彼らの作品は日本的な土着社会と「家」の中にある闇の部分にフォーカスをおいていました。
で、直虎もそういう部分が練りこまれていたんですが、それだけではなくその負の連鎖を断ち切ろうとする人たちにも同時に光をあてていたんですよね。
かといってそういう闇を背負いながらも、そこから生まれた絆や命にも目をむけていました。

そんな闇の中で生まれた直虎という主人公、彼女は型破りな人として描かれてきました。
それこそ初登場から川に飛び込むような少女として。
時には畑から大根を盗みとったり、蹴鞠で願い事を聞いてもらおうとした事もありました。
そんな子供時代からの彼女を場の空気が読めないし、それがゆえにその場を支配する「空気」を変えていける力がある、
という見方もできますが、それだと少し言葉がたりない。

 

彼女は空気を読める力はある。でなければ、商人達との交渉事や政次が奥山殿を切りつけたあとの事件の収集に根回しをするなどということはできない。
空気をよんでもなお、空気を読まずに新たな道を指し示すことができる意思と力こそ彼女の本質。
それがもっともあらわれていたのが最終回の於大の方とのやり取り。
「子どもの首をさしだす」という空気に対して、出さなくても済む方法を提示しました。
そしてそこまでたどり着くのに、多くの救えない命があり、だからこそこれはご都合主義ではなく彼女の努力が導いた奇跡だと感じる事ができる。
戦国乱世で幼い命でも散っていくのが仕方ないという空気を、いやそれでも、そんな空気があるとしても違う道があるはずだと、しめしきる彼女は間違えなく
名もなき英雄で主人公でした。


<英雄のままにしないからこそ>
初期の井伊谷で嫌われ役の空気を押し付けられていた小野政次
彼は負の連鎖の中にいたにもかかわらず、闇にのまれず、その鎖さえ利用して最終的にはそれを断ち切る事に成功しました。
そして井伊のためなら己の命さえ厭わないという忠臣でもあります。
その行動は英雄的でもありますが、凡人より一線をこえた動機をもっていたかというと違うと思います。
直虎がいないと世界に対して生きてる実感を失ってしまうゆえに、命を投げ出すことに躊躇がない!それ以外はどうでもいい!と言い切りはできないというか。

 

確かに、直虎は彼にとって最優先事項で本懐ではありますが、その他の事に未練や執着がないとまでは言いない。
彼は今川の楔が断ち切れるかもしれないという時に、「小野」が光の当たる場所にいけるかもしれない、誰か(なつ)と家族になり共に生きる事ができるかもしれない、
そういう希望を確かにもっていました。

 

最初は直虎だけが世界のすべてで生きる理由だったかもしれない彼が、ここにきて自分にそういう幸せを許している。
直親を失ったあの日から許されない願いだろうと秘めてきた彼が。

 

だけど、それでも直虎や井伊のためならば「それしかない」と自らが捨て石となり道を切り開こうとした。
ふだんは「いのちだいじに」をかかげ戦をせぬ道をさぐっていた彼が、ここぞという選択の前では「ガンガンいこうぜ」モードとなり自らの命を差し出す。

 

私は彼が死ぬことを避けてきたからこそ、生き残るために力をなげうってきたからこそ、直虎以外はどうでもいいとは思わない人間だからこそ
彼がそれでも選んだ「直虎という主君と井伊のために死ぬ」という答えに心が揺さぶられました。

そしてそんな彼を悲劇の英雄のままにしないでいてくれた井伊谷の住人達。
彼の行動が「英雄」だから出来て、それは自分のような凡人はできはしないとは思わず
彼が背負っていた荷物を直之、六左衛門、万千代、万福たちが背負いだした。
それが本当に嬉しかったです。
彼が死ぬことで崇めるのではなく、横に並び立とうとする。
小野政次はもう、ほんとうに一人ではないんだと、そう思えました。


<大河とは?>
私自身、いつもまじめに「大河ドラマ」というものを見てきたというわけではないので「大河ドラマとは何か?」
という定義を求められると答えられません。
だからぼんやりとしか語れないのですが、それでもこの「おんな城主直虎」は実験的かつ先鋭的であったように感じます。
凡人達にフォーカスをおいたゆえに、華々しく歴史を変えていく大きない意味での「ヒストリー・メーカー」にはなりえない、
そこが大河らしからぬとこでもあったかもしれません。
が、ゆえに大きな歴史という河を眺めてるというより、その大きな河の中に自分もいるような気がしました。

 

 

武家だけではなく、百姓、無法者、商人達の視座をいれたことで戦国という社会を描く事。
そもそもなんで戦がおこるんだ?という戦そのもののシステムへの言及が生まれること自体が、今までの戦国大河へのアンサーを提示しようというか、その先を描きたいんだ
という意思を感じるんですよね。

 

では、戦を行う武家が悪者か?というとそうではくて、
そのシステム上で生きていくとなると、人は残酷なこともせざるをえないという描かれ方をしていました。
それがまさに今川氏真や近藤殿という人物にとりわけあらわれていています。
万千代の死を幼い時は家のために望みもしたが、時がたち、同じ仲間サイドになると元服を祝ったり、政次を死に追いやりながらも直虎と手を結び、良好な関係を結ぶこともある。
これは別にキャラクターがぶれたわけではなく、立場や環境が変われば人はいかようにも転ぶ。
悪人にもいい所があるってよりは、その悪ってのは周囲の環境や見方によるところが大きいという描かれ方。

 

そしてこの悪役不在の中で、それでもその先をみたいんだ!そんな残酷な事をせずとも生きていける世界に!
という意思はそんな戦国乱世に疲れ果て、その先を目指そうする直虎や家康達そのものでもあります。
ヒストリーメーカーにはなりえないとはいいましたが、家康だけは英雄殺しの最後の英雄となるんですよね。
だけど、直虎の人生の範囲内ではそれは起こらないのでそれが描かれることはありませんが。

 

しかし書かれずともその先を知っている私たちは、彼らの遺志と意思の地続きの上にたっている事を知っている。
彼らが大きな河に流したメッセージが今ここに届き、そして今を生きる私たちでさえその大きな河の一部であるという体感をさせてくれました。
この、大河を眺めるのではなく、体感するという点においてなかなかに得難い物語体験です。

 

「おんな城主直虎」に携わった製作陣のみなさま、ほんとうにありがとうごさいました。


<最後に>
最後だといいましたが、直親について軽めのノリの記事を書きます。
それが年末になるか、年始になるかは未定ですが。
年始なら、そのまえに一本挨拶記事をはさみます。

 

 

 

 

落ちた涙は天へと昇り、やがて恵の雨となる~おんな城主直虎50話~

 

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [DVD]

とうとうこの日がやってきました。最終回です。
本能寺の変により信長は死にます。そのどさくさにまぎれて三河へ舞い戻った家康は、弔い合戦と称して甲斐・信濃への侵攻を開始しました。
一方、直虎は明智の謀反により、その子供である自然の身の安全に奔走する事となります。

感無量、ただひたすら感無量でした。今回、このドラマで受け取ったものを、言葉にするのが何か惜しいと思わされました。
言葉や理屈にすると、ふとその気持ちがこぼれおちてしまうのではないか、伝えきれないのではないか?
そんな気持ちを抱えながら、それでも言葉にしていきたいと思います。

 

<光さす時>
秀吉が明智を討ち取った事で、遺児である自然は謀反人の子として織田の追ってが迫ってきてしまいました。
彼の存在は徳川を危うくする、そう踏んだ於大の方は万千代を使い葬り去ろうと動きます。
が、そうはさせぬと直虎が彼女に立ち向かいました。

 

ここでの彼女達の問答は、家のために首を捧げ続けなければならなかった世に対する一つの答えというか、集大成がみえて感慨深かったです。
お家のために自然を引き渡せという於大の方に、自分の子以外は子には見えないのか?と返す直虎。
その挑発に、於大の方も負けません。子持ちじゃない尼にはわからないだろう?と皮肉を直虎に浴びせます。
ここで黙らないのが我らが主人公直虎、子を持ったことがないゆえに、みな等しく可愛く見えるもので!
と言い返すのです。

 

彼女達が言い争ってる時に、織田の追ってが到着してしまいました。
とっさに直虎は機転をきかせて自然が織田の忘れ形見であるとはったりをかまします。
どうにか難を逃れた直虎のやり方をみて「かように、守れたらよかったのですね。」言い頭を下げた於大の方

 

ここのシーンはうまくいえないのですが、ほんとにいい。
直虎は自分の子以外は子供に見えないの?と言いましたが、於大の方は信康の首を間接的に織田に差し出してるんですよね。
自分の孫の命でさえ家のために捧げてる。武家とはそういうもので、その中で生かされているのだからという理を飲み込みながら生きてきた人でした。
でも、この時に、直虎の殺さずともよい抜け道を目の前で見る事で救われてる。
この救われるというのはつまり、彼女はこの残酷な命を差し出す戦国サバイバルゲームにそれだけ絶望の中にいた事でもあります。
そんな世の中、ほんとは嫌で、でも変える力もなく自分もその世の中の加害者の一部になってしまっている。
世界にもそんな自分にもやるせなさを抱えながら前に進んできた。

 

そういう状況では普通はもっとニヒリズムに陥ったり、なんで自分がこんなつらい目にあわないといけないのか?自分がそうであるなら、他人もそうであるべきだ!
という思いになってもおかしくはないんですよね。
それか、一線をこえて狂気の世界に足を踏み込んでしまうこともありえたでしょう。
でも、ここで彼女が直虎に対して頭をさげ感謝するというのはつまり、そういう闇に陥ってなかったなによりの証です。
家のためとはいえ、親族を失い孫を殺すという業を背負い、その手が血にまみれてるとしても、彼女はその痛みを手放しはしなかった。
そしてそんな世の中や自分を許してはいなかった。
非情な世界で、非情な判断を下すとき、人間をやめる事の方が楽であったろうに。
この彼女の人間の高貴さは、あぁなるほど確かに家康の母であるのだと確かに感じるものでもありました。
私はずっと不思議だったのです。
家康が戦国の世で振り回されつつ、必要とあらば非情な手段を時としてとることもあった彼が、人の命を奪う痛みを持ち続ける事のできるピュアさがどこからくるのか?
もとからそういう人だと、理由なんていらないよ、ともいえますがそれが今回ぴったり一致しました。
武家のルールを変えられない物だと飲み込んできた彼女が、世界の残酷を知る彼女が、それでも変えられる時も確かにあるんだ!
ほんの少しの知恵や勇気で世界はほほ笑む時がある、そう思えてくれたらいいなと思います。

<こぼれ落ちた者に救いを>
一方の直虎さん。
彼女は戦なき世を万千代を通して実行していこうとしました。
そこでやるべきことは、なにも彼のサポート役というだけではありません。
「戦なき世」を実行していく時、必ずそこに痛みが出続ける。その道の過程で振り落とされる人々が出てきてしまう。
そういう人達のために寺を受け皿にしようと和尚に提案しています。
大きな戦なき世を作るという夢を抱えながら、その夢の過程で傷つく人々に眼差しを向けていく。
彼女のその有り様は本当に彼女らしい。
奪われた命もありましたが、寺によって救われたてきた直親、万千代の命、だからこそ自分が今度は誰かを救っていく。
政次が奪った名もなき子の分も、それこそ守りたい時には守れるだけの自分であるように。
世を平和にするという目的をもちながら、なんてその動機がささやかで等身大なんだろう。なのにその志は眩しい。
英雄なんていう手の届かない者にはけしてならず、だけどその有り様は誰よりも高貴である彼女は、
井伊直虎という殿でありながらも、おとわというただ一人の女性でもありました。

<this is 井伊!>
和尚が万千代に井伊の魂とはなんだ?という質問を万千代に投げかけます。
それに対して万千代は

 

井戸端の拾い子がつくったゆえに、よそ者に温かい。
民に対しては竜宮小僧のようであれ。
泥にまみれる事を厭わず、恐れず、戦わぬとも生きていける世を探る。

 

と答えます。
これちょっと面白いというか興味深いです。
万千代は明らかに直虎の有り様について言っていますが、この和尚の問い自体はもっと根源的であるように思われます。

 

この辺は完全に私見なので暖かな目でみてください。
戦国は地縁と血縁で結ばれてるイメージですが、井伊という国の始まりの「神話」はアメリカの移民国家のような側面をもっています。
よそ者を受け入れるという事は血のつながりよりも、その土地をよりよくしていこうという理想の共有による絆を重視してるところがあります。
そしてその国のトップたる者は、その理想に誰よりも殉じている者だというのが万千代の見解だと思われます。

 

ここで、ん?と思うのがいやいや、小野家には厳しかっただろ?というところです。
でも、これ言い換えれば政直の時がおかしかっただけで、本来の井伊イズムに立ち返れば今の直虎・万千代世代の方が正しい。
つまり、政次・直虎が原点に返したともいえるのではないでしょうか。
そしてその原点を受け継ぐだけではなく、新たに戦わずとも生きていける道を探るという新たな目標がプラスされています。
この指針が、あぁ!井伊直弼まで繋がっているのかなぁ?と想像するとなんて大きな歴史な河を私は見てるんだ!!って気持ちになります。

 

ちょっと話がそれたのでもどすと、井伊は血脈による継承ももちろんありますが、魂の継承を重んじている。
これはつまり直親・しのだけではなく、政次や直虎からの志の継承でもあります。
そしてそれこそがなによりも井伊であることの証であります。血よりも井伊にふさわしいにんげんであろうというその意思そのものが。
だからこそ万千代が新たに色んな家を家康に任せられた後に、、血脈や地縁にたよんじゃねーぞ!とばかりに鬼教官になっていくでのであろうなのが想像つきます。
この辺は完全に妄想なんですけどね。

<終わりに>
さてさて、次回、この物語の総括をなるべくはやめに書いていきたいと思います。
今回、触れずじまいなとこもあったので。氏真とか外交官万千代とか。
井伊の魂がなんだ?と問われた万千代のごとくこの大河とはなんだったのかについて、まとめていこうと思います。

 

 

信長という尖ったダイアモンド。そして第三の選択を掴むビー玉達。~おんな城主直虎49話~

おんな城主 直虎 完全版 第壱集 [DVD]

信長から安土城に招かれた家康達。
しかしこの宴は自分達を殺すための罠であると、氏真を通して光秀から聞かされていました。
それを逆手にとり、この機に信長暗殺計画に協力要請された家康。
そこで万千代は直虎に三河への脱出ルートの確保をして欲しいと頼みにきました。

 

前回から続く本能寺を核とするサバイバルミステリー。
限られた情報しかない中で、いかに彼らが切り抜けていったのか?
「善・悪」「逃げる・戦う」などの二択でどちらが正しいのか?そもそもそれだけが選択肢なのか?
この事件の中心にいた織田信長とは果たしてどのような人物だったのか?
などなど盛りだくさんな内容でありつつ、この大河の集大成が近付いてきたような回でした。


<傷だらけのビー玉のような>
家康を自らの手で歓待する信長。手つきの細やかさ思わず家康も見とれてしまいます。
ここのシーンに、もし自分がいたとしたら不安と恐怖で冷や汗が止まらかったでしょう。
「おいおい?!信長様は最後の晩餐として旨いものを己の手で用意してやろう?その代わり首を頂戴するがな!と思ってるんじゃないの?!」
と考え絶対に箸が進みません。
しかしこのあとに出てくる信長のシーンでそれに疑いに疑問が生まれます。
彼は家康に与える茶器をほほ笑みながら選んでいたのです。
これ、面白いんですよね。信長が暗殺しようとしているとも思って見れば彼の接待シーンが恐怖にしか見えず、そうじゃないと思えば不器用ながらも一生懸命な人に見えてくる。
たった一つの行動であるにも関わらず見方によってはまるで違うものが見えてくる。
これは以下に書いた森下佳子さんの「ごちそうさん」から変わらないスタンスであるように思えます。(あくまで個人的意見です)

 

「瑕疵」だといった人の闇も、出会いや場所や環境が変われば、光にかわり闇も光にみえてしまう時がある。それはまるでビー玉についた傷を覗き込むような。光にかざせば輝きだし、暗いところでみればがらくたになってしまうなにか。

森下佳子は直さない。瑕疵を光へ変えていくこと。 - シェヘラザードの本棚

まぁ、信長がビー玉というよりダイアモンドのようにその硬さが時として人を傷つけ、だが光を放ち人をひきつけてやまない面もあったことでしょう。 

といっても信長が実は「いい人」であるかは疑問の余地が残ります。
というかここで彼が「善」だ「悪」だと思い込む事にどうしてもブレーキがかかる。この作品の傾向からいっても。

仮に信長がすることすべてに悪意がなかったとしても、彼が自身が人々に与える影響力を自覚して行動すべきでした。力ある者がその事に無自覚であるなら非常にまずい。


だけどそもそも誰かを過度に悪魔化・天使化するのではなく、その人の本質を見抜いていくことがここでは問われている気がします。
そしてその本質すら情報がなければ判断するのが難しいし、その判断もあいまいで不安定さが残る。
個人的な考えとしては彼はやはり瀬名と信康を死に追い込む冷徹さがありますが、だからといって家康を本当に弟のように思っている。
その矛盾が矛盾なく彼の中で両立しているのではないか?と思います。
まぁ、たとえ仮に信長が「悪人」だとしても、ずっと二十四時間、悪人である事があるだろうか?仮に悪人だとしても一つも優しい所がないわけでもない。
「いい人」がずっと「いい人」でなくてもいいように。
しかしなんといってもバイアスを外してその人の事を見る事は難しいんですよね。恨みを抱えているならなおさら。
だけどそれが出来る人だから、直虎や家康は上に立てるといえるのかもしれません。

<未来は過去のために、過去は未来のために>
家康の脱出のために海路の道筋をたてるために堺に寄る直虎。
そこで龍雲丸に再開します。彼はもう少し感動的なものを求めていたようですが直虎はミッションの事で頭がいっぱいです。
彼らの邂逅はどこか笑えるところもあり、すごく良かったというか地味に感動していました。
というのもこの大河では、大切な人の死が呪いや祝福のように、生き残った者の動機となり人生を支配してきました。
(それ自体が強烈な物語となり強いメッセージを発信します。)
だけどそれだけが人を前に進めるわけではない。
生きている龍雲丸と直虎達のあの日の別れの選択は、その選択が正しかったのだと、未来の自分達が思えるようにお互いが日々を重ねてきたからに他なりません。
果たされない約束だとしても、もしまた会えたとしたらお互いが誇れる自分であるように。
直虎は再び殿として裏の井伊谷フィクサーとなり動き、龍雲丸は通詞となり子供達への教育をし生きる術を授けている。
それはきっとよくある話で世界にはありふれている。だけど戦国乱世だろうが平時だろうが、人が死ななくても、そうやって私たちは何かを選び続けて生き続ける。
それに普遍性があるからこそ今回、心が動かされました。


<直虎の努力は無駄だったか?>
直虎が龍雲丸に頼み南蛮商人から船を貸してくれるように手配を頼みます。
これ自体は「伊賀越え」という有名なエピソードがある以上無駄に終わってしまいます。
だけど龍雲丸に金を渡し一芝居をうち、下手な徳川ミュージカルをどうにか形にしました。
つまり海路という道筋自体は無駄になったけど、そこで会った龍雲丸の手を借り彼らの元に届けるという事をしなければ、穴山達と一波乱何かしら起きた可能性があり、それを防げたともいえるのではないでしょうか?
(彼がいなくてもどうにかできた可能性はありますが)

 

<限られた選択肢の中で>
秀吉が中国地方で苦戦してるらしく援軍を要請された信長は光秀にその役を任せます。
そのイレギュラーな事態に徳川家の面々は先が読めなくなり右往左往。
それどころか光秀自体を信用していいのかという戸惑いが生まれます。
後手に回るなぁとも思いましたが、そもそも限られた情報の中、準備不足で選択肢を選ばなければならない状況でもあります。
しかしながらAとBの選択肢があるならCというどちらも選ばないという選択もあります。
三河に無事逃げ帰ったのはいいものの、織田につくべきか?明智につくべきか?混乱している情勢の中で決断するのは難しい。
A(織田)かB(明智)か問われる中で、穴山領の世話をしていたといたという言い訳をしてどちらにもつかないCプランを採用する家康。
「選ばれよ?選びたくなければ、そもそも選ばないという選択肢を作ればいいじゃない?」
といわんばかりの彼の今回の選択はきっと秀吉という隠れボスと戦っていく時も力となっていくことでしょう。

この辺の家康のCプランへの道は、直虎が南蛮商人と閨を共にするか?それとも龍雲丸が助けてくれるのを待つか?という二択の中で、
第三の自分で薬を盛るというプランを実行しようとしていたところとかぶります。
選ばない事で第三の道を行く家康と、第三の道を作り出す直虎。
彼らの対比が鮮やかです。

<終わりに>
あと一回で終わりを迎える今作。ほんとにさびしくもありますが彼女が人生をやりきる事になると信じて待ちたいと思います。

 

 

加害者と加害者もしくは被害者と被害者の狭間で~おんな城主直虎48話~

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武田滅亡は叶ったものの、信長の影響により瀬名・信康を失い、人材を丸抱えするという策を潰された家康。
そんななか、少しでも明るくと徳川は宴会は開きます。
が、なんとその信長から甲斐からの帰り道のもてなしを要求されました。
今回はこの信長浜松観光ツアーから始まる戦国ミステリーという趣があります。
タイトルの「信長、浜松来たいってよ」は「桐島、部活やめるってよ。」のパロディ。
この作品の中では桐島自体は登場せず、だけどその存在にふりまわされてる人々が描かれてしました。
それと同様に、信長という人間が結局のところ何を考えているかわからない状態です。
一人の人間として物語のなかに存在しているというより、彼はもはや現象としての「織田信長
それは厄災なのか?それとも?という不安の中、誰を信じて何が正しい道なのかわからないまま進まなくてはならない。
一回でも選択をミスれば死への直結ルート。
だからこそ、信長の一挙手一投足に敏感になっている周りの人々。
深読みなのか?、実はそこまで悪人ではないのでは?と思わせるのはこれまでのこの作品、が敵であろうと一理あるし、向こうから見れば自分達こそ悪である、
というものを見せてきたから。 
そう思うと今の疑心暗鬼な状態こそ、製作陣の手のひらの上といったところでしょうか。

 

桐島、部活やめるってよ
 

 

<彼らの帰結>
今回、我らのぼっちゃま!氏真が活躍しまくっていました。
父親の仇である信長を前にしても笑顔を崩さず、座興を用意してきます。
そして彼は光秀から持ち掛けられた信長暗殺計画に一枚からんでいます。
そんな氏真と直虎のここにきての対談は、これまでの彼らの軌跡を見てきた者としては感慨深いものがありました。
今はもう正式な当主といっていいかわからない二人。戦国大名から降りた氏真とほぼ農婦の状態の直虎。
でも当主ではない今だからこそ、自由に動くことができ、お互いに本音で語ることができました。
当主同士ではないのに今の方が当主らしい会話になっています。


氏真の
「瀬名や、桶狭間の戦いで死んでいった者(直盛、玄番達)の仇をとりたくないか?
のセリフに答えない氏真に答えない直虎にこう続けます。
「そうか。そなたからすればわしも仇か。」
そこで直虎が
「ゆえに、仇は誰かと考えぬようにしております。」
と答えます。
(略)
そして最後に氏真は
「逆風になれば、仲間は裏切り、下につく国衆は裏切る。そなたもよう知っておると思うがの。」
と言います。

 

ここのシーンはささやかで短いものですが、この大河の名シーンの一つといってもいいのではないでしょうか。
直虎がどのような思いで近藤と手を取り合っているのか言葉にせずとも伝わってきます。
氏真が平気なふりして生きていても心の奥底にある青い炎のような恨みがあるように。

 

確かに今川配下である時代には井伊は逆らえず辛酸をなめさせられました。直虎から見れば今川は加害者に見えるけど、今川から見れば裏切りが日常茶飯事の世界で、その目を潰す事は当然であったことも事実。
実際に井伊は沈みかけた今川から脱却しようとしていました。
裏切ったという意味では、今川にとって井伊が加害者たりえる。
だけどどちらも、ただひたすら戦国時代を生き抜こうとしてただけ。
今川を悪とするなら、生きる事そのものさえ悪であり許されない事になってしまう。
そういう意味で二人とも、よくいわれる言葉を使えば「戦の被害者」であります。
そしてなんの因果か、加害者であり被害者である彼らが同じ「信長暗殺計画」の元に動こうとしている。
ただ、直虎と氏真の違いがあるならば、直虎は仇をうつために行動をおこしてはいない点です。

ファム・ファタール直虎>
氏真との対談のあと、直虎は家康と話し合いの場を持つことになります。
twitterで下記のようなことを書きましたがほんとこの場面は「おんな城主直虎」ではなく「おんな検事直虎」といったものでした。

 

共に戦を避けようとしているという点において直虎と家康には共通性がありましたが、直虎の家康への理解力が高くないとこうもうまく誘導できません。
家康の心の中にある、これを実行すれば!いやしかし!でも!というぐるぐる巡る思考を直虎が口に出させます。

 

織田に報告すれば徳川は安泰→だけど織田は徳川を潰そうとしてるのでは?→じゃぁ、信長を殺す?→でもその後は?結局、乱世が続くわけでは?→だったら織田の天下を邪魔せず、やはり報告?→最初に戻る。

 

この無限ループの中にいるから家康は頭を抱えて踏み出す事ができません。
ここで直虎が家康に「織田にとってかわり、日ノ本をまとめる扇の要になって欲しい。」と発破をかけます。
ここですね、いいシーンなんですけど一歩見方を変えると、直虎が家康にとってのファム・ファタールのような悪魔のささやきともとれるな、と感じます。
あとで家康も直虎に語りますが、だからといってこの戦国の世を変えるための代替え案が直虎にも家康にもまだないのです。
だかこそ、家康はより深く悩むわけで。
代替え案なき状態で天下をとったところでなにも変わらないんですよね。むしろそれこそ正義に見せかけた「悪」といってもいい。
なのに直虎はやってみてなくてはわからない、だけど決めるのはあなただ!というような事をいって去っていきます。

 

もしかしたら信長の天下布武のほうが正しい選択なのかもしれない、それなのになぜ直虎が家康にこそ天下をとって欲しいと思うのか?
推量ですが、信長の政策が直虎にわからない状態です。そして彼女は瀬名・信康事件から信長は恐怖によって人を支配してるような人間に見えているのではないでしょうか。
このやり方で誰を思い出すかといえば今川家が井伊にしてきた事です。
そこで降り積もる恨みはやがて国衆達の今川家への裏切りへと繋がったといえなくもありません。
だかこそ直虎は恐怖政治の限界というものを感じているのではないでしょうか。

 

では直虎の代替え案なき提案は無責任であるか?というともそうともいいきれません。
というのも何故戦がおこるのか?という問いに、食料不足によっておこるものがありました。(武田信玄の侵攻理由がまさにそれ。)
そこを彼女はこれまで内政の充実により回避しようとしてきました。
これをつまり全国レベルで実施することを彼女は夢を見ているのかもしれません。
かといって具体的にはまだよくわかってない状態であると思いますが。

<これからのこと>
家康と直虎に代替え案がないことへの告発と絵にかいたような大魔王である悪の信長の解体が、今作の大河で見れるかとすると、みれないような気がします。
というのも実質、信長のあとを継ぐ秀吉が真のラスボスであるので物語上、家康達はここで「あがり」をまだむかえてはいけないので。
あとは尺の問題により(笑)
すごいメタにかたよった見方ですが。でも信長は最後に彼らの正義になにかものを申すシーンがあるかもしれない。どっちだろ?
いや、けど信長が悪のまま死んで、後になって家康達が彼のやりたかった事に気づく、というのもおいしい。けど、それはまた別の話になるけど。(思考がぐるぐる)

 

話がずれましたが、それでも家康が信長を接待するために道を作ったというところをみると、にやりとさせられてしましいます。
道、つまり高速道路のようなものをつくることにより人、物、金がの流れがそこにはできる。
道は相手が攻めやすくなるというリスクがもちろんありますが、そこで生まれる経済のうま味が戦よりも上回ることができるなら戦を回避できます。

家康は今はまだ代替え案ない状態ですが、これから少しずつ少しずつ学びつつそれと同時に戦に勝つという技術を向上させていくのではないでしょうか。
いつか「戦なき世」をつくるために、今は戦という手段で。